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声の主を足元から見上げて、マリーは息を呑んだ。
「―――ノエル」
「誰?」
ノエルはマリーだと、わからないらしい。たった二度会っただけの、望まない婚約者。化粧も髪も変えたら、そんなものか。
悔しいけれど、今は彼に縋らないと足が震えて立ち上がれない。
「具合が悪いの?」
マリーを抱えるようにして、ノエルは詰所に向かった。
落ち着くまで、詰所で椅子に座らせてもらった。
「ありがとうございます。スカートもやめて、夜も出かけないで、気をつけていたんですが」
「綺麗な長い髪だからね。見れば育ちが良いって分かるよ」
「そういう、もの、ですか」
マリーはがっかりした。
学校と工房と部屋との行き来は、汗をかくので髪はまとめていた。今まで、運が良かっただけだ。
それにこの詰所に、母国語を話す人が居てよかった。祭りで訪れる他国からの客人対応のため、派遣されていたらしい。
「あの、ハサミをお借りしたいんですが」
マリーが髪を握って、ノエルだけでなく詰所の者達もハッとした。
マリーは、迷いなく髪を切ろうとしていた。
「待て、待て。やたらと思い詰めているようだが、留学生かい?」
「はい」
「それは大変だね。髪は、必要なときは帽子にでも隠せば大丈夫だろう。切ったら勿体ない」
「―――そう、ですか」
マリーは渋々ハサミを返し、くるくると髪をまとめてリボンで縛った。
ノエルは、自分の国の言葉を話すマリーに不思議そうな顔をしていた。
マリーは、名乗るつもりはなかった。
「あのー」
昼休みにマリーとパトリシアで昨日の話をしていると、話しかけてきたのはノエルだった。
「君、昨日の」
ノエルは同じ学校だった。今までだってすれ違っていたのかもしれない。お互い居るとは思っていなかっただけで。
「髪」
「見ての通りですが、何か」
マリーの髪は、肩上で切りそろえられていた。
ノエルは、随分と過激なマリーにショックを受けた。似合っていて、綺麗な髪だったのに。
ノエルは、改めて過激な同邦人を見る。
やっぱり、そうだ。
ノエルを無視し、パトリシアと話し始めたマリー。
「あの、マリー、だよね?」
「だから何か?」
邪魔だとばかりにノエルを見る過激な彼女は、確かに振った婚約者だった。
「まさか、ここで会うとは」
「そっくりお返しします」
パトリシアには知り合いだと紹介したが、彼女は気を遣って席を外した。
「留学するつもりだったから、婚約は私の希望じゃなかったと分かってもらえました?」
「ああ、すまなかった。だけど、僕もそうだと分かってもらえただろうか?」
お互いに、留学したくて婚約破棄したと判明する。
「では、ごきげんよう」
顔が好みでも、同じ国から来ても、関わる必要はない。マリーは、挨拶して立ち上がった。
「授業は?」
「仕事なので」
「働いてるの?」
ノエルには、関係のないことだ。
マリーはノエルを無視して、短い髪を帽子に隠すと学校を出た。
マリーは、出来は良くも悪くもない。半日だけの語学学校のクラスは、パトリシアと随分離れてしまった。
やがて、マリーとパトリシアの休み時間のタイミングは、バラバラになった。
いつもの中庭に休み時間に行っても、話す人がいない。そういえば昨日は休みで、家にいたマリーは一言も発していなかった。
今日のマリーは、いつも以上にパトリシアを探していた。昨日、工房で初めてのことをやらせてもらえた。嬉しくて、パトリシアに話したい。
マリーは学校の中庭にパトリシアの姿を見つけ、呼ぼうとして立ち止まった。
ノエルもいた。
マリーは、深呼吸をしてから近づいた。
二人はその後、同じクラスになったらしい。
マリーより流暢な会話に、昨日のことを話せない。言いたいことも、上手く言えない。
今度は国王の誕生祭があるので、クラスの友達で行くらしい。二人の会話は早くて、マリーは全ては聞き取れない。
「マリーも、一緒に行こう」
パトリシアが気を遣って、ゆっくりと繰り返してくれる。ノエルも、マリーが理解するのを待った。
「あっ、ごめん!忘れ物した!部屋に戻って仕事行くから、またね!」
マリーは、返事をせずに走り出した。
自分が居ないときにも、二人は中庭で休み時間を過ごしているのだろう。パトリシアを取られてしまったようで、胸が痛む。
息を切らして逃げながら、マリーは前を向いた。
パトリシアはノエルと話していて、楽しそうだった。だからきっと、笑ってるならそれでいい。
母親違いの姉妹が、自分に気を遣っていた頃をマリーは思い出した。
優しくされても素直に受け止められないのは、自分が悪い。マリーは、良く知っている。今は、姉とも妹とも本当に仲が良いのだ。パトリシアだって、大好きだ。自分の受け止め方で、全ては変わる。
ここに来たのは、友達を作るためじゃない。立ち止まったマリーは、手を握りしめて目を閉じる。
爪の短い荒れた手は、料理も裁縫も手を使うことは極力してきたからだ。掃除と洗濯は、使用人の仕事を奪ってしまうのでやらせてもらえなかったし、庭師には、梯子に登るのはだめだと言われたけれど。
それでもノエルと婚約の顔合わせの時には、手袋で隠したくらい令嬢らしくない、仕事をしてきた手。
マリーは、昔見た赤い硝子のランプを思い出す。赤い硝子が脈打って、煌めいていた。
あれが作りたい。
マリーに諦めるという選択肢はない。
マリーの人生は、硝子のランプに出会って変わった。
そのために、一人でもここまで来たんだもの。
マリーは顔を上げて、工房へ向かった。
パトリシアとノエルが、一緒に歩いているのを何度か見かけた。二人は随分上のクラスになり、気が合ったらしい。
友達が増えて、会う度にパトリシアは出かけた話を楽しそうにしてくれた。それでも、マリーは大事な友達だと言ってくれて嬉しかった。
その後しばらくして、パトリシアはまた来るからと言って、一度国に帰って行った。
マリーは、ひとりで泣いた。
顔だけは見たことのあった他の生徒たちも国に帰り、新しい生徒が来て順に入れ替わっていく。
ノエルはパトリシアが居なくても、中庭に来た。
「食べる?」
マリーは無言で受け取った。ノエルのくれた母国の白飴は、懐かしい味だった。ノエルは、家族と連絡を取り合っているらしい。
そういえば、こちらに来てからマリーは手紙ひとつ家族に書いていない。家族が恋しいこの気持ちを、なんて書いたらいいのか不器用なマリーは分からない。
ノエルは、マリーに普通に話しかけてくる。けれどマリーは、ノエルと仲良くする気は無い。
「マリーは、何の仕事してるの?」
「その辺の仕事」
荒れたマリーの手。
「料理でもしてるの?」
「私の作った物、食べたら死ぬわ」
硝子と金属だからね。
教室で女生徒たちが、ノエルの話をしていた。マリーは黙っているが、どこかからノエルは隣国の貴族だと知れたらしい。
確かにノエルは優しくて、人当たりがいい。顔もよくて貴族となれば、結婚相手に苦労しない。この国でも貴族同士でないと、結婚は大変なのだろうか。
気になったのは、きっとノエルの素性を知っているからだ。
学校にいると置いていかれるようで、マリーは、いつまでも居続ける自分を人と比べてしまう。比べる自分が嫌で、マリーは語学学校を辞めた。
ノエルに言おうとして、マリーは止めた。
いずれは、ノエルも国に帰るだろう。




