第2章:4の皇帝――覇道と凍てる孤高(21)
地下金庫の冷たい空気が、さらに何段階も凍りついた。
出口を完全に塞ぐように立つ百八十八センチの偉背。
冷えた夜気に溶け込む甘いベルガモットの香りが、逃げ場のない密室に濃密に充満していく。
「一介の男爵令嬢が、なぜこんな真似を? ……いや、今はそんなことより」
レオンハルトの黄金の双眸が、あやの震える手の中にある羊皮紙――血のような赤蝋の封が切られた暗殺計画書へと注がれた。
「俺の獲物を横取りするとは、いい度胸だな、お前たち」
低く、絶対的な支配力を孕んだ男の声音。
その言葉に、あやの脳内で散らばっていた点と点が、一本の線として雷のように繋がった。
(獲物……そうか。この人は最初から、子爵の反逆を知っていたんだわ……!)
皇帝がわざわざこんな辺境の夜会に足を運んだ理由。それはただの視察などではない。
自ら囮となって大広間で首謀者たちの目を引きつけ、その隙に己の手で決定的な反逆の証拠を回収し、根絶やしにするための苛烈な粛清作戦だったのだ。
「あやきち、下がって! この男、ヤバいですわ……!」
フク子が全身の羽を逆立て、威嚇するように鋭く鳴く。
「……そこを一歩でも動いてみろ。皇帝だろうが、その首叩き斬るぞ」
ルカが一歩前へ踏み出し、抜刀した儀礼剣の切っ先をレオンハルトの喉元へと突きつけた。
二十歳の青年の全身から立ち上る、青白い凄まじい闘気。
先ほどゴーレムを粉砕した【未知の力】の余韻が、ルカのスカイブルーの瞳を危険な獣のように発光させている。
だが、レオンハルトはその切っ先を前にして、ひくりとも眉を動かさなかった。
「……キャンキャン吠えるなよ、犬っころ。俺の用があるのは、その後ろの女だ」
ドッ……!!
レオンハルトの全身から、大陸最強のSランクたる絶対零度の覇気が放たれた。
物理的な質量すら伴う暴力的なまでの威圧。
空気が軋み、金庫の壁に亀裂が走る。普通の騎士ならば白目を剥いて泡を吹くほどの重圧に、ルカの骨がメシリと悲鳴を上げた。
「ぐっ……!!」
だが、ルカは倒れなかった。
胸の奥から湧き上がる灼熱の泉――あやを奪われることへの根源的な恐怖と執着が、皇帝の冷徹な覇気と真っ向から衝突し、ギリギリのところでその威圧を弾き返したのだ。
剣を握るルカの手は微塵もブレていない。
「……ほう?」
レオンハルトの黄金の瞳に、初めて微かな驚きが過る。
ただの護衛騎士ではない。この若き獣の中には、未覚醒の『何か』が眠っている。
(これ以上は駄目だわ……ルカが殺される……!)
両者の殺気が限界点に達し、ルカが命を捨てて斬りかかろうとした、その刹那。
「剣を下ろして、ルカ!!」
あやの凛とした声が、地下金庫に響き渡った。
あやはルカの背中から進み出ると、彼が構える剣の峰を素手でグッと押し下げた。
「あや……っ! 何を……!」
「いいから。あなたは私を守るためにここにいるのよ。無駄死には許さないわ」
あやの強い意志を宿した漆黒の瞳に見つめられ、ルカは歯を食いしばりながらも、ギリリと音を立てて剣を下ろした。
あやの言葉だけは絶対に逆らえないという、痛切なまでの忠誠。
その光景を、レオンハルトは酷薄な笑みを浮かべて見下ろしていた。
「賢明な判断だ。……で? お前はどう落とし前をつける気だ、あや」
レオンハルトが、ゆったりとした足取りであやとの距離を詰める。
一歩、また一歩。
靴音が響くたびにあやの鼓動は跳ね上がり、背中が冷たい金庫の壁へと追いつめられた。
「逃げられると思うな。お前は俺の深淵を覗き、そして今度は、帝国の最も黒い機密(暗殺計画)を開いてしまった」
至近距離。
百八十八センチの体躯が、あやの視界を完全に塞ぐ。
レオンハルトは漆黒の手袋に包まれた大きな手を伸ばし、あやが胸元に抱え込んでいた羊皮紙を、その白く細い指ごと強引に握り込んだ。
「あっ……」
「……このまま生かして返すわけにはいかないな。共謀者として今すぐここで首を刎ねるか。それとも――」
レオンハルトは羊皮紙を奪い取ると同時に、空いたもう片方の腕であやの細い腰をぐっと引き寄せた。
ルカの目の前で、見せつけるかのように。
「……俺の城へ連れて帰り、お前のその得体の知れない正体を、俺の寝室で一から十まで丸裸に暴いてやるか」
冷えたベルガモットの香りが、あやの鼻腔を甘く侵食する。
耳元で囁かれた、絶対者の独占欲と危険な色香に満ちた脅迫。
あやの瞳孔が開き、ルカが「貴様ぁっ!!」と血を吐くような絶叫を上げた。




