第2章:4の皇帝――覇道と凍てる孤高(23)
手の中に収まる腰は、信じられないほど細く、脆かった。
少しでも力を込めれば折れてしまいそうな華奢な身体。
だが――至近距離から俺を射抜くその漆黒の双眸には、いかなる猛者すら持たない鋼の知性と、澄み切った覚悟が宿っていた。
(……この女は、一体何なんだ)
レオンハルトの胸の奥で、経験したことのない激情が渦を巻いていた。
最初は、帝国の防壁を狂わせた危険な特異点として警戒していた。
正体を暴き、首謀者諸共すり潰すための獲物――そのはずだったのだ。
だが、大広間でこの女と目が合った瞬間から、歯車が狂い始めた。
誰にも見せなかった、誰にも暴かれてはならなかった、血と泥に塗れた玉座の孤独。
裏切りと暗殺に怯え、凍てつく鎖で縛り上げていた俺の心臓を、この女はまるで傷ついた迷子を包み込むような眼差しで見透かしてきた。
怒りよりも先に走ったのは、急所を素手で掴まれたかのような激しい戦慄。
そして今――死線に追い詰められたこの地下金庫で、恐怖に泣き叫ぶどころか、不敵に微笑んで俺に『取引』を持ちかけてきたのだ。
帝国の最高情報機関すら掴めなかった、対俺用の呪詛兵器の内部構造。
それを、紙切れを一瞥しただけで解読し、「無力化できる」と言い放った。
(……ただの獲物じゃない)
レオンハルトの唇の端が、無意識に歪む。
幼い頃から、周囲は敵か、媚び諂う豚か、利用価値でしか人を測らない臣下ばかりだった。
誰も俺の本当の姿など見ようとしなかったし、見せる気もなかった。
だが、あやは違う。
俺の深淵を知りながら怯えず、命乞いもせず、一歩も退かずに己の知性と価値を叩きつけてきた。
欲しい。
ただ捕らえて尋問し、檻に閉じ込めるような安っぽい独占欲ではない。
血塗られた玉座で凍りついていた俺の魂を、初めて激しく揺さぶったこの女のすべてを――俺の隣に引きずり下ろし、この手で永遠に囲い込んでしまいたい。
冷徹な皇帝としての理性の裏側で、一人の男としての猛烈な執着と渇望が、紅蓮の炎となって燃え上がっていた。
「……フフ」
思わず喉から漏れた笑みは、酷薄な覇王のものではなく、運命の獲物を前にした一人の雄のそれだった。
そこへ、通気口から白銀の使い魔のけたたましい警告が落ちてきた。
子爵の私兵どもが、地下通路を完全包囲しただと?
「あやきち! お喋りはそこまでですことよ!!」
「……チッ、ネズミどもが群がりやがって」
レオンハルトは小さく舌打ちを落とすと、あやの顎に添えていた革手袋の指を、名残惜しそうに滑らせて離した。
だが、その腰を抱き寄せる左腕の力だけは、僅かも緩めない。
「あや……っ! 離れろ、今すぐそこから退くんだ!」
背後で、番犬――ルカがスカイブルーの瞳を血走らせ、剣を構えて突進してくる気配がした。
若いくせに、あの少年から放たれる青白い闘気は尋常ではない。
あやを奪われまいとする必死の形相。
普段なら目障りな虫として一瞬で首を撥ね飛ばしているところだが、今のレオンハルトには、その焦燥すら心地よい余興に思えた。
(吠えるな、小僧。この女は――最初からお前の手の届く器じゃない)
あやの涼やかな切れ長の瞳が、外から迫る足音に微かに緊張を帯びる。
逃げ場のない包囲網。
普通の女ならパニックに陥る状況で、あやは依然として冷徹に活路を探していた。
その凛々しさが、たまらなく愛おしく、そして誇らしい。
「あや、と言ったな」
レオンハルトは低く、甘く掠れたバリトンをあやの耳元へと落とした。
公の場の『余』など、もう二度とこの女の前で使う気は起きなかった。
「お前の取引、乗ってやるよ」
「……え?」
あやが驚きに長い黒睫毛を跳ね上げる。
レオンハルトは不敵な笑みを浮かべ、あやの身体を己の背後へと庇うように引き寄せた。
「俺の暗殺を防ぐ外部ブレーンか。悪くない。……だが、勘違いするなよ? 俺はお前を、どこへも逃がす気はない」
百八十八センチの偉背が、あやの頭上を完全に覆い尽くす。
レオンハルトは右手を虚空へと掲げた。
その瞬間、地下金庫の湿った空気が一瞬で氷点下へと叩き落とされ、宵闇の蒼黒髪が絶対零度の魔力によって逆巻いた。
「俺の寝室へ連れて行く約束は、後回しにしてやる。……まずは、このうるさい羽虫どもを片付けてからだ」
冷えた夜気に溶け込む甘いベルガモットの香りと共に、皇帝レオンハルトの、真の蹂躙が始まろうとしていた。




