第2章:4の皇帝――覇道と凍てる孤高(28)
帝都の中心にそびえ立つ、レグリア皇宮。
その最深部に位置する冷厳な執務室で、皇帝レオンハルトは黒檀のデスクに深く背を預け、手元の羊皮紙を見下ろしていた。
夜の闇を溶かしたような蒼黒髪が、魔導ランプの淡い光を受けて群青の艶を放つ。
彼が自らの手で書き記した一通の親書。そこには、赤蝋ではなく帝室最高位を示す『純金の黒鷲紋章』が封じられようとしていた。
『――約束の刻だ、あや。帝都でお前の手並みを見せてもらおう』
短い一文。
そこには、逃走を一切許さない絶対的な命令と、彼女の啖呵を面白がるような知的な余裕が滲み出ている。
一介の地方令嬢に与えられる名誉などではなく、絶対君主による逃亡不可能な『捕獲宣言』。
(……あの生意気な『外部ブレーン』。今頃、この親書を受け取って怯えて震えているか、それとも冷徹に逃げ道を計算しているか)
レオンハルトの薄い唇が、愉悦に微かに吊り上がる。
幼少期から血と暗殺にまみれた玉座に座り続け、感情論ではなく実利と知性だけを信じてきた。誰もが自分に怯えて媚びるか、利用価値だけで擦り寄ってくるかしかしない世界。
あの大広間で、帝国の結界探知機を狂わせた未知の特異点――あやと視線が交錯した瞬間。
最初は、得体の知れない魔力波形に対する警戒と、玉座を脅かしかねない排除対象としての興味関心だった。
だが、あの地下金庫で彼女と対峙した時、レオンハルトの心奥で凍てついていた何かが、音を立てて崩れ落ちたのだ。
光を呑み込む漆黒の瞳。
その眼差しは、レオンハルトを『恐ろしい暴君』として畏怖するでもなく、『強大な力を持つ皇帝』として利用しようとするでもなかった。
数々の修羅場を潜り抜けてきた彼の魂の奥底にある、血と泥に塗れた深い孤独。それを哀れむことすらなく、ただ静かに、初めて『一人の人間』として見透かしてきたのだ。
(……俺の深淵を覗き込んで、なお正気を保ち、一歩も退かずに交渉を持ちかけてくるとはな)
思い出すだけで、胸の奥底が奇妙な熱を帯びて疼く。
それは、他国の間者や貴族令嬢たちには決して感じなかった、決定的な違和感だった。
彼女の中には、この血生臭い世界の常識とは違う、もっと理性的で、しかし何よりも気高い『魂の在り方』が根付いている。
そして――レオンハルトの脳裏に、あの薄暗い金庫室で抱き寄せた、信じられないほど華奢な腰の感触が蘇る。
(……少しでも力を込めれば、容易く折れてしまいそうな儚い身体だった)
彼自身も気付いていない魂の最深部で、静かだが確かな渇望が渦を巻いていた。
あの気高くも儚い魂を、決して乱暴に扱ってはいけない。
(少しでも傷つければ壊れてしまいそうなあの女を、俺の手の中へ囲い込みたいなどと、なぜ思うのだろうか…)
それは、孤独な覇王が初めて無自覚に抱いた、深く重い『庇護欲』だった。
「……近衛隊長を呼べ」
レオンハルトは低く冷徹なバリトンで、扉の向こうに控える従者へ命じた。
すぐに、漆黒の甲冑に身を包んだ近衛隊長が静かに入室し、片膝をついて首を垂れる。
「ヴェルダン男爵邸へ迎えをやれ。……皇帝直々の『国賓』としての扱いだ。指一本触れるな。極めて丁重に、傷ひとつ付けずに連れてこい」
「はっ。承知いたしました」
「……ただし」
レオンハルトの黄金の双眸が、狩りを楽しむ猛禽のように妖しく、そして冷酷に細められた。
「連れてくるのは、あの女一人だ。……あやの側にいる、あの青臭いうるさい番犬。あれは力ずくでも引き剥がして、置いてこい」
地下金庫で、あやを必死に庇おうとしていた若い騎士――ルカの姿を思い出し、レオンハルトは不愉快そうに眉根を寄せた。
あやという未知の特異点を、俺の目の届く盤上で見物し、本性を暴く。
その極上の遊戯の場に、目障りな虫は不要だ。
「逆らえば、その場で首を撥ねて構わん」
「御意のままに」
近衛隊長が静かに退出していく。
甘いベルガモットの香りが漂う執務室で、レオンハルトは親書の金蝋を指先でなぞった。
盤上は整った。
あとは、あの黒髪の女がこの皇宮という檻へ、自ら足を踏み入れるのを待つだけだ。




