第3章:1の試練――覇王の謁見と二つの剣(33)
「我が皇宮に滞在し、我が右腕としてその知性を振るってみせる気はないか?」
謁見の間の重厚な空気を揺らした、皇帝レオンハルトの破格の打診。
帝国の頂点に立つ覇王からの直接の誘いに、左右に控えるアイゼン兄弟――シュベルトとゲオルグの眼光が一層鋭さを増した。
普通ならば、感涙にむせびながら平伏して受諾するか、あまりの恐怖と畏れに思考を停止させる場面。
だが、あやの脳内で高速回転し始めたのは、三十代の元社畜としての徹底的なリスク管理と条件交渉のシミュレーションだった。
『あやきち。乗る気ですわね、あの暴君。ですが無条件で「はい」と頷けば、ただの都合の良い専属奴隷に成り下がりますわよ。ここが条件闘争の正念場ですわ!』
肩の上でフク子が紫紺の羽をかすかに揺らし、紫水晶の瞳でファシリテーターとして的確なアドバイスを囁く。
(ええ、分かっているわ。ここでイエスと言いながらも、対等な「契約関係」を勝ち取る……それが私の生存戦略よ)
あやは胸の中で力強く自分を律すると、微笑みを絶やさぬまま、静かに口を開いた。
「身に余るお言葉、恐悦至極に存じます、皇帝陛下。……ですが、お受けするにあたり、ひとつ条件がございます」
「……何?」
レオンハルトが黄金のトパーズ色の瞳を細め、愉悦と興味を含んだ眉をひそめた。
皇帝に対し「条件」を突きつけるなど、帝国の歴史上あり得ない暴挙。シュベルトのディープブルーの瞳に冷ややかな警戒が走り、ゲオルグの水色の瞳には興味深げな光が宿る。
あやは一切退くことなく、涼やかな切れ長の瞳でレオンハルトを見つめ返した。
「私は貴族派や帝国の臣下ではなく、あくまで外部の『皇帝直属補佐』としてお力添えいたします。……つまり、主従関係ではなく『対等な業務委託契約』として私を雇っていただきたいのです」
「業務……委託……?」
レオンハルトの唇から聞き慣れぬ単語が漏れる。
「ええ。私は陛下の所有物でも奴隷でもございません。皇宮内での行動の自由、そして然るべき対価をお約束いただきたいのです。それが叶わぬのであれば……私の時間を陛下のためだけに使うわけにはまいりませんわ」
静寂が謁見の間を重く支配した。
冷や汗一つ流さず、皇帝の権力と威圧を真正面から「交渉のテーブル」へと引きずり下ろしたあやの度胸。
玉座の左下に佇む帝国法部卿ゲオルグが、驚嘆に口元をかすかに綻ばせた。ゲオルグにとっても、皇帝に対し法の概念と対等な契約を持ちかけるあやの論理的思考は、舌を巻くほど完璧だったのだ。
シュベルトもまた、静かに息を吐き出し、あやという異質な存在の度量に無言の敬意を認めつつあった。
レオンハルトは、一瞬の沈黙の後――
「……ははっ、ハハハハハッ!!」
朗々とした、それでいて地鳴りのような爆笑声を謁見の間に響かせた。
頬杖を完全に外し、玉座から立ち上がると、百八十八センチの圧倒的な体躯で階段を一段、また一段と滑らかに下りてくる。
ベルガモットの甘く鋭い香りが一層濃厚に漂い、あやの至近距離で立ち止まった。
見上げるあやの視線の先で、レオンハルトのトパーズ色の双眸が狂おしいほどの執着と好意を孕んで輝いている。
「面白い……!! 皇帝であるこの俺に、対等な契約を突きつけてくるとはな! ……良いだろう、その条件、全面飲んでやる!」
「感謝申し上げます、陛下」
「ただし――」
レオンハルトの長い指先が、あやの顎を優しく、だが逃がさぬ強さで持ち上げた。
近すぎる覇王の顔立ちと、熱を帯びた息遣いにあやの心拍が跳ね上がる。
「俺を満足させられなくなった時は……その生意気な首と知性を、俺の所有物として召し上げる。覚悟しておけ、あや」
「……ええ、望むところですわ」
あやは顎を支えられたまま、不敵で美しい微笑みを返してみせた。
冷酷な皇帝の心に、かすかな「熱」と「執着」の芽がはっきりと芽生えた瞬間だった。
「シュベルト。あや殿を国賓用の『月下宮』へ案内せよ。何不自由のないよう、最高級の待遇で迎え入れろ」
「御意」
シュベルト隊長が深々と一礼し、あやへ向かって恭しく道を指し示した。
こうしてあやは、死の試練を自らの手で「対等な契約」へと塗り替え、帝都・レグリア皇宮での決死の長期潜入劇をスタートさせたのだった。




