第3章:2の変容――月下宮の静寂と盤面の再構築(39)
二つの満月が描く蒼銀の光が、アーチ窓の幾何学模様を執務室の磨き上げられた床の上に冷たく投影していた。
壁の青銅製燭台とデスクの魔導ランプが灯す重厚な金色の光の輪の中で、深夜特有の凛とした緊張感と、互いの呼吸すら聞こえそうな密やかな密度が満ちている。
漆黒の軍服を纏い、背もたれに深く身体を預けた百八十八センチの覇王レオンハルト。
そして、神聖な純白のドレスを揺らし、まっすぐな立ち姿で主卓の前に佇むあや。
黄金の瞳と澄んだ漆黒の瞳が視線を交錯させるその空間には、静寂でありながら激しい心理的火花が散っていた。
レオンハルトは、あやが副卓から運んできた整然たる報告書の束へ、滑らかな指先をそっと触れさせた。
「……各州の領主どもが提出した公文書から、二重帳簿の不自然な不整合と、法規の穴を突いた権益の誘導だけを、過不足なく抜き出してみせたか」
低く、耳朶を揺らすようなレオンハルトの声が静寂を削る。
トパーズ色の双眸にあやの姿を映しながら、彼の薄い唇に不敵で愉悦に満ちた笑みが刻まれた。
「ただの官僚では、この裏にある意図に行き着くまでに数週間はかかる。それを一日で……しかも、俺の手間を最小限に抑える形で完璧に整理してみせた。……認めてやる。お前は俺が思っていた以上に、使える女だ」
己の圧倒的な権威やSランクの武力に一切媚びず、純粋な「実利」と「知の精度」で答えを出してみせたあや。
【4:皇帝(逆位置)】として周囲への過剰な不信と完璧主義に縛られ、たった一人で帝国の全てを統御してきたレオンハルトの胸の奥で、確固たる信頼の芽と、言葉にできない密やかな独占欲が静かに疼き始めていた。
「あや。お前を明日より、正式に『皇帝直属特別補佐』として俺の傍らに置く」
強固で揺るぎない命令。
レオンハルトは組んでいた指をほどくと、デスクの上に肘をつき、あやの純白のドレスと、そこから覗く白磁のような首筋へ、射抜くような熱を帯びた眼差しを向けた。
「お前のその利口さと分析力、余さず俺のために使ってもらう。……異論はないな?」
それは、あやの能力を最高位の側近として公認すると同時に、彼女を自分の目の届く「絶対の領域」に繋ぎ止めるという、覇王としての無自覚な囲い込みでもあった。
ふっと空気が揺れた拍子に、あやの身から漂うほのかな白檀の香気がかすかに鼻腔をくすぐり、レオンハルトの意識をいっそう深く彼女へと引き寄せる。
あやは動じず、胸の前でそっと手を重ねると、純白のドレスを揺らして深くしなやかに一礼した。
「光栄にございます、皇帝陛下。陛下の御威光と帝国の安寧のため、この知識と力を存分にお役立ていたしますわ」
言葉の裏に秘めた、「都合のいい駒にはならず、対等な知のパートナーとして生き残る」というあやの強い意志。
その澄んだ眼差しと凛とした佇まいに、レオンハルトはトパーズ色の瞳を満足げに細め、低い満足の吐息を漏らした。
二人の間に結ばれた不可侵の誓いと、密やかな主導権争い。
その光芒を、部屋の壁際で影のように警護に当たっていた近衛隊長シュベルトは、複雑な想いを抱えて見つめていた。
あやが見せた常人離れした知性と、一切の恐怖に屈しない澄んだ強さ。シュベルトのディープブルーの瞳には、一人の騎士としての深い敬意と、胸を打つ小さな情愛の熱が宿っていた。
だが同時に、主君レオンハルトがあやに向ける視線の中に、他の誰にも許さない「特別な所有意識」が宿り始めていることを、長年の側近としての直感で察していた。
「シュベルト」
突如、主卓からレオンハルトの静かで絶対的な声が響く。
「はっ」
シュベルトは即座に直立し、甲冑の胸にあぶみを当てて恭しく頭を下げた。
「あやの宮中での身の回りの手配と、離宮までの警護はお前に任せる。……粗相のないよう、完璧に警護せよ」
「……御意にございます、陛下。このシュベルト、命に代えましてもあや殿をお送りいたします」
一見すれば、信頼する近衛隊長への当然の命令。
だが、レオンハルトがあやに向けたトパーズ色の瞳の奥には、配下の騎士に対する静かで不可侵な釘刺しの色合いが、確かに混ざり合っていた。
月下宮の夜は、新たな波乱と惹きつけの予感を孕んで静かに深まっていくのだった。




