第2章:4の皇帝――覇道と凍てる孤高(27)
「……だから、あいつを見ないでくれ」
すがりつくような、だが逃げ場を完全に断ち切る大人の男の懇願。
手の甲に押し当てられたルカの唇から、熱い吐息が皮膚を伝ってあやの全身へと広がっていく。
二十歳を迎えた青年の、鍛え上げられた広い肩。
庇護すべき少年だと思っていたはずのルカから放たれる、剥き出しの雄の体温と香りに、あやの心臓は激しく早鐘を打った。
(……ルカ……?)
胸の奥を激しく突かれ、あやは絡め取られた指先に微かに力を込めた。
ルカの胸元に添えた左手の下で、狂おしいほど激しく跳ねる鼓動と、皮膚の奥で脈打つ【熱い泉】の脈動が確かに伝わってくる。
彼がこれほどまでに自分を求め、恐怖するほどに執着している――その重さに、息が詰まりそうだった。
「ルカ、顔を上げて」
あやは声を震わせないよう意識しながら、柔らかく、だが確かな意志を込めて囁いた。
「……あや」
「私は、誰の所有物でもないわ。あの皇帝のものでも……誰のものでもね」
あやは切れ長の漆黒の瞳をすっと細め、ルカの痛切な碧眼を真っ直ぐに覗き込んだ。
「でも、今夜私の命を背負って戦ってくれたのは、あなたよ。私が背中を預けられるのは、ルカ……あなただけだわ」
「っ……」
ルカの喉から、切ない吐息が漏れた。
その言葉がどれほどルカの渇きを潤し、同時にどれほど深いまじないとなって彼の心を癒したか。
ルカはあやの手の甲に額を押し当て、噛み締めるように低く呟いた。
「……あやがそう言ってくれるなら、俺はなんだってする。世界中を敵に回したって……」
「はいはい、そこまでですわよ! まったく、若い男の独占欲ほど暑苦しいものはございませんこと!」
天井の止まり木から、フク子が呆れたようにバサリと羽を広げて嘴を鳴らした。
「あやきちもあやきちですわ! 罪作りな手綱捌きをしておいでで……! ほらルカ、屋敷に着きましたわよ。さっさと離れなさいな!」
馬車が緩やかに減速し、ウォルターの別邸の裏門へと滑り込む。
ルカは弾かれたように身を起こし、バツの悪そうに顔を背けて咳払いを落とした。
耳元まで朱に染まりながらも、あやの手を離すその指先には、まだ名残惜しげな未練が滲んでいた。
屋敷に足を踏み入れると、あやは休む間もなく自室の執務机へと向かった。
ドレスの隠しスリットから取り出した、クローデル子爵の裏帳簿。
社畜時代、数々の杜撰な粉飾決算と横領を暴き立ててきた百戦錬磨のスキルが、ここにきて冷徹に起動する。
「フク子、紙とインクを。ルカは扉の警戒を頼むわ」
あやはペンを走らせた。
《万象読解》で読み解いた数字の矛盾、ダミー会社を経由した資金洗浄のフロー、そして帝国法に違反する禁制品の密輸ルート――。
朝を迎える頃には、子爵を法的に一撃で即死させる、完璧な証拠告発書が完成していた。
そして、夜が明けた直後。
帝都から派遣されていた憲兵隊がクローデル子爵邸へ踏み込み、昨夜の金庫の証拠とあやの告発状によって、子爵は弁解の余地すらなく即座に拘束された。
地方貴族の不正を暴くという最初のミッションは、これ以上ない完全勝利で幕を閉じたのだ。
だが――勝利の余韻に浸る時間は、一秒たりとも与えられなかった。
正午を回った頃。
ドウドウドウ……! と、大地を揺るがす重厚な馬蹄の轟音が、静まり返るウォルターの別邸の門前で止まった。
「……っ、あや!」
窓の外を確認したルカの顔色が、一瞬で青ざめた。
別邸を包囲するように整列したのは、漆黒の重装甲冑に身を包んだ精鋭部隊――皇帝直属の近衛騎兵隊。
やがて、執事の手によってあやの元へと運ばれてきたのは、血のような赤蝋ではなく、帝室最高位を示す【純金の黒鷲紋章】で封じられた一通の黒い親書だった。
封を解いた瞬間、ふわりと漂う――甘い花のようなベルガモットの芳香。
美麗で鋭利な、若き皇帝自らの筆跡。
そこには、逃走を一切許さない絶対的な召喚命令が記されていた。
『――約束の刻だ、あや。帝都でお前の手並みを見せてもらおう』
紙片を見つめるあやの背筋を、甘く痺れるような戦慄が駆け抜ける。
その横で、ルカが腰の剣の柄をギリリと軋ませ、青白い殺気を瞳に宿していた。




