第3章:2の変容――月下宮の静寂と盤面の再構築(41)
重厚な黒壇の扉が重い音を立てて閉まり、あやとシュベルトの気配が回廊の奥へと消えていった。
巨大な執務室には、再び静寂が降り積もる。
高窓から差し込む二つの満月の蒼銀光と、主卓の魔導ランプが描く金色の光の円郭。
誰も立ち入ることを許さぬ孤高の城郭の中で、俺――レオンハルト・フォン・レグリアは、漆黒の軍服の背もたれに深く身体を預け、しんと冷えた空気をゆっくりと胸に満たした。
滑らかな手触りの羊皮紙。あやが主卓の端へ完璧に揃えて残していった報告書の束へ、俺は静かに指先を滑らせる。
一枚、また一枚と繰るたびに、驚嘆に似た鋭い熱が胸の奥を突いた。
各州の領主どもが保身と利権のために施した、狡猾で緻密な情報の欺瞞。
並の官僚どころか、洗練された知識人であっても見落とすような制度の穴や数値の不整合を、あの女は《万象読解》の眼力と常人離れした分析力で、完璧に削ぎ落としてみせていた。
不必要な装飾を削ぎ、俺が数秒で裁可を下せるように整理された「要点とリスク」。
そこには何一つ無駄がなく、俺の負担を減らすためだけに差し出された純粋な精度が存在していた。
指先を走らせた紙面から、ふっと微かに漂う洗練された白檀の残り香。それが、あやという異質の女が確かにここにいた証のように、俺の鼻腔を静かにくすぐる。
(……フン。これほどの手腕、ただの観賞用の花では到底あり得ん)
己の圧倒的なSランクの武力と皇帝の権威を前にしても、あの女は微塵も怯まなかった。
媚びへつらうわけでも、恐怖に服従するわけでもなく、ただ対等な知の精度で俺の問いに答え、見事な結果を突きつけてきたのだ。
誰も信じず、裏切りと孤独のなかで自らの手のみで帝国を統御してきたレオンハルトの胸中に、確かな手ごたえと、これまで覚えたことのない不敵な興奮が宿る。
だが――手元の書類から視線を上げた瞬間、俺のトパーズ色の双眸に、冷たく不快な光が混ざりついた。
脳裏に焼き付いて離れないのは、先ほどあやが近衛隊長シュベルトに向けた、あの顔だ。
疲労を気遣うシュベルトから冷えたグラスを受け取った際、あやが見せた、ふっと肩の力を抜いた無防備で暖かな笑顔。
月光を反射する神聖な純白のドレスと、真面目に仕事を終えた澄んだ瞳。
俺の前では終始、凛とした隙のない完璧な礼節を崩さなかったあの女が、配下の騎士にだけ見せた可憐な微笑み。
そして、それを受けた固物な騎士――シュベルトの、耳たぶを朱に染めて狼狽していた惨めな反応。
(……なんだ、あの顔は。シュベルトに対して、なぜあのような無防備な顔を見せる)
胸の奥を刺す、説明のつかない鋭いざわめき。
シュベルトは俺に絶対の忠誠を誓う近衛隊長であり、三十五年間の人生を武勲に捧げてきた堅物だ。彼に他意がないことなど頭では理解している。
だが、あの女が自分以外の男に親しみある笑みを向けたという事実、そして配下の騎士があやの可憐さに心を揺らされたという気配が、俺の中の凶暴な縄張り意識を強烈に逆なでしていた。
(あやは明日より、皇帝直属特別補佐だ。……俺の傍らに留まり、俺のためにその知を振るう存在だ)
己の中に芽生えた不愉快な苛立ちの正体を「皇帝としての所有意識」だと都合よく噛み砕き、俺は薄い唇に不敵な笑みを浮かべ直した。
自分でも気づかぬうちに、冷徹だった心の壁に亀裂が走り、あの純白の女の存在が、不可逆の熱となって俺の領域を侵食し始めていることにも気づかずに。
俺は羽ペンを固い手つきで握り直すと、冷ややかなトパーズ色の瞳で閉ざされた扉を静かに見つめ直すのだった。




