プロローグ:雨の夜の邂逅(1)
アスファルトを叩きつける冷たい秋雨が、夜の帳に沈む港区のオフィス街を容赦なく濡らしていた。
信号機の赤と青。
濡れた路面に滲むテールランプが、ガラス細工のように乱反射して流れていく。
深夜一時をとうに回った並木道。
傘を打つ規則正しい雨音だけが、重い静寂を満たしていた。
カツン、カツン。
水たまりを避けるように、黒革のパンプスがアスファルトを鳴らす。
「……はぁ」
街灯の淡い白光の下、小さく零れた吐息が白い霧となって夜気に溶けていった。
傘の柄を握る指先は、芯まで冷え切っている。
濡れた前髪の隙間から覗くのは、誰もが思わず足を止めて見惚れるほどの端正な美貌――切れ長の艶やかな瞳に、すっきりと通った高い鼻梁。
吉 あや(きち あや)、三十二歳。
大手商社で海外事業の最前線を走る彼女は、社内でも一目置かれる才色兼備のキャリアウーマンだった。
同僚の女性たちからは、親しみを込めて「あやきち」と呼ばれている。
けれど、上質な黒のトレンチコートに包まれた細い背中には、いまにも折れそうなほどの疲労が張り付いていた。
(あやきちさん、これ明日までに目を通しておいてくれない? 英語の契約書、あなたなら一瞬で読めるでしょ)
(本当は自分のミスなんだけどさ……あやきちさんに頼めば、上層部もうまく納得してくれるし)
昼間に浴びせられた言葉の数々が、冷たい雨の匂いとともに蘇る。
口元には懇願するような笑みを浮かべながら、腹の底で渦巻く狡猾な計算。
相手の瞳の揺らぎ、呼吸の微かな乱れ、肌から立ち上る緊張の波長――。
それらから「他人の本音や打算」が、頼みもしないのに濁流となって頭へ流れ込んでくるのだ。
生まれつき高すぎた、共感力。
相手がどれだけ追い詰められているか、どれだけ自分に縋りたがっているかが手に取るように分かってしまう。
だからこそ、あやは他人の懇願を断れなかった。
結果として、誰かの責任も、押し付けられた残業も、すべて一人で背負い込んできた。
「……私、何のためにこんなに頑張ってるんだろうな」
自嘲の笑みをこぼしながら、あやは自宅マンションへと続く狭い路地裏へ足を踏み入れた。
古い雑居ビルの隙間。街灯の光も届かない、薄暗い闇。
――その時だった。
カサリ。
濡れた段ボールが擦れ合う硬い音が、雨音の隙間を縫って耳朶を打った。
ふと視線を落としたあやは、息を呑んで足を止める。
ゴミ捨て場の片隅。
雨水が滴る壊れた段ボールの庇の下に、丸い何かが縮こまっていた。
雨露を浴びてしっとりと濡れた、絹のように純白の羽毛。
驚くべきことに、その羽の内側には、吸い込まれそうな深い紫紺と瞬く銀の星々の模様が広がっている。
そして、まん丸な頭の中央――額のあたりには、雨の闇を柔らかく払うような、淡い黄金色の満月がぼんやりと灯っていた。
猫ほどの大きさの、もふもふとした奇妙な白フクロウ。
そのフクロウが、カチリと小さく首を傾げ、紫水晶のような瞳であやを真っ直ぐに見上げてきた。
ぎゅっと、胸の奥が締め付けられる。
冷たい秋雨の中で震えるその姿が。
理不尽な重圧に耐えかねて震えていた、自分自身の心と重なって見えた。
「……風邪、引いちゃうよ」
考えるよりも先に、身体が動いていた。
あやは差していた黒いビニール傘を前へと傾け、濡れていたフクロウの頭上をそっと覆った。
コートの右肩に冷たい雨粒が容赦なく降りかかり、布地を重く濡らしていくのも構わずに。
すると――信じられない光景が起きた。
その丸い生き物が、パチパチと優雅に瞬きをしたかと思うと。
あろうことか、どこかの国の高貴な貴族令嬢のような、澄み切った声で喋り出したのだ。
「あら。この私の不可視なる高次元の波動を平然と知覚した上に、あまつさえ憐れんで傘を差し出すとは……不敬極まりありませんわね?」
「……え?」
「え、ではありませんわ! 濡れた羽の手入れがどれほど億劫か、下等生物のあなたに理解できて? ……むっ?」
ふんと尊大に胸を張ろうとしたフクロウが、唐突に動きを止めた。
額の満月がツンと青白く発光し、あやの胸の奥――その魂の核を射抜くように凝視する。
フクロウの紫色の瞳が、驚愕と歓喜に見開かれた。
「……なんという器。濁った人間の思念に塗れながら、その奥底に眠る魂の読解力……世界の理すら容易く読み解く、規格外の《万象の瞳》を持っていますのね……?」
「あの……フクロウが、喋ってる……? 私、過労でとうとう幻覚まで……」
「フクロウではありませんわ、フク子と呼びなさい!」
フク子は器用に片羽を腰に当て、傲慢に嘴を鳴らした。
「会社の愚民どもから『あやきち』と呼ばれていることも、この私にはお見通しですわ! ……まあよろしい。私の真の美しさと高貴さを直視できる、奇特な人間ね。カカオ70%以上のダークチョコレートを献上するなら、あなたの家に泊まってあげてもよろしくてよ?」
突っ込みどころが多すぎる。
けれど――雨の中で小さく震えていたその丸いフォルムと、偉そうな態度の裏に見える愛嬌に、あやの凍りついていた心がふっと緩んだ。
今日初めて、心の底からの柔らかな笑みが唇からこぼれる。
「……私もハイカカオ好きなの。ご褒美用に買い置きしてあるカカオ72%なら冷蔵庫にあるけど。それでいい?」
「採用ですわ! さあ、早く暖かな寝床へ案内なさい!」
――これが。
世界を揺るがす運命の歯車が噛み合った、最初の夜だった。




