第7話 麓に広がる異変
「引き返します」
先生の声が、回廊に響いた。
広間の底の暗がりで、胸の光が、まだ一つ、また一つと増えていた。大魔石が脈打つたびに、その数が増える。
「先生——」
「引き返すときは、わたしが決める。そう約束しましたね」
先生は、もう回廊の先を見ていた。
「来た階段は使いません。上から、新しいものが下りてくるかもしれない。あの崩れた斜面を登ります。日の光が見えた、あそこです」
カイエルがうなずいて、先に立った。
崩れた壁の穴をくぐると、瓦礫の斜面が、上へ向かって続いていた。足を置くたびに、小石がからからと転がり落ちていく。カイエルが、一歩ずつ足場を踏み固めた。私は先生の後ろについて、片腕の先生の腰を支えた。
斜面は、思ったより長かった。上の白い光が、少しずつ大きくなる。風が冷たくなり、それから、乾いた外の匂いに変わった。
這うようにして、外へ出た。
夕方だった。
出たところは、扉の棚の左手、岩魔たちが這いだしてきたあの裂け目の、上の縁だった。おととい、ここから三体の岩魔が出てきた。
そして、いまも。
裂け目の、ずっと下のほうから、何かが出てきていた。
一つ。二つ。五つ。数えるのをやめたくなるほどだった。岩と鈍い金属でできた体。胸の赤い光。
裂け目の奥が、赤く明滅していた。明るくなる。暗くなる。あの大魔石と、同じ拍子で。
その拍子に合わせて、這いだす岩魔たちの動きが、速くなり、鈍った。
外でも、同じだった。
群れは、崩れた斜面を、ゆっくりと下りはじめた。空になった村のほうへ。その先の、東の谷のほうへ。
「先に、谷へ」
私は言った。
三人で、崩れた斜面の東の縁を、群れより先に下りた。岩魔の足は遅い。けれど、止まらない。
*
谷に着いたのは、日が尾根に沈むころだった。
窪地の入り口に、見慣れない馬が三頭、つながれていた。
そのそばに、男が立っていた。旅装の上に、ラーデンの紋の入った胸当て。私の顔を見ると、男は大股に近づいてきて、片膝をついた。
「若様」
「……ベルク」
父の騎士だった。私が木剣を握りはじめたころから、中庭で稽古の相手をしてくれた男だ。
「ご無事で」
ベルクの後ろに、麓の町へ走らせた村の若い者がいた。ロッドも、ガラムもいた。
「お屋形様のご命令で参りました」
ベルクは、懐から、封をした手紙を出した。
「ちょうど若様がたがこの村に着かれたころ、ノーリアスの山がまた鳴ったという知らせが、領に届きました。お屋形様は、その日のうちに、わたしをお出しになった。麓の町で、この若い者と行きあいまして」
四日かけて、ここまで来たのだ。
ベルクは、もう一枚、別の紙を広げてみせた。私がロッドに預けた、父あての書きつけだった。
「これも、読ませていただきました」
ベルクの目が、先生の縛られた腕へ行き、それから、私の包帯の手へ行った。
私は、封を切った。
父の字だった。太くて、角張った字。
——山がまた鳴ったと聞いた。すぐに戻れ。調べは外から見るまでと申しつけたこと、忘れるな。
それだけだった。
けれど、最後の一行だけ、字がわずかに乱れていた。筆を止めて、また書きはじめたような、かすかな揺れがあった。
手紙のあいだから、小さな紙片が、ひらりと落ちた。
拾いあげると、細い、几帳面な字が並んでいた。リセルの字だった。
——兄さまが夜に読んでいた本、続きのところに栞をはさんでおきました。誰にも言っていません。早く帰ってきて、続きを読んでください。
私は、紙片を握った。
夜に、ひとりで本を読む私を知っているのは、リセルだけだ。
*
「若様。お連れするのが、わたしの役目です」
ベルクが言った。
私は、谷の窪地を見た。
焚き火のまわりに、村の人たちがいた。毛布にくるまった年寄り。赤ん坊を抱いた母親。ティモと、ティモの祖母。
それから、振りかえって、山を見た。
暗くなりはじめた山腹で、裂け目が、赤く明滅していた。あの拍子で。その下を、胸の光が、点々と、こちらへ下りてくる。
夜のうちに村を過ぎて、明日の朝には、この谷まで来る。
「ベルク」
私は、言った。
「村の人たちを、麓の町まで下ろしてくれ。いまから。夜のうちに」
「若様」
「馬は、年寄りと、赤ん坊のいる母親に。ガラム、谷の道を、いちばん速く下りられるのは?」
ガラムが、目を見開いて、それから、低く答えた。
「……沢沿いの道だ。こいつが、いま町から上ってきたばかりの道だ」
ガラムは、麓の町へ走らせた若い者の肩を叩いた。若い者が、うなずいた。
「では、その道で。案内を頼む。灯りには覆いをかけて、足もとだけ照らしてくれ。谷の焚き火は、出るときに全部消していく。あれは、明かりに寄ってくる」
ベルクが、立ちあがった。
「若様は、どうなさるのです」
「残る」
ベルクの顔が、こわばった。
「お屋形様のご命令は——」
「分かっている」
私は、荷から紙と炭を出して、膝の上で、父への返事を書いた。
——山の岩魔が、村と谷へ下りてきています。村の者を麓の町へ下ろします。私は残って、あれを止める手立てを探します。父上の命に背くのは、私です。ベルクにも、先生にも、咎はありません。アキトス。
書いた紙を、たたんで、ベルクに差しだした。
「これを、父上に。……ラーデンの跡継ぎとして、命じる。村の人たちを、無事に町まで連れていってくれ」
ベルクは、紙を受けとらなかった。
「お屋形様のご命令は、若様をお連れすることです。……せめて、わたしだけでも残らせてください。村の者には、ロッド殿とこの若い者がつけば」
「年寄りと赤ん坊が、夜の沢を下りるんだ」
私は、ベルクの目を見た。
「途中で岩魔に出くわしたら、ロッドひとりでは守りきれない。剣を使える者が、あの人たちのそばにいなければいけない。それは、ベルク、お前にしか頼めない」
ベルクは、長いあいだ、私の顔を見ていた。
それから、紙を受けとって、深く頭を下げた。
「……必ず。そして、すぐに戻ります」
ガラムが、一歩前に出た。
「わしは残る。若様ひとりに、火の番はさせられねえ」
ガラムの後ろで、村の男が三人、黙ってうなずいた。
先生も、言った。
「わたしも残ります」
「先生は、その腕で——」
「見届けるのが、わたしの責任です」
先生は、静かに続けた。
「それに、あの大広間から裂け目までの道を、いちばんよく覚えているのは、わたしです。絵と形を見くらべて、どこに何があるかを頭に入れてきました。あなたがあの石のところへ行くなら、道案内が要る。あなたが手を離せないあいだ、脈と岩魔を見て、知らせる者も要るでしょう」
カイエルは、何も言わなかった。けれど、ベルクの馬のほうへは、行かなかった。
ティモが、祖母の手を引いて、馬のところへ来た。私を見上げた。
「また、知らせに……」
私が言いかけると、ティモのほうが、先に言った。
「知らせに来てね。町まで」
私は、笑ってうなずいた。
「町まで行く。約束だ」
*
村の人たちが沢沿いの道へ消えていくのを見送ってから、私たちは、谷の西側の尾根に登った。
村の人たちが下りていった沢とは、反対の方角だった。
岩魔は、火と人のいる場所へ寄ってくる。おととい、消し忘れた竈の煙のほうへ下りていった。灯りの魔道具を、どこまでも追った。
だったら、火で、呼べる。
尾根の上に、ガラムたちが運んできた薪を積んだ。
「カイエルの乗ってきたものを、近づけたらどうですか?」
ガラムが聞いた。岩魔が空の光に向きを変えた話を、私から聞いていたのだ。
カイエルは、首を横に振った。
「あれに寄ってくるのは、大きなものだけだ。小さな群れは、見向きもしない。……火のほうが、多くを引ける」
私は、薪の山を見た。
「まず、一つだけ」
私は言った。
火打ち石を打った。乾いた枝に、火が移った。炎が、夜の尾根に、ぽつんと立ちあがった。
全員で、伏せて、下を見た。
崩れた斜面を下りてくる胸の光の列。その先頭が、村の手前で、止まった。
ゆっくりと、向きを変えた。
村ではなく、こちらへ。尾根の火のほうへ。
二つめの光も、三つめも、それに続いた。
「……来た」
ガラムが、息を吐いた。
「よし。増やします」
尾根に沿って、間をあけて、薪の山を並べた。一つ、また一つと火をつけていく。村の人たちが下りていった沢から、できるだけ遠ざけるように。尾根の西へ、西へ。
火を全部つけ終えたところで、私はガラムに言った。
「ガラムたちは、ここまでです。尾根の東の端から、山羊道で谷の道へ下りてください。沢の曲がり角で待っていてください」
「若様は」
「火を見ています。西から三つめの火が消えたら、私たちも下ります。……もしかしたら、もう一度、山へ入るかもしれない。夜明けまでに私たちが曲がり角に来なかったら、待たずに町へ下りて、ベルクにそう伝えてください」
ガラムは、何か言いかけて、口を閉じた。代わりに、私の肩を、分厚い手でつかんだ。
「……夜明けまでだぞ」
ガラムたちが、尾根の東の暗がりに消えていった。
*
尾根の、いちばん東の火のそばに、三人で座った。
下の斜面で、胸の光の列が、火のほうへ、ゆっくりと登ってきていた。
私は、先生を見た。
ずっと、聞かずにきたことがあった。
「先生」
「はい」
「先生は、知っていたんですか? あの扉が、私の手で開くかもしれないって」
先生は、火を見ていた。
長い沈黙のあとで、先生は言った。
「……知っていた、とは言えません。思っていた、です」
先生は、膝の上の曲がった鉄棒に、手を置いた。
「あなたが書庫で、あの綴りを見つけたのは、あなた自身の手柄です。けれど、わたしは、それよりずっと前に、同じ紙を読んでいました。お屋形様のお許しをいただいて、書庫の古い記録を調べていたころです。火の山の戸。鍵は家に。……それが、あなたの首の守り袋のことかもしれない、と」
私は、黙って聞いた。
「あなたが書庫からあの紙を写しはじめたと気づいたとき。ノーリアスの山で遺構が出たという噂が聞こえてきたとき。わたしは、確かめたいと思いました。学者として。……この旅を、お屋形様に申し出たのは、わたしです」
先生の声が、少しだけ揺れた。
「確信は、ありませんでした。言えば、お屋形様は止められたでしょう。あなたにも、言いませんでした。言えば、あなたは、止まらないと思ったから」
先生は、顔を上げた。
「岩魔のことは、知りませんでした。それは、誓って。……けれど、開いた扉の先へ進めたのは、お父上の許しを越えた、わたしの判断です。その責は、わたしが負います」
火が、ぱちりとはぜた。
私は、何も言えなかった。
怒りは、なかった。ただ、胸の底が、すうっと冷えていくような気がした。先生は、ずっと知っていたのだ。少なくとも、思っていた。四日の旅のあいだ。扉の前で、一刻、取っ手と格闘していたときも。私が手をかけて、扉が開いたときも。
あのとき、先生は、私の顔と、胸もとと、開いた扉とを、順に見た。何かを言いかけて、口を閉じた。
あれは、驚きではなかったのだ。
私は、火を見た。長いあいだ、見ていた。
それから、先生の、縛られた左腕を見た。あの岩を、私の前に立って受けた腕だ。
「……先生」
「はい」
「次からは、先に言ってください」
先生は、目を見開いた。
「言われても、私はたぶん止まりません。でも、知っていて止まらないのと、知らないで止まらないのとは、違うと思うんです」
先生は、しばらく何も言わなかった。
やがて、深く、頭を下げた。
「……はい。次からは」
カイエルが、火の向こうで、小さく息をついた。
*
夜が更けた。
尾根の下まで、胸の光の列が登ってきていた。数は、さっきより増えていた。
遠くの山腹で、裂け目が、赤く明滅していた。尾根の火に寄ってくる岩魔たちの胸も、同じ拍子で、明るくなり、暗くなった。
あの大きな石が、こいつらを動かしている。
私は、包帯の左手を見下ろした。
あの日、岩魔の胸の石をつかんだ。何かが、手のひらから流れこんできた。石は、灰色になって、崩れた。
もちろん、あのときは、炎でも焼いた。吸っただけで止まったのかどうかは、分からない。
でも、もし。
「カイエル」
私は、言った。
「あの大きな石の力を、私の手で抜いたら、岩魔は止まるんでしょうか?」
カイエルが、私を見た。
「あの日、小さな石の力を吸ったら、石は灰色になりました。あいつらは、あの大きな石の拍子で動いている。だったら、大きな石の力を抜けば——」
言いながら、自分でも分かっていた。
「分かりません。ただの、思いつきです。小さいのを倒したときは、炎も使った。吸っただけで止まったのか、確かめてもいない」
カイエルは、否定しなかった。
請け合いもしなかった。
「あれほどの石に、素手で触れた者がどうなるか」
カイエルは、低く言った。
「私も、知らない」
欠片を持ち帰るつもりだった石だ。カイエルは、そのことには何も触れなかった。
そのとき、尾根の西の端の火が、消えた。
岩魔に、踏み消されたのだ。
すぐに、隣の火も消えた。そして、三つめも。胸の光が、火のあった場所に群がり、それから、次の火へ向かって、尾根を登ってくる。
火に寄ってくる。けれど、数が多すぎる。朝まで、もたない。
火が尽きたら、群れは、また別の火と人のいる場所を探す。沢沿いの道を下りていった、村の人たちのほうへ。
私は、立ちあがった。
遠くの山腹の、赤い明滅を見上げた。
確かめる方法は、一つしかなかった。
「行きます」
声は、思ったより落ちついていた。
「あの石のところへ」




