第5話 涙の理由は
扉を押して閉め、いつものように取っ手を回した。
カイエルは、その様子を黙って見ていた。凍りついたような顔は、もう元に戻っていた。けれど、ときどき、私のほうを見ては、すぐに目をそらした。
「獣道は、埋まってしまいました」
私が言うと、カイエルは崩れた西の斜面を見下ろした。
「こちらから下りよう。足場のよいところを選ぶ」
カイエルが先に立って、足場を踏み固めていった。私は先生の右腕を後ろから取って、カイエルの踏んだところを、一歩ずつ下りた。先生は、添え木で胴に縛られた左腕をかばいながら、足を運んだ。
崩れた巨大な岩魔のそばを通った。
ただの岩の山だった。けれど、その中に、鈍い金属の塊がいくつも混じっていた。胸のあたりだった場所には、割れた石のかけらが、灰色になって散らばっていた。
カイエルは、その前で一度だけ足を止めた。何も言わずに、また歩きだした。
斜面は、思っていたよりも歩きにくかった。崩れたばかりの土砂は、踏むたびにずるりと流れた。カイエルは、迷わずに足場を選んでいった。大きな岩の、乾いた面。根の張った低木の脇。そこを踏めば崩れない、と分かっているような歩き方だった。
私は、先生の右側を支えながら、何度もカイエルの背中を見た。
空から降りてきた人。光の刃で、あの巨大な岩魔の胸を貫いた人。それなのに、先生の腕に添え木を当てる手は、村の産婆のように丁寧だった。
そして、私の顔を見て、動けなくなった人。
あのとき、カイエルは、私を見ていなかった。私の顔の向こうに、別の誰かを見ていた。そういう目だった。
「アキトス様」
先生が、小さな声で言った。
「足もとを」
私は、慌てて前を見た。危うく、浮いた石を踏むところだった。
*
東の谷に着いたのは、夕方だった。
谷の底の窪地に、村の人たちが集まっていた。荷車と山羊と、焚き火の煙。年寄りたちは毛布にくるまって、岩にもたれていた。
最初に気づいたのは、ティモだった。
「お兄ちゃん!」
ティモが、斜面を駆けのぼってきた。途中で一度転んで、そのまま起きあがって、また走ってきた。
私は、ティモの前に膝をついた。
膝をついたとたん、体の芯が、また熱くなった。ゆうべの熱が、ぶり返してきたのだ。
「戻ったよ。約束どおり、知らせに来た」
ティモは、息を切らしながら、私の顔を見た。それから、包帯の手と、先生の縛られた腕を見た。
「……山は?」
私は、ありのままを言うことにした。
「大きい岩魔が出てきた。それは、倒した。小さいのも、三つ、山の中で倒れた」
ティモの顔が、ぱっと明るくなりかけた。
「でも、あれが出てきた裂け目は、まだ開いたままだ。山の奥に、まだいるかもしれない。崩れたところも、落ちついていない。だから、しばらくは、村に戻らないほうがいい」
それから、ガラムに頼んだ。
「夜の火は、岩の陰で、山の側から見えないように焚いてください。あれは、明かりに寄ってきます」
ティモの顔が、また曇った。けれど、うなずいた。
ガラムとロッドが、窪地から上がってきた。ガラムは、私たちの姿を見るなり、太い息を吐いた。ロッドは、何も言わずに、私の荷を肩から取った。
「麓の町へやった若い者は?」
「まだだ。早くて明日の昼だろう」
ガラムは答えてから、私たちの後ろへ目をやった。
カイエルが、谷の入り口の岩のところで、足を止めていた。
「あの方は?」
「私たちを、助けてくれた人です」
私は振りむいて、カイエルを呼んだ。
カイエルは、首を横に振った。
「私は、ここでいい」
窪地の村の人たちが、何人か、こちらを見上げていた。空から降りてきた男の話は、もう誰かが見ていたのかもしれない。遠巻きに、ひそひそと何か言いあっていた。
ティモの祖母が、窪地から、ゆっくりと上がってきた。手に、布にくるんだ平たいパンを持っていた。
祖母は、カイエルの前まで行って、パンを差しだした。
「若様たちを、助けてくだすったそうで」
カイエルは、少し驚いたような顔をした。それから、両手でパンを受けとった。
「……ありがとう」
祖母は、カイエルの顔を、下から、じっと見上げた。
「お前さま、星から降りてきなすったお方かね」
カイエルは、答えなかった。ただ、ほんの少しだけ、口もとをゆるめた。
祖母は、それで満足したように、うなずいた。それから、先生の縛られた腕を見て、腰の袋から膏薬の壺を出し、自分の肩の毛布と一緒に、先生の手に押しつけた。そして、窪地へ戻っていった。
*
その夜、私たちは、谷の入り口の岩陰で、三人だけの焚き火を囲んだ。火は、山の側から見えないように、大きな岩の裏で小さく焚いた。
ロッドは、少し離れた岩に腰を下ろして、こちらに背を向けていた。眠るつもりはないらしかった。空から来た男と、跡継ぎを、ひとつの火のそばに置いておく。それで黙って引きさがるロッドではなかった。
ガラムが、鍋ごと持ってきてくれた麦の粥を、三人で分けた。カイエルは、匙を受けとって、少しだけ口にした。
「君の手を」
食べ終わると、カイエルが言った。
私が左手を差しだすと、カイエルは、包帯を丁寧に解いた。
焚き火の明かりに、手のひらが浮かびあがった。水ぶくれは破れて、赤くただれていた。ただれた形は、丸かった。あの石の形のままだった。
カイエルの手が、止まった。
「素手で、あの石を……」
それだけ言って、カイエルは口をつぐんだ。
外套の内側から、小さな平たい容れ物を出して、ふたを開けた。透きとおった、ひんやりとした膏薬だった。それを、私の手のひらに薄く塗っていく。痛みが、すっと遠のいた。
先生は、焚き火の向こうで、曲がった鉄棒を膝に載せていた。
真ん中から、弓のように反っている。先生は、それを伸ばそうとはしなかった。片手で持ちあげて、曲がったところを、焚き火の明かりにかざして、しばらく見ていた。
それから、何も言わずに、膝の上に戻した。
先生の横には、カイエルが拾ってきた灯りの魔道具が、光を絞って置いてあった。
「あの、空の光は」
私は、聞いた。
「岩魔が、あれを見て、急に向きを変えました。あれは、何だったんですか?」
カイエルは、膏薬を塗る手を止めずに答えた。
「私が乗ってきたものだ。今は、山から離してある」
乗ってきたもの。
空を、何かに乗って来たのだ、と私は思った。どんなものなのか、想像もつかなかった。
「山の中で、ほかに何か、見たか?」
カイエルが、ふいに聞いた。
私は、少し考えてから、扉を開けた日のことを話した。通路に入ったとたん、床の下から、こつ、こつ、こつ、と音がしたこと。
「私が、靴で三つ鳴らしたら、下から、三つ返ってきたんです」
カイエルの手が、止まった。
顔を上げて、焚き火の向こうの、暗い山のほうを見た。
「……三つ、か」
それだけ言った。
長いあいだ、カイエルは山を見ていた。それから、黙って、私の手に新しい布を巻きはじめた。
*
包帯を巻き終えても、カイエルは私の手を離さなかった。
焚き火が、ぱちりとはぜた。
「アキトス」
はじめて、名前で呼ばれた。
「君は、なぜ、この山へ来た?」
私は、先生のほうを見た。先生は、小さくうなずいた。
「家の記録に、書いてあったんです」
私は言った。
「先祖が、この火の山の戸を閉ざした、と。鍵は家にとどむ、と。それが本当にこの山のことなのか、自分の目で確かめたくて」
カイエルは、焚き火を見ていた。
炎が、その横顔を、下から照らしていた。
「……エルヴァン」
カイエルが、言った。
私は、息を止めた。
カイエルの顔は、何も変わっていなかった。眉も、口もとも、凍りついたように動かない。
けれど、頬を、涙が流れていた。
一筋。それから、もう一筋。夜明け前の空のような色の目から、まばたきもせずに、ただ、涙だけが、あとからあとから流れて、顎の先から落ちていった。
私は、荷に手を伸ばした。
油紙に包んだ綴りを取りだして、焚き火のそばで開いた。丸い輪の戸の絵が描かれた、あの一枚。
紙の隅に、小さな字で、書いた者の名があった。写すとき、私は、それも一緒に写していた。
——記す エルヴァン・ラーデン。
焚き火の音だけが、していた。
「……どうして」
声が、かすれた。
「どうして、その名を? この紙は、まだ開いてもいなかったのに」
カイエルは、涙をぬぐおうともしなかった。
「会ったことがある」
静かな声だった。
先生が、焚き火の向こうで、はっと息をのんだ。
「失礼ですが」
先生の声は、かすれていた。
「それは、どれほど、昔の……」
カイエルは、首を横に振った。
「数えるのは、もう、やめてしまった」
私には、その意味が、すぐには分からなかった。会ったことがある。この名の人に。
それから、分かった。
ラーデンの屋敷の広間には、代々の当主の名を刻んだ板が掛かっている。子どものころ、父に一つずつ読まされた名だ。エルヴァンの名は、その板のいちばん上のほうにあった。父から数えて、十代よりも前。エルヴァン・ラーデンは、何代も、何代も前の人だ。
その人に、この人は、会ったことがある。
目の前で、黙って涙を流している男は、人の一生の、ずっと外にいる。
「……では、さっき、私の顔を見て、動けなくなったのは」
カイエルは、ようやく私を見た。
「君が、あの人に似ていた」
それだけだった。
続きを待ったが、カイエルは、それ以上は何も言わなかった。言わないのではなく、言えないのだと思った。何か言おうとして唇が動き、また閉じた。そのたびに、涙が、新しく流れた。
先生が、そっと、焚き火に枝を足した。
*
夜が更けて、焚き火が小さくなったころ、カイエルが言った。
「あの扉の奥へは、もう入るな」
涙は、もう乾いていた。声は、静かで、固かった。
「お願いだ。君は、家へ帰りなさい」
私は、膝の上で、包帯の手を握った。痛みが、少しだけ戻ってきた。
「帰れません」
カイエルが、私を見た。
「山は、まだ光っています。崩れたところも、落ちついていない。岩魔が出てきた裂け目は、開いたままです。山の奥に、まだいるかもしれない。迎え撃つ仕掛けも、もう止まってしまいました」
私は、谷の窪地のほうを見た。小さな焚き火の明かりが、いくつも並んでいた。毛布にくるまった年寄りたち。ティモと、ティモの祖母。
「あの人たちは、いつ村へ戻れるのか、分からない。戻っていいのか、誰にも分からない。どうすれば村が安全になるのか、私には分かりません」
言いながら、自分の考えを確かめていった。
「でも、あの扉は、私の手でしか開かない。中で何が起きているのか、確かめに行けるのは、私だけです。先祖が閉ざした戸なら、なおさら、閉ざした家の者が、知らずに帰るわけにはいかない」
カイエルは、長いあいだ黙っていた。
先生も、黙っていた。先生の顔には、父の許しのことが、浮かんでいるように見えた。けれど、口には出さなかった。
焚き火が、また一つ、はぜた。
「……そうか」
カイエルは、低く言った。
「……言うことまで、あの人に似ている」
それから、焚き火の最後の炎を見つめたまま、言った。
「私は、この奥にあるものを取りに来た」
私は、顔を上げた。
カイエルは、それが何かは言わなかった。ただ、闇の向こうの、山の中腹のあたりを、じっと見ていた。
「……だが、あの戸は、君にしか開けられない」
低い声だった。私に聞かせるためというより、自分に言い聞かせるような声だった。




