第3章:2の変容――月下宮の静寂と盤面の再構築(35)
「皇帝直属補佐」としての最初の朝。
豪華な離宮『月下宮』のバルコニーで、あやは澄み渡る青空に浮かぶ白磁のふたつの満月を見上げていた。
朝の支度を整えながら、肩に乗ったフク子は、この異世界アルカニアの『真実』について、あやに分かりやすく教えてくれた。
ふんわりとした温かみのある白い羽毛と、宇宙の理を宿した深い銀河が美しく揺らめく紫紺の翼。その神秘的な姿で、フク子は優しく語りかける。
『あやきち、よくお聞きになって。このアルカニアという世界はね、大いなる【タロットの理】によって成り立っている世界なのですわ』
「タロットの理……?」
『ええ。レオンハルトやルカのように、この世界で強い運命を宿した者たちはみな、二十二枚の大アルカナ――それぞれのカードが司る物語や宿命をその魂に宿して生きているのです。彼らは無意識のうちに、己のカードの運命に沿って生き、そして戦っていますの』
フク子は紫水晶の瞳を真剣に輝かせ、銀河を纏った翼をそっと広げた。
『タロットには【正位置】と【逆位置】がありますわね? 【正位置】とは、その人が本来持っている健やかな魅力や能力が、真っ直ぐに輝いている状態。ですが……過酷な運命や傷、重すぎる孤独によって心が歪んでしまうと、カードはひっくり返り【逆位置】へと堕ちてしまうのですわ。苦しみ、暴走し、自分自身を苛む……悲しい姿にね』
「……それが、さっき話していた『逆位置』の意味なのね」
『そうですの。増長した悪意や厄災を喰らう《厄喰い》の力を持ち、宇宙の理を知るわたくしが保証しますわ。あやきちの役割は力で敵を倒すことではありません。傷ついて【逆位置】に歪んでしまった彼らの魂を丸ごと受け止め、本来の光【正位置】へと導いてあげること……それこそが、あやきちの持つ《万象読解》という白紙の原初アルカナの力なのですわ』
フク子の言葉に、あやは自分の胸の上にそっと手を当てた。
(ただ否定したり戦ったりするんじゃない。苦しんでいる心を受け止めて、元の輝きに戻してあげる……。それが私の役割なのね)
世界の仕組みと自分の役割をしっかりと理解し、あやの心から迷いや不安がすっと消えていった。
*
案内されたレオンハルトのプライベート執務室。
重厚な扉が開かれると、室内にはベルガモットのほのかに甘くふんわりと漂う香りと、息をのむような圧倒的な覇気が満ちていた。
部屋の最奥、大きな黒壇のデスク。
大陸にたった二人しか存在しない『Sランク』の圧倒的強者であり、政治・外交・事務処理のすべてにおいて隙のない『文武両道』の完璧さを誇る覇王レオンハルト。彼は山のような膨大な国家の書類を前にしても、恐ろしいほどの速度と精度で淡々と裁き、不敵な余裕と絶対的なオーラを漂わせて座っていた。
漆黒の軍服を隙なく着こなし、弱みなど微塵も見せず、己の絶対的な支配力を全身から放つ完璧な皇帝の佇まい。
(……どんなに完璧なお仕事ぶりでも、この帝国のすべてを、たった一人で背負っていらっしゃる……)
誰にも頼らず、あまりにも巨大な責務を一人で完璧に統御し続ける孤高の強さ。
あやの胸の奥に、恐れではなく、礼節と温かな親近感がじんわりと広がっていく。
その時だった。
あやのポケットの中で、小さなケースがぽっと温かくなった。
スーッとケースの隙間から滑り出すように、金色と黒の光を纏った一枚のカードが空中に浮かび上がる。
そこに描かれていたのは、重厚な玉座に座る王の姿――【4:皇帝】。
だが、そのカードにあやが目を凝らした瞬間、カードはゆっくりと上下がひっくり返り――不気味な光を放つ【逆位置】となった。
『……あやきち、ご覧なさい。外見は完璧で隙のない覇王ですが、誰のことも信じず一人で全てを統御しようとする重圧で、彼の魂のカードは【4:皇帝(逆位置)】……過酷な孤立と不信の闇の中にありますわ』
フク子の囁きとともに、カードは静かに光となって消えていった。
あやは深呼吸をひとつすると、威風堂々と座すレオンハルトのもとへ、やわらかな足取りで歩み寄った。
「おはようございます、皇帝陛下。本日より『皇帝直属補佐』として、お側でお手伝いさせていただきますわ」
レオンハルトがゆっくりと顔を上げた。トパーズ色の瞳には、揺るぎない自信と鋭い警戒の色が宿っている。
あやは皇帝への礼儀を込めた、丁寧で温かい笑みを向けた。
「陛下がお一人で完璧にこなされるお仕事ですが、補佐として私にも半分お手伝いさせていただけますか?」
威圧するためでも、媚びるためでもない。
絶対的なSランクの覇王である自分に対し、何事もないかのように自然体で補佐を申し出てくるあやの澄んだ眼差し。
レオンハルトは不敵な笑みを唇に浮かべ、その言葉の真意を探るようにトパーズ色の双眸を細めた。
決して隙を見せない己に対し、堂々と向き合ってくる異質の女。
強固な警戒を崩さないまま、レオンハルトの胸中には「やはり、一筋縄ではいかない面白い女だ」という密やかな関心が、静かに揺らめき始めていた。




