第3章:2の変容――月下宮の静寂と盤面の再構築(34)
「こちらでございます、あや殿」
近衛隊長シュベルト・フォン・アイゼンの低く透き通った声に導かれ、あやは皇宮の奥深くに佇む国賓用離宮――『月下宮』へと足を踏み入れた。
白亜の大理石と深い青のシルクで彩られた離宮は、息をのむほど壮麗でありながら、浮世離れした静けさに包まれている。
幾重もの重厚なアーチ状の廊下には、最精鋭である『黒獅子近衛騎兵隊』の騎士たちが整然と配置されており、外部からの侵入はもちろん、内部からの逃亡すら一切許さない完璧な警備体制が敷かれていた。
「月下宮の全管理権および警護責任は、我が近衛隊が担います。必要な品や要望があれば、何なりと控えている女官にお言いつけください」
シュベルトは立ち止まると、ディープブルーの冷徹な双眸であやを見つめた。
三十五歳の【剣の騎士】の瞳からは、先ほどまでの「危険な不審者」を見るようなトゲが消え、皇帝に対し堂々と「対等な契約」を勝ち取ってみせたあやという女性に対する、静かな敬意の色が窺えた。
「……感謝いたします、シュベルト様。お手数をおかけしましたわ」
「は。……失礼いたします」
シュベルトは一礼すると、無駄のない洗練された動作で去っていった。
重々しい扉が閉ざされ、室内にあやとフク子だけの静寂が訪れる。
ふぅ……と、あやは小さく息を吐き出すと、贅沢なベルベットのソファへと滑り込むように腰を下ろした。
緊張感で張り詰めていた背筋を伸ばし直し、冷えた自らの指先をそっと重ね合わせる。
『お見事でしたわ、あやきち。あの皇帝と側近たちの威圧を正面から受け止め、ただの「所有物」ではなく「皇帝直属補佐」という自由度の高い対等なポジションを勝ち取るだなんて……最高の着地ですわね』
フク子が紫紺の翼を広げてあやの肩から降り立ち、テーブルの上で紫水晶の瞳を輝かせながら、状況の整理に入った。
(ええ……でも、ここからが本当の正念場よ)
あやは心の中で呟きながら、自らの思考を冷徹に巡らせた。
込み上げるのは、未知の皇宮に対する単なる怯えや恐怖ではない。
この過酷で逃げ場のない盤面において、自分自身の知性と《万象読解》をどう運用すれば、確実に有利な未来を手繰り寄せられるかという、己を激しく律するための思考の緊張感だった。
(レオンハルト皇帝……【4:皇帝(逆位置)】。誰も信じられず、血と泥の玉座で精神を摩耗させきっている男。彼が抱える「歪み」と「孤独」は、思っていた以上に根深いわ)
皇帝のトパーズ色の瞳の奥に一瞬だけ見えた、底知れない疲弊と渇き。
あやを単なる「便利な駒」として利用しようとしながらも、対等に言葉を交わした瞬間に見せたあの熱狂的な色の正体を、あやは見逃していなかった。
(あえて「直属補佐」という枠組みに入ったのは、彼を内側から観察し、皇帝派と反皇帝派のパワーバランスを把握するため。そして……何より、ルカのためよ)
目を閉じると、クローデル領の夜の闇の中で、悔しさと絶望の涙を流しながら「必ず奪い返しに行く」と誓った少年の姿が鮮明に浮かび上がる。
白銀の髪を揺らし、青白い魔力を燃やしていたルカの真摯な眼光。
(ルカを残してきたのは間違いじゃなかった。私が皇宮で「皇帝直属補佐」として不可欠な存在となり、レオンハルトの目を完全に引きつけておけば、ルカはウォルターの下で追手から守られ、その秘められた能力を安全に開花させることができる……)
すべては計算通り。だが、一歩でも手順を間違えれば、自分もルカも皇帝の圧倒的な手の中に叩き潰される。
未来を自分の力で変えるための戦略と責任が、あやの胸を重く、だが誇り高く満たしていく。
「さて……泣いても笑っても、ここが私の新しい戦場ね。フク子、まずは皇宮の構造と、レオンハルトの周りの人間関係から洗っていくわよ」
『ええ、あやきち! 最高のサポートをお約束いたしますわ!』
フク子の頼もしい声に背中を押され、あやは決意を込めた眼差しで、離宮の窓から見える帝都の夜景を見つめた。
皇帝レオンハルトとの、真の知恵比べと救済のドラマが、ここから本格的に始まろうとしていた。




