第2章:4の皇帝――覇道と凍てる孤高(25)
顎をすくい上げる漆黒の革手袋。
至近距離から注がれるレオンハルトの黄金の双眸には、命の危機など歯牙にもかけない王者の傲岸さと、あやを丸ごと呑み込もうとする甘美な独占欲が渦巻いていた。
だが、あやは眉一つ動かさず、その瞳を冷徹に射抜いた。
耳元を撫でる甘いベルガモットの香りに理性を乱されかける自分を、社畜時代に培った鋼の精神力でねじ伏せる。
「……からかわないでいただけますか、陛下。あと三十秒でここ全体が吹き飛びます」
あやは顎に触れていたレオンハルトの手首を自らの指先でスッと払い除けると、天井の梁に走る亀裂へと視線を跳ね上げた。
漆黒の瞳の奥で、金色の古代文字が目まぐるしく回転する。
《万象読解》が、崩落寸前の術式構造を冷酷なまでに暴き立てていた。
「核は二重構造です。外側の物理信管をルカが断ち切ったことで、内部の熱膨張術式にすべての負荷が集中しています。……今さら力任せに壊せば、その瞬間に誘爆して全員消し炭よ」
「……へえ」
レオンハルトの薄い唇が、愉悦に微かに吊り上がる。
怯える素振りすら見せず、瞬時に事態のボトルネックを特定し、解決策を導き出す知性。
やはり、ただの令嬢などではない。
「どうする? 俺が空間ごとさらに凍らせるか?」
「駄目です。大雑把に凍らせれば、術式の循環が狂ってかえって暴発します。――私の指示通りに動いて」
絶対君主たる皇帝に対し、迷いなく下された「指示」。
あやは一歩も引かず、二人の男へ矢継ぎ早に命じた。
「ルカ! 天井の左隅、魔導核のバイパス回路がある。あそこを刃の切っ先で三ミリだけ抉って、魔力の供給を絞って!」
「……了解!」
ルカは迷わなかった。あやへの絶対の信が、青年の身体を跳ねさせる。
胸の奥で渦巻く【熱い泉】の力を指先へと収束させ、ルカは猫のような跳躍で宙を舞うと、切っ先を天井の極小の術式核へと寸分の狂いもなく突き立てた。
バチッ、と青白い火花が散り、梁の明滅が鈍る。
「次、陛下! 回路が遮断されて術式の熱が中央へ逆流します。そこへ――針の先ほどの極小の氷柱を、中央の術式交差点だけに撃ち込んでください。魔力は最小限、周囲には絶対に広げないで」
「注文が多いな」
レオンハルトは低く喉を鳴らして笑いながらも、その黄金の双眸を怜悧に細めた。
皇帝を顎で使う女など、帝国広しといえどもこの女ただ一人だろう。だが、その生意気なまでの有能さが、レオンハルトの征服欲を狂おしいほどに刺激していた。
レオンハルトが右手をスッと掲げ、人差し指の先だけに、青白い極小の冷気の針を結晶化させる。
大陸最強の魔力制御。
寸分の狂いもなく放たれた氷の針が、天井の核の最深部へと音もなく突き刺さった。
――キィィィン……。
甲高い共鳴音が一度だけ響き、天井に張り巡らされていた赤い自爆の光が、急速に色を失っていく。
プツン、と何かが切れるような小さな音が落ち、地下金庫を揺らしていた微細な振動が完全に停止した。
「……解除、完了」
あやが静かに息を吐き出した瞬間。
ダンッ!
着地したルカが、あやの身体を抱き寄せるようにして背後へと引き戻した。
スカイブルーの瞳を険しく尖らせ、レオンハルトを拒絶するようにその立ち位置を遮る。
「……自爆は止まった。あやに用がないなら、もう消えてくれ」
息を荒らげ、儀礼剣を握り直すルカ。
その剥き出しの敵意を、レオンハルトは気にも留めない様子で一瞥し、冷ややかに鼻を鳴らした。
「吠えるなと言ったはずだ、番犬。……もっとも、あやの指示を寸分違わずこなしたその手並みだけは、少しばかり評価してやるがな」
レオンハルトはあやから奪い取った羊皮紙――血塗られた暗殺計画書を優雅に畳み、己の胸元へと収めた。
そして、ルカの肩越しに、あやの切れ長の瞳を真っ直ぐに射抜く。
「取引は成立だ、あや。お前のその『目』と『頭脳』……俺が直々に買ってやる」
宵闇の蒼黒髪を揺らし、レオンハルトがゆっくりと歩み寄る。
逃げ場を塞ぐようなその足取りに、あやの心臓が再び跳ねた。
「近いうちに、帝都の皇宮から正式な召喚状を送る。……いいか? お前がどこへ逃げようと、地の果てまで追いつめて俺の手元へ引きずり戻してやるから、そのつもりでいろ」
至近距離で落とされる、甘く暴力的な覇王の宣告。
レオンハルトは不敵に唇を吊り上げると、踵を返して氷漬けになった通路へと優雅に歩み去っていった。
背中に残されたのは、凍てつく冷気と、甘いベルガモットのほのかな残り香。
「あやきち! あの男が去った隙に、わたくしたちも脱出しますわよ! 警備の交代が来てしまいますわ!」
フク子の焦った声にハッと我に返ったあやの横で、ルカが悔しげに拳を握り締め、低く掠れた声で呟いた。
「……行かせない。絶対に……あんな奴の元へ、あやを渡すもんか……」
ルカの胸の奥で、先ほど自爆を止めるために解放した【未知の力】の残り火が、あやへの激しい執着と混ざり合い、静かに、だが確実にその形を変え始めていた。




