第6話 扉は、私を選ぶ
熱は、朝になってもひかなかった。
谷の岩陰で、私は一日、毛布にくるまって過ごした。カイエルが膏薬を塗りなおし、ティモの祖母が粥を運んできた。ティモは、何度も様子を見に来ては、ロッドに追いかえされていた。
麓の町へ走った若い者は、その日も戻らなかった。
夕方、熱がようやく下がりはじめたころ、カイエルが私の横に腰を下ろした。
「ゆうべの話だが」
カイエルは、谷の向こうの山を見ていた。中腹の裂け目は、夕暮れの中で、まだかすかに赤かった。
「君は、行くのだろう。止めても」
「……はい」
「あの人も、そうだった。止めて、止まる人ではなかった」
カイエルは、少し黙った。
「それに、君をひとりで行かせて、また、誰かを失うのは嫌だ」
また、と言った。私は、聞きかえさなかった。カイエルの横顔が、それ以上は聞くなと言っていた。
「もう一つ、正直に言っておく」
カイエルは、私のほうを向いた。
「私の用も、あの奥にある。そして、あの戸は、君の手でしか開かない。私ひとりでは、果たせない」
私は、うなずいた。隠さずに言ってくれたことが、むしろありがたかった。
「ならば、私が前に立つ。君は、戸を開けることだけを考えなさい」
焚き火のそばで聞いていた先生が、顔を上げた。
「わたしも参ります」
「先生、その腕で——」
「戦うつもりはありません」
先生は、膝の上の曲がった鉄棒に、右手を置いた。
「わたしには、あの記号は読めません。けれど、絵の形を見くらべること、どこに何があるかを覚えることはできます。見たものを、見たままお父上に申し上げる。そのために、ここまで来たのです。見ずに申し上げることは、できません」
先生は、私のほうを向いた。
「ただし、条件があります。引き返すときは、わたしが決めます。お父上へのお詫びも、わたしが負います。よろしいですね?」
私は、うなずくしかなかった。
カイエルが、先生を見た。それから、小さくうなずいた。
「では、灯りを持って、後ろを見ていてほしい」
*
翌朝、谷を発つ前に、私はロッドに、父あての短い書きつけを渡した。山で見たこと、先生の怪我、カイエルという人に助けられたこと。
「麓の町から誰か来たら、これを。それまで、村の人を頼む」
ロッドは、黙って書きつけを懐にしまった。今度は、お供しますとは言わなかった。言っても無駄だと、もう知っている顔だった。
ティモには、「戻ったら、また知らせる」と言った。ティモは、三度めの約束に、真剣な顔でうなずいた。
昼前、私たちは、また扉の前に立った。
取っ手の真ん中に手を当てて回すと、守り袋が熱を帯び、扉が開いた。通路の灯りは、赤く弱く明滅したままだった。崩れた岩魔の残骸のあいだを抜けて、縞の帯を越え、坂を下りる。
丸い部屋に出た。
床の真ん中に、丸い金属の蓋がはまっている。縁に、扉と同じ車輪の取っ手がついていた。
私は膝をついて、蓋の取っ手の真ん中に、右手を当てた。
山腹の扉と同じように、守り袋が熱を帯び、取っ手がひとりでに回った。
蓋が、重い音を立てて、横へすべっていった。
下から、冷たい風が吹きあげてきた。
のぞきこむと、鉄の階段が、四角い縦穴の壁に沿って、下へ下へと折れ曲がりながら続いていた。折れ曲がるところごとに、狭い踊り場がある。底は、暗くて見えなかった。
「私が先に行く」
カイエルが、最初の段に足をかけた。一段ずつ、踏んで確かめてから、体重を移していく。踊り場に着くたびに、手すりを揺すって、ゆるみがないかを見た。
先生は、灯りの魔道具を腰の帯に吊るし、右手で手すりをつかんで、そのあとに続いた。私は、先生のすぐ後ろを下りた。
階段は、長かった。踊り場を、十いくつ数えたところで、私は数えるのをやめた。上を見上げると、通路から漏れる赤い明滅が、小さな点になっていた。
底に着くと、短い通路があった。
その先に、扉があった。
*
大きかった。
山腹の扉の、倍はあった。人の背丈の、四倍ほど。取っ手はない。のっぺりとした鈍色の一枚の板の真ん中に、丸い板が一つ、はめこまれているだけだった。
扉の縁には、小さな丸い灯りが、ぐるりと一列に並んでいた。どれも、消えていた。
私は、丸い板に、右手を当てた。
守り袋が、熱くなった。
けれど、扉は動かなかった。
かわりに、扉の縁の灯りが、一つだけ、ぽっと白くともった。
手を当てたまま、待った。
もう一つ、ともった。また一つ。左の下から、縁をなぞるように、ゆっくりと。
「……全部ともったら、開くのかもしれません」
先生が言った。灯りの数を、目で追っていた。
「いまで、七つ。全部で、六十ほどあります」
そのとき、上のほうで、音がした。
鉄の階段を、何か重いものが、踏む音だった。
がん。がん。がん。
カイエルが、縦穴のほうへ振りむいた。
「丸い部屋の、崩れた壁からだ。裂け目から、入りこんだものがいる」
音は、二つ、三つと重なっていた。踊り場を、一つずつ下りてくる。
「アキトス。手を離すな」
カイエルが、縦穴の下に立った。手にした棒の先から、青白い光の刃が伸びた。
私は、丸い板に手を押しつけたまま、灯りを数えた。十五。十六。守り袋の熱が、どんどん強くなっていく。
最初の岩魔が、最後の踊り場から、飛び降りてきた。
カイエルの刃が、横に走った。岩魔の胸の石が、真っ二つに割れた。崩れ落ちる岩を、カイエルは横へ跳んでよけた。
二体めが、階段の途中にいた。三体めが、その上の踊り場に見えた。
「先生!」
先生は、もう動いていた。
縦穴の脇に、細い横穴が口を開けていた。先生は、灯りの魔道具の覆いを片手で外し、横穴の奥へ、床をすべらせるように押しやった。
白い光が、横穴の奥を照らした。
三体めの岩魔が、踊り場で、向きを変えた。階段を下りずに、踊り場の手すりを越えて、縦穴の底へ飛び降りた。床を揺らして着地すると、二体めにもカイエルにも目もくれず、横穴へ、頭から這いこんでいった。
二体めは、そのまま下りてきた。カイエルが、それを迎えた。
三十。三十一。
守り袋が、焼けるように熱かった。胸の皮膚が、じりじりと痛んだ。手を離せば、楽になる。分かっていた。
離さなかった。
四十。五十。
背後で、二体めの崩れる音がした。
五十八。五十九。
最後の灯りが、ともった。
扉が、真ん中から、左右へ、音もなく開いていった。
「……この戸は、あなたしか通さないのですね」
先生が、小さく言った。
*
扉の向こうは、宙だった。
いや、宙ではなかった。足もとに、手すりのついた細い回廊が、左右へ伸びていた。その手すりの向こうが、底の見えないほど深い、大きな広間だった。
回廊は、広間の壁の高いところを、ぐるりと巡っていた。
手すりから身を乗りだして、見下ろした。
広間の底の、真ん中に、それはあった。
魔石だった。
家ほどもあった。台座の上に、巨大な結晶が、斜めに突きたっている。内側から、赤く、ゆっくりと光っていた。明るくなり、暗くなり、また明るくなる。
息をしているようだった。
先生も、カイエルも、言葉がなかった。
広間の底の床には、いくつも裂け目が走っていた。その裂け目の暗がりから、何かが、這いあがってきていた。
岩魔だった。
一つ、二つ。いや、もっと。裂け目の縁に手をかけて、のっそりと身を起こしていく。
大魔石が、明るく脈打った。
這いあがる岩魔たちの胸が、同じ拍子で、明るくなった。動きが、速くなった。
大魔石の光が、弱まった。
岩魔たちの胸が、暗くなった。動きが、鈍った。
また、明るくなる。速くなる。
私は、手すりを握りしめた。
——同じだ。
あの石の拍子に合わせて、岩魔たちが動いている。
後ろを振りむいた。カイエルが、開いた扉の内側に立って、縦穴の底を見張っていた。その向こうに、三体めの岩魔の背中が見えた。横穴は、岩魔の肩幅より狭かった。灯りのほうへ頭から這いこんだまま、肩がつかえて、前にも後ろにも動けなくなっている。
肩をねじこもうと、岩魔は横穴の縁をこじっていた。そのこじる力が、強まっては鈍り、また強まる。広間の底の大魔石が明るく脈打つたびに、横穴の縁の岩がぎしりと鳴り、暗くなるたびに、音がやんだ。
この広間から離れていても。
近い遠いは、関係ない。
「先生。カイエル。見てください」
私は、声を落として言った。
「あの大きな石が光るとき、岩魔も明るくなって、速くなる。暗くなると、鈍る。後ろのやつも、同じです」
私は、脈を数えた。一つ、二つ、三つ。岩魔たちの動きが、それに重なった。
先生が、目を細めて、底と背後を交互に見た。
「……本当です。拍子が、そろっている」
カイエルは、何も言わなかった。ただ、大魔石を見下ろす目が、暗く沈んでいた。
カイエルは、すぐに扉の向こうへ引きかえした。横穴でつかえていた三体めの背中から、胸の石へ、光の刃を突きいれた。岩魔が、崩れた。カイエルは、横穴の奥から灯りの魔道具を拾って、先生に返した。
「これで、後ろはいない。上から新しく来るにしても、あの階段を下りてくるには時がかかる」
*
回廊の先へ歩いた。
途中、回廊の壁の一か所に、石段が口を開けていた。広間の壁に沿って、ぐるぐると、底の大魔石の台座のほうへ下りていく、細い階段だった。
その少し先では、壁が大きく崩れていた。崩れた岩の斜面が、上へ向かって続いている。冷たい風が、そこから吹きおりてきた。斜面のずっと上のほうに、ぼんやりと、白い光が見えた。
「日の光だ」
カイエルが言った。
「あの裂け目は、ここにつながっている。岩魔が出てきた、山の中腹の裂け目に」
カイエルは、少し黙ってから、言った。
「……あの斜面がつながっているとは、知らなかった。私が知っているのは、あの戸の向こうだけだった」
私は、その白い光を見上げた。あの先に、扉の前の棚があり、崩れた斜面があり、その下に村がある。
崩れた岩の斜面は、足場が悪そうだった。けれど、登れないほどではなかった。
回廊のさらに先に、横の部屋へ続く戸があった。開いていた。
中を、のぞいた。
白かった。
壁も、床も、天井も、白い。天井の高い、どこまでも続く部屋だった。そこに、低い寝台が、何列も何列も、整然と並んでいた。
どの寝台も、空だった。
私は、戸口で立ちつくした。
知っている。この部屋を、私は見たことがある。
あの日、岩魔の胸の石をつかんだとき。目の前が白くなって、一瞬だけ見えた部屋。たくさんの人が、眠るように横たわっていた部屋。
ここだった。
「……アキトス様」
先生が、私の顔を見て、それから部屋を見た。あの日、包帯を巻いてもらいながら話したことを、先生は覚えていた。
「あの日、見たのは、この部屋です」
声が、震えた。
「でも、あのときは、人がいました。たくさん。眠っていた」
先生は、何も言わずに、部屋の奥の壁を見た。
そこに、絵があった。
*
壁いっぱいの、古い絵だった。
色はあせていたが、形ははっきりしていた。
上のほうには、たくさんの人の列が描かれていた。空へ向かって、斜めに伸びていく列。その先に、細長い、舟のようなものが、いくつも浮かんでいた。
下のほうにも、人の列があった。こちらは、地の底へ向かって下りていく列だった。列の先に、丸い輪のついた戸。その奥に、寝台が並んだ白い部屋。人々が、寝台に横たわっていく。
先生が、絵に近づいた。右手の指で、空中に、形をなぞった。
「この戸の形は、上の扉と同じです。丸い輪に、十字の桟」
先生は、絵の寝台を、指で数えはじめた。一列、二列。それから、振りかえって、部屋の寝台の列を数えた。
「……寝台の並び方も、数も、同じです。この絵は、この部屋を描いている」
先生は、絵の下の列と、上の列を、交互に見た。
「上へ行く者たちと、下へ行く者たちがいる。同じ服を着て、同じ顔をしている。……もとは、ひとつの人々だった」
先生の声が、かすれた。
カイエルが、絵の前に立った。
長いあいだ、黙って、下の列を見ていた。地の底へ下りていく人々。寝台に横たわる人々。
広間のほうから、岩の擦れる音が、かすかに聞こえた。
「カイエル」
私は、聞いた。
「あの日、床の下から、三つ叩いてきたのは、何だったんですか?」
カイエルは、絵の中の、丸い輪の戸を見ていた。
「眠りにつく前、戸が閉められたあと、内側から三つ叩く。それが、合図だった。まだ、ここにいる、という」
カイエルの声が、わずかに震えた。
「あの日、私は、この戸の外にいた。閉じた戸の向こうから、三つ。何度も、聞こえた」
私は、自分の右足を見下ろした。
あの日、私は靴のかかとで、床を三度鳴らした。
そして、床の下から、三つ、返ってきた。
まだ、ここにいる。
「……それなら」
喉が、からからだった。
「岩魔は。あの合図を返してきたのは」
カイエルが、私を見た。
「地の底で、眠りについた者たちだ」
静かな声だった。
「長い眠りのあいだに、岩と、古い仕掛けと混じりあって、ああなった。……かつては、人だった」
岩と金属になって、顔も失って、それでも、あの合図だけを、覚えていた。
私は、自分の左手を見下ろした。包帯の下の、石の形の火傷。
あの日、私は、岩魔の胸の石をつかんで、内側から焼いた。おとといは、三体を通路に閉じこめて、遺跡に撃たせた。カイエルは、光の刃で、いくつも倒した。
あれは、みんな、人だった。
誰も、何も言わなかった。先生は、絵の前で目を伏せていた。カイエルは、壁の、寝台に横たわる人々の列を見ていた。私は、手のひらの火傷が脈打つのを、ただ数えていた。
長いあいだ、そうしていた。
「……遺跡は」
ようやく、私は口を開いた。
「私と先生は、撃たなかった。でも、あの人たちは撃った。ここで眠っていた人たちなのに」
先生が、顔を上げた。少し考えてから、言った。
「あの仕掛けが見分けているのは、守り袋を持つ者か、持たない者か。……それだけなのかもしれません。昔、人だったかどうかは、見ていない」
カイエルは、何も言わなかった。否定もしなかった。
「……この奥にあるものを取りに来た、と言いましたね」
私は、聞いた。
カイエルは、白い部屋の戸口から、広間の底を見下ろした。
「あの石の、欠片だ」
カイエルは言った。
「あの大きな石の一部を、持ち帰るつもりだった。私たちには、それが要る」
広間の底で、大魔石が、脈打っていた。
私は、ふと気づいた。脈が、さっきより速い。回廊に出たとき、私は脈を数えた。あのときより、ひと息ぶん、間が詰まっている。
その脈が、変わった。
これまでより、ずっと強く。一度、二度。広間全体が、赤く染まるほどに。
足もとが、震えた。
手すりに駆けよって、見下ろした。
広間の底の裂け目の、さらに下。暗がりの、ずっと深いところで、何かが光った。
胸の光だった。
一つ。少し離れて、また一つ。さらに奥で、もう一つ。
大魔石が脈打つたびに、地の底の暗がりの中で、眠っていた胸の光が、一つ、また一つと、目を覚ましていった。




