30、神竜を鎮める(物理)、淑女の非常食
ダナの放った一喝は、大聖堂の堅牢な大理石を両断し、その場にいた全員の思考を凍りつかせた。
先ほどまで「哀れな被害者」として扱われていた青年から爆発的な熱量が膨れ、マリスの顔面へ大聖堂を焼き尽くすほどの業火が放たれる。
だがその炎は、寸前で割り込んだ極寒の氷壁によって掻き消される。
「やめろ!竜の化身!」
鋭い声と共に、無数の氷が空中に舞う。 割り込んだのは、コンスタンテの従兄であり、若くして賢者の称号を持つ王国屈指の魔術師ロザリオだ。
コンスタンテから聞かされていた数々の話を総合し、目の前の青年が竜の化身であると察したロザリオは、足元から氷結魔法を広げ、聖堂の床ごと炎を強引に封じ込める。
しかし。
ロザリオの額には汗が浮かんでいた。
今、一撃を相殺したに過ぎない。あの青年、いや、竜の化身から放たれる殺気は、ただ目の前の二人、マリスとカナだけを消滅させるためだけに研ぎ澄まされている。
「全員、下がれ!巻き込まれるぞ!」
ロザリオが怒鳴る。
「あ、あの愚か者たちが……!魔族の逆鱗に触れた!」
「魔族!?いや違う!この気配は!!!」
司祭の一人が叫ぶ。
「結界を張れ!二人の自業自得に付き合って死ねるか!」
司祭や近衛騎士たちが右往左往し、大聖堂全体にパニックが広がる。
その間にも、ダナの背後では黒い影が膨れ上がっていく。
怒りで黄金に燃え盛るその瞳は、言い訳の余地すら与えず、愚かな二人を真っ向から見据えていた。
「ひっ……!」
カナが震える。マリスは目の前の事態に混乱した。彼は何が起こったのかわかっていない。自分が侮辱し、怒らせた相手が、人類が触れてはならない「遥か上位の捕食者」なのだと言う事が理解できないのだ。
激しく霧散する水蒸気の向こう、ロザリオの賢者としての直感が告げていた。
今、この正当なる神罰を止められるのは、世界でただ一人――コンスタンテの祈りだけだと。
今にも聖堂ごと焼き尽くされそうな緊張の中、ロザリオは必死に従妹の姿を探した。
しかし、先ほどまで断罪の場にいたはずの少女の姿が見えない。
「どこへ行った……!?」
その瞬間、ロザリオの脳裏に、白煙が聖堂を覆った直後の光景が蘇る。
ダナの炎と自身の氷壁が激突した瞬間。
爆発的な熱気と水蒸気が視界を奪った、その僅かな隙。
周囲の者たちが恐怖に身を伏せる中、ただ一人だけ動いていた者がいた。
深いドレスの裾を両手で乱暴に持ち上げ、優雅さも貴族令嬢らしさも完全に捨て去り、親族席の脇にある螺旋階段へ向かって全力疾走する少女。
「……コンスタンテ……!」
ロザリオは絶句する。
コンスタンテは逃げたのではない。
あの少女は何か考えがあって動いている。
それだけは長い付き合いで分かった。
そして。
ロザリオが見上げた先。
二階回廊。
手すりから身を乗り出し、息を切らしながらこちらを見下ろしている年下の従妹の姿があった。
「なっ!? 何をしている!」
ロザリオが絶叫した。
下ではダナがなおも燃え盛る殺意を放っている。
黄金の瞳。
黒く揺らめく影。
人の姿を保っているのが不思議なほどの怒り。
今にも神罰が下されようとしている、その時。
コンスタンテはドレスの内側へ手を突っ込んだ。
「ドレスの中に非常時用を隠しておいて正解でしたわ!」
びりっ。びりっ。びりっ。びりっ。
隠されていた内ポケットから、紙袋を取り出しおもむろに破いた。
親族席で控えていたエイミーが叫ぶ。
「お嬢様、まだ四袋もかくしてたのですか!?」
コンスタンテは一瞬だけ目をやって、次の瞬間。
ざああああああああああっ!!
黄金色の雨が降った。
「…………」
「…………」
「…………え?」
誰も理解できなかった。コンスタンテがばら蒔いたのは薄切りの芋揚げ。
香ばしく揚げられたそれが、まるで祝福の花びらのように大聖堂へ降り注ぐ。
祭壇、騎士の肩、司祭の頭に。
マリスの顔面に。
カナの髪の毛に。
そしてダナの足元に。
ひら、ひら、ひらり。
怒りで燃え盛っていた黄金の瞳が、わずかに動き、二階回廊に立つ少女を見た。
必死の顔で袋を破き続けている。
服も髪も乱れ貴族令嬢の優雅さなど欠片もない。
ただ竜の青年を止めようとしていて。
やがて。
大聖堂を震わせていた殺気が、ほんの少し薄れた。
「殺気が薄れた!?」
ロザリオが叫ぶ。
「コレが効くのか!?」
大司祭たちも騎士たちも目を剥いた。
理解できない。
神話に語られる災厄。
国を滅ぼしかねない竜の化身。
その怒りを鎮める手段がこの得体の知れない花びらのような物。
「何なんだ。この丸くて薄い物は!?」
「芋揚げだ! 効いているぞ!」
「追加を降らせろ!」
「馬車に積んでありますわ!」
叫びながらすでに駆け出していた。
「お前、本当に食べ過ぎなんじゃないか?!」
ロザリオの叫びが響く。
しかし当の本人はすでに走り出していた。二階回廊を駆け戻り、螺旋階段を転がり落ちるような勢いで一階へ舞い戻ると、混乱の坩堝と化した聖堂の端を突っ切っていく。
彼女の目的は最初から別にある。
大聖堂最奥部。
古き聖遺物。
神託を映す巨大な水鏡。
コンスタンテは長いドレスの裾を翻しながら駆け抜ける。
背後では、ダナが無表情のまま床に散らばった芋揚げを回収している。
主人が散らかしたものは従者が片付ける。
そんな長年の習慣が、辛うじて神罰を引き留めていた。
だがそれは時間稼ぎに過ぎない。
コンスタンテは水鏡の前へ辿り着く。
乱れた呼吸を整える暇もない。
ドレスを左右に広げおじぎする。それから両手を組み、祈る。
「お願い……!」
鏡面は沈黙している。
「早く迎えに来て!ダナが酷い事する前に……!」
祈りの声が響く。
すると。
静かな水面のようだった鏡面に、小さな波紋が広がった。
その波紋は水に揺れるひかりのように
次第に大きくなり、鏡全体へ広がっていく。
司祭たちが息を呑んだ。
「反応した……!」
「神託か……!」
誰かが震える声で呟く。
そして。
鏡の奥から淡い光が溢れ出した。
まるで別世界への扉が開くかのように。
コンスタンテは祈るように見つめる。
応えて――。
光がさらに強くなった。
途端、深い紺色のドレスに縫い込まれた銀糸の竜が、淡く光を帯びる。
ドレスの小さな星々が流れ星のように煌めいて、地下の安置室で見た、古代の石板と同じように、淡く静かな銀色の光が流れていく。やがて神竜文字が布地から浮かび上がり、無数の光の帯となって彼女の周囲を旋回し、
神話を描いた刺繍が空中へ投影された。
竜の誕生。
世界の黎明。
人々との別れ。
その全てが光の幻として大聖堂に広がった。
「あ、ああ……なんという、なんということだ……!」
司祭たちの驚愕の声を余所に、コンスタンテのドレスから放たれた幾何学模様の光の帯は、水鏡へと吸い込まれていく。閉ざされていた世界の境界が、いま、開き始めていた。




