23、歪んだ善意、絶対零度の庇護
その日、ダナは放課後のわずかな西日が差し込む学園の図書室の片隅にいた。
目当ての書架の間で彼が没頭していたのは、もちろん「芋揚げ」の研究である。
世界各地の香草や香辛料について網羅された、革装丁の分厚い本。その頁を、ダナは眉間に皺を寄せて真剣にめくっていく。
「ローズマリー……タイム……パセリ。これらは乾燥させれば、あの黄金色の衣に独特の風味を添えられるかもしれないな」
ぽつりと呟いた声が、静まり返った室内に小さく溶けた。すでに放課後も遅い時間。他の生徒たちの姿はとうにない。
だから、図書室の重い木製の扉が開く鈍い音と、コツコツと床を叩く足音は、静寂の中で明瞭に響いた。足音は迷うことなく、ダナのいる書架の影へと近づいてくる。
「まあ、ダナ様」
その声に顔を上げると、そこには聖女候補のカナが立っていた。
学園の制服の胸元のリボンを規定より目立つように大きく改造した彼女は、誰もいない図書室を見回し、それからふわりと微笑んだ。
「今日はお一人ですのね」
「はあ」
ダナは短く、気のない返事を返す。これ以上の会話を拒むように、視線をすぐに手元の本へと戻した。
しかし、カナは立ち去ろうとしなかった。それどころか、ダナの背に不意に柔らかな指先が触れる。
「っ……!」
驚いて振り返ったダナに、カナは悪びれもせず微笑んだ。
「ダナ様。ほら、背中に糸クズがついていましてよ」
悪戯が成功した子供のような笑顔。彼女の身体が、一歩詰め寄ってくる。
「いつもコンスタンテ様とご一緒ですから、お一人なのは少し意外ですわ」
「コンスタンテお嬢様は、レイチェル様のお手伝いで生徒会室へ行かれています」
「そうですの」
カナはダナの顔を、じっと覗き込んできた。品定めするかのようなその視線に、ダナの胸に言い知れぬ居心地の悪さが這い上がる。
「ダナ様は本当に素敵ですわね」
「……恐れ入ります」
「お優しくて、頭が良くて、よくお働きになって」
カナがさらに身を乗り出す。限界まで縮まった距離から、鼻を突くような、甘ったるい香水の匂いが押し寄せてきた。
「正直、どうしてあのような高飛車なコンスタンテ様の従者をされているのか、不思議でなりませんわ」
ダナは小さく息を吸い、パタンと音を立てて本を閉じた。
本能的な嫌な予感が、駆け上がる。
「お嬢様が高飛車な態度を取ったことはないと思いますが」
「うふふ、そうかしら」
カナは可笑しそうに喉を鳴らすと、周囲に誰もいないというのに、さらに声を潜めて囁いた。
「ねえ……私、とっても気になるのです」
「何がでしょうか」
「ダナ様のことよ」
ダナの表情が、僅かに凍りついた。
カナの瞳の奥に、純粋で、しかし残酷な好奇心の光が灯る。
「貴方、記憶喪失なのでしょう?」
その瞬間、
心臓の奥が、どくんと不快な音を立てて波打った。頭の、もっとも深い場所にある何かが軋みを上げる。
「……その話は」
「どこで生まれたのかも、ご存知ないの?」
「知りません」
「ご家族の顔も?」
「覚えて……いません」
「本当に? 一つも?」
カナは興味津々といった様子で問いを重ねる。その表情に明確な悪意は見当たらない。ただただ、他人の秘密を暴きたいという無邪気な欲求だけがあった。
「私、聖女候補として貴方のお力になりたいわ」
「やめて、ください」
ダナは限界を感じ、踵を返してその場を立ち去ろうとした。だが、カナは素早くその前に回り込み、行く手を阻む。
「もしかしたら貴族のご落胤なのかもしれませんね。あるいはどこかの王族とか、それとも――」
ダナの呼吸が、急速に浅くなっていく。
脳を内側から殴られたような、激しい頭痛。視界がちかちかと明滅し、断片的な光景が泥流のように脳裏を掠めた。
燃えるような、圧倒的な黄金の光。
天を覆うほどの、巨大な影。
そして、鼓膜を破らんばかりに轟く、誰かの絶叫。
何も思い出せない。なのに、胸が引き裂かれるように苦しく、涙が出そうになる。
「やめろ……!」
「どうして拒むのですの? 知りたくはないのですか?」
ダナは答えられなかった。
知りたい。失った自分を取り戻したい。だが、それ以上に恐怖が勝る。理由もわからないまま、胸が万力で締め付けられるように痛んだ。
「そんなに頑なだなんて……もしかして、ブラート家に酷い虐待でも受けて――」
「何をしているの」
絶対零度の声が、図書室の空気を一瞬で凍りつかせた。
カナがびくりと肩を震わせて振り返る。
夕闇の迫る図書室の入り口に、コンスタンテが立っていた。
その姿を見た瞬間、ダナの激しい動悸が、ほんの少しだけ凪いだ。しかし、歩み寄ってくるコンスタンテの表情は、ダナがこれまで見たこともないほどに冷徹で、怒りに満ちていた。
「お嬢様……?」
「貴女、そこで何をしているの、と聞いているの」
低く地を這うような声。声を荒らげないからこそ、彼女の放つ威圧感は恐ろしい。
「わたしはただ、ダナ様の失われた過去を心配して――」
「本人が、嫌がっているのが分かりませんの?」
毅然と言い放ち、コンスタンテはダナの前へと踏み込んだ。主の細い背中が、ダナを庇うように視界を遮る。
「記憶喪失という傷を抱えた方に、過去を無理やり抉り出そうとするなんて。無神経にも程がありますわ」
「でも、わたしは善意でお力になりたいと……っ」
「善意?」
コンスタンテの美しい眉が、ピクリと不快そうに跳ね上がった。
「本当に相手を心配しているのであれば、相手がこれほど苦しそうな顔をした時点で、己の無礼を恥じてやめるべきでしょう」
「な、なんですって……! そんな言い方、あんまりですわ!」
「では、何と言えばよろしくて?」
図星を指されたカナの顔が、怒りと屈辱で真っ赤に染まっていく。彼女はすがるように、自らの肩書きを叫んだ。
「私は聖女候補ですのよ!光の力で人々を癒し、水鏡の神竜を呼び出す可能性を誰よりも持って……」
「そうですわね」
コンスタンテは冷ややかに頷いた。そして、一歩も引くことなく、容赦のない言葉の刃を突き立てる。
「――ですから、とても残念に思いますわ」
「え……?」
「わたくしは、聖女とは、人の痛みに寄り添い、傷を癒やす高潔な方を指すのだと思っておりました」
張り詰めた沈黙が、重く図書室を支配し、カナは何とか反論しようと言葉を探す。だが、コンスタンテの冷徹な追及は止まらない。
「それが、傷を癒やすどころか、抉って楽しむ方でしたのね」
「コンスタンテ様……っ!」
カナは声を張り上げた。その瞳に、もはや偽りの優しさはない。剥き出しの執着と、好奇心と、そして自らの地位を傷つけられた怒りだけがあった。
「わたしは知りたいだけです。彼の素性を!」
「だから、無理やり秘密を暴く?」
「だって気になりますもの!」
カナは言い切った。その瞬間、遠くから足音が聞こえた。誰かが、この図書室へ向かってくる。
カナの瞳がぎらりと動く。
その足音が近づくのを察したとき、カナはさっと身を翻し、瞳に不意に弱さが灯った。
大粒の涙が、その美しい頬をつたう。
「ダナ様、本当にごめんなさい……」
声は、か細く。表情は、傷ついた聖女候補そのもの。
「わたし……でも……っ」
その瞬間、
「何の騒ぎだ!」
静寂を叩き割るように図書室の扉が開け放たれた。
肩で息を荒げながら飛び込んできたのは、マリスだった。




