第1話 ノーリアス大火山
村の入り口で、山羊が一頭、屋根の上に立っていた。
正確には、潰れた山羊小屋の屋根の上だ。屋根は斜めに傾いで、半分が岩と土砂に埋まっている。山羊は自分の家の残骸のてっぺんで、こちらを見下ろして鳴いた。
「あれは、降りられないのでしょうか?」
私が聞くと、隣で手綱を握っていたカーナイ先生が、眼鏡の奥で目を細めた。
「降りる気がないのだと思いますよ。高いところが好きな生き物ですから」
「では、あの山羊は、いま幸せなんですね」
「家を失ってですか?」
「見晴らしは得ました」
先生は、ため息とも笑いともつかない息を吐いた。四日の旅のあいだに、この息は何度も聞いた。
ノーリアス大火山の麓にある、エルトという小さな村だった。
見上げると、白く乾いた山肌が、空の半分をふさいでいる。頂から立ちのぼる噴煙は、晩夏の濃い青に向かってまっすぐ伸び、途中でほどけて流れていた。
ときおり、遠い雷のような音がした。空は晴れているのに、音だけが山の腹の中から転がってくる。そのたびに、足もとの地面がかすかに震えた。
村の井戸端も、岩崩れに呑まれていた。人の頭ほどの石が、井戸の縁まで積み重なっている。男たちが三人がかりで一つずつ転がしていたが、日が傾きかけたいまも、半分も片づいていなかった。
私は、馬を下りた。
「アキトス様」
先生が呼んだが、もう遅かった。私は上着を鞍に引っかけて、袖をまくっていた。
「手伝います。どこへ運べばいいですか?」
石を抱えていた大柄な男が、汗まみれの顔でこちらを見た。私の旅装を上から下まで眺めて、困ったように眉を寄せた。
「いや、旅のお方に、そんな……」
「旅のお方は、四日も馬に揺られて、体がなまっているんです。少し動かさせてください」
返事を待たずに、男と一緒に石の下へ手を差しこんだ。
重かった。けれど、持ち上がらない重さではない。ラーデンの家では、七つのときから毎朝、砂袋を担いで中庭を回らされてきた。石は砂袋より角が痛いが、そのぶん抱えどころがある。
腰を落として、一息で胸の高さまで上げた。男が、目を丸くした。
「……こりゃあ、驚いた」
「どこへ?」
「あ、ああ。あっちの塀の外へ」
石を三つ運ぶころには、男たちの顔から遠慮が消えていた。五つ運ぶころには、背中を叩かれるようになった。
大柄な男は、ガラムといった。村でただ一軒の宿の主人だという。
「お貴族様が石運びとはなあ。どこのお家の若様で?」
「ラーデンです。内陸の、羊と麦ばかりの土地ですよ」
「そのお歳で、ひとり旅で?」
「十五です。ひとりではありません。先生と、それに供のロッドが、いまごろ宿で馬に水をやっているはずです」
「ラーデン……」
ガラムは首をひねったが、知らない名らしかった。それでいい、と私は思った。家の名で石が軽くなるわけではない。
井戸の縁が見えてきたころ、背の低い男の子が、桶を両手で抱えて走ってきた。十くらいだろうか。膝に擦り傷があって、髪に土がこびりついている。
「親方、水、汲めるようになった?」
「まだだ、ティモ。あと少しだ」
ティモと呼ばれた子は、私を見上げて、ぽかんと口を開けた。
「この人、だれ?」
「旅のお方だ。手伝ってくださってる」
「ふうん」
ティモは、私の腕と、私が抱えている石を見比べた。それから、山のほうへ目をやって、声を落とした。
「ねえ。山が崩れたの、岩魔が起きたからだって、ばっちゃが——」
「ティモ」
ガラムの声が、低くなった。
「そういう話は、するもんじゃねえ」
ティモは、口をつぐんだ。けれど、目だけはまだ山の上を見ていた。
まわりの男たちも、誰ひとり山を見ようとしなかった。石を運び、汗をぬぐい、声をかけ合う。そのあいだ、誰の目も、白い山肌の上には向かなかった。
岩魔、と私は口の中で繰り返した。聞いたことのない言葉だった。
最後の石を塀の外へ転がしたとき、ガラムが、ぽつりと言った。
「崩れたあとにな、山羊飼いのじいさんが、山の中腹に、鉄の戸を見たって言うんだ」
私は、顔を上げた。
「鉄の戸?」
「ああ。岩がはがれたところに、でっかい丸い輪っかのついた、鉄の戸が出てきたってよ。……まあ、年寄りの見間違いだろうがな」
ガラムは笑ったが、その笑いは、すぐに消えた。
私は、先生のほうを振りむいた。先生は馬の横に立ったまま、何も言わずに、山の中腹を見上げていた。
*
宿の二階の小部屋で、皆が寝静まるのを待った。
階下の物音がやみ、ガラムのいびきが床板ごしに聞こえてくるようになってから、私は荷の底から、油紙に包んだ綴りを取り出した。
灯りの魔道具を、いちばん小さく絞る。
一人になると、顔から力が抜けるのが自分でも分かった。昼間の私は、よく笑い、よくしゃべる。それが嘘だとは思わない。ただ、こうして夜にひとりで紙をめくっているときのほうが、息が深くなる。家でこのことを知っているのは、同じく夜更かしの妹のリセルだけだ。
綴りは、家の書庫のいちばん奥の棚で見つけた、古い記録の写しだった。元の紙は、触れると崩れそうなほど脆かった。だから、夜ごと少しずつ、自分で書き写した。
ほとんどは、年ごとの麦の出来と、境の争いの記録だ。その中に一枚だけ、ほかと違う紙が挟まっていた。
墨の線で、丸い輪のついた戸が描いてある。
輪の中に、十字の桟。戸の縁には、点を並べたような飾り。輪の真ん中、桟が交わるところにだけ、小さな丸が一つ、墨で塗りつぶしてあった。その横に、かすれた字で、こうあった。
——火の山の中腹に鉄の戸あり。これを閉ざし、鍵は家にとどむ。
紙の隅には、書いた者の名らしい、かすれた小さな署名もあった。
私は、胸もとに手をやった。
首から下げた、小さな守り袋。物心つく前から、ずっとここにある。中には、親指の先ほどの小さな魔石が入っているらしい。開けたことはない。
「これだけは、決して手放すな」
父は、それしか言わなかった。理由を聞いても、一拍置いて咳払いをして、話を変えた。
火の山。鉄の戸。鍵は家に。
ガラムの言った「丸い輪っかのついた、鉄の戸」が、紙の上の絵と重なった。
とん、と戸が叩かれた。
私は、綴りを閉じた。
「まだ起きておいでですか?」
カーナイ先生の声だった。
「……はい。どうぞ」
先生は戸口に立ったまま、私の手もとの綴りを見た。それから、私の顔を見た。
「その紙のために、ここまで来たのですね」
問いではなかった。私は、笑ってごまかそうとして、やめた。先生には、ごまかしが通じたためしがない。
「先祖が、火の山の戸を閉ざしたと書いてあります。鍵は家にとどむ、と。……それがこの山のことなのか、自分の目で確かめたいんです」
先生は、しばらく黙っていた。
眼鏡の縁に、灯りが小さく映っていた。
「お父上が許されたのは、魔素の調べと、出てきた遺構を外から見ることまでです」
「分かっています」
「外から、ですよ」
「外から」
私が繰り返すと、先生は、ようやく少しだけ口もとをゆるめた。
「では、明日は早いですから。灯りは、ほどほどに」
戸が閉まった。
私は、もう一度だけ綴りを開いて、丸い輪の絵を見た。それから灯りを消した。
暗がりの中で、守り袋の石が、肌に冷たかった。
*
夜明けとともに、山へ入った。
道案内を買って出たのは、ティモだった。ガラムは渋い顔をしたが、山羊飼いの道を知っているのはこの子とじいさんだけで、じいさんは岩崩れで足をくじいていた。
「境の石までです。そこから先へは、一歩も来させません」
先生がそう約束して、ようやくガラムはうなずいた。
供のロッドも、境の石までついてくることになった。そこでティモを引きとって、村へ連れて帰る役だ。私たちの戻りは、日が尾根の真上を過ぎるころ。それより遅れたら麓の町へ人をやってくれ、とガラムとロッドに頼んだ。
白い岩の斜面は、段々になって空へ続いていた。まばらな低木が、岩の割れ目にしがみついている。日が昇るにつれて、岩肌が光を跳ね返し、目を開けているのがつらいほど明るくなった。
頭の上で、山が鳴った。
どおん、と腹の底を殴られるような音だった。続いて、ごろごろと、岩が転がり落ちるような響きが長く尾を引いた。鳥が、低木からいっせいに飛び立った。
ティモが、私の上着の裾をつかんだ。
「……だいじょうぶ。いつものやつ」
そう言いながら、指は離れなかった。
先生が、腰の道具袋から丸い文字盤の魔道具を出した。魔素濃度計だ。針が、出発したときよりも目に見えて左へ下がっていた。
「薄くなってきましたね。アキトス様、息は?」
「平気です。先生は?」
「わたしも、まだ」
私も先生も、生まれつき魔力が高いほうだ。魔素の薄い高地でも、すぐには体にこない。けれどティモの顔は、少し青白くなっていた。
中腹の手前で、ティモが足を止めた。
道の脇に、腰の高さほどの石が立っていた。表面に、すり減った線が刻まれている。
「ここから先は、村の者は行かないんだ。ばっちゃが、ここを越えると、山に連れてかれるって」
「ありがとう、ティモ。ここからは、ロッドと一緒に村へ帰るんだ」
ロッドが、ティモの肩に手を置いた。白髪まじりの、無口な男だ。私が生まれる前から、ラーデンの厩にいる。
ティモはうなずいた。それから、私の顔を見上げた。
「ねえ。山、また崩れる?」
私は、すぐには答えられなかった。
ティモの膝の擦り傷を見た。土のこびりついた髪を見た。きのう、井戸の水が汲めるようになったかと聞いた声を思い出した。
「見てくるよ」
私は、ティモの頭に手を置いた。
「崩れそうなら、真っ先に知らせに戻る。約束だ」
「……ほんとに?」
「ラーデンの跡継ぎは、約束を破らないんだ。破ると、父上に砂袋を三つ担がされる」
ティモは、少しだけ笑った。
*
扉は、岩崩れの跡の、いちばん奥にあった。
山肌が大きくはがれ落ち、むきだしになった崖の根もとに、それは埋まっていた。
人の背丈の倍はある。
石ではなかった。木でもなかった。鈍い色をした、分厚い金属の板だった。中央に、大きな車輪のような取っ手がついている。輪の中には十字の桟。継ぎ目には等間隔に鋲が並び、色褪せた縞模様の塗りが、かろうじて残っていた。扉の脇には、四角く角張った記号が、いくつも連なって刻まれている。
私は、息をするのを忘れていた。
丸い輪。十字の桟。点を並べたような縁の飾り。
ゆうべ、灯りの下で見た墨の絵が、そのまま目の前に立っていた。
「……先生」
「ええ」
先生の声も、かすれていた。
私は、まず崖の上を見上げた。浮いている石がないか、ひとつずつ目で追う。崩れたばかりの岩肌は、まだ乾ききっていない。何かが落ちてきたら右の大岩の陰へ、と逃げ場を決めてから、先生にうなずいた。
先生は荷を下ろし、扉にかぶった土砂と砕けた岩を、丁寧に払った。それから、使いこまれた道具を並べた。小刀、細い鉄棒、油の小瓶。どれも柄が手の形にすり減っている。
取っ手に油を差し、鉄棒を桟に通して、体重をかけた。
動かない。
記号の一つ一つを、指で順に押してみた。鋲の頭を、小刀の背で叩いて音を聞いた。継ぎ目に細い刃を差しこもうとした。
一刻近くたっても、扉はびくともしなかった。先生の額に、汗が玉になって浮いていた。
「錆びついているのではありませんね。何か別の力で、固められている」
先生は岩に腰を下ろし、水筒に口をつけた。その目は、疲れとは別の光で、扉を見上げていた。
私は、扉の前に立った。
外から見る。父が許したのは、そこまでだ。分かっている。
けれど、紙の上の絵と同じものが、目の前にある。先祖がこれを閉ざしたのなら、その子孫の私には、これが何なのかを知る理由があるはずだ。
ふと、墨の絵の、塗りつぶされた小さな丸を思い出した。
輪の真ん中。桟が交わるところ。
先生は、縁の記号も、鋲の頭も、継ぎ目も確かめた。けれど、そこにだけは触れていなかった。
私は、片手で取っ手の輪をつかみ、もう片方の手のひらを、桟の交わる中心の丸い板に当てた。
鉄は、陽に焼けて温かかった。
回そうと、腕に力をこめた——その瞬間、胸もとが、熱くなった。
守り袋だった。
中の小さな石が、火を入れた炭のように、じわりと熱を帯びていく。肌が焼けるほどではない。けれど、確かに熱い。
扉の奥で、重く低い音がした。
ごとん。
取っ手が、私の手の中で、ひとりでに回りはじめた。
私は、思わず手を離した。取っ手は止まらなかった。軋みながら、一回り、二回りと回り、最後に、がちん、と何かが外れる音がした。
扉が、こちら側へ、ゆっくりと開いていった。
冷たい風が、隙間から吹きだしてきた。晩夏の山の空気とは、まるで違う。井戸の底のような、ひやりとした風だった。
振りむくと、先生が岩から立ち上がっていた。
「……アキトス様。いま、何をなさいました?」
「真ん中に手を当てて、回そうとしただけです。綴りの絵に、そこだけ印がついていたので」
嘘ではなかった。けれど、それだけで開いたとも思えなかった。私は胸もとを押さえた。守り袋の熱は、もう引きはじめていた。
先生は、私の顔と、胸もとと、開いた扉とを、順に見た。何かを言いかけて、口を閉じた。
*
扉の向こうは、まっすぐな通路だった。
壁も床も、扉と同じ鈍色の金属で張られている。鋲が、等間隔に、奥の暗がりまで続いていた。
私は、敷居をまたいだ。一歩だけ。
頭の上で、ぱちん、と小さな音がした。
天井に埋めこまれた丸い板が、白く光った。
ぱちん。その先の板も光った。ぱちん。またその先も。灯りが、私の足もとから奥へ向かって、一つずつ順にともっていく。まるで、通路そのものが、私の来るのを待っていたかのようだった。
「アキトス様」
背後から、先生の声がした。
「外から、ですよ」
私は、足を止めた。
「……はい。ここまでにします」
口ではそう言いながら、目は奥から離れなかった。灯りの列は、通路の先で下り坂になり、闇の中へ消えていた。
そのとき、足もとで、音がした。
こつ。
私は、動きを止めた。
こつ。こつ。
床の下からだった。金属の板の向こうから、硬いもので叩くような音が、三つ。
先生も、息を詰めていた。
私は、ゆっくりと片足を上げた。靴のかかとで、床を三度、鳴らした。
こん。こん。こん。
通路に、音が長く尾を引いた。
静かになった。
風の音だけがした。先生が、私の肩に手をかけようとした。
こつ。こつ。こつ。
床の下から、同じ数だけ、返ってきた。
胸もとの守り袋が、また、かすかに熱を帯びはじめていた。




