4、国を追われた神竜王子、人界で芋を愛する伯爵令嬢と出会う
神の領域に近い場所、神竜国の澄んだ蒼空には、自由に泳ぐ美しき二体の竜が遊んでいる。
その日も、第一王子ダナティスラフィルと、妹のポエニは、悠然と翼を広げ戯れていた。
白く眩しい陽光が、漆黒の躯を持つ兄竜と、それより一回り小さい薄桃色の妹竜の鱗を照らし、空に虹の波紋を広げている。
「お兄様、少し速すぎます!」
後方から、幼い声が追いかけてくる。
振り返れば、まだ翼の小さな妹が、必死に羽ばたいていた。風に舞う花びらのように淡い桃色の鱗が、陽光を浴びてきらきらと眩い。
「遅いよ、ポエニ」
「お兄様が速すぎるのです!」
不満げに頬を膨らませる愛らしい妹の様子に、ダナティスは僅かに目を細めた。
「じゃあ、少し休む?」
「本当ですか!?」
ぱっと表情を明るくする妹に、兄は小さく頷く。
そこは、王宮より離れた場所ながら、強固な結界に守られた王族だけの憩いの空域だった。眼下には深い新緑の森が広がっている。
だが、突如として、天の空気が澱んだ。
「――っ!」
脳裏を突き刺すような鋭い殺気が、背後から迫る。
振り向いたときには、すでに遅かった。無数の針のような凶光が、一直線に妹へと向かって降り注ぐ。
「ポエニ!」
咄嗟に、身体が動いた。
ダナティスは大きな翼をたたみ、小さな妹の身体を懐へと抱き込んで、その凶光の軌道から強引に逸れた。
「お兄様!?」
怯え、震える妹の声が、すぐ近くで響く。
そのまま二体は、天地が逆転するような勢いで地表へと墜落する。激しい衝撃と全身に強い痛みが走ったが、大地の精霊がクッションとなって自分たちを守ってくれたようで、奇跡的に致命的な怪我はなかった。
しかし、激突の負荷に耐えかね、竜の躯は光となって霧散した。神竜族は膨大な魔力を維持できなくなると、本来の人型へ戻ってしまうのだ。二人の姿は幼い少年少女へと戻ってしまった。
「……無事か、ポエニ」
ダナティスは、それだけを確かめるように妹を見た。
腕の中の妹は、今にも泣き出しそうな顔で、何度も何度も激しく頷いた。
だが、息を吐く猶予すら敵は与えない。
めくれ上がった土煙の向こう、空の裂け目から不吉に歪んだ影が現れた。その中心に立つ男の顔を認め、ダナティスの息が止まる。
(――叔父上……!?)
見慣れた親族による、予期せぬ反逆。
その最悪の理解は、意識よりも早く、張り詰めた脳細胞へと伝達された。
「お兄様、逃げましょう……!」
服の袖にすがる妹。だが、既に囲まれているようだった。
ダナティスはポエニの細い腕を掴むと、自身の全魔力で、強力な転移魔法を発動させた。そして、彼女の小さな身体を、まばゆい光へと突き飛ばす。
「母上のもとに行け! 一人なら、今の僕の力でも送れる!」
「お兄様、いや――!」
ポエニが叫びを上げるより早く、目映い閃光が炸裂した。
空間が爆ぜ、妹の姿は、ダナティスの眼前から完全に消失する。
叔父たちが、転移した妹を追うことはないはずだ。妹はまだ幼く、王位継承権も低い。彼らの真の狙いは、王位の第一継承権を持つこの自分だろうから。
予想通り、すでに次の一撃が頭上から迫っていた。
ダナティスは掌から炎の魔法を放ち、迫り来る黄金の業火に必死の抵抗を試みる。
しかし、それは幼き竜の、無力な足掻きに過ぎなかった。敵の放った金の光は幾重にも重なる呪縛となり、彼の身体を包み込んでいく。
「……が……っ!」
脳を焼くような激痛。
それは、神竜の力を根こそぎ奪う『封じの術式』
そして、世界の境界を捻じ曲げ、神竜を地へ堕とすための次元の裂け目に吹き飛ばされた。冷酷な叔父の嘲笑が、遠ざかる意識の向こうで響いた気がした。
身体が、鉛のように重くなっていく。
(ああ……そういうことか……)
叔父は、ここで自分を殺害するつもりはないのだ。正当な理由なく同族を、それも次期王を殺めれば、その業によって因果が狂い、叔父自身も神竜としての力を大きく失ってしまう。
だから、自分を死なせぬまま、“異次元の領域へと堕とす”のだ。神の力を奪われ、二度と天へ上がれぬ、無力な子供として。誇り高き竜の歴史から、その存在ごと消し去るために。
意識が急速に暗く、薄れていく。
世界の裂け目に呑み込まれながら、それでも、最後に一つだけ、祈るように思った。
(ポエニ……無事に逃げられたよね……)
すべてが霧散し、果てしない暗闇の底へと落ちていく。
そして。
少年は、見知らぬ人界の森の中で、渇きと飢えに震えながら目を覚ました。
衣服は無残に破れ、魔力も完全に底を突いている。数日、あてもなく森を彷徨った。だが、元の世界へ戻る手立ては見つからない。
とうとう冷たい地面に横たわった。孤独と絶望に身を震わせ、意識を手放しかけたその時、彼の鼻腔を、不意に、妙に香ばしい「焦げた匂い」がくすぐる。
少年はその香りに誘われるようにして、よろめきながら必死で立ち上がった。
それが、神竜国第一王子ダナティスと、芋を愛する伯爵令嬢コンスタンテとの、焦げた匂い漂う出会いだった。




