プロローグ:反転する世界と星空のアタッシュケース(2)
雨音を遮断する重いエントランスの自動ドアを抜け、エレベーターで最上階へ。
港区の夜景が一望できるワンルームの自室に入ると、あやは張り詰めていた息を一気に吐き出した。
パチン、と壁のスイッチを入れる。
暖色系の柔らかなダウンライトが、無機質になりがちだった部屋を静かに照らし出した。
「ふむ……。独身の割には、埃ひとつ落ちていない整然とした巣ですわね。几帳面な性格が透けて見えますわ」
玄関の靴箱の上に器用に降り立ったフク子は、首をくるりと回しながら室内を見回した。
濡れた羽先から水滴がぽたぽたと落ちる。
「はいはい、批評はいいから。濡れたままだと本当に風邪ひくよ」
あやは濡れたトレンチコートを脱ぎ捨てると、洗面所から吸水性の高い厚手のバスタオルを持ってきた。
床に膝をつき、バスタオルを広げてそっと差し出す。
「さあ、おいで」
「……下等生物の癖に、気の利くことですわ」
生意気な口調とは裏腹に、フク子は素直にとてとてと歩み寄り、タオルの真ん中にちょこんと収まった。
あやが両手で優しく包み込み、頭から翼の付け根まで丁寧に水分を拭き取っていく。
もふもふとした羽毛の奥から、じんわりと温かい体温が指先に伝わってきた。
拭くたびに空気を孕んで膨らみ、まるで焼きたてのパンのようにまん丸になっていく姿がたまらなく愛らしい。
「あー……そこですわ、首の後ろの羽毛をもうひと押し……うむ、極楽ですわ……」
「ふふ、フク子って本当に分かりやすい」
「不敬ですわよ! ……それよりあやきち、約束の供物を!」
紫水晶の瞳を爛々と輝かせるフク子に苦笑しつつ、あやはキッチンの冷蔵庫を開けた。
野菜室の奥に隠してあった、海外出張の際に免税店でまとめ買いした輸入物の高級ダークチョコレート。
カカオ72%。過酷な残業を乗り切るための、あやにとってのささやかな精神安定剤だった。
銀紙を丁寧に剥き、四角いひとかけらを割って小皿に載せる。
ローテーブルに置いた瞬間だった。
「待ちかねましたわ――っ!」
バサリと羽の裏にある紫紺の星空を閃かせ、フク子はテーブルへダイブした。
器用に嘴でひとかけらをくわえ、ポリポリと小気味よい音を立てて咀嚼する。
「……っ! これですわ……! この濃厚な苦味と、脳髄を痺れさせる甘美なアロマ! 港区の夜風に晒された五臓六腑に染み渡りますわ……!」
「……フクロウって、チョコ食べて大丈夫だったっけ……?」
「愚問ですわね。私はただの鳥ではなく、高次元のスピリットですのよ? 毒素など即座に神聖エネルギーへと昇華されますわ」
ふん、とドヤ顔で胸を張るフク子。
くちばしの端に微かにチョコの粉がついているのが、何とも言えず微笑ましい。
あやは温かい白湯を淹れ、ソファに深く腰を沈めた。
一人暮らしの部屋には、いつも静寂しかなかった。けれど今夜は、隣でチョコを貪る小さな生き物の気配がある。
(……誰かの本音を深読みしなくていい時間って、こんなに息がしやすいんだ)
心に刺さっていた無数の棘が、ゆっくりと溶けていくような感覚。
芯まで冷えていた身体に、ようやく穏やかな温もりが戻ってきた。
「あやきち、もう寝ますわよ。カカオの波動で眠気が限界ですわ」
見れば、フク子はベッドの最も柔らかい羽根布団の真ん中に陣取り、丸い餅のようにぺったりと平たくなっていた。
額の満月チャクラが、呼吸に合わせて淡く明滅している。
「そこ、私の場所なんだけど……」
「主が使い魔に寝床を譲るのは、世界の理ですわ。……すやすや」
「寝るの早っ!」
呆れつつも、あやの口元からは笑みがこぼれた。
メイクを落とし、シャワーを浴びて、パジャマに着替えてベッドの端へ滑り込む。
フク子の微かな寝息と、布団越しに伝わる柔らかな熱。
数ヶ月ぶりに、あやは胸の奥のざわめきを感じることなく、深い安らぎの中で瞼を閉じた。
――それが、現実世界で閉じた、最後の夜だった。
◇
ゴォォォォ……ッ。
(……風の音……?)
耳元を掠める重低音に、あやの意識が浮上する。
寝室のエアコンの風ではない。
もっと巨大で、大地そのものが呼吸しているような、太古の風の唸り。
鼻腔をくすぐるのは、芳醇な濡れた土の匂いと、嗅いだことのない甘やかな野花の香りだった。
硬い。
背中に当たる感触が、羽毛布団ではなく、冷たく苔むした石の感触だった。
「……ん……?」
重い瞼をゆっくりと押し上げる。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた天井ではなかった。
天を衝くほどの巨木が幾重にも枝を広げ、エメラルド色の木漏れ日が、まるで教会のステンドグラスのように降り注いでいる。
そして、木々の隙間から覗く淡い昼の空には――。
青白く光り輝く「二つの満月」が、寄り添うように天頂に浮かんでいた。
「……え……?」
声が、掠れた。
慌てて起き上がろうとして、あやは自分の身体に走った決定的な違和感に息を呑む。
着慣れたコットンのパジャマではない。
滑らかなシルクのように肌に吸い付く、純白のドレス。
胸元は上品に開かれ、引き締まったウエストから足元にかけて、幾重ものドレープが優美な曲線を描いて広がっている。
裾には、夜空の星座を模した金と銀の細やかな刺繍が施され、動くたびに微かな燐光がさらさらとこぼれ落ちていた。
32歳の成熟した美貌と、鍛え上げられたしなやかな肢体を、これ以上ないほど完璧に引き立てる神聖な装い。
「な、に……これ……?」
呆然と見下ろすあやの右手に、ひやりとした金属の冷たさが触れた。
視線を落とすと、そこには一つの重厚なトランクが置かれていた。
深い夜空を思わせる黒革に、真鍮と銀で精緻な黄道十二宮の星図が彫り込まれたアタッシュケース。
カチリ、と触れた瞬間。
まるで主の手を待っていたかのように、ケースの留め金が自然と跳ね上がった。
中には、紫色のベルベットが敷き詰められていた。
そしてその中央には――金色の光の粒子を微かに纏った、神秘的なタロットカードの束が、静かに鎮座していたのだ。
「ようやくお目覚めですの、あやきち? 随分と優雅な朝寝坊でしたわね」
頭上から響いた高飛車な声に、あやは弾かれたように顔を上げた。
崩れかけた古代遺跡の石柱の上。
そこに、あの白いフクロウ――フク子が、威風堂々と止まっていた。
器用に片羽で、どこから持ってきたのか分からないカカオ70%のダークチョコを齧りながら。
「フク子……!? ここ、どこなの!? 私の服も……このトランクも……!」
「騒ぎなさんな。ここは魂の概念が物質を凌駕する異世界『アルカニア』。そして――」
フク子が嘴の端を上げ、不敵に目を細めた。
「あなたのその姿こそ、抑圧から解き放たれた真の魂の器。……ほら、感じますでしょ? あなたの内に眠っていた《万象読解》が、世界のベールを剥ぎ取っていくのを」
言われた瞬間。
あやの視界が、カッと白熱した光に呑まれた。
(――ッ!?)
世界が、反転する。
ただの原生林の木々、ただの風、ただの空間。
そのすべてに、無数の「情報」と「意味」が光の奔流となって視覚化されたのだ。
木々が宿す数百年の記憶。
風が運んでくる遠い戦火の匂い。
足元の大地が震える微細な感情の波長。
それらすべてが、タロットの象徴記号となって、脳裏へ完璧な立体映像として流れ込んでくる。
現代であやを苦しめ続けた「高すぎる共感力」は、この世界において――世界のあらゆる理、人の心、嘘、運命を瞬時に読み解く、規格外の絶対チート能力へと完全覚醒していた。
「……すごい……。全部、視える……」
呟いたあやの手元で、アタッシュケースの中のタロットカードが、バチバチと激しい火花を散らして共鳴を始めた。
一枚のカードが、光に押し上げられるように宙へ浮き上がる。
表面に描かれていたのは――断崖絶壁の縁に立ち、今にも底なしの奈落へと踏み出そうとしている若者の姿。
『0:愚者(The Fool)』。
「……あやきち、初仕事の気配ですわ!」
フク子がチョコを飲み込み、星空の翼をバサリと広げた。
原生林の奥深く、断崖の方角から。
引き裂かれるような風の悲鳴とともに、強烈な「死と絶望の波動」が、あやの読解の瞳を激しく揺さぶっていた。




