第2章:4の皇帝――覇道と凍てる孤高(29)
ドウドウドウ……ッ!
地鳴りのような馬蹄の重厚な轟音が、夜の静寂を切り裂いて響き渡り、クローデル領近郊に佇むウォルターの白亜の別邸門前にてピタリと止まった。
門前に停まったのは、帝室最高位の格式を示す『純金の黒鷲紋章』が燦然と輝く、四頭立ての美しい純白の豪奢な馬車。
その周囲を、漆黒の重装甲冑に身を包んだ帝国の最精鋭――『黒獅子近衛騎兵隊』の騎兵たちが、隙のない陣形で作意なく取り囲む。『わずか一隊でひとつの都市を易々と壊滅せしめる』と恐れられる彼らが放つ圧倒的な圧迫感が、別邸全体を重く支配していた。
馬車から静かに降り立ったのは、近衛隊長シュベルト・フォン・アイゼン伯爵。
レオンハルトと同じ百八十八センチの長身に、一切の無駄がない極限まで鍛え上げられた精悍な体躯。三十五歳という年齢を感じさせない、二十代後半のようなきめ細やかな肌と傷一つない白磁の美貌。短く整えられた輝くシルバーの髪の奥で、射抜くようにつめたいディープブルーの双眸が、鋭い知性を光らせていた。
その手には、皇帝レオンハルト自らの花押が刻まれた親書が握られていた。
「あや。俺が先に乗る」
深く濃紺の騎士服を纏ったルカが、当然のようにあやの前へと出ると、大柄な体躯で守るようにあやを庇いながら、純白の馬車の扉へ手を掛けようとした――その瞬間だった。
ガチャンッ!!
重々しい金属音とともに、二本の無骨な鋼の長槍が交差され、ルカの胸元を強引に遮った。
「……下がれ、少年」
重厚な甲冑の隙間から響いたのは、シュベルト隊長の低く透き通った声音だった。
【剣の騎士】の二つ名を持つ男のディープブルーの瞳が、眼前の一卵性のように若い男女――あやとルカを冷徹に観察する。
鋭敏極まりないシュベルトの頭脳は、二人の視線、空気感、そしてあやが醸し出す異常なまでの冷静さから、瞬時に彼らの関係性と心理の裏を読み解いていた。
「なっ……何の真似だ!」
ルカのスカイブルーの瞳が、一瞬で激しい怒りと警戒の色に染まる。
だが、シュベルト隊長は感情の欠片もない氷のような冷徹さで、逃げ場のない宣告を投げつけた。
「陛下の勅命である。召喚されたのは『あや殿』おひとり。いかなる護衛や従者の同行も固く禁じられている。……我が配下に対し一歩でも刃を向ければ、即刻反逆罪としてこの館ごと処断する」
「……ふざけるなッ!! あやを一人で、あんな奴のところへ行かせるわけねぇだろ!!」
ルカの感情が、ついに限界を迎えて爆発した。
腰の銀剣の柄に革手袋の指がかけられ、全身から青白い凄まじい闘気が、爆風となって吹き荒れる。
ただの二十歳の少年ではない。あやへの独占欲に呼応し、胸の奥底で目覚めかけた【A級の潜在能力】が、大気そのものをピシリと凍りつかせる殺気となって周囲を圧迫した。
近衛兵たちも一斉に槍や剣を抜き放ち、緊張感は極限に達する。門前は一瞬にして、互いの首を刎ね飛ばし合う血生臭い一触即発の戦場へと変貌した。
(……あの皇帝、最初からルカを引き剥がすつもりだったのね)
あやは背筋を駆け上がる冷たい戦慄を感じながらも、三十代の元社畜としての鋼の理性をフル回転させた。
ここでルカが感情に任せて近衛兵を斬れば、彼自身はもちろん、匿ってくれたウォルターの別邸も、ギルドすらも『反逆者の隠避』として帝国軍に粛清される。
何より――ルカを無理に帝都へ連れて行けば、冷徹な皇帝レオンハルトの手に直接『人質』という最大の弱点を与えることと同義だ。
手札をすべて敵の盤上に晒すのは、リスク管理の観点から言って最悪の悪手。
「……ルカ、剣を収めなさい」
あやの凛とした声が、張り詰めた殺気の空気を一刀両断に切り裂いた。
「あや……!? 何言ってるんだ、俺はあんたの騎士だぞ!? あんな奴の手に、あんたを渡せるかよ!」
あやはルカの制止を振り切り、一歩前へ踏み出した。
百七十六センチのルカの前に立ち、十二センチ背の高い青年の顔を見上げる。
そして、殺気と屈辱に震えるルカの頬を、自らの温かい両手で優しく、だが力強く包み込んだ。
触れた白磁の肌の温もりと大人の女性の感触に、ルカの激しい呼吸がハッと止まる。
あやは知的で二重に縁取られた涼やかな切れ長の瞳で、すがるように揺れるルカの碧眼を、真っ直ぐに逃げ場なく見つめ返した。
「私と一緒に来て、皇帝の人質になるつもり?」
「っ……!」
「ルカ。私はあなたを捨てていくわけじゃないの。……これは『戦略』よ」
あやはルカの耳元へ顔を寄せ、周囲の近衛兵には聞こえない微かな吐息の囁きで、自らの冷徹な計算を告げた。
「私と一緒に帝都へ入れば、あなたは皇帝の鋭い目線に常に晒され、動きを完全に封じられるわ。でも……ここに残れば、あなたは誰にも読めない私の最高の『隠し札』になれるの」
「隠し札……?」
「ええ。私が皇宮で皇帝の目を引きつけている間に……あなたはウォルターの下で、その胸の奥の力を完全に自分のものにしなさい。そして――私が本当に追い詰められた時、私をあの男の玉座から奪い返しに来て」
「っ……!!」
ルカの胸の奥底で、ドクン……! とカッと激しい衝動が跳ね上がった。
あやの言葉は、逃げ場のない絶望の中に差し込んだ、唯一の光明。
しかし同時に、今の己の不甲斐なさと無力さを容赦なく突きつける、甘く痛烈な鞭でもあった。
あやを独占したい。誰の目にも触れさせたくない。
それなのに、自分にまだあの皇帝と対等に渡り合えるだけの圧倒的な力がないばかりに、最愛の女性をたった一人で危険な猛獣の檻へと送り出さなければならないのだ。
「……嫌だ……嫌だ、あや……俺は、あんたの隣に……!」
ルカのスカイブルーの瞳から、悔しさと絶望の涙がボロボロと零れ落ちる。
ルカは血が出るほど強く唇を噛み締めると、あやの手のひらに自分の額を強く押し当て、地を這うような低く熱い声で誓った。
「……絶対に行く。俺が強くなって……あいつの玉座から、あんたを絶対に奪い返しに行く……! それまで、誰にも心を開くな……!」
「ええ。待っているわ、ルカ」
あやはそっと手を放すと、振り返り、マーメイドドレスの裾を優雅に持ち上げた。
その一連のやり取りを、シュベルト隊長は銀色の前髪の隙間から、冷徹な洞察で見定めていた。
(……取り乱す若者を瞬時に懐柔し、己の『駒』として配置し直したか。ただの庇護されるべき令嬢ではないな。……なるほど、陛下がわざわざ身柄を要求されたわけだ)
シュベルトの薄い唇の端が、誰にも気づかれぬほど微かに歪む。他人のハッタリや誤魔化しを一瞬で見抜く【剣の騎士】の目から見ても、あやの度胸と腹の括り方は「皇帝の前に引き出すに足る器」だと確信させるに充分だった。
「あやきち、準備はよろしくて? 不甲斐ない男ですわね、早く参りますわよ!」
あやの肩の上で、フク子が紫紺の翼を引き締め、小首を傾げて囁く。
「ええ、行きましょう」
あやは二度と後ろを振り返ることなく、シュベルト様が差しのべたグローブ越しの手をとることもなく、純白の馬車へと凛とした足取りで踏み込み、シートへと腰を下ろした。
ドスン……と重々しい扉が閉ざされ、シュベルト隊長率いる近衛騎兵隊の厳重な護衛のもと、四頭立ての馬車が滑らかに滑り出す。
車窓の外――遠ざかる夜の景色の中で、たった一人立ち尽くし、青白い魔力の燐光を全身から立ち上らせながら、溢れる涙を拭いもせずにこちらを射るように見つめ続ける少年の姿があった。
夜気に溶け込む甘いベルガモットの香りと、冷酷な皇帝レオンハルトが待つ帝都・レグリア皇宮へ向けて。
あやのたった一人の、けれど決死の潜入劇が、いま静かに幕を開けようとしていた。
(第2章・完)




