第4話 空から来た男
裂け目の縁が、内側から押し広げられていった。
岩が、めりめりと音を立ててはがれ、斜面を転がり落ちていく。その奥から、赤い光がにじみ出てきた。光は、息をするように明るくなっては暗くなり、明るくなるたびに、裂け目のまわりの岩を黒く浮かびあがらせた。
まず、腕が出てきた。
岩と鈍い金属でできた腕だった。きのうの岩魔の腕と、形は同じだった。けれど、太さが違った。私の胴より太かった。
それから肩が、頭が、胸が出てきた。
這いだしてきたものは、裂け目の外で、ゆっくりと身を起こした。
大きかった。
人の背丈の、三倍はあった。肩幅だけで、私が両腕を広げたより広い。顔のない頭が、扉の前の棚にいる私たちを、斜面の下から見上げていた。
胸の石は、人の頭より大きかった。
「……先生」
「ええ」
先生の声が、乾いていた。
私は、棚の上から、斜面の下を見た。
巨大な岩魔が立っている場所からは、斜面を下りれば、東の谷へも回りこめる。ガラムとロッドが、村の人たちを下ろしている谷だ。年寄りの足では、まだ谷の底にも着いていないかもしれない。
あれを、谷へ行かせてはいけない。
空の高いところで、何かが一度、ちかりと光った。雲に日が当たったのだろう、と私は思った。
「先生。こっちに引きつけておけば、あれは谷へは行かない」
「……ええ。同じことを、考えていました」
巨大な岩魔が、斜面を登りはじめた。私たちのほうへ。
一歩ごとに、山が揺れた。
*
「獣道へ!」
先生が叫んだ。
私たちは、棚の右手の大岩へ走った。大岩の裏から、東へ下りる細い道がある。けさ、そこを登ってきた。
大岩の陰に駆けこもうとしたとき、背後で、風が鳴った。
巨大な岩魔が、腕を振ったのだ。
拳は、私たちには届かなかった。かわりに、大岩の上の崖を打った。
崖が、崩れた。
岩が、雨のように降ってきた。私は先生の外套をつかんで、棚のほうへ引き戻した。目の前で、獣道の入り口が、落ちてきた岩に埋まっていった。
大きな岩が一つ、跳ねて、こちらへ飛んできた。
「下がって!」
先生が、私の前に出た。両手を突きだす。術の壁が、陽炎のように張られた。
岩が、壁に当たった。
壁は、一枚しかなかった。きのうから、先生の中には、もうそれだけしか残っていなかった。
壁は、砕けた。
勢いを殺された岩が、先生の左腕を打った。
嫌な音がした。
先生は、声を上げなかった。ただ、膝をついて、右手で左の二の腕を押さえた。指のあいだで、外套の袖が、おかしな角度に曲がっていた。
「先生!」
「……大丈夫です。腕が、一本だけです」
大丈夫なはずがなかった。先生の顔は、紙のように白かった。
獣道は、埋まった。前は、巨大な岩魔が登ってくる斜面だ。後ろは、崖。
残っているのは、扉だけだった。
*
「扉を開けます」
私は言った。
「中へ逃げこむのですか? 中には、まだ——」
「分かっています。でも、あれは、入口を通れない」
巨大な岩魔の肩幅は、扉の幅より、ずっと広かった。
「入れないなら、手を突っこんでくる。そうしたら」
言いながら、頭の中で、順に組み立てていた。扉は、外へ、棚の側へ開く。開けておいて、中から引けば、閉まる。
閉めきって閉じこもれば、私たちは助かるかもしれない。けれど、獲物を見失ったあれは、また斜面を下りて、谷へ向かう。
「その腕を、扉で挟みます。ここに、つなぎとめておくんです」
先生は、一瞬、私の顔を見た。それから、背中の荷の脇に差していた、細い鉄棒を抜いた。扉の桟に通して、体重をかけた、あの鉄棒だ。
腕の長さほどある、先生のいちばん長い道具だった。
「では、これを使いなさい。閉まりきらないなら、押さえておくものが要ります」
私は、扉の取っ手の輪をつかみ、中心の丸い板に左の手首を押しあてた。
胸の守り袋が、熱を帯びる。取っ手が、軋みながら回りはじめる。
一回り。
巨大な岩魔が、棚の縁に、手をかけた。
先生が、右手で足もとの石を拾って、投げた。石は岩魔の胸に当たって、跳ねかえった。岩魔の顔が、先生のほうを向いた。先生は、もう一つ投げた。
二回り。がちん。
扉が、こちらへ開きはじめた。私は、扉を半分だけ開けたところで、その陰から敷居の内へ飛びこんだ。
「先生!」
先生が、転がりこんできた。
通路の中は、赤かった。
天井の灯りが、弱々しく、赤く明滅していた。壁の板は、半分開いたまま、止まっていた。けさ、光の筋が走ったところだ。もう、何も出てこなかった。
通路の奥、縞の帯の向こうの坂の下に、白い光が見えた。先生が転がした、灯りの魔道具だ。まだ光っていた。
その光のほうへ、何かが、ゆっくりと這っていた。
けさ閉じこめた岩魔の一体だった。両足が砕けて、腕だけで床を引きずっている。こちらへは来なかった。灯りだけを、追っていた。
背後で、影が差した。
巨大な岩魔が、棚の上に立っていた。
半分開いた扉の隙間から、顔のない頭が、中をのぞきこもうとした。肩が、枠につかえた。入れない。
岩魔は、頭を引いた。
片方の手で棚の縁の岩をつかみ、崩れる斜面に体を支えたまま、もう片方の腕を伸ばしてきた。
扉の隙間から、敷居の上を越えて、私たちのほうへ。岩の指が、宙をつかむように開いた。
「いまです!」
扉の内側にも、外と同じ車輪の取っ手がついていた。私は右手でその輪をつかみ、先生は折れていない右手で輪の反対側をつかんだ。
先生の息が、一瞬、止まった。折れた腕に、響いたのだ。それでも、手は離さなかった。
二人で、引いた。
重い扉が、こちらへ戻ってきた。
扉の縁が、岩魔の前腕に、ぶつかった。
ごつん、と鈍い音がした。扉は、そこで止まった。閉まりきらない。腕が一本、扉の縁と枠のあいだに挟まって、こちら側へ突きでたまま、もがいていた。
「棒を!」
先生が、鉄棒の先を、内側の取っ手の輪の桟のあいだに差しこんだ。反対の端を、腕が挟まっている側の枠の、内側の角に当てる。扉と枠の隙間をまたいで、鉄棒が、斜めに突っ張った。
岩魔が、腕を引いた。
太い腕の先には、岩の拳がついていた。拳は、扉と枠の隙間より、ずっと大きかった。引いても、抜けない。
かわりに、扉が、外へ引っぱられた。その力が、輪から鉄棒にかかり、鉄棒の端が、枠の角に食いこんだ。扉は、それ以上開かなかった。
岩魔は、腕を挟まれたまま、身をかがめた姿勢で、棚の上に止まった。胸の石が、ちょうど扉の上の縁の高さにあった。
挟まれた前腕が、扉の縁と枠のあいだで、きしんだ。岩魔は、もう一度、引いた。全身で。
扉全体が、外へ反った。
鉄棒が、ゆっくりと弓なりに曲がりはじめた。枠の角が、ぎしり、と鳴って、わずかにゆがんだ。足もとの敷居に、細いひびが走った。
長くは、もたない。
数えた。一つ。二つ。
鉄棒の曲がりが、目に見えて深くなっていった。
*
そのとき、外の光が変わった。
扉の隙間から、空が見えた。晩夏の、濃い青い空。その高いところで、銀色の何かが、きらりと光った。
巨大な岩魔の動きが、止まった。
胸の石が、ひときわ明るくなった。燃えあがるように。
顔のない頭が、ゆっくりと、空を向いた。
次の瞬間、岩魔は、挟まれた腕を、引きちぎらんばかりに引いた。私たちから離れるためではなかった。空へ。あの銀色の光のほうへ、伸びあがろうとして、全身でもがいた。
鉄棒が、大きくたわんだ。
扉の隙間の向こうで、何かが、空から降りてきた。
人だった。
長い外套を、翼のように大きく広げていた。鳥ではない。人が、空から、まっすぐに降りてくる。手に、細い棒のようなものを持っていた。
岩魔が、その人へ向かって、もう一度、全身で伸びあがった。
枠に当てた鉄棒の端が、角から、ずるりとすべった。扉が、外へ開きかけた。挟まれていた腕に、ゆとりができた。かがんでいた岩魔の背が起きあがり、胸の石が、扉の上の縁より上へ、持ちあがっていく。
降りてくる人の足もとへ。あのまま伸びあがれば、棚の縁をつかんでいたもう片方の腕が、降りてくる人に届く。
「胸です!」
私は、隙間に向かって叫びながら、鉄棒に飛びついた。右手で端をつかみ、肩を当てて、角へ押し戻した。体ごと、枠に押しつけた。
扉が、がくんと戻った。
挟まれた腕が、もう一度、扉の縁と枠に噛まれた。腕を引き戻された岩魔の体が、がくりと前へ傾いだ。持ちあがりかけた胸が、扉の上の縁の高さまで、落ちてきた。
肩が、外れそうだった。焼けた左手が、どこかに当たって、目の前が白くなった。
その落ちてきた胸の前に、空から降りてきた人が、いた。
棒の先から、青白い光が、刃のように伸びた。
光の刃が、胸の石に突きたった。
石が、割れた。
赤い光が、ふっと消えた。
巨大な岩魔の体が、ぐらりと傾いだ。それから、崩れはじめた。肩が落ち、頭が落ち、胸が落ちた。がらがらと、山が崩れるような音がした。
鉄棒にかかっていた力が、消えた。
挟まれていた腕から、力が抜けた。
私は、鉄棒にしがみついたまま、ずるずると床に座りこんだ。
先生が、私の肩をつかんだ。
「……アキトス様」
「もちました」
声が、震えていた。
扉の外で、低い声がした。
「助かった。よく、押さえてくれた」
空から降りてきた人の声だった。
*
鉄棒を外して、扉を押し開けた。
挟まっていた腕が、敷居の外へ、ごとりと落ちた。ただの岩の塊だった。
棚の上に、男が立っていた。
人族の三十ほどの男に見えた。けれど、どこか年のわからない静けさがあった。銀に近い淡い色の髪。夜明け前の空のような、見たことのない色の目。どこの国のものとも分からない仕立ての外套が、風にゆれていた。
男は、私たちを見て、それから、扉の奥に目をやった。
「中に、まだ一つ」
低い、落ちついた声だった。
「……坂の下です。足を砕かれて、灯りのほうへ這っています」
私が言うと、男はうなずいて、敷居をまたいだ。
私は、先生に入口で待ってもらい、男のあとについて通路を進んだ。
赤く明滅する灯りの下に、けさの岩魔が二体、崩れて転がっていた。焼けた岩と、溶けて固まった金属の塊。壁の板は、半分開いたまま、どれも動かなかった。
縞の帯の手前で、私は足を止めた。男は帯を越え、坂の上で立ち止まった。私も、その肩ごしに坂の下をのぞいた。坂の下で、両足のない岩魔が、灯りの魔道具に覆いかぶさるようにしていた。
男が、坂を下りた。
岩魔が、腕だけで身を起こし、男へ振り向いた。
光の刃が、伸びた。
男は、岩魔の振りあげた腕の下をくぐり、胸の石に、刃を真っすぐ突きいれた。石が、乾いた音を立てて砕けた。岩魔は、灯りの上に崩れ落ちた。
男は、崩れた岩をどけて、灯りの魔道具を拾いあげた。留め具をひねって光を絞り、坂を上ってきた。
入口まで戻ると、男は、灯りを先生に差しだした。
「あなたのものだろう」
「……ありがとうございます」
先生は、右手で受けとった。
男は、先生の左腕に目をとめた。
「折れているな。座りなさい」
先生の右手が、一瞬、腰の道具袋のほうへ動いた。空から降りてきて、光の刃で岩魔を斬った男だ。身構えて当然だった。
けれど、先生は、その手を下ろした。
男は、膝をついて、先生の袖を、手際よく裂いた。棚の縁の低木から、まっすぐな枝を二本折りとって、腕の両側に当てる。外套の裾を細く裂いて巻き、腕ごと先生の胴に縛りつけはじめた。
私は、男の前に立って、頭を下げた。
「ラーデンのアキトスです。こちらは、私の先生のカーナイ。……助けていただいて、ありがとうございました」
「お名前を、うかがっても?」
先生が、痛みをこらえながら聞いた。
「カイエル」
男は、手を止めずに答えた。
「あれは、何なのですか? 急に、空のほうを向いた」
私が聞くと、カイエルは、崩れた巨大な岩魔の山を見た。
「あれは、空から来るものを憎む」
静かな声だった。
「私が来たのを見て、君たちから、私へ向きを変えた。……もっと早く来られればよかった。すまない」
私は、空を見上げた。銀色の光は、もう、どこにも見えなかった。
カイエルは、添え木の布を、きつく結びはじめた。
「君も、手を焼いているな。あとで見せなさい」
そう言って、顔を上げた。
はじめて、まともに、私の顔を見た。
日の光が、棚の上に、まっすぐ差していた。
カイエルの手が、止まった。
布の端を握ったまま、動かなくなった。
夜明け前の空のような目が、大きく見開かれていた。息をしているのかどうかも、分からなかった。まるで、そこに立っているのが、私ではない誰かであるかのように。
カイエルは、凍りついたように、私の顔を見つめていた。




