第2話 岩魔
こつ。こつ。こつ。
床の下の音は、やまなかった。
間をおいて、三つ。また間をおいて、三つ。私が鳴らした数を、覚えているかのようだった。
「……先生」
私は、カーナイ先生を振りむいた。
先生は、通路の床を見下ろしていた。眼鏡の奥の目が、動かなかった。
「人、でしょうか?」
口にしてから、自分でぞっとした。
岩崩れは、つい十日ほど前のことだ。山羊飼いのじいさんは足をくじいただけですんだ。けれど、ほかにも山にいた者がいなかったとは限らない。崩れた土砂の下で、どこかの隙間に閉じこめられて、助けを待っている者がいたら。
先生は、しばらく黙っていた。
「お父上が許されたのは、外から見ることまでです」
「はい」
「ですから、ここから先へ進むのは、お父上の許しではありません。わたしの判断です」
私は、息をのんだ。
先生は、通路の奥を見た。
「理由は二つあります。一つは、あなたの言うとおり、下に人がいるかもしれないこと。いるなら、村まで人を呼びに戻るあいだに、手遅れになるかもしれません」
先生は、少しだけ言葉を切った。
「もう一つは、わたしが、この奥を見ずに帰れるほど、できた学者ではないことです」
思わず、笑いそうになった。先生がこんなことを言うのを、初めて聞いた。
「お父上には、わたしが奥へ進めたと申し上げます。アキトス様は、わたしの後ろに。何かあれば、すぐに引き返します。よろしいですね?」
「はい」
私は、腰の剣の柄に手をやった。
旅のあいだずっと下げてきた、刃渡りの短い片手剣だ。父が、出立の朝に黙って渡してくれたものだった。山道では邪魔なだけだったが、いまは、その重さがありがたかった。
*
通路は、ゆるい下り坂になっていた。
天井の灯りは、私たちが進むのに合わせて、一つずつ先へともっていった。振りむくと、通ってきた後ろの灯りは、ついたままだった。入り口の四角い光が、もう、ずいぶん小さく見えた。
空気が、冷たかった。夏の山を登ってきた汗が、背中で冷えていく。
先生が、腰の魔素濃度計をのぞいた。
「中も、薄いですね。外と変わらない」
坂を下りきると、丸い部屋に出た。
この部屋だけは、天井の灯りがともらなかった。先生が荷を下ろして、灯りの魔道具を取り出した。手のひらほどの魔石を金具にはめこみ、留め具をひねる。白い光が、部屋を照らした。
壁も床も、同じ鈍色の金属だった。部屋の真ん中に、床と同じ金属の丸い蓋がはまっている。縁に、扉と同じ車輪の取っ手がついていた。
向かいの壁が、崩れていた。
金属の板がめくれ、その向こうから、岩と土砂がなだれこんで、部屋の三分の一を埋めている。十日前の岩崩れの揺れが、ここまで届いたのだろう。
こつ。こつ。こつ。
音は、その土砂の山の奥からしていた。
さっきより、近い。
「どなたか、おられますか!」
先生が、土砂に向かって声を張った。
「ラーデン家の者です! いま、お助けします!」
私も叫んだ。
音が、やんだ。
しん、と静まった。灯りの低いうなりだけが、耳に残った。
それから、土砂の山が、内側から、盛り上がった。
岩が、転がり落ちた。土煙が、灯りの中に舞いあがった。その向こうで、何か大きなものが、ゆっくりと身を起こした。
人の形をしていた。
けれど、人ではなかった。
背丈は、大人の一倍半ほどもあった。体は、灰色の岩と、ところどころ鈍い金属とが、継ぎ目もなく混ざりあってできていた。腕は太く、指のかわりに、岩の塊が五つ、拳の先に並んでいた。顔のあるべきところには、何もなかった。のっぺりとした岩の面があるだけだった。
胸だけが、光っていた。
岩の胸板の真ん中に、拳ほどの赤黒い石が埋まっていて、それが、呼吸するように明るくなったり、暗くなったりしていた。
そいつは、拳の先の岩を、金属の床に打ちつけた。
こつ。こつ。こつ。
音の主は、これだった。
「……岩魔」
先生が、かすれた声で言った。
「麓の年寄りが、地の底の悪魔と呼ぶもの。……まさか、本当に」
ティモの言いかけた言葉が、頭の中で鳴った。山が崩れたのは、岩魔が起きたからだって。
岩魔が、こちらへ一歩、踏みだした。床が、重く鳴った。
「戻ります!」
先生が叫び、私たちは坂へ走った。
背後で、岩魔が拳を壁に叩きつけた。部屋が揺れた。坂の入り口の天井から、金属の板が一枚、斜めにはがれ落ちて、行く手をふさいだ。
私は板に肩を入れて押した。びくともしない。板は坂の両側の壁に斜めに噛みこんでいて、下の隙間は、子どもの腕が一本通るほどしかなかった。先生と二人がかりでも、すぐには動かせそうになかった。
*
「アキトス様、下がって!」
先生が、私の前に出た。
両手を前に突きだす。先生の手のひらのあいだで、空気が、陽炎のようにゆらいだ。術の壁だ。周りの魔素を寄せ集めて、目に見えない盾を張る術。ラーデンの屋敷の中庭で、私の木剣を何百回となく弾き返してきた、先生の得意の術だった。
岩魔の拳が、振り下ろされた。
壁に当たった。
鈍い音がして、拳が、空中で止まった。先生の足が、半歩、後ろへすべった。けれど、壁は持ちこたえた。
「止めた……!」
私は、声を上げた。
岩魔が、もう一度、拳を振りかぶった。
二度めも、壁は受けた。けれど、ゆらぎが、目に見えて薄くなっていた。
先生の額に、汗が噴きだしていた。
「……足りない」
先生が、歯の間から言った。
「周りから、寄せられない。薄すぎる」
そうだ。ここは、山の腹の中だ。魔素は、外と同じくらい薄い。先生の魔力がどれほど高くても、周りから補えなければ、自分の内にある分だけで壁を張りつづけるしかない。それは、樽の水を、注ぎ足さずに汲みつづけるのと同じだ。
三度め。
壁に、ひびが入った。目に見えないはずの壁に、白い亀裂が、蜘蛛の巣のように走った。先生の膝が、がくりと折れかけた。
次は、もたない。
私は、剣を抜いて、岩魔の脇へ回りこんだ。
腕を、斬りつけた。
硬い。刃が、岩の表面で跳ねかえった。手首が、しびれた。浅い傷が一筋ついただけで、岩魔は私のほうを見もしなかった。
見る、と言っても、目はない。それでも、向きでわかった。岩魔は、先生だけを向いていた。正確には、先生の足もとに置かれた、灯りの魔道具のほうを。
胸の赤黒い石が、明るくなった。
その瞬間、岩魔の腕が、ぐっと持ちあがった。
石が、暗くなった。腕の動きが、鈍った。
また明るくなった。拳が、振りかぶられた。
——胸だ。
あの石が光るたびに、こいつは動いている。腕を斬っても意味がない。止めるなら、あの石だ。
「先生! 灯りを、こっちへ!」
先生は、一瞬だけ私を見た。何も聞かずに、足もとの灯りを、私のほうへ蹴りとばした。
灯りが、床をすべって、私の足もとで止まった。
岩魔の向きが、変わった。
先生から、私へ。
拳が、私に向かって振り下ろされた。私は、灯りを蹴って転がし、自分は逆へ跳んだ。拳が、灯りのすぐ横の床を打ちくだいた。金属の床が、皿のようにへこんだ。
岩魔が、灯りを追って、身をかがめた。
胸が、目の前に下りてきた。
私は、剣の切っ先を、胸の石と岩の継ぎ目に突きたてた。体ごと押しこんで、こじった。
岩が、きしんだ。石が、わずかに浮いた。
剣が、そこで止まった。岩魔の腕が、私の背中に回ってくるのが、気配でわかった。
剣では、これ以上こじれない。指でつかんで、引き抜くしかない。
私は、浮いた石を、左手の素手でつかんだ。
*
熱い、と思った。
次の瞬間、それは熱さではなくなった。
何かが、手のひらから流れこんできた。煮えた湯を、腕の中へ注ぎこまれたようだった。それが肘を越え、肩を越え、胸の真ん中に溜まっていく。
目の前が、白くなった。
白い、広い部屋が見えた。天井の高い、どこまでも続く部屋だった。そこに、たくさんの人が、横たわっていた。誰も、動かなかった。眠っているように見えた。
一瞬だった。
気がつくと、私は岩魔の胸の前にいて、左手に、石を握っていた。
体の中が、燃えていた。
胸の真ん中に溜まったものが、出口を探して暴れていた。私は、それを、知っている形に押しこんだ。
火の術だ。
先生に教わった、いちばん初めの術。手のひらに、小さな火をともすだけの術。山の上に来てからは、ろうそくの火ほどにも灯らなかった。
剣の柄から右手を離し、岩魔の胸の、石の抜けかけた穴に押しあてた。
ともった。
ろうそくの火ではなかった。
手のひらから、白に近い炎が、噴きだした。炎は、石の穴から岩魔の胸の中へなだれこみ、岩と金属の継ぎ目という継ぎ目から、外へ吹きだした。
岩魔の体が、内側から、赤く光った。
拳が、宙で止まった。
それから、ゆっくりと、崩れた。
腕が落ち、肩が落ち、岩の面が落ちた。がらがらと音を立てて、ただの岩の山になった。土煙が、灯りの中で、長いあいだ漂っていた。
私は、膝をついた。
剣は、岩の山の中に突きたったまま残っていた。右手で引き抜いて、鞘に収めた。刃こぼれが、二つできていた。
左手を、開いた。
握っていた石は、もう光っていなかった。赤黒かった色が抜けて、灰色の、ただの小石になっていた。指で押すと、乾いた土のように、ほろりと崩れた。
手のひらが、焼けていた。
石の形どおりに、皮膚が赤くただれて、水ぶくれになっていた。痛みは、あとから来た。
「アキトス様!」
先生が、這うようにして来た。私の左手を取って、灯りにかざした。
「……大丈夫です。少し、焼けただけで」
「少し、ではありません」
先生は、水筒の水を、私の手のひらにかけた。冷たさが、痛みと一緒に骨まで届いた。
先生は布を裂いて、私の手に巻きながら、低い声で言った。
「何が、起きたのですか?」
私は、見たままを話した。石をつかんだら、何かが流れこんできたこと。体の中が燃えるようで、火の術を使ったら、あんな炎が出たこと。
それから、白い部屋のことも話した。たくさんの人が、眠るように横たわっていた部屋のこと。
先生の手が、止まった。
灯りに照らされた顔から、血の気が引いていた。
「……その部屋に、ほかに何がありましたか?」
「分かりません。ほんの一瞬だったので」
先生は、何も言わずに、布の端を結んだ。
そして、私の胸もとを見た。
「守り袋は?」
私は、胸に手を当てた。
「……冷たいです。扉を開けたときは熱くなったのに、いまは、何も」
先生は、長いあいだ、黙っていた。
「では、さっき石から何かを吸ったのは、守り袋ではありません」
先生は、包帯を巻いた私の左手を、そっと両手で包んだ。
「あなたの、この手です」
坂の入り口の板は、先生の鉄棒を梃子にして、二人がかりで少しずつ押し上げた。片手しか使えない私と、膝の笑う先生とで、這ってくぐれるだけの隙間ができるまでに、半刻かかった。
*
外へ出ると、私は扉を押して閉め、取っ手の真ん中に手を当てて回した。胸の守り袋がまた熱をもち、扉の奥で、がちん、と音がした。開けたままにはしておけなかった。
境の石まで下りたときには、日はもう西の尾根に傾いていた。ロッドが、そこまで迎えに来ていた。日が尾根の真上を過ぎても私たちが戻らないので、ガラムは約束どおり、麓の町へ若い者を走らせたという。ロッドは、そのあとで迎えに上がってきたのだった。
村に着くと、ガラムが井戸端から駆けよってきた。ティモは、私の包帯を見るなり、顔をくしゃくしゃにした。
「山の中に、岩魔がいた」
私は、ガラムに言った。隠しても仕方がないと思った。ティモとの約束もある。
「一体だけだ。もう倒した。……でも、ほかにもいるかもしれない。山羊飼いの道には、しばらく誰も行かせないでほしい」
ガラムは、私の顔を見て、それから包帯の手を見た。何か言おうとして、口を閉じた。代わりに、私の肩を、分厚い手で一度だけつかんだ。
その夜、私は熱を出した。
宿の二階の寝床で、体が火の玉になったようだった。汗が止まらず、焼けた左手が、心臓の拍子に合わせて脈打った。
先生が、枕もとにいた。ティモの祖母が、すりつぶした葉の膏薬を持ってきて、焼けた手のひらに塗ってくれた。ティモは何度も水を替えに来て、夜半に、ガラムに家へ帰された。ロッドが戸口に座って、黙って夜を明かしてくれた。
熱の中で、何度も、あの白い部屋を見た。
眠っている、たくさんの人たち。
その中の一人が、ゆっくりと、こちらへ顔を向けかけた——
どおん、と、窓が鳴った。
私は、目を開けた。
夢ではなかった。寝床ごと、宿が揺れていた。棚の上で、水差しが倒れた。階下で、ガラムが何か叫んでいた。
揺れは長く続き、やがて、低いうなりを残して収まった。
窓の外が、明るかった。
夜明けには、まだ早いはずだった。
隣の家から裸足で駆けてきたティモが、戸口に飛びこんできた。
「お兄ちゃん、山が——」
ティモは、窓の外を指さした。
「山が、光ってる」




