第3章:2の変容――月下宮の静寂と盤面の再構築(42)
澄み切った朝の光が、離宮の寝室に置かれたアーチ型の高窓から優しく差し込んでいた。
白磁のカーテンを透過するやわらかな日差しを浴びながら、私はゆっくりと瞼を開いた。
月下宮に用意されたゲスト用の離宮。上質な天蓋付きベッドのシルクのシーツから体を起こすと、昨日の長時間の事務処理で強張っていた肩の重みが、心地よい眠りによってすっかりほぐれているのを感じる。
枕元で丸くなって眠っていたフク子が、ふんわりと紫紺の翼を広げ、パチクリと紫水晶の瞳を瞬かせた。
「お目覚めですの、あやきち? 昨夜は本当によく頑張られましたわね」
「ええ、おはようフク子。おかげさまでスッキリ目が覚めたわ」
声に出して微笑みながらベッドから降りると、フク子が小さな翼をひと羽ばたかせた。
彼女の放つ光の粒子が私の体を包み込み、一瞬にして、仕立て立てのように清らかで神聖な純白のドレスが全身を優美に覆っていく。
白紙の原初アルカナ《万象読解》を宿す私の姿であり、この異世界での「戦束」とも言える完璧な装い。鏡の前でお団子ヘアの形を整え、首筋の後れ毛をそっと払った。
コン、コン、と控えめだが完璧なリズムで洗練されたノック音が寝室に響いた。
「あや様。朝の身支度とお茶のご用意が整いました」
静かで澄んだ美しい声とともに扉が開き、一人の女性が足音も立てずに滑らかに入室してきた。
クララ・フォン・ハーゼン(二十歳)。
名門ハーゼン伯爵家の長女であり、弟が家督を継ぐことが決まっているため、自らの見聞と自立のために皇宮に出仕している令嬢だ。
私がこの皇宮にやってきた初日にも静かに身の回りのお世話をしてくれていたのだが、本朝より、正式に『皇帝直属特別補佐』となった私の専属・筆頭侍女として配属されたのだった。
うしろで完璧に結い上げられた、後れ毛ひとつない艶やかな水色の髪。
上質な深い紺色の侍女服を隙なく着こなし、一切のブレがない美しい姿勢で佇む彼女の深緑色の瞳には、冷徹なほどの知的さと冷静な観察眼が宿っている。
感情を表に出さない『氷の令嬢』。無駄口を叩かず、寸分の狂いもなく職務をこなす完璧主義者だ。
「……おはようございます、クララ。今朝も完璧な手際ですね。ありがとうございます」
「滅相もございません。あや様。侍女としての当然の職務にございます」
私が感謝を伝えると、クララは表情ひとつ変えず、深々と洗練されたお辞儀を返した。
彼女の深緑の瞳の奥には、皇帝陛下の『特別補佐』へと一足飛びに上り詰めた私に対する、静かで冷徹な警戒と分析の光が漂っている。
(彼女もまた、貴族社会の裏表を見て育ってきた人……簡単に心を許してくれるわけがないわね)
だが、その硬質な佇まいの裏にある誠実さを感じ取り、私は微笑を浮かべた。焦る必要はない。少しずつ、信頼を積み重ねていけばいいのだから。
やがて、部屋の外から力強い足音が近づき、ドアが開かれた。
「あや殿。近衛隊長シュベルトでございます。執務室までお送りいたします」
そこには、隙のない軍装に身を包んだ近衛隊長シュベルトが直立していた。
朝日を浴びる彼のディープブルーの瞳には、武人らしい凛とした光とともに、私を気遣うような誠実で温かな色が宿っている。
「おはようございます、シュベルト様。今朝もよろしくお願いいたしますね」
「……っ、は! 命に代えましてお守りいたします!」
微笑む私にシュベルト様は一瞬だけ息を呑み、耳たぶを赤く染めながら恭しく頭を下げた。
私とフク子、そして静かに後に続くクララを伴い、私たちは月下宮の本殿回廊へと足を進めた。
重厚な執務室の扉が開かれる。
部屋の奥、黒壇の主卓に座していたのは、漆黒の軍服を着こなした皇帝レオンハルト陛下だった。
朝の光を受けて濃紺の艶を放つ蒼黒髪と、冷ややかな輝きを宿すトパーズ色の双眸。
彼が身に纏うベルガモットの優しい香りが、朝の凛とした空間に静かに漂っている。
陛下は私が足を踏み入れた瞬間、手にしていた羽ペンを止め、不敵な笑みを薄い唇に浮かべながら、私を射抜くような眼差しで見つめてきた。
「来たか、あや。……特別補佐としての初日だ。覚悟はできているな?」
「はい、皇帝陛下。……どのような難題であれ、陛下の期待以上にお応えしてみせますわ」
不敵な覇王の視線を正面から受け止め、私は純白のドレスの裾を揺らして、凛とした笑みを返した。
新たな立場での、私たちの二日目の心理戦が、今静かに幕を開けた。




