第2章:4の皇帝――覇道と凍てる孤高(26)
「あやきち、呆けている場合ではなくてよ! 帳簿を回収してズラかるのですわ!」
フク子の鋭い嘴打ちの音で、あやはハッと我に返った。
レオンハルトの残していった強烈な気配の残滓を頭から振り払い、あやは黒檀の机の上に残されていたクローデル子爵の裏帳簿を素早く掴み取った。
マーメイドドレスの腰元、目立たない隠しスリットの収納ポケットへと滑り込ませる。
これで今夜の本来の任務――子爵の不正の決定打は完全に手中に収めた。
「行くぞ、あや。俺から離れるな」
ルカが鞘に収めた儀礼剣を握り直し、あやの右手首を強引に引き寄せる。
先ほどまで天井の核を撃ち抜いていたルカの指先は、まだ尋常ではない高熱を帯びていた。
三人は氷漬けになった地下通路を駆け抜けた。
レオンハルトの絶対零度の魔力によって彫像と化した私兵たちが、無残な姿で立ち並んでいる。
血の一滴すら流れていないその光景は、美しくも酷薄な帝国の支配者の力を雄弁に物語っていた。
フク子の正確無比な先導により、厨房の排気ダクトを逆走して屋敷の裏庭へ。
夜会の熱狂に沸く本館の喧騒を背に、闇に紛れて待機させていた漆黒の馬車へと滑り込む。
バタン、と重い扉が閉まり、御者が馬車を静かに発進させた。
ガタゴトと車輪が石畳を叩く規則的な音。
外界の空気と危険から遮断された馬車の密室で、あやはシートに深く背を預け、ようやく長く熱い息を吐き出した。
「……ふう……。なんとか、乗り切ったわね」
胸元に手を当てると、乱れた心拍がまだ激しく波打っている。
だが、生き残った安堵と同じくらい重く、レオンハルトの言葉が脳裏にこびりついて離れなかった。
『お前がどこへ逃げようと、地の果てまで追いつめて俺の手元へ引きずり戻してやる』
耳元を灼くように撫でていった、甘く暴力的な低音。
そして、今なお鼻腔の奥に微かに残る、冷えた夜気に溶け込む甘いベルガモットの芳香――。
(帝都の皇宮からの、正式な召喚状……。あの男は、本気だわ)
社畜時代に培ったリスク管理のセンサーが、過去最大の赤信号を点滅させている。
一介の地方令嬢が、帝国の絶対権力者の執着の標的にされたのだ。逃げ切ることなど、物理的にも政治的にも不可能に近い。
あやが無意識に、口づけを落とされた右手の甲を左手で覆い隠そうとした――その時。
ギシ、と向かいの座席が軋んだ。
「……あや」
低く、押し殺したような掠れ声。
気づいた時には、ルカの逞しい影があやの頭上を覆っていた。
狭い馬車の中で膝をつき、あやの座るシートのすぐ横に両手を突いて、逃げ場を塞ぐように覆い被さってくる。
百七十六センチの鍛え上げられた青年の体躯。
見下ろしてくるスカイブルーの瞳は、夜の闇の中で青白い燐光を宿しているかのように昏く、熱く濁っていた。
「ルカ……?」
あやが息を呑んだ瞬間、ルカの骨ばった大きな手が伸び、あやが隠そうとしていた右手を強引に割り込んで掬い上げた。
手袋を外したルカの指先が、あやの指の隙間へと深く滑り込み、容赦のない力で恋人繋ぎのように絡め取られる。
「あいつの匂い……まだ、消えてない」
ルカの唇が、あやの手の甲へと押し当てられた。
先ほどレオンハルトの唇が落ちた、まさにその同じ場所。
すり潰すように、己の熱と呼吸を何度も擦り付け、皇帝の刻印を剥ぎ取ろうとする切迫した吐息。
「ルカ、やめ――」
「嫌だ」
短く、だが絶対の拒絶を孕んだ大人の男の声。
見上げるルカの瞳には、普段の理知的な従者の余裕など微塵も残っていなかった。
屈辱と、あやを奪われまいとする狂おしい焦燥。
そして、その瞳の奥で――金庫で覚醒しかけた【未知の力】の青い火花が、静かに蠢いている。
「俺は、あやが遠くへ行くのが怖い。あんな皇帝のところへ……あやを連れて行かせたりしない」
ルカはあやの手を己の胸元へと強く押し当てた。
チュニックの上からでも伝わってくる、常軌を逸した心臓の早鐘。
そして、皮膚の奥から漏れ出してくる、こんこんと湧き出る泉のような異様な魔力の脈動。
「見てくれ、あや。俺は……もっと強くなる。あの皇帝の首を跳ね飛ばしてでも、あやの手の届く場所に立つ。……だから、あいつを見ないでくれ」
二十歳の青年が絞り出した、あまりにも生々しい執着と独占の誓い。
雪のような白肌を紅潮させたあやの切れ長の瞳が、揺れる車内でルカの熱い視線と絡み合う。
子爵の不正証拠を手にするために乗り込んだ夜会は無事に幕を閉じた。だがそれは――皇帝と騎士、二人の男の狂おしい執着に呑み込まれる、危険で甘美な嵐の始まりに過ぎなかった。




