31、思い出して
水鏡の奥で激しく渦巻く波紋。その中心から、大聖堂のすべてを塗り替えるほどの眩い光が溢れ出した。
混乱し、狼狽する司祭たちが次々と悲鳴のような声を上げる。
「本物の神託が降りるぞ!」
「あああ、本当に竜が……神竜があらわれるなんて!」
「だがなぜだ!? 水鏡の前に召喚の魔法陣など設置していないぞ!?」
狂乱する彼らを前に、ロザリオは呆れたような、それでいてどこか誇らしげな溜め息を吐いた。
なぜ魔法陣がないのに起動するのか。
その答えは、一年以上に及ぶコンスタンテとの執念の結晶そのものだった。
大聖堂の地下の石板を映した映像を調査し、失われた神竜文字を解析する。
そして緻密に計算された術式の構造を、すべて「刺繍の図案」へと置換した。
そして何百時間もの検証の末に完成した、コンスタンテの纏う深い紺色のドレス。
誰もが美しい芸術品のようなドレスと疑わなかったその衣装の正体は
「まさか……」
大司祭が青ざめた顔で呟く。
ロザリオは、まばゆい光を放ち始めた従妹のドレスを指差した。
「そのまさかです。コンスタンテは今、神竜召喚用の古代魔法陣を『着て』いるんですよ」
あまりにも規格外な真実に、大聖堂の全員が言葉を失った。
その時だった。
水鏡の奥の光が、さらに膨れ上がる。
淡く神聖な輝きは次第に輪郭を持ち、ゆっくりと一人の人影を形作っていく。
桜色の髪。
春風のように柔らかな瞳。
年の頃は十七歳ほどだろうか。
まるで一枚の絵画から抜け出してきたような、儚く、息を呑むほど美しい少女だった。
大聖堂が、水を打ったように静まり返る。
誰も声を出せない。
ただ一人、その少女を凝視する彼を除いて。
「……あ」
ダナが声を発したその瞬間。
大聖堂を圧迫していた凶悪な殺気が、嘘のように霧散した。
空間を満たしていた重圧が消え去り、澄み切った空気が流れ込む。
背後で蠢いていた黒い影はほどけ、黄金の瞳から狂おしい怒りが消えていく。
鏡の中の少女は、ただ真っ直ぐにダナを見つめていた。
震える唇。
目尻から零れ落ちる大粒の涙と、そして優しい笑顔。
「お兄様……」
少女の声が、静寂の聖堂に響き渡る。
だが。
「……誰」
ダナの脳内は激しい混乱に支配されていた。
見覚えのない、知らないはずの少女だ。
それなのに。
「私が分からないのですね……」
その言葉が、ダナの胸を鋭く刺した。
違う。
そんな悲しい顔をさせたいわけではない。
「僕は――」
言葉が続かない。
その時だった。
少女の身体が淡い光の粒となって揺らぎ、次の瞬間。
鏡面を波紋のようにすり抜け、聖堂の宙へ桜色の竜が現れた。
そしてそのままダナの前へ歩み寄る。
その存在は不思議なほど近く、温かく感じられた。
そして少女は淡い色の唇で告げる。
「思い出して」
少女は涙すらぬぐわない。
「第一王子――ダナティスフィラル」
世界が止まった。
その名。
その響き。
この世界の誰も知らない、その名前。
だが、その音が鼓膜を震わせた瞬間。
失われたはずの記憶が、濁流となって脳裏へ流れ込む。
迫り来る業火。
真っ二つに崩れ落ちる空。
泣き叫びながら必死に手を伸ばしてくる幼い少女。
置き去りにしてしまった後悔。
「……うぁ」
ガク、と膝の力が抜けた。
黄金の瞳が限界まで見開かれる。
少女の名を。
自分が命に代えても守りたかった、最も大切な存在の名を。
彼はようやく思い出した。
「ポエニ……」
掠れた声が唇から零れる。
少女は、溢れる涙を拭いもせず、満面の笑みを咲かせた。
「はい……」
そして
ポエニの愛おしげな声が弾けた瞬間、彼女の身体から溢れ出た神聖な光の粒子が、ダナを全方位から包み込んだ。
ドクン、と。
大聖堂の空間そのものが、巨大な心臓のように大きく、深く脈打つ。
「な、なんだ……!? 身体が動かん!」
「光が……光が強すぎる! 何も見えん……!」
近衛騎士たちも大司祭も、その場に平伏することしかできなかった。それは先ほどの凶悪な殺気による恐怖ではなく、全生物を本能的に平伏させる絶対的な「神威」だった。
光の渦の中心で、ダナの身体がゆっくりと宙へ浮かび上がる。
青年の細い輪郭が歪み、その背後に、大聖堂の広大な天井すら呑み込まんばかりの【漆黒の巨影】が、神々しい幻影として立ち上った。
漆黒。
だがそれは、マリスたちが浅薄な知識でなじった「魔族」の闇とは根本から異なる。
無数の星々をその身に内包した、夜空のような、気高い、神話の黒だ。
青年の滑らかな肌に硬質な漆黒の竜鱗が浮かび上がり、その背から漆黒の翼が力強く広がっていく。爪は鋭く、長く、世界の理を引き裂くほどの神の爪へと変貌を遂げ、黒くそれでいて黄金に光る瞳はより深く、燦然たる輝きを放ち始めた。
「……そうだ」
ダナが目を見開く。
「僕は、高天の第一王子。ダナティスフィラルだ」
ダナの口から漏れた声は、大聖堂の人々を激しく震わせる、深く、重くのしかかる。
記憶の檻を完全に破壊し、本来の神格を取り戻した【黒竜・第一王子ダナティスフィラル】の、真なる覚醒だった。
彼を包む光の粒子は、まるで祝福の星のように大聖堂の隅々まで広がり、言伝えに聞いた神話の具現を前に、マリスもカナも、もはや声を発する恐怖すら忘れて、硬直していた。
二階回廊から、コンスタンテはそのすべてを静かに見つめていた。
彼女のドレスの魔法陣は役割を終え、静かに光を失っていく。
それと反比例するように、ダナの放つ輝きは増していく。
(ああ、やっぱり……本物の、神竜だったのね……)
記憶を取り戻した彼は美しかった。
眩しいほどに。
けれど同時に理解した。
彼はもう、自分の隣で芋畑を耕す青年ではない。
こんなに遠い存在になってしまった、と今さら思う。
あの優しい従者は。
揚げたてのジャガイモを黙って皿に盛ってくれた、あの人は。
「……やってやりましたわ、ダナ。これでご家族の元にかえれます」
少しの胸の痛みを押さえつけ、コンスタンテはいつものように快活な笑みを唇に浮かべる。
しかし、ポエニの手をとり、宙に浮かぶ黒き神竜は、ゆっくりとその巨大な黄金の瞳を、二階のコンスタンテへと向けた。
その視線が、彼女の纏う深い紺色のドレスに落ちる。
今なら分かる。地下の石板、失われた神竜文字。
途方もない解析と気の遠くなるような検証。
お嬢様はただ美しいドレスを作りたいのだと思っていた。
あれほどお嬢様がドレス作りに必死だったのは、自分を故郷へ帰すためだった。
黄金の瞳がわずかに揺れる。
「……お嬢様」
誰にも聞こえないほど小さく、コンスタンテの名を呼ぶ。
光を失ったドレスの銀糸を一瞬だけ見つめ、そしてまた彼女自身へと視線を戻した。
神話の威厳を取り戻してもなお、その瞳に宿る温かな光は、彼女のよく知る「ぶっきらぼうで、お人好しな従者」のままで――。




