21、少しだけ、このままで
神竜帰還計画が本格的に動き出してからのコンスタンテは、以前にも増して多忙を極めていた。
領地経営と学園の勉強、未来の公爵夫人としての淑女教育。さらには魔法陣の研究。それらを両立する日々は、目が回るほどだった。
それでも。
「ダナ、新しい肥料の袋をあっちの倉庫に運んで!」
気がつけば彼女は、吸い寄せられるようにじゃがいも畑か厨房へと足を向けており、その飽くなき「芋熱」が冷める気配は微塵もなかった。
「お嬢様、新種の芋ですか?」
あきれ顔のダナに、コンスタンテは満面の笑みで返す。
「やっと手に入った待望の芋ですわ!」
厨房の作業台には、丸々と太った山のようなじゃがいも。
「今度こそ、ただの『パリッ』ではない、理想の『パリリ』を完成させるのです!」
「前回も、その前の試作の時も、まったく同じ宣言を聞いた気がしますが」
「今回は格段に油の温度調整を変えましたのよ。見ていなさいな」
力強い宣言から、わずか十分後。
「……『パリッ』、という感じですね」
「……ええ。口の中で軽やかに弾ける『パリリ』ではありませんわね」
スライスされ、黄金色に揚がった芋の一片を二人で真剣に見つめ合う。しかし、ダナはそれを口に放り込むと、ふっと表情を緩めた。
「でも、前回のものより格段に美味しいです」
「 食感はまだ不完全ですわよ?」
「芋そのものの甘みが引き立っていておいしいです」
「それは単にダナのフレーバーの好みの問題でしょう?」
そこへ、背後から音もなく現れたエイミーが、コンスタンテの肩をがっしりと掴んだ。
「お嬢様。お芋との逢瀬の中、大変恐縮ですが、ロザリオ様より緊急の連絡が入っております」
最近ではメイドたちも、この主従のお決まりのやり取りを微笑ましそうに見守るようになっていた。
◇
その年の春。十七歳になったコンスタンテは、ついに正式な事業を立ち上げた。
場所は領都の中央通り。以前は寂れた空き店舗だった建物を買い取り、明るく清潔感のあるお洒落な専門店へと生まれ変わらせたのだ。
開店当日。店の前には、香ばしい匂いに誘われた領民たちの長い行列ができていた。
「お嬢様の夢が、ついに形になりましたね」
隣に立つエイミーの言葉に、コンスタンテは「ええ、まずは第一歩ですわ」と頷いたが、その目の下にはうっすらと隈があり、瞼も少し腫れていた。
実は昨夜、彼女はほとんど眠れなかったのだ。
もし誰も来なかったらどうしよう、そんな不安で胸がいっぱいだった。
そんな彼女の不安を察したように、ダナがそっと声をかける。
「大丈夫ですよ、お嬢様。『パリリ』には届かなくとも、今のままでお菓子としては十分すぎるほどの品質です。俺が保証します」
ダナの言葉を証明するように、揚げたての芋の香ばしい匂いが街中に広がり、人々を次々と吸い寄せた。
「なんだこれ、美味い!」
「お母さん、もう一つ買って!」
客たちの絶賛する声が、次々と店内に飛び込んでくる。窓からその賑わいを見ていたコンスタンテは、胸のすくような思いで小さく拳を握った。
「大成功ですわ。これで店舗を増やせますわね」
「目標は何店舗ですか?」
「目指すは世界制覇ですの!」
「理想が高いのは良いことです」
「ちょっとダナ、今絶対に心の中で笑ったでしょう!」
そう言いながらも、ダナの手元にはすでに次の支店候補地を記した領内の地図が用意されていた。
今や領民たちも、この風変わりで愛らしい領主令嬢の奇行にはすっかり慣れている。
「お嬢様!」
農家の子供たちが無邪気に駆け寄ってくれば、コンスタンテは、同じ目線に屈んで微笑みかけた。
貴族にも平民にも、老人にも子供にも、彼女はいつだって真摯で、親切だった。
その無防備なまでの無邪気さは、時にハラハラさせられるほど危なっかしい。
ダナは護衛力を上げてコンスタンテを守る。
気づけば、ダナはそんな彼女の姿をじっと見つめていた。
「ダナ? どうかしましたの?」
不思議そうに覗き込んできたコンスタンテと視線がぶつかり、ダナは慌てて目を逸らした。
「……なんでもありません」
ダナの胸の奥が、妙に騒がしくて落ち着かない。その理由を深く考えるのは、あえて止めることにした。
◇
さらに数日後。夕暮れ時の図書室。
コンスタンテが机で書類をめくっていると、向かいの席に座ったダナが、珍しく難しそうな顔で唸り声を上げていた。
「どうしましたの、ダナ」
「この本、どうにも記述が難解で……」
彼が差し出してきたのは、学園の上級生でも悲鳴を上げる『高等魔法理論』の魔導書だった。
「どこが分からないのです?……って、これ、最終ページの応用編ではありませんか。学園生でもなかなか理解できない内容ですわよ」
「これが完璧に解ければ、魔法伝導率を使って、油の温度を常に『一定』に保つ結界を張ることができるのですが」
(………)
ダナは、その美貌ゆえに黙っていれば恐ろしくモテる。しかし本人は浮いた噂一つなく、いつも自分の傍にいるか、さもなければ油と芋の研究に没頭している。
(彼をここまで深刻な芋中毒にしてしまったのは、私のせいでは……)
コンスタンテは本気で頭を抱えたくなり、ふと思いついた疑問を口にした。
「ねえ、ダナ、貴方って、その、異性で『気になる人』とか、そういうお相手はいませんの?」
唐突な問いかけに、ダナは不思議そうにパチクリと瞬きをした後、綺麗な首を傾げた。
「お嬢様のことが、一番気になりますが」
「――ッ!」
その直球な答えに、コンスタンテの心臓が跳ねる。
二人の距離はいつしか自然と近くなっていた。肩が触れ合いそうなほど近い距離で、窓から差し込む夕焼けの琥珀色が、コンスタンテの赤い頬を誤魔化すように染め上げていく。
「私は、お嬢様とお会いできて、毎日が本当に楽しいです」
ダナが、ぽつりと言った。
「急に、なんなのです?」
「だって、最初にお嬢様に出会ったばかりの時期は、記憶を失くして本当に不安でしたから」
ダナは、まっすぐな瞳でコンスタンテを見つめる。その微笑みは柔らかく、温かかった。
「お嬢様が、あのとき私に芋をくれて、とても嬉しかった」
コンスタンテの手が止まる。
彼は当然の事実として、なんの打算も、計算も、見返りの期待もなく、ただ本心を口にしているのだろう。だからこそ、その純粋な言葉には、破壊力があった。
「……そうですの」
「はい」
コンスタンテは破裂しそうな鼓動を隠すように、大慌てで視線を本へと戻した。
窓の外からは、学生たちの楽しげな笑い声が微かに響いてくる。
その声を遠くに聞きながら、コンスタンテは胸の奥に、チクリと刺さるような小さな痛みを感じていた。
神竜帰還計画が成功すれば。
すべての魔力を取り戻したダナは、元の世界――彼のいるべき神竜の国へと帰っていくだろう。
それは、自分が彼のために決めたことだ。それが一番、正しい結末なのだ。
なのに。
(――もう少しだけ)
(もう少しだけ、騒がしい時間が続けばいいのに)
そんな、切ない願いが、夕闇の迫る図書室で、静かに、けれど確かに芽生え始めていた。




