第3章:2の変容――月下宮の静寂と盤面の再構築(40)
重厚な黒壇の扉が滑らかな音を立てて閉まり、皇帝執務室の濃密な気配が背後で途切れた。
月下宮の静謐な長い回廊。高いアーチ窓からは、白磁の二つの満月が放つ蒼銀の月光が斜めに差し込み、磨き上げられた白大理石の床に幾何学模様の影を落としている。
冷ややかな夜気が頬を撫でる中、カチリ、カチリと、俺の着衣する近衛甲冑の金属片がかすかな擦過音を奏でていた。
俺――シュベルト・フォン・アルスライン(三十五歳・近衛隊長)は、半歩後ろを歩むあや殿の歩調に合わせ、静かに歩みを進めていた。
百八十八センチの体躯を持つ俺の視線からは、あや殿の凛とした後姿がはっきりと見えた。
神聖な純白のドレス。朝からの過酷な執務を終えた直後だというのに、その背筋は美しく伸ばされ、一切の乱れを見せていない。
歩むたびにサラリと絹擦れの音を立てる裾と、手際にまとめられた黒髪のお団子から覗く、白磁のように滑らかな首筋。
ふっと夜風が回廊を吹き抜けた際、彼女の身から洗練されたほのかな白檀の香気が漂い、俺の胸の奥を静かに揺らした。
(……なんと強く、可憐で、美しいお方なのだ)
三十五年間の人生を武勲と皇帝への忠誠一筋に捧げてきた俺の胸に、かつて覚えたことのない熱い衝動が突き上げていた。
各州の領主たちが保身のために仕掛けた狡猾で高度な政治的駆け引き――その欺瞞を、事もなげに見破ってみせた圧倒的な分析力。
そして、Sランクの覇王であり、誰も信じぬ絶対者として君臨する主君レオンハルト陛下の鋭い威圧にすら、微塵も怯むことなく対等に立ち渡ってみせた澄んだ知性と胆力。
それは、剣を振るうことしか知らぬ俺たち武人には到底及びもつかない、気高い「知の強さ」だった。
先ほど執務室で、冷えたグラスを渡した際に彼女が向けてくれた、あの無防備で暖かな笑顔が脳裏に蘇る。
正面からその可憐な微笑みを浴びた瞬間、心臓が跳ね上がり、耳たぶが朱に染まるのを抑えきれなかった。あの可憐な温もりは、冷徹な軍略と緊張に満ちた宮中で生きてきた俺にとって、あまりにも眩しすぎる光だった。
だが、俺の胸中に宿った小さな情愛の芽生えを打ち消すように、主君のあの眼差しが重く影を落とす。
『あやの宮中での身の回りの手配と、離宮までの警護はお前に任せる』
命を下された際の、レオンハルト陛下のトパーズ色の双眸。
絶対の忠誠を誓う主君の瞳の奥に宿っていたのは、配下の騎士に対する静かで不可侵な「釘刺し」の光だった。
これまでいかなる美女にも、いかなる側近にも関心を示さず、孤独の頂に立ち続けてきた陛下が、あや殿に対してだけは見せた、他者の介入を断じて許さぬ熱い所有意識。
(……陛下はすでに、あや殿を『特別な存在』としてお認めになっている。いや……ご自身すら無自覚なまま、深く惹きつけられておられるのだ)
主君への絶対の忠誠と、あや殿という神聖な女性に対する密やかな敬意と好意。
二つの感情の間で、俺のディープブルーの瞳は苦い葛藤に揺れていた。俺はただの近衛隊長であり、彼女を守る剣であればいい。そう自分に言い聞かせるように、甲冑の手袋を嵌めた拳をそっと握りしめる。
「……シュベルト様?」
透明感のある静かな声にハッとして視線を下げると、いつの間にか回廊の角で立ち止まったあや殿が、首を少し傾げて俺を見上げていた。
彼女の肩に乗ったフク子殿も、紫水晶の瞳をパチクリとさせて俺の顔を覗き込んでいる。
「顔色が少々優れないようですが……お疲れではありませんか? 私のために遅くまで警護に付き合わせてしまい、申し訳ありません」
自分の疲労などおくびにも出さず、真っ直ぐに俺の体調を気遣う澄んだ瞳。
その無私の優しさに胸を突かれ、俺は慌てて兜の庇に手を当て、深く膝を折るように一礼した。
「滅相もございません、あや殿! 私は陛下の命を受け、あなた様をお守りする近衛隊長。……このシュベルトの身など、どうぞお気になさらないでください」
「ふふ、まあ。シュベルト様は本当に真面目で誠実なお方なのですね」
あや殿の唇から漏れた、やわらかな鈴の音のような小声の微笑み。
月光の下で咲く一輪の花のように可憐なその姿を前に、俺は息を呑み、己の胸の鼓動が再び大きく跳ね上がるのを、ただ必死に耐えることしかできなかった。




