第3章:1の試練――覇王の謁見と二つの剣(32)
女の薄い唇に浮かんだ、あまりにも静かで不敵な微笑み。
それがハッタリでも自暴自棄でもないことは、次の瞬間にあやが見せた立ち振る舞いによって、直ちに証明されることとなった。
あやは提示された二枚の羊皮紙に対し、恐れ慄く様子もなく緩やかに歩み寄ると、まずは右側に置かれた『不密の二重帳簿』へ視線を落とした。
帝国の最高監査官たちが数ヶ月をかけて解読を試み、複雑極まりない偽装工作の前に匙を投げた代物だ。
だが――女の涼やかな切れ長の瞳がその数字の羅列をなぞったのは、わずか数秒。
「……お戯れを、皇帝陛下」
謁見の間の冷え切った大気を凛と切り裂いたのは、涼やかで透き通った女の声だった。
「元老院の反皇帝派貴族たちが秘匿しているこの帳簿……表向きはクローデル領の鉱山開発費として計上されておりますが、数字の末尾に掛けられた『第三種・資産ロンダリング』の構図はあまりに粗末ですわ。別紙の輸出入関税の乖離率と照らし合わせれば、流用された裏金がどの貴族の私兵増強に流れているかなど、一目瞭然ではありませんか」
「……なに?」
静寂を破ってわずかに息を呑んだのは、玉座の左下に立つ帝国法部卿ゲオルグ(185cm)だった。
法と帳簿の精査において帝国の頂点に立つ【剣の王】ゲオルグの綺麗な水色の瞳が、驚愕に大きく見開かれる。
ゲオルグ率いる法務省が総力を挙げて裏付けを取ろうとしていた資金還流のカラクリを、この女は初見の数秒で、完璧に言い当ててみせたのだ。
驚きはそれだけに留まらなかった。
あやは続いて、もう一枚の『未知の暗号術式』が描かれた羊皮紙へすっと指先を向けた。
「そしてこちらの防衛術式……解読不能の不審な暗号などではありません。これは皇宮の地下結界の基幹を破壊するための『裏口』を仕込むための反転陣ですわ。術式の第三項と第七項が意図的に交差されているのは、外部からの侵入ではなく、皇宮内部の人間が内側から術式を解除するための工作……違いますかしら?」
「――――ッ!?」
右側に控えていた近衛隊長シュベルト(188cm)の目元が、わずかにピクリと跳ね上がった。
三十五歳の【剣の騎士】のディープブルーの瞳に、極限の警戒と慄きが走る。
皇宮の防衛陣形を預かるシュベルトですら全貌を掴みかねていた術式の仕掛けを、この女はまるで最初から構造を知っていたかのように、残酷なまでの精度で解き明かしてみせたのだ。
(……なんだ、この女は)
玉座に深く腰掛けたまま、レオンハルトの全身の血が、熱く脈打ち始めるのを覚えた。
ただの異端などではない。
高貴な身分に甘んじてきた貴族の令嬢どころか、何十年も帝国の政権争いを生き抜いてきた老獪な政治家すら足元に及ばない、恐るべき知性と洞察の塊。
何よりレオンハルトの心を激しく揺さぶったのは、その解説を行うあやの佇まいだった。
知識を誇示するでもなく、命乞いをするでもなく、己の提示した『試練』という名の盤面を、まるでお茶会で詰碁でも楽しむかのような圧倒的な余裕をもって支配している。
肩に乗った紫紺の鳥が、ふふん、と自慢げに小さな羽を揺らした。
血と泥の玉座に就いて以来、レオンハルトの周囲にいたのは、己の権力を恐れて怯える者か、隙を突いて喉元を掻き切ろうとする敵ばかりだった。
誰も己と同じ高みに立ち、対等な視線で言葉を交わせる者など存在しなかったのだ。
不意に、胸の奥底で凍りついていた何かが、メリメリと音を立てて裂けていく感覚がした。
「……くくっ」
レオンハルトの喉から、低く艶やかな笑い声が漏れた。
頬杖を外し、ゆっくりと体を起こすと、黄金のトパーズ色の双眸があやの姿を逃さぬよう、狂おしいほどの執着をもって射抜く。
「見事だ……見事だと言わざるを得んな、あや」
皇帝の口から溢れ出たのは、冷酷な試練の宣告ではなく、一人の男としての偽りのない賛嘆だった。
大気に漂うベルガモットの香りが、かすかに熱を帯びて広がっていく。
「貴様という存在を、ただの駒として処分するのはあまりに惜しい。……我が皇宮に滞在し、我が右腕としてその知性を振るってみせる気はないか?」
覇王レオンハルトの人生で初めて、他者に対して差し出した誘い。
だが、眼前に立つ女は、その甘美な申し出に対しても、なお不敵な微笑みを崩さなかった。




