第3章:2の変容――月下宮の静寂と盤面の再構築(36)
「では、こちらの法部卿並びに各州の領主より提出された決裁文書の分類から、取りかからせていただきますね」
あやは優雅に一礼すると、レオンハルトが座す巨大な黒壇の主卓――その右斜め前に配置された、上質なマホガニーの副卓へと足を進めた。
フク子の魔法によって紡がれた、神聖な純白のドレスの裾をそっと整え、重厚な肘掛け椅子に深く腰を下ろす。
背筋を凛と伸ばし、左手の指先で厚手の羊皮紙を押さえながら、細い指で羽ペンを静かに握り直した。
卓上に整然と並べられたのは、帝国の中枢を担う官僚や法部卿らが一次精査を終え、皇帝の最終承認を仰ぐために上げてきた最高精度の公文書。
表向きは法規と数字に則った隙のない仕上がりだが、その奥には各派閥の権益確保や、制度の穴を突いた「狡猾で高度な政治的駆け引き」が潜んでいる。
圧倒的なSランクの頭脳と文武両道の手腕で、それらの意図を即座に見破り淡々と裁いていく覇王レオンハルト。
だが、誰のことも完全には信じず、自らの目ですべてを統御しようとする【4:皇帝(逆位置)】の過酷な重圧ゆえに、確認すべき背景資料の山はどこまでも高く積み上がっていた。
カリ、カリ、と執務室の静寂の中に、羽ペンの心地よい擦過音が規則正しく響く。
あやの副卓の端、インク瓶の脇には、フク子がちょこんと羽を休めていた。ふんわりとした温かみのある白い胸毛と、宇宙の理を宿した銀河が揺らめく深い紫紺の翼。
あやは《万象読解》で文書の真意や構造的な偏りを素早く見抜き、元社畜として培った要約力で、レオンハルトが数秒で最終決裁を下せる「要点とリスク」を余すことなく抽出し、端的に仕分けていく。
主卓で恐ろしいほどの速度で政務を裁いていたレオンハルトは、一瞬ペンの動きを緩め、斜め前で集中するあやの姿へ密かに視線を走らせた。
天窓からの柔らかな光を受け、神聖な美しさを際立たせる純白のドレス。
真剣に書類を見つめる澄んだ眼差しと、迷いなく走る華奢な手首。
(……ほう。ただの雑用ではなく、官僚どもの裏の思惑まで正確に削ぎ落として見せるか)
絶対的な覇者としての余裕と不敵な笑みを崩さぬまま、レオンハルトのトパーズ色の双眸に、あやの鮮やかな手腕に対する確かな評価と強い興味が揺らめいた。
そんな緊張感のある執務室の壁際で、壁と同化するように警護に当たっていた近衛隊長シュベルトもまた、あやの静謐で洗練された佇まいに息をのんでいた。
長時間作業を続け、あやがふぅと小さく息を吐いて羽ペンを置いた時だった。
首筋をそっと手で押さえる彼女の動作に目をとめたシュベルトは、音もなく歩み寄り、銀のトレイに乗せた冷えた水グラスをあやの卓上へと静かに置いた。
「……あや殿。冷えた水をお持ちしました。お使いください」
「まあ……お気遣いありがとうございます、シュベルト様。助かりましたわ」
顔を上げたあやが向けたのは、緊張を解きほぐすような、ふっと肩の力を抜いた心からの温かい笑顔。
正面からその可憐な微笑みと澄んだ瞳を浴びた堅物な騎士は、思わず息を呑み、わずかに耳たぶを朱に染めて視線を泳がせた。
「……は。職務を果たしたまででございます」
深々と一礼し、急ぎ足で元の警護位置へ引き返すシュベルト。
だが、そのやり取りのすべてを、デスクの奥から見つめていた男がいた。
(……なんだ、あの顔は)
レオンハルトの手元で、羽ペンがピタリと止まる。
己の前では隙を見せず、凛とした完璧な礼節を崩さないあやが、配下のシュベルトにだけ見せた無防備で柔らかい笑顔。
ベルガモットの香る室内で、レオンハルトの胸の奥に、説明のつかない冷たく不愉快なざわめきが、静かに、だが確実に芽生えていた。




