第8話 魔石の王
尾根を下りる前に、薪の束を縛っていた縄をほどいて、肩にかけた。
長い縄だった。ガラムたちが、谷から薪を運びあげるのに使ったものだ。崩れた斜面をもう一度登ることになるなら、要るかもしれない。手がまだ動くうちに、片方の端を、人の胴が入るほどの輪に結んでおいた。
夜明け前の山腹は、赤く明滅していた。
崩れた斜面の裂け目からは、まだ岩魔が這いだしていた。尾根の火のほうへ、列になって下りていく。あの瓦礫の斜面は、群れの通り道になっていた。
「正面から入ります」
先生が言った。
「扉から、丸い部屋、階段、大扉。わたしが道を言います」
私たちは、群れの列から離れた東の縁を登って、扉の棚へ出た。
扉を開けた。
赤い明滅の通路を抜け、丸い部屋の蓋を開け、鉄の階段を下りた。カイエルが先に、先生が真ん中、私が最後。
途中の踊り場で、先生が足を止めた。
「上に、一つ」
縦穴の上のほうで、胸の光が一つ、階段を下りてきていた。
先生は、腰に吊るした灯りの覆いを外し、踊り場の脇の横穴へ、床をすべらせるように押しやった。胸の光は、階段の途中で向きを変え、横穴のほうへ身を乗りだした。
「行きましょう。灯りは、あれにくれてやります」
縦穴の底で、大扉の丸い板に手を当てた。縁の灯りが、一つずつともっていく。二度めだ。数えなくても、胸の熱で、あとどのくらいか分かった。
六十。扉が開いた。
回廊に出て、数歩進んだところで、背後で、かすかな音がした。
振りかえると、大扉の縁の灯りが、ひとつ、またひとつと、消えていくところだった。
全部消えると、扉は、音もなく閉じた。
「……ひとりでに」
先生が、つぶやいた。この前は、開けたまま、瓦礫の斜面から外へ出た。閉じるところは、見ていなかった。
私は、閉じた大扉の内側の丸い板に、手を当てた。守り袋が熱くなり、縁の灯りが、ぽっと一つともった。
手を離すと、灯りは消えた。内からも、開けられる。
*
大広間は、赤かった。
底の大魔石が、これまでよりずっと速く、強く脈打っていた。脈打つたびに、広間全体が、心臓の中にいるように赤く染まる。
床の裂け目からは、岩魔が、次々に這いあがっていた。
そして、その裂け目のさらに奥から、ひときわ大きな光が、ゆっくりと上がってきていた。
胸の光だった。
これまで見たどれよりも、大きい。人の頭どころではない。荷車の車輪ほどもあった。
「……一番、深くで眠っていたものだ」
カイエルが、低く言った。
「あれが外へ出れば、尾根の火も、谷も、町も、関係ない。まっすぐ、空の光を探す。私の乗ってきたものを」
カイエルは、回廊の手すりから、広間の高いところを見上げた。
回廊よりずっと上、広間の壁の天井近くに、大きな崩れ口があった。この前来たときには、なかった。ゆうべからの揺れで、新しく崩れたのだろう。回廊の床にも、崩れたばかりの岩のかけらが散らばっていた。崩れ口から、夜明け前の、北の空が見えていた。
「あれを、北へ引きだす。村からも、谷からも、遠いほうへ」
カイエルは、私を見た。
「欠片を持ち帰るのは、あとでいい」
少し間を置いて、言った。
「……あとがなくても、いい」
私は、何か言おうとした。
カイエルは、首を横に振った。
「君は、君の考えを確かめなさい。私は、あれを君たちから遠ざける。それが、いまの私の用だ」
カイエルは、手すりに足をかけた。外套を、大きく広げた。
そのまま、宙へ飛んだ。
外套が翼のようにはためいて、カイエルの体は、広間の赤い光の中を、まっすぐ上へ昇っていった。天井近くの崩れ口のところで、一度止まった。
カイエルは、手にした細い棒を、北の空へ向けて掲げた。棒の先で、青白い光が、三度、短く瞬いた。
崩れ口の向こうの、夜明け前の空の高いところで、銀色の光が、ひとつ、応えるように瞬いた。それから、ゆっくりと、低く下りてきた。
カイエルは、崩れ口をくぐって、北の空へ消えた。
*
壁沿いの石段を、私はひとりで下りた。
先生は、回廊に残った。
回廊からなら、底の大魔石も、床の裂け目も、這いあがる岩魔たちも、全部見える。先生は手すりにもたれて、私に向かって、うなずいた。
「脈と、岩魔の動きを、声で知らせます。あなたは、石だけを見ていなさい」
石段は、長かった。下りるにつれて、熱くなった。大魔石の脈が、耳の奥で鳴っていた。
台座の上に、大魔石は、斜めに突きたっていた。
近くで見ると、家どころではなかった。私の背丈の、十倍はある結晶の壁だった。表面の奥で、赤い光が、渦を巻くように動いていた。
台座の右手には、床の裂け目が、深く口を開けていた。底は見えなかった。のぞきこんで、目を凝らした。胸の光は、一つも見えなかった。この裂け目からは、何も這いあがってきていない。
私は、考えた。
あの日、小さな石を吸ったとき、体の中が燃えて、出口を探して暴れた。私はそれを、火の術にした。
この石の力を吸ったら、あのときの何十倍、何百倍が流れこんでくる。体の中に、溜めておけるはずがない。
流す先が、要る。
先生のいる回廊は、左の上。瓦礫の斜面の崩れた壁も、左手の、回廊の先だ。
右の裂け目なら、底が見えないほど深い。胸の光もない。誰も、いない。
私は、裂け目の縁に立った。右手を、裂け目の底へ向けた。
それから、包帯の左手を、大魔石の表面に当てた。
*
熱い。
そう思う暇も、なかった。
手のひらから、煮えた湯が、ではなかった。溶けた鉄が、腕の中へ流れこんできた。焼けた左手の傷が、内側から裂けるように痛んだ。肘を越え、肩を越え、胸の真ん中へ、なだれこんでくる。
息が、できなかった。
胸の中で、それが、出口を探して暴れた。
——火だ。
私は、それを、知っている形に押しこんだ。手のひらに、小さな火をともすだけの術。いちばん初めに教わった術。
右手から、炎が、噴きだした。
白かった。白すぎて、目を開けていられないほどだった。炎は、太い柱になって、裂け目の底へ、まっすぐ落ちていった。裂け目の壁が、白く照らされ、ずっと下で、炎が岩に当たって砕ける音が、遠い雷のように響いた。
「炎に、寄ってきます!」
先生の声が、上から降ってきた。床のほかの裂け目から這いあがった岩魔たちが、白い炎のほうへ、向きを変えていた。
それでも、流れこんでくるほうが、多かった。
膝が、震えた。左手を、離したかった。離せば、終わる。この熱も、痛みも。
「アキトス様!」
頭の上から、先生の声が降ってきた。
「脈が、弱まっています! さっきより、間が長い!」
私は、歯を食いしばった。
効いている。
「炎へ寄ってくる岩魔が——鈍った! 足が、遅くなっています!」
だから、離さない。
左手を、さらに強く押しつけた。右手の炎を、細く、長く、裂け目の底へ流しつづけた。
どれくらい、そうしていたのか、分からない。
体の中を、川が流れていた。左の手のひらから入って、胸を通って、右の手のひらから出ていく、熱い川。そのあいだにある私の体は、その川の、ただの通り道だった。
何度も、目の前が白くなった。そのたびに、先生の声が、私を引きもどした。
「脈が、また弱まりました!」
「下の岩魔が、止まりかけています!」
「アキトス様、聞こえますか! 効いています!」
聞こえていた。答える力が、なかった。
私は、大魔石を見上げた。
赤が、端から、変わりはじめていた。
灰色に。
台座に近いところから、上へ、上へと、灰色がにじんでいく。中で渦を巻いていた赤い光が、少しずつ、少しずつ、追いつめられていく。
脈が、間遠になった。
ど……くん。
…………ど……くん。
………………。
「止まった……」
先生の声が、震えていた。
「裂け目の縁の岩魔が、止まりました。光が、消えていく。一つずつ……みんな、体を丸めて……」
先生の声が、途切れた。
「……眠っています」
最後の赤い光が、大魔石のてっぺんで、ふっと消えた。
流れこんでくるものが、止まった。
右手の炎が、細くなって、消えた。
私は、大魔石から、左手を離そうとした。
手のひらが、石に張りついていた。ゆっくりと、はがした。
灰色になった大魔石の表面に、ひびが走った。ぴしり、ぴしりと音を立てて、ひびは上へ広がっていき、灰色のかけらが、ぱらぱらと台座の上に落ちてきた。
私は、自分の左手を見た。
包帯は、焼けて、なくなっていた。手のひらに、痕があった。火傷の痕ではなかった。細い線が、枝分かれしながら、手のひらいっぱいに広がっている。さっきまで、大魔石の奥で脈打っていた光の筋と、同じ形だった。
指でこすっても、消えなかった。
そのとき、胸もとで、小さな音がした。
ぱきん。
私は、守り袋を握った。
布の上からでも、分かった。中の小さな魔石が、二つに割れていた。
*
天井近くの崩れ口から、夜明けの白い光が、斜めに差しこみはじめていた。赤い光の消えた広間の、石段の足もとを、その光が照らしていた。
石段を登りきると、先生が、回廊の手すりにすがって、私を待っていた。
先生は、私の左手を見て、それから、胸もとを握った私の右手を見た。
「……守り袋が」
「割れました」
私は、大扉へ歩いた。
丸い板に、手を当てた。
守り袋は、冷たかった。
縁の灯りは、一つも、ともらなかった。
手のひらを、押しつけた。待った。何も起きなかった。来るときに確かめたのと、同じ板だった。あのときは、すぐに一つめがともった。
大扉は、もう、私に応えなかった。
鉄の階段の道は、閉ざされた。
「瓦礫の斜面です」
先生が言った。
「いまなら、群れは止まっています。あの斜面を、もう一度登ります。道は、わたしが覚えています」
回廊の先の、崩れた壁へ向かった。
瓦礫の斜面の上に、日の光が、白く見えていた。夜明けだった。
斜面のあちこちに、岩魔が転がっていた。
どれも、体を丸めていた。胸の光は、消えていた。這いあがる途中で、そのまま眠ってしまったように。
私は、その一つのそばで、足を止めた。
岩の背中に、そっと、指の背を当てた。
こつ。こつ。こつ。
三つ、触れた。
返事は、なかった。
岩魔は、丸まったまま、動かなかった。
眠っている。
私は、しばらく、その岩の背中に手を置いていた。
「……おやすみなさい」
口の中で、そう言ってから、手を離した。
*
斜面は、来たときよりも、崩れていた。
大魔石が脈を止めたときの揺れで、足場がゆるんでいる。私の両手は、もう、まともに物をつかめなかった。左手は痕が焼けつき、右手は炎を流しつづけて、指が震えていた。
「縄を」
先生が言った。
私は、肩の縄をおろした。
先に、私が登った。手ではなく、肘と膝で這った。斜面の途中に、ひときわ大きな岩魔が、腕を投げだしたまま眠っていた。その太い腕は、瓦礫に深く埋まって、びくともしなかった。
私は、輪にしておいた縄の端を持って、先生のところまで滑りおりた。
先生は、輪を頭からくぐり、折れていない右腕の脇の下にかけた。
「足で登ってください。私が、たるみを取ります」
私は、また岩魔の腕のところまで登り、縄を、その太い腕に一巻きだけかけて、自分の腰に回した。肘で、縄を腰に押さえつける。
「右足、その平たい岩です」
先生が、自分で足場を言いながら、登ってきた。
「次は、左。……黒い岩は、ゆるい。避けます」
先生が一歩登るたびに、私は、体ごと一歩後ろへ下がって、たるんだ分を取った。岩魔の腕にかけた一巻きが、こすれて、低く鳴った。
斜面が、ずるりと流れた。
「止まって!」
先生が、岩魔の陰に身を寄せた。私も、腰の縄を張ったまま、岩魔の背に体を押しつけた。小石と土が、私たちの横を、音を立てて流れ落ちていった。
眠った岩魔の体が、私たちの盾になった。
流れがやんだ。
「……行けます」
先生が、また一歩、登った。
同じことを、何度も繰りかえした。岩魔の腕から、次の岩魔の腕へ。縄をかけなおしては、腰で支え、先生が足で登る。
日の光が、大きくなった。
最後の一歩を、先生が踏んだ。私は、縄を引くのではなく、先生の右腕を、自分の肩で受けた。
二人で、裂け目の縁から、外へ転がりでた。
朝だった。
晩夏の、濃い青い空が、頭の上に広がっていた。
*
棚の上で座りこんでいると、空から、カイエルが降りてきた。
外套の裾が、ところどころ焦げていた。
「山の北側で、止まった」
カイエルは、言った。
「あれは、私の乗ってきたものを追って、山の北の肩まで這いあがった。……そこで、急に、胸の光が消えた。そのまま、体を丸めて、動かなくなった。いまは、山の肩で、ほかのものと同じように眠っている」
カイエルは、私の左手を見た。手のひらに広がる、光の筋の形の痕を。
長いあいだ、黙って見ていた。
それから、小さく、うなずいた。
私は、懐から、灰色のかけらを一つ出した。大魔石の台座に落ちていたものを、一つだけ拾ってきていた。
「これ。……持ち帰るつもりだったものの、代わりになりませんか?」
カイエルは、かけらを受けとって、手のひらに載せた。日の光にかざした。灰色のかけらは、何の光も返さなかった。
「求めていたのは、力の残る欠片だった」
カイエルは、静かに言った。
「もう、それはない」
かけらを、私の手に返した。
「……それでいい。持ち帰るものはなくなったが、村の人たちも、君も、失わずにすんだ」
*
沢の曲がり角には、誰もいなかった。
地面に、炭で、大きな矢印が描いてあった。町のほうを指していた。ガラムの字で、その横に、「夜明けまで待った。町にいる」とあった。
私たちは、沢沿いの道を下りた。カイエルは、町の外れまでついてきて、そこで足を止めた。
町の入り口で、馬に乗った男たちとすれちがいかけた。先頭の男が、私を見て、馬から飛びおりた。
「若様!」
ベルクだった。村の人たちを町に送り届け、年寄りを宿に落ち着かせて、ようやく山へ発つところだったのだ。
その後ろから、小さな影が、走ってきた。
「お兄ちゃん!」
ティモだった。
私は、膝をついた。膝が笑って、そのまま座りこみそうになった。
「知らせに来たよ。町まで」
ティモは、息を切らしながら、私の顔を見た。
「……岩魔は?」
「止まった」
私は、言った。
「山の中に、大きな石があった。あいつらは、その石の力で動いていた。だから、その石の力を、抜いた。そうしたら、岩魔は、止まった。みんな、眠った」
ティモの目が、まんまるになった。
「でも、山がもう崩れないかどうかは、まだ分からない。村に帰っていいかは、大人たちが確かめてからだ。……それまで、もう少しだけ、ここで待っていてくれ」
ティモは、うなずいた。それから、私の左手に目をとめた。
「それ、なに?」
手のひらの、光の筋の形の痕。
「大きな石に、手を当てたんだ」
ティモは、その痕を、じっと見ていた。
「……魔石の、王さまみたい」
ぽつりと、そう言った。
ベルクが、私の両手と、先生の腕を見て、顔をしかめた。
「すぐに、医者を呼びます。……若様、明朝には、お発ちいただきます。お屋形様が待っておられる」
今度は、私も、うなずいた。
*
その日のうちに、噂は、町じゅうに広がった。
始まりは、ティモだった。ティモは、町の子どもたちに、話したのだ。山の中の大きな光る石に、若様が手を当てて、力を抜いたら、岩魔がみんな止まった、と。手のひらに、石の光の痕が残っている、と。まるで、魔石の王さまだ、と。
子どもたちは、私のあとをついて歩くようになった。
「魔石の王さま、手を見せて」
私は笑って、手を見せた。子どもたちは、歓声を上げた。
夕方には、大人たちまで、その呼び名を口にしていた。
「王は、困りますね」
医者に腕を巻きなおしてもらいながら、先生が苦笑した。
「よその土地で、ラーデンの跡継ぎが王と呼ばれていると、お屋形様のお耳に入ったら」
「子どもの言うことです」
「子どもの言うことが、いちばん遠くまで届くのですよ」
もう一つの噂も、あった。
谷で、村の人たちは、空から降りてきた男を見ていた。ティモの祖母は、あの男を「星から降りてきなすったお方」と呼んだ。
町の人たちは、それを、自分たちの知っている言葉で語りなおした。空の向こうから、いつか戻ってきて、世を救ってくれる者たちがいる。昔から、そう伝えられてきた。あの男は、その使いではないか。この世の者ではない。どこか別の世から来た男だ、と。
町の長が、町の外れまで行って、カイエルにたずねたそうだ。どこから来られたのか、と。
カイエルは、「遠いところから来た」とだけ答えた。
否定は、しなかった。
夜、宿の部屋で、私は先生と二人きりになった。
「本当のことは」
私は、言った。
「岩魔が、かつては人だったこと。カイエルが、エルヴァンに会ったことがあること。……それは、町の人たちには言わないでおきましょう」
先生は、少し考えてから、うなずいた。
「お父上には?」
「父上には、帰ってから、私が話します。全部。先祖の記録の戸のことも、守り袋が割れたことも、先生のことも」
先生は、目を伏せた。
「わたしからも、申し上げます」
*
翌朝、町の外れで、カイエルが待っていた。
「行くのですか?」
「しばらくは、この近くにいる。乗ってきたものも、山の北に下ろしてある」
カイエルは、私の胸もとを見た。
「その守り袋。作りなおせるのか?」
「分かりません。父なら、何か知っているかもしれません。……これだけは決して手放すな、としか言われてこなかったので」
カイエルは、うなずいた。
それから、少し迷うように、言った。
「アキトス。君の家の近くにも、似たものがある」
私は、顔を上げた。
「古い城跡と、呼ばれているはずだ」
屋敷から、馬で半日の丘の上。崩れた石垣と、草に埋もれた土台だけが残る、古い城跡。子どものころ、弟のヴァンスと剣の稽古ごっこをして、母に叱られた場所だ。
「あそこが……?」
カイエルは、それ以上は言わなかった。ただ、北の空を見上げた。
私は、割れた守り袋を握った。
懐には、リセルの小さな紙片がある。屋敷の本棚には、栞の挟まった本が、私の帰りを待っている。
父への返事は、もうベルクに預けてある。あとは、帰って、自分の口で話すだけだ。




