第3話 崩れる山
窓に寄ると、熱で頭がぐらりと揺れた。
私は窓枠をつかんで、外を見た。
山が、光っていた。
中腹の、十日前に崩れた斜面のあたりだった。白い山肌に走った裂け目が、内側から、炭火のような赤い色を漏らしていた。光は息をするように強くなったり弱くなったりして、そのたびに、裂け目のまわりの岩が、黒く浮かびあがった。
ごろごろと、岩の転がる音が、上のほうで続いていた。小石が斜面をすべり落ちる、さらさらという音も混じっていた。止まらない。
あの斜面だ。井戸端と山羊小屋を埋めた、あの斜面の、その上が、また動いている。
「お兄ちゃん」
ティモが、私の袖を引いた。
「山、また崩れる?」
きのうの朝、境の石の前で聞かれたのと、同じ問いだった。
あのとき私は、見てくると答えた。崩れそうなら、真っ先に知らせに戻る、と約束した。
私は、左手の包帯を見下ろした。手のひらが、心臓の拍子に合わせて、ずきずきと脈打っていた。額には、まだ熱が残っていた。
それでも、答えは決まっていた。
「崩れる。だから、みんなを起こしに行く」
*
階段を下りると、ガラムが、寝間着のまま土間に立っていた。ロッドが、もう長靴を履いていた。カーナイ先生が、外套を羽織りながら、二階から下りてきた。
「北の斜面が、また崩れます」
私は言った。
「十日前と同じところです。上の岩が、まだ落ちつづけている。夜明けまでもたないかもしれません。村の人を、全員起こして、外へ出したい」
ガラムが、私の顔を見た。熱で赤い顔と、包帯の手を見た。
「どこへ出す?」
「小川の向こうの、東の低い尾根です。羊囲いと、石の祠がある。あそこは、崩れた斜面の筋から外れています」
きのう、山から下りるときに見ておいた場所だった。崩れた土砂が流れた筋と、その外側。どこまでが危なくて、どこからが安全か。
ガラムは、一度だけ、うなずいた。
「わしは西の家から回る。若様は東から。ロッドさんは、真ん中を頼む」
村は、二十軒あまりだった。
私は、一軒ずつ、戸を叩いた。
「起きてください! 山が崩れます! 小川の向こうの尾根へ!」
戸が開くと、眠そうな顔が出てきて、それから、私の後ろの赤い山を見て、目を見開いた。
年寄りは、村の男たちが背負った。私は戸を叩いて回り、赤ん坊のいる家では、母親の荷を右の肩に担いだ。山羊は、ティモが綱をまとめて引いた。ティモは、もう片方の手で、祖母の手を握っていた。
先生は、足をくじいた山羊飼いのじいさんに、肩を貸していた。先生の顔も、灯りの下で青白かった。きのうの術の壁で、まだ力が戻っていないのだ。
私は、片手で荷車を押した。右手と、右の肩とで。左手は、使えなかった。包帯の下で何かがにじんで、布が湿っていくのが分かった。
「若様、それはわしが」
村の男が、荷車に手をかけようとした。
「あなたは、そっちのおばあさんを。私は、こっちのほうが得意なんです」
男は、ちょっと笑って、おばあさんのほうへ走った。
小川を渡り、東の尾根を登りきったとき、空の端が、白みはじめていた。
ガラムが、村人の頭を数えた。二度数えて、うなずいた。
「全員だ」
その声が終わらないうちに、北の斜面が、崩れた。
どおん、という音ではなかった。もっと長い、地面ごと引き裂くような音だった。斜面の上のほうから、岩と土砂が、ひとかたまりになって、ゆっくりと、すべり落ちていった。
土煙が、村の北の端を呑みこんだ。
煙が晴れたとき、北のはずれの家が二軒、なくなっていた。屋根も、壁も、土砂の下だった。
尾根の上で、誰かが、短く泣いた。
ティモの祖母が、ティモを胸に抱きよせた。ティモは、祖母の腕の中から、私を見た。
私は、ティモにうなずいた。
知らせた。間に合った。誰も、いなくなっていない。
*
けれど、それで終わりではなかった。
夜が明けて、山の姿がはっきりしてくると、尾根の上の誰かが、指をさした。
「あれ、なんだ……?」
崩れた斜面の、いちばん上。中腹の扉のすぐ左手に、新しい裂け目が口を開けていた。
そこから、何かが、這いだしてきた。
一つ。二つ。三つ。
岩と鈍い金属でできた、人の形のもの。胸のところだけが、赤黒く光っている。
尾根の上が、しんと静まりかえった。
「……岩魔だ」
ティモの祖母が、震える声で言った。
岩魔たちは、崩れた土砂の上を、ゆっくりと下りはじめた。向かっている先は、村だった。土砂に埋まらずに残った家々。その中には、慌てて出てきたせいで、竈の火を消しきれなかった家もあった。細い煙が、何本か、屋根から立ちのぼっていた。
そして、村の向こうには、この尾根がある。
「逃げよう」
誰かが言った。
「どこへ?」
別の誰かが言った。
尾根の上には、柵もなかった。年寄りが七人。赤ん坊が二人。足をくじいたじいさん。山羊が十数頭。東の谷へ下りる道はあるが、年寄りの足では、岩魔の歩みから逃げきれるか分からない。
「麓の町には、きのう知らせを出した」
ガラムが、低い声で言った。
「けど、助けが来るとしても、早くて明日だ」
私は、腰の剣に手をやった。
刃こぼれが二つある、父の剣。きのう、岩魔の腕を斬りつけて、跳ねかえされた剣だ。剣では、あれは止まらない。
止めるなら、胸の石だ。けれど、石を抜くには、片手では足りない。きのうは、剣でこじって、左手でつかんだ。いまの左手は、物も握れない。体には、まだ熱が残っている。三体を相手に、同じことはできない。
私は、山の中腹を見上げた。
崩れた斜面の上に、扉が見えた。きのう、私が閉めた扉だ。
——あれなら。
「先生」
私は、先生のほうを向いた。
「岩魔は、灯りに寄ってきましたね。きのう」
先生が、はっとしたように私を見た。
「先生の灯りの魔道具を、床に置いたら、岩魔は先生じゃなくて、灯りのほうを向いた。私が灯りを蹴ったら、灯りを追った。天井の灯りには、見向きもしなかったのに」
「……ええ」
「理由は分かりません。でも、寄ってくるのは確かです」
私は、扉を指さした。
「あの扉は、私の手でしか開かないし、閉まらない。きのう、先生がどうやっても動かなかった扉です。だったら」
言いながら、自分の考えを、順に確かめていった。
「灯りで、岩魔を呼びます。あの通路の中まで。それから、扉を閉める。閉めてしまえば、中からは開かない。私にしか開けられないなら、岩魔にも開けられないはずです」
言ってから、きのうの丸い部屋を思い出した。崩れた壁の向こうは、土砂とつながっていた。
「……奥の崩れたところから、裂け目へ抜けて、また出てくるかもしれません。それでも、村の人が東の谷へ下りるまでの時間は、稼げるはずです」
先生は、しばらく何も言わなかった。
山を見上げ、岩魔を見下ろし、尾根の上の村人たちを見た。
「アキトス様は、熱があります。片手も使えない」
「だから、この策なんです。戦わなくていい」
「……灯りは、わたしが持ちます」
先生は、言った。
「扉の前で、待っていてください。開けるのは、あなたにしかできない。灯りを見せて、呼びこむのは、わたしがやります。わたしの足のほうが、まだ、あなたより確かです」
私は、反対しかけた。先生だって、立っているのがやっとのはずだ。
けれど、先生の目は、もう決めていた。
ガラムが、私たちの話を聞いていた。
「若様。村の者は、わしとロッドさんで、東の谷へ下ろす。じいさんは、わしが背負う」
「お願いします」
「わたしも、お供します」
ロッドが、一歩前に出た。主家の跡継ぎを、熱のある体で、岩魔のいる山へひとりで出すわけにはいかない。そういう顔だった。
「ロッド。村の人を頼む」
私は、言った。
「年寄りと赤ん坊を、谷まで無事に下ろしてくれ。それが、いちばん大事な仕事だ。……父上には、私が命じたと言えばいい」
ロッドは、長いあいだ私を見て、それから、深く頭を下げた。
ティモが、祖母の腕から抜けだして、私の前に来た。
「また、山に行くの?」
「行く。戻ったら、また知らせるよ」
ティモは、唇を噛んで、うなずいた。
*
岩魔たちは、崩れた斜面の西側を、村へ向かって下りていた。
私たちは、その反対の、東側から登った。
尾根から小川へ下り、山の東の肩へ回りこむ。きのう下山するとき、扉の右手の大岩の裏から東へ抜ける獣道を、見つけておいた。いざというときの逃げ道として、目で追っておいた道だ。崩れた斜面からは外れていて、岩魔の通り道からは、尾根ひとつ分、離れている。
登りは、半刻ほどかかった。
熱のせいで、何度も足がもつれた。先生は、一度も止まらなかった。
大岩の陰から、扉の前の棚へ出た。
扉は、きのう閉めたままだった。
私は、取っ手の輪を右手でつかみ、中心の丸い板に、手首を押しあてた。胸の守り袋が、じわりと熱を帯びた。取っ手が、軋みながら回りはじめる。
一回り。二回り。がちん。
十を数えるほどのあいだだった。扉が、こちらへ、ゆっくりと開いた。冷たい風が、吹きだしてきた。奥へ向かって、天井の灯りが、順にともっていった。
通路は、大人が三人並んで歩けるほどの幅だった。その奥、三十歩ほど先で、灯りの列は下り坂になって消えている。その坂の始まりの床に、黄色と黒の縞の帯が、一本、引かれていた。扉の縁の、色あせた縞と同じ模様だった。きのうは、気にも留めなかった。
「行ってきます」
先生が、灯りの魔道具を手に、棚の端から、斜面を少し下りていった。
崩れた斜面の西側を見下ろす、平たい岩の上に立つ。
先生は、灯りの覆いを外して、高く掲げた。
白い光が、朝の斜面に、ひときわ明るく浮かんだ。
下のほうで、岩魔たちが、止まった。
三つの胸の赤い光が、そろって、こちらを向いた。
それから、ゆっくりと、向きを変えた。村ではなく、斜面の上へ。先生のほうへ。
登ってくる。
岩魔の足は、遅かった。人が歩くより、まだ遅い。けれど、止まらなかった。崩れた土砂を踏みしだいて、一歩ずつ、確かに近づいてくる。
先生は、間合いを測りながら、後ずさった。岩の上から棚へ。棚から、扉の前へ。灯りを掲げたまま、岩魔から目を離さずに。
私は、扉の脇の、取っ手の届くところに身を伏せた。
先頭の岩魔が、棚の縁に、のっそりと手をかけた。
先生が、扉の敷居をまたいだ。
身をかがめて、灯りを床に置き、通路の奥へ向かって、思いきり押しやった。きのう私が岩魔の前で灯りを蹴ったのと、同じだった。
灯りは、平らな金属の床の上を、くるくる回りながらすべっていった。十歩、二十歩。縞の帯を越えて、その先の下り坂を、からからと転がり落ちていく。白い光が、坂の下から、通路を照らしあげた。
先生は、すぐに敷居の外へ出て、扉の陰の、私の隣に身を伏せた。
先頭の岩魔が、扉をくぐった。私たちのほうへは、目もくれなかった。光の来る坂の下だけを、見ていた。二体めが続いた。三体めが、棚の上に這いあがってきた。
先頭が、縞の帯を、踏み越えた。
その瞬間、通路の灯りが、いっせいに、赤く変わった。
耳を刺すような、高い音が鳴り響いた。
壁の板が、等間隔に、ぱたん、ぱたんと内側へ開いた。その奥から、細い光の筋が、何本も走った。
光が、先頭の岩魔の背中を撃った。岩が弾け、金属が赤く焼けた。
二体めが、足を止めた。
光の筋は、まだ先頭に集まっていた。撃たれるたびに、先頭の岩魔がよろめき、膝をついた。
三体めが、敷居を越えて、通路に入りきった。
「アキトス様、いまです!」
先生が、扉に肩を当てて、押した。私も、右肩をぶつけた。重い扉が、きしみながら、閉まっていく。
閉まりきる前の、最後の隙間から、中が見えた。
赤い灯りの下で、光の筋が、二体め、三体めへと向きを変えていくところだった。壁の板という板から、光が、岩魔を撃っていた。きのう私と先生が歩いた場所も、あの光の届くところだったはずだ。けれど、一度も撃たれなかった。
扉が、閉まった。
私は、包帯の左手を、取っ手の中心の丸い板に押しあてた。手のひらに火が走ったが、離さなかった。右手で輪をつかみ、回した。胸の守り袋が、また熱くなる。肩と腰で回した。一回り。二回り。
がちん。
扉の奥で、何かが外れる音ではなく、何かがはまる音がした。
私は、扉に背中をつけて、その場に座りこんだ。先生も、隣に座りこんだ。二人とも、しばらく、口がきけなかった。
閉じこめた。三体とも。
これで、ガラムたちが村の人を東の谷へ下ろすまでの時間は、稼げた。
「……撃ちましたね」
ようやく、私は言った。
「遺跡が。岩魔を。私たちには、撃たなかったのに」
先生は、閉じた扉を見上げていた。
「通したのです。あなたを。……あなたと一緒にいた、わたしも」
先生の声は、かすれていた。
きのう、二人で何も知らずに歩いた三十歩だった。
「そして、あれを、敵として撃った」
*
扉の内側から、音が聞こえていた。
光が岩を撃つ、ばしん、という乾いた音。岩の崩れる音。
一つ、また一つ。
扉の継ぎ目から、赤い光が漏れては消えた。
音は、だんだん間遠になっていった。三体の岩魔が、崩れていく音なのだと思った。
けれど、そうではなかった。
岩の崩れる音がやんでも、まだ、岩魔の足音が聞こえていた。重く、床を踏む音。それなのに、光の音のほうが、少なくなっていく。ばしん。……ばしん。…………ばしん。
撃っているほうが、止まっていくのだ。
「先生。音が——」
言いかけたとき、尻の下の岩棚が、震えた。
地鳴りとは、違った。
山全体が揺れるのではなかった。ずっと下のほう、山の腹の底のどこかで、何かが、岩を押しのけている。重いものが、少しずつ、少しずつ、上へ動いている。その響きが、岩棚を伝って、背骨に届いた。
先生が、立ちあがった。
私も、扉につかまって、立ちあがった。
崩れた斜面の、新しい裂け目。岩魔たちが這いだしてきた、あの裂け目の奥から、赤い光が、また漏れていた。
さっきまでの光とは、大きさが違った。
裂け目の縁の岩が、内側から押されて、一つ、ぽろりとはがれ落ちた。
その向こうで、何か巨大なものの胸が、ゆっくりと、明るくなった。




