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ノエルは時々やってきて、一緒にご飯を食べたり、ちょっとした買い物をした。
自分達の常識が、この国の非常識だった笑えない失敗や、懐かしい母国の話をした。お互い、母国の言葉で会話できる相手が他にいなかったからかもしれない。
マリーとノエルは、婚約破棄の後に友人になった。
パトリシアが戻ってきて、工房には新しい弟子が入った。今日は父の上司が、夕食を共にしようとやってきた。
「硝子は随分作れるようになったようだから、そろそろ商いも勉強するかい?」
「私、話せるけど、あんまり書けなくて。もう少し待ってください」
「セセラ子爵のことは、残念だったね。大丈夫かい?」
「今は、いい友人です」
「気が合うからと言って、夫婦にはなれないものなんだな」
違う出会い方をしていたら、違ったかもしれない。
「そうですね。私の恋人は硝子ですので」
「それは、困ったな」
食事をしながら、マリーはノエルの恋人にパトリシアを思い浮かべた。
パトリシアは戻って、また学校に行っていた。時々、授業をさぼってノエルの働く博物館に押しかけるらしい。
「ノエルが忘れられなくて、帰ってきたんだもん」
「良くご両親が許してくれたね」
パトリシアの家は、商家だと聞いた。ノエルは人当たりがいいけど、マリーにはノエルが商人はあまり想像できない。
そういえば、裕福な商家なら国が違えば貴族と結婚できるのだろうか。
工房の新しい弟子は、マリーと同じくらいの歳だろう。父親が、元は工房をやっていたらしい。
彼は早口で、マリーは聞き取れなくて何度も聞き返す。嫌な顔をされるので、言葉も頑張って覚えなければと思う。
マリーが教えることは既に知っていて、寧ろ言葉の足りないマリーが教えることはなさそうだった。
「ランプが作りたい?」
「そう」
「彫金は、彫金細工師に任せるべきだ」
「そうかもしれないけど」
「硝子もまともに仕上がらないのに、そんなこともわからないのか」
でも、マリーは自分でやりたい。あの赤い煌めきを、自分の手で生み出したい。
上手く伝える言葉を、マリーは知らなかった。
「ノエル?」
仕事終わりの工房の前で、ノエルが立っていた。
「久しぶり」
「パトリシアに会った?」
「何度も職場に来てる」
案外、ノエルは乗り気でなさそうだった。歩きながら話した。
「普通だろう?職場に邪魔はちょっと」
「まあ、そうだね。住所教えれば?」
「それはもっと大変だろう」
「そっか」
マリーには、あっさり教えてくれたのに。
パトリシアにノエルの住所を教えてあげたい気持ちを、ぐっと抑える。間に入って、何かすべきではない。パトリシアは、マリーの仕事のことをノエルに話さなかった。
「マリーが明日休みなら、博物館に行かない?」
そういえば、観光なんて全然していなかった。ノエルに海に連れて行ってもらった以外、殆どどこにも行っていない。
「はい、お願いします」
マリーはノエルと約束をして、部屋の前で別れた。
翌日、マリーを迎えに来たノエルは、思わず口元を押さえた。
ワンピースを着て、伸びた髪を編み込んだマリーは、確かに育ちがいいと分かる。階段を駆け下りてくるのが危なっかしくて、思わず手を伸ばす。掴んだマリーの手だけが傷だらけで、なんだかおかしかった。
「連れて歩くのに、いつもの感じじゃ酷いからね。これなら良いでしょう?ご子息」
「うん。すごくいい」
「やった。それなら、昼食は奢りだね」
博物館は広く、懐かしい匂いがする。静かな博物館の雰囲気のせいか、マリーはとても落ち着いた。
ノエルは、古文書の辺りにずっといるからと、館内図を指した。一緒に回るつもりなのかと思っていた。
「私、一緒に行くよ?」
「多分、無理だよ。没頭するから」
「それは、それでいいよ」
ノエルと、古文書のブースまで歩いた。
「僕は、この辺り。次はマリー」
「私?」
先を行くノエルについて、いくつかホールを横切った。
「うわぁ」
マリーは慌てて、口を押さえた。飛び跳ねそうに興奮した。子犬になったマリーに、ノエルが笑いを噛み殺す。
「昼食には合流しよう。人目につかないところには行かないで」
耳元で囁くとコクコクと頷いて、もうマリーにはノエルが見えていなかった。
そこには、王家のものではないが古い硝子のランプが展示されていた。
ノエルはまだいたが、マリーは、あっという間に自分の世界に入ってしまった。
マリーの意識には、もうノエルはいない。説明を真剣に読んで、食い入るように見つめて。こんな婚約者、大変だろう。
ライバルは、硝子のランプとは。
「何でこうなったんだろう」
あの時に、素直に婚約すれば良かった。
しばらくマリーを見守って、ノエルも古文書のブースに向かった。
マリーは、意外と早くノエルのところに来た。逸る気持ちを抑えて、最速の早歩きで。
メモメモメモりたい。ペンを貸して。
マリーは、ノエルを見つけて立ち止まった。ノエルを呼ぼうとして、すぐに呼べなかった。
本の世界に入り込み、人目を気にしていないノエルは、真剣な顔で本と格闘して。時々、眉間にシワを寄せて、ため息をつく。マリーの見たことのないノエルだった。
ノエルは、やっぱり外見がマリーの好みで。
繊細な性格が、色白の肌に合った美丈夫で。
マリーは海に行った時も、波と遊びながらノエルを見ていた。ノエルは遠くの海を見ているとき、きっと文通相手を想っていたんだろう。
ノエルの想い人は、どんな人だろう。
今も想っているのだろうか。
ノエルが時々連れて行ってくれるカフェもお店も、一人で行く所ではない。彼女と行った店なのか、ノエルに聞くに聞けない。
今日は、ノエルが恥ずかしくないように、髪は編み込んだ。ノエルと一緒なら大丈夫だろうと、化粧もして久しぶりにスカートを選んだ。
ノエルに、今更取り繕っても手遅れなことは知っているから。自分のためでなく、ノエルのためだと言って。
だけど、今は、少しだけ思う。
できるなら、ここで、初めてノエルと会いたかった。
「ノエル、ペンを借りたい」
「ああ、先に渡すべきだった」
ノエルは、閉館までマリーからは来ないと思っていた。
「何かあった?」
「ペンを」
「他に」
「何もない」
「お腹すいた?」
子犬が、少々しょぼくれている気がする。浮かれて、飛び跳ねてくると思ったのに。
博物館のレストランで、舌平目のムニエルをマリーは無言で食べた。婚約破棄の時のようだと思いながら、またノエルから話し掛けた。
「美味しい?」
「すごく美味しい」
「好きなランプはあった?」
「あのね、ランプが生きててね、硝子がカーブで、こうぎゅっとしてて最高」
いつものマリーの笑顔が戻ってきて、子犬が尻尾を振るようで、ついノエルも笑った。
「全部。全部。後でメモメモメモ」
うん。もう壊れ方がいつも通りだ。大丈夫らしい。
「つけて来たんだね、それ」
ノエルの視線の先、マリーの首元に青い硝子のペンダント。
「高いものじゃないから、見えても危なくないでしょう?」
ノエルが満足そうなのは、お腹がいっぱいだからだろうか。




