32、海豹(あざらし)と言われた令嬢と、鈍感な神竜王子は噛み合わない
大聖堂を支配していた圧倒的な神威が、潮が引くようにゆっくりと収束していく。
嵐のあとのような静寂が空間を満たしていた。誰一人として声を発することはできない。神話の具現を目の当たりにした司祭たちも、近衛騎士たちも、ただその絶対的な光の余韻に圧倒され、魂を抜かれたように立ち尽くしている。
張り詰めた沈黙の中、宙に浮かぶ黒き神竜の輪郭が、静かに揺らめいた。
彼の隣でポエニがすべてを察したように優しく微笑み、指をそっと弾く。
その瞬間、ダナを包んでいた星々のような光が、ゆっくりと彼の身体へと収束し、大聖堂を圧倒していた神威が静かに引いていく。
光の中から現れたのは、豪奢な王族の衣装でも、恐るべき竜の姿でもない。コンスタンテのすぐ目の前に降り立ったのは、着慣れた従者の服を纏った、いつもの端正な顔立ちの青年だった。
あまりのその落差に、周囲の人々が未だ現実感を掴めず、息を殺して見守る中。
ダナはわずかに緊張した面持ちで、しかし真っ直ぐにコンスタンテを見つめた。
大聖堂を震わせる厳かな響きの中に、紛れもない『いつもの穏やかなトーン』を混ぜ込んで、彼はその唇を開く。
「お嬢様」
神の化身たる黒龍の前に、神官や近衛騎士たちはただ息を殺すことしかできない。
コンスタンテは、その神聖な雰囲気に媚びることも、恐れることもなく、いつも通りの快活な調子で身を乗り出した。
「なんですの?」
ダナはひとつ、深く息を吐き、慎重に言葉を選んだ。
「お嬢様、お願いがあります。貴女を、僕の花嫁として国へ連れ帰ってもよろしいでしょうか」
一瞬前までの神話の緊張感が、一転して、驚きに満ちた求婚の空気へと塗り替えられた。
コンスタンテは一瞬だけ、目を丸くして息を止め、けれど彼女はすぐにいつもの調子に戻り、小さく首を傾げる。
「わたくしを?」
「はい」
「……それは、婚約破棄されたわたくしへの同情かしら?」
「違います」
少し間を置いて、ダナは一言ずつ噛み締めるように続けた。
「正式な、神竜国王子からの要請です」
「……そう……なのですね……」
コンスタンテはドレスの腰にかけていた扇を手元に持ち、ゆっくりと開いて口元を隠した。
「花嫁にしたい理由はなんですの?」
ダナは愛しそうにコンスタンテを見つめた。
「僕はあなたに救われました」
「うん……」
「僕に内緒で、故郷へ帰る道まで作ってくれました」
コンスタンテが、小さく息を止める。
「あなたが僕のために縫ってくれた、そのドレスがなければ、僕は妹にも家族にも二度と会えなかった」
「……うん」
コンスタンテは扇の陰で、胸が熱くなるのを感じた。
「毎日、美味しいご飯をくれました」
「……うん」
「太って海豹みたいな体型になっていても、美しい女性を初めて見ました」
「このやろう、ですわ」
コンスタンテが扇をダナに投げつけたが、ダナはそれをサッと避ける。
司祭達は神竜に扇を投げつけた令嬢の暴挙に慌てて揺れるが、当の神竜は気にした風もなかった。
親族席ではコンスタンテの両親と兄が硬直しており、コンスタンテを追って近くまで来ていたエイミーだけは、思わず絶叫した。
「ダナ!! 女性を動物に例えてはダメと教えたでしょう!?」
ダナは姉分であるエイミーをチラリと見てからバツが悪そうに少し肩を竦め、それでも朗々と続けた。
「僕の正体が何だろうが、今の僕の主はお嬢様です。もしお嬢様が僕の花嫁になってくださるのなら、僕はこの国に神竜の加護を最大限与えることが出来ます」
ダナは神話に語られる奇跡を並べた。
今や、大聖堂の観客と化した生徒や教会関係者は、次々だされる神竜の提案に心踊らせ、黙って聞いていたコンスタンテも満面の笑みを浮かべる。
「まあ、素晴らしいですわね。あなたの妻になれば大地を癒やし、洪水と干ばつを鎮め、病を遠ざけ、世界の魔力の流れを正してくださるのね。我が領地どころか国にとっても、かなりお得ですわ。」
そう言ってコンスタンテは先ほど以上の微笑を浮かべ、しかし急速に冷えた目をして
「でも嫌です」
当然のように言い切った。
二人を見守っていた人々は顔を見合わせ困惑する。
王族席の者たちも呼吸を忘れたように固まり、そして当然ダナも固まった。
いつの間にかコンスタンテの投げた扇を回収しに近くまで来ていたエイミーだけは
「何故ですか!?」
と驚きの声を上げる。
「今回の事でよくわかりました。立場や義務で結婚を考えるなんて碌な事になりません」
ダナが目を見開く。
「ダナ、貴方は真面目すぎますの。助けてもらったから恩を返したい。そういう事はしなくて良いのですよ?」
ほんの数秒、沈黙が流れた。
「いえ、そういう事ではありません」
ダナが静かに否定する。
「そういう事ですわ」
コンスタンテは即座に言い返した。
「違います」
「違いません」
ダナが困ったように眉を下げる。
一方のコンスタンテは「分かっていますわよ」と言わんばかりに頷いてみせた。
その様子に、エイミーはこめかみを人差し指で押さえる。
「お嬢様」
「なんですの?」
「話が噛み合っておりません。ダナは本当の気持ちを話しています」
「本当の気持ち?」
コンスタンテが首を傾げる。
ダナは何か言いたげに口を開き、しかし言葉を飲み込んだ。
その様子を見て、エイミーは深々とため息をつく。
「本当にこういう肝心なところは駄目ですね。お嬢様も、ダナも……」
大聖堂の誰もが、そんな噛み合わない二人を固唾を呑んで見守るしかなかった。
その時だった。
「失礼いたします」
澄んだ声が響く。
神竜の姿のまま控えていたダナの妹、ポエニが光をまとって美しい人の姿へと戻り、静かに前へ進み出た。
黄金の瞳がまっすぐ見つめる。
「コンスタンテ様」
ポエニは丁寧に両手を重ねた。
そして深々と頭を下げる。
「あ、はい、なんでしょうか?」
「私は神竜国の王女ポエニと申します。まずは兄を助けていただき、お礼を申し上げます」
司祭たちはざわついた。神竜国の王女が一介の令嬢に頭を下げたのだから。
「お兄様は長い間行方不明でした」
その声には、長年抱えていた寂しさが滲んでいた。
「八年前、身内から反乱が起こり、叔父によって兄はどこかの世界へ飛ばされてしまったのです」
コンスタンテはじっと無言で聞きいった。
「反乱はすぐにおさまりましたが兄の行方だけはわからないまま。父も母も、国中の者たちも第一王子である兄を探し続けました。神竜の力を使い、あらゆる世界を探しました。それでも見つけられなかったのです」
大聖堂が静まり返る。
「ですが、今日、兄は見つかりました。貴女がその美しいドレスを作り上げて下さったおかげです」
ポエニは見惚れるほどの美しい微笑を浮かべる。コンスタンテは少しだけ目を伏せた。
「わたくしは大したことは何も……」
言いよどんだコンスタンテに、ここからはポエニは怒涛の売り込みを始めた。
「我が国にお嫁入りくだされば、国賓としての最高の待遇をしますし、貴女のために広いお城を建てます」
ポエニの声が大聖堂に響いた。
「え、た、建てるのですか?」
「まあ、新築のお城。素敵ねぇ」
今まで様子を見守っていたコンスタンテの親友、レイチェルとマリアが驚いたように呟く。
「はい、お望みなら宝石もドレスも好きなだけ揃えますし、お食事もおやつも全て思いのままです。それからお風呂には毎日薔薇の天然水をふんだんに使い、侍女達には、貴女の肌をツルツルに磨かせますわ」
「ポエニ、少し黙って――」
ダナは、コンスタンテがそんな優遇に興味がないと知っていたので、慌てて妹を止めようとしたが、その声をかき消すように親族席からクリストフと聖堂の中心にいるロザリオが乗り出した。二人はこれ以上ないほど必死な顔で力説する。
「コ、コンスタンテ……! 我が領の、いやこの国の平和のために、その話、前向きに検討してくれないか!」
「そうだぞコンスタンテ! あんなクズの元婚約者なんかと比べるのも失礼なくらい、素晴らしい相手じゃないか!海豹のくだりは神竜が百パーセント悪いが、見方を変えれば正直者だ!」
その傍らでコンスタンテの父母だけは
「国外に嫁ぐのはなぁ」
と二人ともぼやいている。
周りの野次と妹の暴走に、ダナは少々テンパった。どうすればお嬢様の心が動くのか分からなくなり、神竜としてのスケールで必死に言葉を絞り出す。
「お嬢様がお望みなら、領土を広げます!」
「悪竜みたいなセリフ言わないで!」
焦れたクリストフが再度叫ぶ。
「コンスタンテ!太めのお前を引き取ってくれる稀有なお方だぞ!」
「お兄様!今さらっと悪口言いましたわね!」
クリストフの悲痛な叫びを皮切りに、大聖堂のあちこちから一斉に野次のようなダナへの援護射撃が飛び交い始める。見れば、お堅い神官たちまでが「そうだ、そうだ」と言わんばかりに深く頷いていた。
完全にお祭り騒ぎと化していく空間に、コンスタンテは目眩を覚え眉をひそめた。
津波のように押し寄せる身内と神竜と教会の連携プレー。
ついに限界を迎えた彼女は、手元の扇をキッと握りしめ、肺腑の底から声を張り上げた。
「皆、うるさいですわ!!」
大聖堂の広大な空間に、令嬢らしからぬ鋭い一喝が鼓膜を震わせるように響き渡った。
水を打ったように、一瞬で静まり返る。
肩で息をしながら、コンスタンテは周囲をギロリと睨みつけた。
「わたくしは、城も宝石も薔薇も必要ありません!」
その剣幕に全員が気圧される。
皆が立ち往生する中、コンスタンテのすぐ隣にいたエイミーが、すっとダナの脇腹を容赦のない角度で肘突いた。
「っ……、エイミーさん」
「ダナ」
エイミーは極上の低音で囁く。
「肝心なことを言ってないわ」
ダナの頭に疑問符が浮かんだ。本当に分かっていないようで、エイミーは心底呆れたようにため息をつく。
「芋揚げばっかり研究してないで女心の一つも勉強するべきだったわね」
「な、何か間違えたでしょうか……」
「お嬢様が本当に聞きたい言葉、わからないの?」
ダナの背が、わずかに揺れた。
彼は静かに、しかし決意を秘めた目で、正面に立つコンスタンテを見つめる。
この瞬間、大聖堂全体が二人のためだけに時を止めたかのようだった。
押し寄せていた騒がしさは完全に引き、誰一人としてこの二人の空間に口を挟む勇気を持てない。
ダナはゆっくりと、いつもの、けれど少しだけ掠れた声で彼女を呼ぶ。
「お嬢様」
「……なんですの、まだ何か言い訳がありますの」
ツンとそっぽを向くコンスタンテの指先はドレスを握りしめ、それが虚勢だと、ダナは理解した。
「そのドレスは、僕を故郷へ帰してくれる道を開いてくれました。だから故郷へ帰れるのだと知って、嬉しかった」
ダナは長い睫毛を伏せて続けた。
「でも同時に思ったのです。お嬢様と離れたくない、と。それは神竜国のためでもありません」
コンスタンテを真っ直ぐに見つめた。
「帰りたいはずなのに、真っ先に浮かんだのがあなたのこと。あなたを、誰にも渡したくない」
その言葉には、もはや神話に謳われる神竜の威厳も、一国の王子としての義務も、命を救われた恩人のための遠慮も、何一つ混ざってはいなかった。
ただ、目の前の愛しい女性を欲する、一人の青年の本音だった。
ダナは一歩、彼女との距離を詰めると、確かに熱を帯びた声で、最後に告げた。
「……貴女を愛しています」
コンスタンテは、真っ赤になって立ちつくした。




