第3章:2の変容――月下宮の静寂と盤面の再構築(43)
高窓から差し込む透明な朝の光が、黒壇の主卓に整然と広げられた幾重もの羊皮紙を白く照らし出していた。
「あや。本日の政務の予定を伝えておく」
漆黒の軍服を隙なく着こなした皇帝レオンハルト陛下は、重厚な肘掛け椅子に深く腰を下ろし、組んだ指の上に深く整った顎を乗せた。
朝光を受けて濃紺の深い艶を走らせる彼の蒼黒髪と、冷ややかな不敵さを宿したトパーズ色の双眸。Sランクの強者であり文武両道を体現する覇王の圧倒的な威圧感が、静謐な執務室の空気を重く支配している。
主卓の背後には、近衛隊長シュベルトが隙のない軍装で直立し、ディープブルーの瞳で周囲に鋭い警戒を走らせていた。
レオンハルトは低く重厚な声音で、本日の重要な予定を口にする。
「午前十時より、帝国の中枢を担う法部卿並びに各州の領主どもが一堂に集う『御前会議』が開かれる。……そこで、お前を『皇帝直属特別補佐』として公式に紹介する」
「御前会議、にございますね」
私が動じずに静かな声で応えると、主卓から少し離れた壁際で佇んでいた専属侍女のクララ(20歳)の美しい身体が、かすかに強張ったのを私は見逃さなかった。
後ろで後れ毛ひとつなく完璧に結い上げられた、艶やかな水色の髪。
上質な深い紺色の高級侍女服を身に纏い、ブレのない美しい姿勢で控える彼女の深緑色の瞳に、瞬時に鋭い緊張と懸念の色が走ったのだ。
名門ハーゼン伯爵家の長女であり、次男の弟が家督を継ぐため自立のために出仕している彼女は、貴族社会の泥沼のような権力闘争や腹黒さを誰よりも熟知している。
昨夜、私が《万象読解》と元社畜の分析力を用いて裁き、ことごとく弾き飛ばしたのは、まさに各州の領主たちが保身と利権確保のために仕掛けた狡猾で不当な申請の数々だ。
自分たちの甘い蜜を吸う企みを叩き潰され、不満と疑念を募らせている重臣たちが一堂に揃う公式の場。
そこに、異世界から現れた身元も知れぬ若い娘である私が、皇帝の「絶対の側近」として突如姿を現せば、どれほど苛烈な敵意と反発の嵐が巻き起こるか――クララはその恐ろしさとリスクを、瞬時に察知したのだろう。
無駄口を叩かぬ「氷の令嬢」としての仮面の下で、彼女が私に向けた眼差しには、静かな警戒とともに「このお方はこの熾烈な場を切り抜けられるのか」という冷徹な分析が宿っていた。
(なるほど……レオンハルト陛下は私を重臣たちにお披露目すると同時に、あえて貴族たちの反発を煽り、私という『知の盾』の真価を彼らに突きつけるおつもりね)
ただの都合のいい飾り物としてではなく、己の決断の速度を跳ね上げる不可欠な存在として機能するかどうか――それは、人間不信と完璧主義に苛まれる【4:皇帝(逆位置)】の彼が仕掛けた、私に対する最高度の試練でもあった。
だが、港区のオフィスで数々の理不尽な現場や厳しいプレゼンを潜り抜けてきた私にとって、このような政治的企みや敵意に満ちたアウェイの空気は、むしろ望むところだった。
(怯えて引くわけにはいかないわ。ここで完璧に領主たちの不当な反論を叩き潰してこそ、私は『代えの利かないパートナー』としての地位を不動のものにできるのだから)
私は胸の前でそっと手を重ね、純白のドレスの裾を静かに整えると、レオンハルト陛下のまっすぐな視線を正面から見つめ返した。
「畏まりました、皇帝陛下。……どのような場であれ、陛下の期待以上にお役目を果たして見せますわ」
「フン……いい度胸だ。お前のその利口さ、存分に見せてもらおう」
私の言葉に、レオンハルトは不敵で満足げな笑みを薄い唇に浮かべた。
十時直前。私たちはレオンハルトを先頭に、重厚な絨毯が敷き詰められた本殿の長大な回廊を歩み、『御前会議の間』へと向かった。
私の身を包むのは、フク子の魔法によって完璧に紡がれた神聖な純白のドレス。一歩踏み出すごとに、柔らかな絹擦れの音とともに蒼銀の光沢が優美に揺れる。
私の右斜め後ろにはシュベルトが甲冑の重厚な音を殺して確かな歩調で護衛につき、左斜め後ろにはクララが足音ひとつ立てずに洗練された所作で同行していた。
長大な回廊の突き当たりには、巨大な浮き彫りが施された重厚な青銅の二重扉が聳え立っていた。
扉の左右に隙なく直立していた近衛兵たちが、長槍を美しく掲げると同時に、重々しい音を立てて扉を大きく開放した。
ドーム状の壮麗な高天井から、数千個のクリスタルが輝く豪奢なシャンデリアの光が眩いばかりに降り注ぐ、御前会議の間。
階段状に設計された広大な空間には、帝国の中枢を司る法部卿をはじめ、各領土から集った威厳あふれる領主たち、そして高位貴族たちが整然と居並んでいた。
仕立ての良い豪奢な貴族服と、胸元に飾られた名誉の勲章。だが、彼らが醸し出す空気には、己の権益を守ろうとする貪欲な政治的欲望の熱が渦巻いていた。
「皇帝陛下、ご入場!」
侍従の甲高い高らかな声が大広間に重々しく響き渡ると、居並ぶ重臣たちは一斉に直立し、胸に手を当てて深々と頭を下げた。
広間に満ちる重々しい静寂の中、レオンハルトは堂々たる足取りで一段高い中央の漆黒の玉座へと歩みを進め、ゆったりと腰を下ろした。
そして、その玉座のすぐ傍らに設けられた特別補佐席へ、神聖な純白のドレスを纏った私が静かに着席する。
あやのすぐ後方には筆頭侍女としての完璧な所作でクララが佇み、階段のすぐ下の段には、近衛隊長シュベルトが腰の剣柄にそっと手をかけて直立した。
頭を深く下げたまま平伏していた重臣たちに対し、レオンハルト陛下は全高の高い玉座の背もたれに身体を預け、トパーズ色の冷徹な双眸で広場を見下ろしながら、低く重厚な声を響かせた。
「皆の者、面を上げよ」
陛下の絶対的な命を受け、整然と並ぶ領主や貴族たちが一斉に顔を上げる。
そして――彼らの視線が玉座へ向けられたその瞬間、本来ならば皇族であっても座すことを許されない「皇帝の絶対領域」に、身元も分からない素性不明の女が静かに着席している光景が目に入り、広間の空気は一瞬にして凍りついた。
直後、隠しきれない激しい波紋と冷ややかなざわめきが大広間に一気に広がっていった。
「な……なんだあの娘は? 皇帝陛下の御後ろに座すなど、何たる無礼……!」
「見覚えのない顔だ。まさか、昨日我が領土の申請を退けたという、あの謎の女ではあるまいな……?」
「どこからか連れてきた素性も知れぬ女だ。あような若い娘を玉座の傍らに配するなど、理解に苦しむ……」
あちこちで交わされる、困惑と激しい不服の囁き声。
クララは私の背後で表情ひとつ変えずに直立していたが、その深緑色の瞳は顔を上げた貴族たちの視線の動きや表情の歪みを冷静に拾い集めていた。
レオンハルトは、不敵な笑みを消し、絶対者としての威厳を全開にして広間へ言い放った。
「本朝より、この女を『皇帝直属特別補佐』に任命する。以降、余に上がるすべての公文書並びに重要案件は、まずあやの精査を経ることとする。……異論は認めん」
その絶対的な宣言が下された瞬間、重臣たちの間に漂っていた困惑とささやきは、一気に激しい怒りと不満の渦へと変貌を遂げた。
自分たちの企みや利権をことごとく見抜いた謎の女が、皇帝の決定権を握る「絶対の門番」として立ちはだかる――それは領主たちにとって、到底受け入れがたい脅威にほかならなかった。
「陛下! それはあまりに暴論にございます!」
並み居る領主たちの先頭から、豪奢な金糸の刺繍が施された貴族服を纏った老練な重臣――貴族派の重鎮である法部卿クローデル子爵が、怒りに顔を紅潮させて前へ踊り出た。
彼は冷酷な眼光を私に向けながら、朗々とした声を張り上げる。
「どこから現れたとも知れぬ出自不明の若い娘に、帝国の国政を左右する重職を委ねるなど、正気の沙汰とは思いえません! 我ら領主並びに伝統ある貴族たちを愚弄されるおつもりか!」
クローデル子爵の怒声に同調するように、他の領主たちからも賛同のどよめきが巻き起こる。
だが、その苛烈な攻撃の前にあっても、あやは純白のドレスの胸元でそっと手を重ね、静かな微笑みをたたえたまま、まっすぐにクローデル子爵の眼差しを見つめ返した。
(来たわね……。まずは第一幕、あなたたちの浅はかな企みを、徹底的に解き明かして差し上げますわ)
レオンハルトが試すようなトパーズ色の瞳であやを注視し、シュベルトが下の段で直立したまま威圧感を高め、クララが息を呑んで私の背後で見守る中、新たな盤面の戦いが幕を開けた。




