33、ポテチ好きの君を、永遠に
大聖堂を支配する、耳が痛くなるほどの静寂。その静寂を金切り声で打ち破ったのは、やはりカナだった。
「そんなのおかしいですわ!」
その顔は嫉妬と怒りで大きく歪んでいる。自分が散々蔑んしてきたコンスタンテが、あろうことか世界最高位の神竜に求婚されている。その受け入れがたい事実に、嫉妬を隠しきれず前へ飛び出してきたのだ。
「神竜様!!! 私は聖女候補として今日まで血の滲むような努力をして参りました! その方はただ太っているだけで、淑女とは」
「それ以上、その嫉妬に満ちた口を開くな」
失望に歪んだ、低い声が大聖堂に響いた。
しかし、その声の主はダナではない。
聖堂の中心に座す、普段は穏やかな大司祭が、刃のように鋭くその一言を放っていた。
さらに、マリスの父であるリヴァート公爵も親族席から立ち上がった。
マリスに司祭たちの冷たい視線が突き刺さる。学園でマリスに媚びていた生徒たちも、今は誰一人として目を合わせようとしない。
公爵はこれまでに見たこともないほど険しい顔のまま、実の息子を振り返る。
「マリス」
「……ち、父上!」
「お前は、自分がどれほどの国家反逆の大罪を犯したのか理解しているのか」
大聖堂に、先ほどとは質の違う、重苦しい沈黙が落ちる。リヴァート公爵の額や首筋には、びっしりと冷たい脂汗が滲んでいた。
神竜。それは王国が数百年もの間、国を挙げて祈り続けてきた絶対の守護神。その神竜を、息子はくだらない私怨による婚約破棄劇に巻き込み、あまつさえ激怒させたのだ。この神竜の逆鱗一つで、国ごと消し飛ぶかもしれないというのに。
「前へ出ろ」
「……」
「聞こえなかったか、マリス!」
マリスの肩がビクリと小さく震える。
大勢の貴族たちが見ている。学園の同級生たちも、神官たちも、全員が自分を凝視している。そのすべての衆目の前で、父親は容赦なく言い放った。
「神竜様へ、這いつくばって謝罪しろ」
マリスは屈辱に顔を醜く歪めた。だが、公爵の視線は拒絶を許さない。ここで判断を誤れば、公爵家ごと取り潰しとなる事を理解していたから。
「今すぐだ!」
逃げ場など、どこにもなかった。
マリスは泥の中に足を突っ込むような重い足取りで、ゆっくりと前へ進む。かつて見下し、勝ち誇った顔で婚約破棄を突きつけた、コンスタンテの前を無様に通り過ぎ、神竜国第一王子、ダナの前へと立つ。
そして、ついに膝をついて両手を突き、自身の額を冷たい大理石の床に強く押し付けた。
大聖堂は、水を打ったように静まり返る。
次期公爵と持て囃されていた男が、全校生徒と教会関係者の前で、無様な姿を晒す。
「……申し訳、ございませんでした……っ」
その声は、涙混じりに惨めに震えていた。
だが、後ろから公爵の激しい叱責が追撃する。
「声が小さい!!」
マリスの顔が屈辱と恥辱で真っ赤に染まる。だが、ここで声を張らねば全てを失うのだ。
「申し訳ございませんでした!!」
大聖堂の広大な天井に、マリスの謝罪の叫びが虚しく響き渡る。
「違う!違うわ、こんなの……! 聖女は私ですのよ! そんな高慢で醜い女など」
なおも現実を受け入れられず、カナの金切り声が大聖堂に響き渡った。
「聖女を名乗りながら、人を貶める言葉しか吐けないのか」
ダナが冷たい言葉と共にパチンと指を鳴らす。
途端、天井近くに巨大な水球が現れ、カナの頭上へと容赦なく水の塊が降り注いだ。
バシャアアアン!と派手な音を立てて、ずぶ濡れになったカナは、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
カナはマリスなら助けてくれると信じていた。神竜もいずれ自分を選んでくれると思っていた。だが、そんな都合の良い奇跡は起こらなかった。それどころか周囲の貴族たちは、まるで舞台の哀れな道化を見るかのような、冷ややかな目で彼女を見つめている。
卒業式の婚約破棄、ドレスの盗作騒動、伯爵令嬢への見下した態度。
今まで振り撒いた悪意のすべてが、特大の因果となって一気に跳ね返ってきたことをようやく理解した。
しかし。
当のコンスタンテは、目の前で繰り広げられる因果応報の劇を、半分も頭に入れられずにいた。
(ど、どうしましょう……! 『愛しています』だなんて、ダナからの本気の求婚だなんて……っ!)
顔が火照って、耳の奥まで熱い。
心臓が破裂しそうなほど暴れていて、マリスが土下座しようがカナが水を被ろうが、まるで遠い世界の出来事のようだった。
確かにマリスに蔑まれ、カナに貶められた記憶はある。けれど、今さら彼らに向ける感情など僅かにも残っていなかった。コンスタンテの頭の中は、先ほどダナから贈られた真っ直ぐすぎる愛の言葉で完全に混乱していたのだ。
(落ち着いて、わたくし……! )
必死に深呼吸をして、真っ赤な顔を両手で挟み込み、ちらりと隣を見た。
そこには、世界を滅ぼせるほどの力を持つ神竜の姿はなかった。
いるのはただ、先ほどカナへ容赦なく水をぶつけた神竜とは思えないほど、緊張に身を固くする一人の青年。
初めて告白した少年のように、今にも心臓が口から飛び出しそうな顔で、コンスタンテの返事を待っていた。
その一途で愛らしい姿を見た瞬間、コンスタンテは上気した頬のまま、凛とした声を弾ませて名前を呼んだ。
「ダナ!」
突然名前を呼ばれたダナは、跳ね上がるようにキレよく返事する。
「はいっ!」
大聖堂中の視線が、再びこの二人へと集まった。
コンスタンテは少しだけ顔を赤くしたまま、人差し指をすっと一本立て、上目遣いに彼を見た。
「お嫁に行くには、絶対条件があります!」
ダナは即座に背筋を伸ばした。
「はい!」
「わたくし、先ほど二階からお芋……ポテトの油揚げを盛大に散らしましたわよね?」
「ええ。猛烈な速度で拾い集める僕の身にもなっていただきたい大惨事でした」
「ふふふ」
照れ隠しも混じった、笑みを浮かべてそれでも胸を張る。
「あれを機に、あのお菓子へ正式名称を決めましたわ。神竜の暴挙を止めるためにポテトを散らした、だから略して『ポテチ』です!」
その瞬間、親族席にいたコンスタンテの兄と、さらには大司祭までもが同時にガシッと頭を抱えた。ロザリオとエイミーは大爆笑し、親友のレイチェルとマリアは吹き出さないよう必死に口を押さえている。
ただ一人、ポエニだけが「可愛い名前です!」と純粋に目を輝かせる中、コンスタンテは高らかに宣言を続けた。
「そしてポテチの販売権限、および最高決定権は、一生わたくしが持ちます!」
ダナは数秒だけ、まるで国家の重大な行く末を決めるかのように真剣に考えたあと、
「問題ありません。ポテチのすべてを、お嬢様に捧げます」
一寸の迷いもない、大真面目な答えを返した。
その返答を聞いた瞬間。
コンスタンテの顔から強がりが消え、ひだまりのような笑顔が咲き誇る。
「ダナ」
「はい」
ダナは一瞬だけ、その眩しさに目を見開く。
「わたくしも――」
コンスタンテは少しだけ頬を赤く染め直し、悪戯っぽく囁いた。
「本当は、かなり前から気付いておりましたの」
ダナが息を呑む。
「あなたのことが、ポテチより……」
そして。
「大好きですわ」
言い切った瞬間、胸の奥に張り詰めていた何かが、ふっとほどけた。
驚くほど顔が熱くなり、ギュッと胸が締め付けられる。
本当は怖かった。
いつか誰かに、また否定されるのではないかと。
けれど、ダナは違った。
世界を滅ぼせるほどの力を持ちながら、彼が望んだのは完璧な令嬢でも、誰もが羨む美しい女性でもなく、
ポテチに目を輝かせ、少し抜けているコンスタンテ自身だった。
そのことが嬉しくて。
嬉しくてたまらなくて。
コンスタンテの瞳から、一粒だけ涙がこぼれ落ち、とびきりの幸せに満ちた笑みが弾けた。
そして次の瞬間。
ダナはコンスタンテの肩を抱き寄せた。
世界中から恐れられる神竜の力など微塵も感じさせない、優しい抱擁。
「お嬢様……。貴女も、貴女の大切なポテチも……ずっと僕が守ります」
耳元で囁かれた声にコンスタンテは目を瞬かせ、それからゆっくりと彼の胸へ身を預ける。
その光景を目にした大聖堂の人々は、神竜が一人の少女を大切そうに抱きしめる姿に小さな拍手を送る。
やがてそれは次第に広がり、司祭たちは微笑みながら頭を垂れ、貴族たちは二人の未来を祝福するように見守った。
大聖堂は、その日最大の、そして最も温かな幸福の空気に包まれた。




