第2章:4の皇帝――覇道と凍てる孤高(24)
引き寄せられた背中に、硬く熱い胸板の感触が押し当てられる。
周囲の空気が急速に氷点下へと叩き落とされていく中で、レオンハルトの体温と、甘いベルガモットの芳香だけが、あやの感覚を鮮烈に灼きつけていた。
(……この人、本当に戦う気だわ……たった一人で……!)
あやの胸が激しく高鳴る。
百八十八センチの覇王の背中は、見上げるほどに広く、絶望的なまでに頼もしかった。
だが、守られている安堵に浸っている暇はない。
金庫の外から響く重装歩兵たちの足音は数十――子爵が私費で雇い入れた精鋭の私兵部隊だ。いくら皇帝とはいえ、狭い地下通路で四方から魔導兵器を撃ち込まれれば無傷では済まない。
「伏せていろ」
レオンハルトの低く掠れた声が頭上から落ちた瞬間、世界が白銀に染まった。
彼が掲げた右腕から、尋常ならざる魔力の奔流が解き放たれる。
キィィィィン……ッ!
鼓膜を劈くような高周波の共鳴音とともに、金庫の扉から外の通路へ向けて、青白い絶対零度の冷気が津波となって吹き荒れた。
「な、なんだこの冷気は――ぐわあああっ!?」
「ひ、氷が……身体が凍りついて――ッ!」
通路を埋め尽くしていた重装歩兵たちの悲鳴が、一瞬にして凍結する。
金属の鎧も、構えられた魔導銃も、床や天井すらも、すべてが美しい樹氷のように一瞬で凍りつき、純白の彫像へと変えられていく。
血の一滴すら流させず、ただ絶対的な魔力量の差だけで空間ごと敵を無力化する神業。
これが、大陸に二人しかいないSランクの頂点――帝国の若き皇帝の蹂躙だった。
「ひえええっ! なんて乱暴で大人気ない力技ですこと! わたくしの美しい羽が霜焼けしてしまいますわ!」
フク子が悲鳴を上げながらあやの頭上を旋回する。
だが、その圧倒的な光景の最中――あやの【万象読解】が、凍りついた通路の天井の梁に隠された、もう一つの魔導トラップの起動を捉えた。
兵たちを囮にした、子爵の奥の手。
天井を崩落させて侵入者を生き埋めにする、時限式の自爆術式だ。
「陛下、天井です! 術式が反転して――」
あやが叫んだ刹那。
氷結を免れていた梁の魔導核から、巨大な鍾乳石のような岩塊が、レオンハルトの死角である頭上から音もなく滑り落ちた。
「しまっ……!」
レオンハルトが右手の魔力を振り抜いた直後の、わずかな隙。
そこへ――。
「あやから離れろッ!!」
怒号とともに割り込んだのは、ルカだった。
ルカの胸の奥で、再びあの【熱い泉】が狂乱のように脈打った。
あやに降りかかる火の粉を払うためなら、己の肉体がどうなろうと構わないという、獰猛なまでの執念。
常人には視認すら不可能な神速で踏み込んだルカは、青白い闘気を纏わせた儀礼剣を一閃させた。
ズガァァァンッ!!
落ちてきた巨大な岩塊が、まるで豆腐のように綺麗に両断され、粉々の小石となって左右の壁へと弾け飛ぶ。
二十歳の青年の細身の身体から放たれたとは到底信じられない、規格外の破壊力。
着地したルカは荒い息を吐きながら、あやの前に立ち塞がり、背中で庇うようにしてレオンハルトを鋭く睨みつけた。
「……あやに破片一つでも当ててみろ。あんたが皇帝だろうと容赦はしない」
肩で息をするルカの首筋には、熱狂した血が脈打ち、青白い魔力の燐光が微かに燻っている。
その瞳に宿る熱い独占欲と焦燥に、あやの胸がキュッと締め付けられた。
(ルカ……あなた、本当に何者なの……?)
自分の知らないところで、ルカの中で何かが急速に目覚め始めている。
戸惑うあやの前で、レオンハルトは両断された瓦礫を一瞥し、黄金の双眸を面白そうに細めた。
「……ほう。あの岩を魔力刃で断ち切ったか。面白い番犬を飼っているな、あや」
レオンハルトは氷結の魔力を収めると、吐息を白く染めながら、ゆっくりとあやへと歩み寄ってきた。
通路の敵は完全に壊滅し、地下金庫には二人――いや、三人の男と女の張り詰めた熱気だけが渦巻いている。
「天井のトラップを瞬時に見抜いたお前の目といい、この小僧の異常な膂力といい……やはり、ただの男爵家ではないな」
至近距離。
レオンハルトの手が伸び、あやを庇おうと身構えるルカの肩を、絶対的な力で無造作に押し退ける。
そして、逃げ場を失ったあやの顎へと、冷えた革手袋の指先をそっと添えた。
「自爆装置の起動コードまで見えているんだろう? ……どう止める、俺の優秀な外部ブレーン」
試すように、だがどこまでも熱く甘い眼差しで覗き込んでくる皇帝レオンハルト。
その背後で、あやを奪われまいと殺気を滾らせる年下の騎士ルカ。
氷点下の金庫の中で、あやの心臓だけが狂おしいほど激しく脈打っていた。




