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玖泉  作者: 涼川怠惰


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第伍話









 誰かが、泣いている。

 もうそこから出られない人の為に、彼は笑う。



「……だったら、僕が――……」










 桜が舞い散る四月上旬、和倉宝蘭地区。繋の自宅にて。

 繋はぼんやりと煙草を吸いながらつい先日話された〝現実〟について考えを巡らせていた。

 緋狼はまだ退院していない。暫くは見舞いや世話に専念しようと、探偵の依頼も受け付けない事にしたのだ。左腕がなくなった彼は、聞かされた話にどう反応するのか。

否、そもそもこれは聞かせてはいけない話なのだろう。




「現時点の全世界人口、八十億五千万の内、約三割は既に〝玖泉服用者である〟と初めに理解していて欲しい」




 あの日二人の警察官に出合い頭にそう言われ、立ち話もなんだからと病院の会議室に通されて。静は未だにショックを隠し切れないでいる繋を横目に、淡々と話を続けていく。


「服用者って言っても、いずれも薬を服用した者ばかりじゃない。もう一つのパターン〝致命傷〟があるな」

「深夜に頭を打って~の奴ですよね、めっちゃファンタジー」


 繋は静から渡された資料に目を通す。人間の頭の中に黒いぐちゃぐちゃが描かれているだけの図、それ以外は文字だけの紙切れ一枚だ。首を傾げる繋に、静が少し苦く笑いながら言葉を掛ける。


「…悪いな。俺、絵が描けなくて…」

「嗚呼まぁ、良いよ。何となく解るから…」


 そう言うと安堵した表情を浮かべ、静は数枚の写真を繋の目の前に並べ始めた。解剖時の写真だろうか、頭蓋を切り開かれ脳が露出した遺体の写真だ。いずれも脳の真ん中部分が、明らかに黒く膨らんでいるのが分かる。


「初めから説明する。まず玖泉について。始まりは二十年前、突如として〝玖泉〟という薬物が出回り始めた。その成分は一切不明。噂によれば〝一度服用したら最期、死ぬまでその薬から逃れる事は出来ない〟と言われている。症状は一般的に薬物中毒者に現れる症状と同じだが、全身の寒気に加え時折目が見えなくなったりする。……そして最近になって噂され始めているのが、玖泉を服用した人間は〝常軌を逸した行動、抑えきれない破壊衝動に乗っ取られ自我を崩壊させていく〟。…ここまでは知ってるだろ。ずっと話題になってるもんな」

「…成分は一切分からないけれど、〝玖泉〟には神の力が一部宿っているらしい、って事も聞いたよ。奉日本さんから」

「……乱か。黒血こっけつ…嗚呼、玖泉服用者達は一様に血が黒くなる。だからそいつらの事を総称してそう呼んでいるんだけど。その黒血専門の研究施設や、研究の協力をしてくれている〝鼎総合医療センター〟からついこの間その報告が上がった。初めはそんなの有り得ないって、内々でかなり議論されたが」


 鼎総合医療センター。央士が所属している病院。だから彼は知った様な口を利いていた訳か、繋は短く溜息を吐いて次の言葉を口にする。


「その神の力が働いて、人間の脳に寄生する。…問題は、その脳が生きていても死んでいても関係ないと言う点。寄生された脳は活性化して、時に化け物にも変える。……これが内々で揉めた末に決まった結論?」

「…簡略化するとそんな感じ。実際のメカニズムはこう」


 玖泉と言う薬が人間の体内に入れば、まずそれは麻薬などと同じ様な症状をもたらす。そこから全身の寒気に加え時折目が見えなくなったりする【発芽状態】になるパターンと、ならないパターンの二つが存在する。


 【発芽状態】になった人間が次に化物の様な見た目に【変貌】するのは稀だ。

 個人差はあるが、きっかけは自分のトラウマ等が再び掘り起こされた時。感情を激しく乱された時等に当たる。それ以外は何年、何十年も【変貌】せず玖泉を服用し続けたまま、薬物中毒者の末路を辿るだけの人間が殆どである。その末路と言うのは、想像通りの〝死〟だろう。


 そしてもう一つの服用方法〝致命傷〟について。

 【真夜中】に【玖都内】で【頭】に致命傷を負うと玖泉を服用した時と同じ症状が現れ、このパターンでは遅かれ早かれ【変貌】がほぼ百パーセントの確率で起こる。一度死んで玖泉の力で生き返ったと言っても過言ではないだろう。


「…後、佐山直樹君の事件について。あれは特殊過ぎる。どうやら死体に液状の玖泉を注入すれば即座に変貌するみたいだけど…」

「蛇牀の組長さんから〝理性があった様に思えた〟って報告されてて、ぶっちゃけ良く分かってないんですよねぇ~」

「…嗚呼。だからこれはまだ未確定情報だ。一ケースしか事例が無いし」


 佐山直樹。そう言えば彼はママを探して団地内をうろついていた。

 露木藍生の様な変貌個体なら、見境なく母親と同じ女性を標的にする筈。なのに、彼は煙草の匂いを探し当てて特定の人間を標的にするだけ。他の人間にも、志を奪い返す攻撃をした位で手を出さなかったと聞いている。

 繋はそんな事を頭の中で振り返りながら、話を戻す。


「って事は、…玖泉の薬を服用した者より、玖都内で頭を打ったり、注入された方が化物になるの? やっぱり、一回死んじゃうから脳が玖泉の力に侵されやすいのかな?」

「超常現象じみた事は良く分かんねぇよ。でも意識の関係はあると思う。玖泉の症状から抵抗しようとすれば、自然と乗っ取る時間が掛かる訳だから」

「…まぁ玖泉の事は何となく理解したよ。普通に生活してる奴等の中にもう既に〝服用者〟と〝致命傷〟が紛れ込んでるって事。そして彼等は個人差があるが、自分のトラウマ等が再び掘り起こされた時、感情を激しく乱された時に〝変貌個体〟になってしまう。〝致命傷〟だと遅かれ早かれ必ず、…時限爆弾みたいな感じだね」


 ともすれば、彼――劉楓は何なのだろうか? 羽が生えていた事、そしてその羽を使い攻撃していた所は見た。言うなれば天使の様なそんな出で立ち。

 そんな繋を見て、見透かす様に莎朗が口を開く。


「…劉楓は、俺らの中では〝共生者きょうせいしゃ〟と呼んでいます。玖泉の力と共生し、対象にとって印象深いものをルーツとして力を振るう事が出来る、言うなれば選ばれし者? みたいな」

「〝共生者〟…ルーツって、変貌する時に自分にとって印象深い…例えば熊とか虫とかの事?」

「はい。まぁそれも普通の熊や虫ではなく、伝説で語られる神様、天使、悪魔、怪物、神獣、怪異、…果ては事象と言った…兎に角普通ではないものがルーツとなるんですよね」

「…じゃあ、炎の神様がルーツなら、そいつは炎を操ったりできる訳? で、変貌したらそれっぽい見た目になる?」

「お、飲み込みが早いですね。そう言う事です」


 飲み込みが早いと言われても、繋自身何も理解出来ていない。

 繋が相対した露木藍生にも、佐山直樹にも、雪平全にもルーツがあり、それぞれ異形の力を振るっていたと言う事になるのだ。変貌個体なら自我を失っている為、攻撃は幾らか単調で見切り易かった。

 だが〝共生者〟と言うその異形の力を、自我を持ってコントロール出来る奴は? 人間である自分が到底太刀打ち出来るものではない。

 そのメカニズムも知らずに、今迄戦っていたと思うとぞっとする。


「…まぁこの辺は連龍会も周知の事実ですが、一般市民である初音さんに共有はしなかったみたいですね。〝共生者〟と相対させる訳には行かない、必要以上に踏み込ませない様にって理由だったんでしょうけど、もう劉楓には劉緋狼の存在、そしてその存在が自分に復讐を考えている事がバレてしまった。いずれ初音さんも、周りの人もこれまでみたいに平和に過ごす事は出来なくなりそうですね」

「…まぁ、連龍会とオトモダチって訳じゃないから、共有されなかったのには納得が行く。その点、奉日本さんは接触しそうなタイミングを見計らって、いち早く劉楓の事を共有してくれてたと思うよ。…質問いい?」

「はい、何でしょう」

「秘密警察みたいな君達は、その玖泉をばらまいてる〝夜淵〟を捕まえるのが目的で結成された訳?」


 静の目が僅かに見開く。

 莎朗は相変わらず薄ら笑いを浮かべているだけで真意は見えなかったが、それでもすらすらと言葉を並べて行く。


「暴力主義的な破壊活動やカルト、極左組織の管理監視、国益侵害になる様な行為の取り締まり。…これが表向きのUTSの目的です。この存在が公にバレた時、或いは漏れた時国はそうやって言い訳をするつもりで掲げているんでしょうね。でも本来の目的は初音さんが言った通り、〝夜淵の監視や子組織の壊滅〟だけ、です」

「…でも、二人って交番勤務だったり刑事だったりするよね? それも何かのカモフラージュ?」

「はい。俺達は専任って訳では無くて、日常にある玖泉絡みの事件も担当してるんですよ。そこから思わぬ収穫もあったりしたんで……ほら佐山君の事件とか」

「…連龍会とUTSって、繋がってる訳? 団地内で起きた事件は警察不介入、その団地内で玖泉絡みの事件が起きたらどうするの?」

「繋がっています。…俺等の組織は正確に言えば警察じゃないんで、団地内の捜査は出来ますよ」


 何を言っても言葉が詰まらない莎朗の様子に、繋の方が嫌な顔をした。警察じゃないとは? 何で繋がっている訳? 聞き出せば聞き出す程、謎が増えて行く。その様子を眺めていた静が繋を制した。


「…とりあえず今日はこれ位にしとこう。全部ってなると色んな組織や…事件や、……システムを話さないといけなくなるだろうが、俺等もそこまで深くを知ってる訳じゃない。…夜淵を止める為のただの兵隊みたいなもんだから」


 ふと、静の表情が硬くなる。

 繋はそれを見逃さなかった。


「……分かった。けど最後にもう一つ聞かせて」

「何?」

「…連龍会の組長二人がかりでも、何十人もの放った弾丸を浴びてもほぼ無傷だった劉楓。夜淵の奴等に対抗する手段があって、UTSに所属してるんだよね? そう言う特殊兵器とか。…漫画じみた事を言ってるのは否定しないけど」


 そう問いかけた繋の目の前に、二人は通常警察官が所持しているS&WのM37、そしてベレッタ92FSを取り出して見せた。

 他の持ち物は何もない、と言わんばかりの表情を浮かべて。


「…そんな」

「言ったろ、俺等はただの兵隊だって。つまり俺等が死んでも代わりは居る。誰かが生き残り続ける限り、夜淵を止めていられる。……御前が知った世界ってのは、そういう事なんだよ」

「まぁ~本気で夜淵を殲滅させたいんだったら、俺等も玖泉飲むしかないんじゃないすかね! 俺は変貌なんてごめんですけど」


 言葉を失った繋の肩を叩いて、静は二枚の名刺を差し出し、「何かあったら連絡してくれ。団地内の事件にも今後は関わらせて貰うから」と言って出て行ってしまった。それに続くように、莎朗は繋の耳元に何かを囁いてから、会議室を後にする。

 沈黙が場を支配する。繋は何の音も感じられないまま、そこからどうやって帰って来たのかも覚えていないままに自宅へ辿り着いた。


 ――『敵は既に団地内に居ると思います。アンタが巻き込んだ人間達に警告でもして回ったらどうですか?』


 莎朗に囁かれた言葉が、鉛玉の様に心を蝕んでいく。そう言えば露木藍生の事をあの四人は忘れていた事を共有していなかったな、とそれぞれ顔を思い浮かべて行く。

 最初に声を掛けた透と凪、そして緋狼を助けてくれようとしたカナと彪。そこまで考えてふと、彪のお見舞いに行けていなかった事を思い出した。確か両の手首と右足を折られていたはず。現状理解出来ない話を、誰かに相談したかったのかも知れない。


 深夜ではあったが、病院の受付に連絡を入れると明日一の面会が許された。

 顔を上げれば真上には、普段見られない様な黄金色の満月が煌々と光り輝いていた。


 黄金色。

 ふと、左耳が痛んだ気がした。






 「……それで、俺の所に来たんですね」


 次の日。面会に来た繋を何時も通りの表情で迎え入れた彪は玖泉の話を聞いた後、納得した様子で繋に言葉を掛けた。


「…玖泉に〝発芽〟とか〝変貌〟とか言う名称があるのは知ってましたけど…驚いたのは〝致命傷〟と〝共生者〟ですかね。深夜に頭に致命傷を負うと玖泉服用者と同じになる、しかも変貌の確率は遅かれ早かれほぼ百パーセントなんて。気を付けないと俺達も〝致命傷〟になる可能性があるって事ですもんね」

「…うん。と言うか、琴継君は知らなかったの? UTSって組織の事」

「連龍会は警察と繋がってはいますが、UTSと言う組織と繋がっているかまでは聞いた事が無いです。組長とか代理位の立場になると色々そう言う話もするんでしょうが。でも、あの〝Re:Lief〟の社長もご存じだったんですよね。彼は何者ですか?」


 メモを取れない彪の代わりに、繋がさらさらとボールペンを走らせながら会話の内容を書き留めて行く。その手がぴたりと止まった。顔を上げて彪を見れば、にこりと笑って口を開く。


「おれにも分かんない。知ってるのは小さい時に社長になったって事と、神母坂学園いけざかがくえん卒って言うエリートの肩書位。問い詰めても絶対教えてくれなさそうだしな…」

「…途端に全員が怪しく見えてきますが。でもまぁ、今そんなに急いで理解しなくても良いのではないかと思います。UTSの蛇牀さんも仰っていたんでしょう? 全てを話すには途方もない時間が掛かるって」

「まぁ、事件とかシステムとか組織とかの話をしなきゃならないって。……そうだよね、御免ちょっと焦ってたかも」


 はぁ、と溜息を吐いて煙草を出し掛けて止める。その様子を見た彪が「喫煙所に行って来たらどうですか?」と促してくれたが、繋は首を横に振って笑った。


「今は誰かと居たい気分なんだよね。…緋狼君が家に居なくて寂しいのかも」

「リハビリ期間でしたっけ。もうすぐ退院出来そうで良かったです」

「本当に良かったよ。これであの時、皆死んでたら…」


 そう繋が言い掛けた瞬間。彪はまだ完全に動かない左手を、ベッドの上で組んでいた繋の手に重ねた。

 柔らかく、温かい体温が繋に伝わる。


「何かあったらまた話位は聞きますよ。あんまり一人で抱え込まないで下さいね」

「……」


 きょとんとして彪を見る。

 見つめられた瞳は以前より優しくなったのだろうか、そんな気がして。繋は微笑んで「ありがと」と言えばその手を優しく握り返した。






 彪との面会を終え繋は透、凪、そして一向に連絡のつかないカナに向けてメッセージを飛ばした。午後十三時、商業エリアの館星珈琲店にて待ち合わせる。

 最初にやって来たのは、――カナだった。

 少し暗い表情を浮かべたカナは繋を見つけると、つい先日まで大怪我を負っていたとは到底思えない何時も通りの足取りでひらりと手を振り、席につく。


「ツナグ。…久し振り」

「カナさん。…久し振り、傷はもう良いの?」


 カナはそれには答えず、珈琲を注文すると向かいの席へ座る。そうして繋が二の句を紡ぐ前に、頭を下げた。


「…カナさ」

「今は話せない。でも信じて、俺は敵じゃない。……信じて欲しい」


 そう言われてしまえば、繋は何も問い質せなかった。ただ「分かった」と言えば、カナは心底安心した様子で「ごめんね」と呟き、珈琲を飲む。静かすぎる空間だった。

 それからしばらくして、二人が到着する。カナが普段通りの笑顔を見せていたので、繋も笑顔を繕った。この二人には、要らない心配を掛けさせたくないのだろう。それは繋も同じ気持ちだった。


「大事な話って何だ? カナさんまで呼び出して」

「玖泉についての新しい情報。…大変な事に秘密警察みたいな連中が実在してね、玖泉のメカニズムなんかを教えて貰った」

「ひ、秘密警察? メカニズム? 薬としての作用の他に…何かあるんですか?」


 口々に質問を投げる二人を制して、繋は静の作った資料を机に広げる。

 そうして、同じ話を三人に説明した。反応は三者三様それぞれだったが、カナは特に驚いた様子も見せず何かを考えこんでいる表情を浮かべているばかりで、繋に真意は読み取れなかった。


「…約三割が…服用者? じゃあオレ達ももしかしたら…?」

「可能性はゼロ、とは言い切れない。おれ達も、はっきり分かってる訳じゃないから」

「…兎に角」


 凪の不安そうな声に応えたかったが、何しろまだ全容が明かされていない代物だ。

 どう言葉を紡ごうか思案していれば、カナが徐に話を切り出した。


「玖都内には〝服用者〟と〝致命傷〟が紛れ込んでる。何時変貌するか分からない。変貌したら必ず逃げる事…後、それをばらまいてる〝夜淵〟の対処も、一般人には出来ないから関わらない様にするって事だよね」

「そう言う事。…闇雲に突っかかってっても、緋狼君や琴継君みたいな犠牲者が出るだけ。今回は死亡した人は居なかったけど、多分…次はそうは行かないだろうから」

「……」


 カナが表情を歪ませる。繋は惨状が起きてから暫く後にやって来た故に詳しい事は分からなかったが、恐らくカナは緋狼を庇おうとしていた筈だ。右腹部が抉られていたあの状況は、今思い返しても寒気がする。同時に、あの傷を受けて尚こんなにも早く元気になるカナ自身が人間ではなかった事にも、少なからず恐怖心が芽生えていた。

 だからこそ、早めに真意を問い質そうとしたのだがカナの口は堅かったらしい。繋はどうしたものか、と三人の何時もの風景を眺めながら珈琲を一口啜る。


「ねぇ、三人ともさ。本当に露木藍生って人を覚えてないの?」


 そう問いかけようとした瞬間。


「初音繋」


 聞き慣れない声が店内に響いた。

 着物姿の青年だ。繋は彼の顔をまじまじと見つめると、ある古い記憶を掘り起こした。


「…あれ、風音君? どうしてここに」


 以前、露木藍生の事件で彼に暴行を受けた男娼だった。走って来たのか草鞋は擦り切れ、足が赤く腫れている。加えて遊華すさばなの空気とここの空気が違い過ぎるのか、彼の表情は幾分か息苦しそうだった。


「…やっと見つけた」


 そうぼやいて、ふらふらと繋に歩み寄れば机を支えに距離を詰める。

 通常、部棟と止棟の人間はその棟からは出られない。化野団地は家賃さえ払えばどんな人間でも入れる団地。然しその中にも小さな選別が存在する。

 殺人や薬物、大郷でかなり重い刑罰が科される罪を犯した人間は必ず部棟か止棟に入れられるのだ。勿論入居時に分かっていればそのまま二棟にある部屋を与えられるし、二棟以外の部屋が割り当てられた後でもその事実が発覚すれば即刻二棟送りになる。

 閉鎖的な空間の中で一生を終える人間が殆どである傍ら、白露の様な外と繋がりを持つ人間は稀に居る。然し、こうして棟から出てきた人間は数えるほどしか居ない。

 風音は荒い息も整えぬまま繋の手を握り締めると、縋る様に声を出した。


「お願い。アンタに解決して欲しい事件があるんだ。今遊華で白露さんが凄く困ってる」






 遊華、上層部。凪はどうしても行けないと首を振った為、繋だけが風音と共に此処に来ていた。

 幾つもの店を素通りし、裏路地に入って数分。絢爛豪華な宮殿作りの建物が目に入った。金魚提灯が空中を揺蕩い、妖しく辺りを灯し続けている。此処が白露の部屋、なのだろう。

 遊郭・遊華の統括主であり、全ての店の権利を持つ白露は通常表舞台には立たない。白露に会う事が出来るのは〝白露が気に入っている人間だけ〟。

 雲の上の存在、誰かが月の様だと喩えていた事を覚えている。


 風音に連れられて部屋に入れば、さながらどこかの富豪の寝室に来た様だ。茜色の壁、複雑な刺繍を施したふかふかの絨毯。棚や床には所狭しと高価そうな皿、壺、アクセサリー類が飾られている。

 そして奥の方、天蓋付きのベッドに表情の見えない白露が丸まっていた。繋の姿を見ても以前の様にはしゃいだりはせず「…嗚呼」と返事を打つだけ。


「…どうなってるの、風音君」

「始まりは一か月くらい前だったと思う。花魁や男娼が襲われ始めてさ。皆気を付けないといけないって通達が出されたその翌日に、一人の花魁が首を千切られて死んだんだよ」

「……首を?」


 遊華は碁盤の目の様な作りになっており、広い廊下は先まで見渡せる。暗くはあるが、誰が何をしているか位は判別が出来る程だ。その所為か、皆その廊下で堂々と悪い事はしない。


「一瞬だった。気付いたら花魁が倒れてて、身体と頭が離れてた……」

「…普通、頭と胴体を切り離すのにはそれなりの力が必要だし、道具も必要だと思うんだけど。…でもそれを、姿も見せずにやってのけたって事か」

「うん。それからは不定期だけど、必ず夜中に花魁や男娼が殺されていった。今迄で四人…それも全部白露さんが手を掛けてた子達。だから白露さん、……精神的にもきつかったからか体調崩しちゃって」


 風音は寝具に丸まる白露を支えながら重々しい口調で語る。漸く身を起こした白露は酷く窶れた顔を覗かせた。四六時中泣いていたのだろうか、目元はすっかり赤く腫れ顔色は気味が悪い程に白い。


「繋ちゃん、ごめんね。来てもらったのに何のお構いも出来なくて」

「別に良いよ。それより…風音君を外に出したのって白露さんの指示? 俺に助けて欲しくて?」

「そう、アタシが頼んだの。アタシはここから出られないから、代わりにね」


 何時になく白露が強く言い放った。

 その言葉に繋が何か反応する前に、彼はふらふらと立ち上がり小さな箱を取り出す。丁度札束がぴったりと収まる様な、高価そうなその箱を開ければ中にはしっかりと帯のされた一万円札が百枚、入れられていた。


「連龍会は遊華の事には不介入。…だから繋ちゃん、申し訳ないのだけどこの事件の解決に力を貸して欲しいの。繋ちゃんも、何でアタシが貴方に頼んだか、…分かるわよね?」

「……、玖泉が関係しているから?」


 繋がそう言えば、白露はふ、と口角を歪めて頷いた。

 一瞬で頭と胴体を切り離せる鎌鼬の様な存在、姿も見せずに夜中に人間を襲うある種妖怪じみた話ではあるがそれはつまり〝人間の力では不可能〟だと言う事を表している。

 それならば考えうる可能性はただ一つだけ、犯人は〝玖泉〟服用者であり尚且つ〝変貌〟しているか、――その力をコントロール出来る〝共生者〟である可能性のある者だと言う事だ。


「…アタシ一人じゃもう対処出来なくてね。どうにかして止めてあげられたらいいんだけど。…その為に繋ちゃんに居て欲しいのよ」

「…別に良いけど。変貌した化物や共生者…力を使う奴に勝てる見込みは無いよ、俺は。やるのは犯人見つけるとこまででいい?」

「大丈夫。…ちゃんと、……全部受け止めたら、後はアタシが何とかする。……有難う」


 白露は相変わらず疲れ切った様な表情で繋を見た。それに、違和感を感じ――繋は何の言葉も返さなかった。その真意を知ってか知らずか、白露は控えていた風音に顔を寄せると何かを耳打ちする。途端、風音の表情が強張った。


「え、ぼ、僕が一緒に調査するんですか?!」

「お願い。繋ちゃんの助手の緋狼ちゃんは未成年だしここには入れないでしょう? 遊華を熟知してるアタシの右腕の頼れる風音なら、何かとサポートできるかもだし」


 そう言われてしまえば、風音は言い返す言葉もないのか少しだけ口元を歪ませて言葉を飲み込んだ。


「……べ、別に良いですけど……」


 風音は渋々と言った様子で繋に近寄ると、「足手まといにはならない様にするよ」と言って手を差し出してきた。宜しく、という意味なのだろうか。繋は少し薄い笑みを浮かべて握手に応じる。差し出された手はほんのりと熱かった。

 遊華の中央広場に吊られた時計が十七時を指す。

 街の明かりが灯り始め、店の暖簾や看板が廊下に立ち並ぶ。見世には遊女達が入り、客を招く準備をしている。そんな広い廊下の端、明かりが微妙に届かないこの場所に、繋は立っていた。

 拭き取り切れなかった血は黒く乾いてしまっており、事件があった事を嫌でも証明してくれる。

 この場所で、最初の殺人が行われた。

 風音は繋に目撃証言や発生時刻などを記した紙を渡して説明を始める。


「一人目は糸里いとさと。遊華上層部で人気だった太夫だよ。此処だけの話、政界で力を持ってるおじさんとか良く来てた。アイツらが何しても糸里は笑って対応してて、白露さんに見込まれた中で一番実力を持ってた人じゃないかな」


 風音の調査によると仕事終わり、散歩に出た所を狙われた様だ。夜明けにはまだ遠い時刻だった事もあり、客はほとんどおらず外を出歩く人も疎らだったので、この時は発見が遅れて朝方に衣服だけが見つかったとの事。

 繋は奇妙な違和感に苛まれる。


「衣服だけ? 遺体は?」

「…さぁ、何処を探しても黒い血と衣服しか残ってなかったよ。消えたんじゃない?」

「……」


 絶命すれば、遺体が無くなる。

 この現象に説明をつけるとするなら、それは糸里が〝服用者〟であったから遺体が消えたのだろう。この黒い血も、元々服用者であった為血が黒くなっていたのだと考えられる。

 でも、それは。


「初音繋…二人目がこっちの筋」

「え? あ、嗚呼…」

「元々遊女に何かしてやろうって人間も少なくなかったし、襲われたりってのはあったんだけどね。……まさかこんな事になるなんて、明日は我が身だよ」


 さっさと切り上げる様に風音が大股で歩いて行く。続いて風音がやって来たのは橋だった。良く時代劇なんかに出てくる様な、赤い桁橋が掛けられている。その下には用水路だろうか、底の見えない濁った水が流れていた。

 その橋の欄干、明らかに朱色でない赤い色が飛び散っているのが確認できる。


「二人目は花紫はなむらさき。下層部の格子だね。とにかく美人で高嶺の花って感じだったけど、僕とか店で働いてる子に凄く優しくて、皆のお姉さんみたいな存在だった。そう言ったカリスマ性みたいなのが、白露さんと似てたかも」

「彼女が襲われたのは夕方だね。…多くの人に見られたのにも関わらず、犯人の姿は目視出来ない程速かった訳か…。……ねぇこの鎖の音って何?」


 篠月に渡された紙をトントンと指で叩いて、繋が問いかける。風音は「嗚呼」と言って紙にくるまれた金属片を取り出して見せた。


「その目撃した人ほぼ全員が聞いたんだって。鎖を引きずったり、鎖同士がぶつかる音をさ。それで辺りを探してくれた人達が見つけてくれたの。……これ、何だと思う?」

「…」


 差し出された金属片はまさしく鎖のひとかけらだった。歪にゆがんで壊れてしまっているが、長年使われていたものなのだろう、ほとんどが錆びてしまっている。

 だがしかし、繋は確信を持てなかった。

 これが鎖だと言うのであれば、鎖鎌を持った何かが花魁達を襲ったと言うのだろうか。凶器に付属していた部品だとしても人間でないと仮定されているなら、そもそも凶器なんて牙一つ、爪一つで十分な筈。

 つまりこれは、犯人が〝着けていたもの〟の可能性がある。

 ずきり、と頭が痛む。


「…でも、鎖なんて着けてる人いる? ファッションとか? …僕には良く分からないんだけど」

「おれも世紀末のアニメ位でしか見た事無いよ。……嗚呼、でも…一人居たなぁ」

「え?!」


 そう言えば、風音は驚いて繋の方を見遣る。繋はそっと左の耳朶に触れた。

 忘れもしない、幼少期に自分から左耳の聴覚を奪った、赤髪の化物。


「化物と大差ない身体能力を持った〝人間〟。首輪と手枷、足枷を嵌められていた〝経験〟がある人物。贖罪からか今でもそれは身に着けてた記憶があるし……噂では、止棟の地下闘技場に出入りし日銭を稼いで生きているとか。あくまで噂だけどね」

「……そんな奴、居るの? じゃあ、そいつ〝服用者〟なんじゃ…」

「いや、それは…分からないけど」


 怯えた声でようやく絞り出された言葉を、繋は曖昧な返事で返す。風音は何か言いたげだったが、制する様にすかさず「とりあえずもう二件の詳細を教えてくれる?」と言えば、此処は飲み込んでくれたのか頷いて道を歩き始めた。


「三件目、これは僕が見た。蘇芳すおうって言う、最近陰間茶屋で働き始めた…まだ十四の子だったかな。白露さんがその子の居た屋敷で、瀕死の状態のまま放置されてるのを見掛けて助け出したの。話すのも得意だったから直ぐに上客がついたよ。……でも」


 風音は表情を歪ませて、陰間茶屋の店裏へと足を進める。そこには花街は陽の光の一切当たらない場所だからだろう、未だに乾き切らない赤黒い血痕がありありと残されていた。

 拭いても取れず、血の匂いのこもるその場所は普段は少年達の休憩場所になっているのだろうか。木製の長椅子に柔らかな座布団が乗せられていたり、灰皿なんかも端に置かれていた。然しその場所に近づく人間は、今は一人も居ない。


「…、蘇芳、体調が悪いからって少し外に行ってくるって言って。僕は辞めといた方が良いって言ったんだけど聞いてくれなくて、一回は一人で行かせたの。でも、やっぱり気になって此処を覗いてみたら……」

「……風音君?」


 紡ぎ出されない次の言葉に繋が風音の方を見れば、彼は顔面蒼白になって身体を震わせていた。短く不安定な呼吸を落ち着かせようと心臓の辺りをぎゅっと握り込めば、息を吐いて続きを語る。


「……居たんだ。鎌鼬……と言うか、犯人が。顔は見えなかったしどんな人かは分からなかったけど、髪も瞳も金色に光ってた。その後すぐに飛んでって……僕は生きた心地がしなかった」


 またずきり、と頭が痛んだ。

 くどくどと自分が彼に対して暴言を吐き散らかしていた時。まさに光の粒子が集まったかと思うと、彼の髪と瞳は金色に輝いていた。

 黄金色の月は、嫌でも彼を思い出させてくれる


「……、…君は、犯人と相対したの? それ、白露さんには」

「……言った。動揺して、何か話す前に出て行かされちゃったけど」


 風音は落ち込んだ様子でそう言った。そう言えば彼は「全部受け止めたらアタシが何とかする」と言っていた。募り始めた違和感が目を逸らせない位大きくなっていく。

 そんな中、風音がぽつりと言葉を吐いた。


「…僕さ」

「…ん?」

「……僕、遊女と客の間に産まれたの。でも、二人は僕の事見捨てて遊華を出て行っちゃった。お父さんは身請け金を必死に集めて来て、お母さんは僕を産んで白露さんに身請け金ごと託してそのまま二人共ふらり。それを白露さんは見捨てないでいてくれた。…僕にとって白露さんは、たった一人、ずっと僕を見ててくれた人なんだ」


 だからどれだけ辛くても、厳しくても仕事を頑張ろうと思った。

 この仕事を本気で好きでやっている訳ない。此処にしか居場所が無いから働いているだけなのに、客は言いたい事を言って、やりたい事をやって帰っていくだけ。


「男娼はね、長くても四、五年しか盛りが持たないんだ。勿論白露さんや他に二十歳を過ぎても男女の相手をして稼いでる凄い人達は居るよ。……僕は多分無理、だからいずれ此処を離れるつもり。どれだけ顔が綺麗でも、可愛くても、時間が経てばまた次の子が生まれる訳だから」

「……行く当てはあるの? それこそ外でサポートしてくれる大人の人とか、君を身請けしてくれる人とか」

「居ないよ」


 遊華、と言うものが出来たのは玖都が出来たのと同じ頃だと聞いている。元々、何故江戸時代やそこらの文化であった花街が現代まで引き継がれているのか。玖都が何時から出来たのか、繋にも全く分からない。そう言う歴史が記された文献や資料は、一切お目に掛かった事が無いのだ。

 ただ、気づけば連龍会は不介入の閉鎖空間――傾城町がそこにあった。


 四、五年で盛りが無くなった男娼はその後何処へ行くのか。

 身請けもされず、一生を花街で過ごした遊女達は何処に逝くのか。


「……ほとんどの子は此処を出たら、団地内で勝手に売春行為をして生活したり、あわよくば買ってくれる人の所に転がり込んだり…。運が悪かったら海外とかに売られて、殺される。…ねぇ、惨めでしょ? 僕達って」

「かざ」

「御前達が当たり前に感じてる普通の生活も、常識も、そんなものも一切知らない儘ある日放り捨てられて、じゃあ僕達、何の為に生きてるんだろうね?」


 視界が靄に包まれる。平衡感覚が失われていく。立っている事もままならず、繋はその場で膝をついた。

 頭の中で声がする。




 『還っておいで』と、声がする。




「……初音繋? ちょ、ちょっと大丈夫? 冗談だってば…」


 気付けば、あれ程気持ち悪かった胃の中は静まり返り、苦しかった呼吸が楽になっていた。顔を上げれば驚いた表情の風音が膝をついて繋の背中を優しくさすっている。


「……ご、ごめんって。別にアンタを責めたい訳じゃなかった。…盛りが持たなくなって客が付かなくなっても、此処で裏方として働く人だって居るし、芸者や食膳係、……選択肢は一杯あるんだ。僕も、白露さんにずっとサポートして欲しいって言われてる、けど」

「……じゃあ君はどうして、此処を離れようと思っているの?」


 そう問いかければ、風音は少し気恥しそうに瞼を伏せて視線を彷徨わせた。


「……客が言ってたんだ。大学って楽しいって。勉強すれば僕でも入れるみたいだし、……僕、本が好きでさ。その話すると客の何人かは読まなくなった本とかをくれたりするの。……玖都の外の、色んな本を、読んで、みたくて……とか、馬鹿だよね。何言ってんだろ」

「……」

「あ、ほ、ほら。僕は白露さんに助けて貰ったんだし、サポートに回るべきだって分かってるから。冗談だし……」


 風音は意気揚々と語っていたが、その内自分が発した言葉の意味に気が付いたのか、取り繕う様に笑った。繋は笑うつもりは毛頭無かったのか、真剣な表情で風音を見据えると軈てふ、と微笑み「良い夢じゃん」とだけ呟いた。

 伝わったのかどうか、それは分からない。けれど風音は、少しだけ頬を赤らめて微笑んで。

 微かに「ありがとう」と返した気がした。






 時刻は十九時を回ったところだった。繋は最後の事件現場へと足を踏み入れていた。

 そこは白露の部屋から最も近い、そして実質白露の次に人気のあった下層部の男娼・哥華うたばなの貸間。襖を開ければ血の匂いが広がる。行燈は倒され、掛けられた優美な着物はボロボロに切り刻まれている。畳や窓の障子、壁に至るまで細かい傷跡が付けられていた。


「最後が哥華。…時間が終って、休憩に入る所だったと思う。禿が哥華の所の湯の替えをしてて、物音がするって戻ってきたら…首が切り離されてた。窓から逃げたんだと思うんだけど、これ見て欲しい」


 風音はボロボロの障子を開いて繋に手招きする。少し覗き込んでみれば、繋にはその意味が良く理解出来た。

 通常遊華や違法カジノのある部棟と止棟は他の棟との行き来が出来にくい。手段としては呂棟と保棟の連絡通路だけだ。この二つの棟の連絡通路には連龍会の構成員が居て目を光らせているので、未成年は入る事が出来なくなっている。

 逆に、この連絡通路から遊女や男娼が逃げる事も許されない。逃げた人間は連れ戻されて報復を受けるか、もっと酷い事になる、と噂では語られている。

 そして、この二つの棟は〝地上〟からの出入りが出来ない。

 言うなれば地上に玄関が存在しないのだ。二つの棟をぐるりと囲む様に何百メートルもの地下が掘られており、落ちれば一たまりもない。この地下の周りには有刺鉄線と鉄柵が張り巡らされているので、侵入すらままならないのだ。


「……窓から出た犯人は、この地下を飛び越えたって、事? ……幾ら何でも、あいつにそんな事出来るのか」

「……おかしい話でしょ。……あ、でもほら、前の…何だっけ、劉楓だっけ? そいつは羽根が生えてたんでしょ? だったら飛ぶ事も出来るし、そう言うのも居るのかなって」

「……嗚呼」


 そう言えば以前、情報共有をしていたのだった。

 彼等にも夜淵と言う存在が居る事を明らかにし、服用者の他にも致命傷というケースがあるという事、それらは変貌して見境なく人を襲う事があると言う事。そして、黒血は一様に血が黒いと言う事を、白露や風音の前で話したのだ。

 薬物売買の温床になりそうな遊華では特に気を付けて欲しいと白露に口酸っぱく言っていたんだった。


 白露は「気を付けるわ」と笑っていたが、そうして出来た状況がこれである。


 何にせよ大体の情報は得られた、と繋が礼を言えば「役に立って良かった」と風音が笑う。その後、暫く話し込んでいたが、店の若いわかいしに客が来たと呼ばれ、風音は名残惜しそうに接客に向かった。

 その背中をただ黙って見詰める。

 自分も遊女の母の子だった。けれど彼と自分とでは状況が違い過ぎる。母は自分を愛してくれていた。けれど風音の母は? 男と二人だけで花街を抜け出し、今頃何をしているのだろうか。

 彼が負った心の傷は計り知れない、白露に対する信頼も何もかもが違う。あんな事を聞かされて、素直に帰れる気がしない。

 そう思い、様子を見に行こうと踵を返した時。振り向きざまに誰かとぶつかってしまった。


「うおっと、悪ぃな、兄ちゃん」


 青丹色の髪の男性だった。酒臭さに思わずむせる。派手なハワイの柄シャツを着た、いかにもチンピラの様な風貌の彼は繋の肩を支えながら「怪我ねぇか?」と聞いてくる。

 その赤い瞳が、誰かを連想させる。


「いえ、大丈夫です。…すいませんこちらこそ」

「い~のよい~のよ。此処暗ぇもんな、気ぃつけろよ」


 彼はひらりと手を振ると、そのままさっさと歩いて行ってしまった。あの方角は白露の部屋だろうか。繋は何とも言えぬもやもやを抱えつつも、風音の居る貸間へと足を速めた。

 風音の貸間は廊下の突き当りだ。酒に酔った客とそれを支える若い衆を避けながら、繋は案内役の男娼と共にその場所まで向かう。襖の横には恐らく接客中を表しているのであろう赤札が立て掛けられており、中からは風音と客の話し声が聞こえてきた。


「風音様は接客中ですね…初音様、終了までまだまだお時間があるのですが、如何なされますか?」

「……う~ん、だからと言って一人で放っておけないからね。隣空いてる? 誰か指名しなきゃってんなら君で良いよ。見張る口実が欲しいんだ」

「え、あ……わ、分かりました! 直ぐに準備してまいります」


 男娼――ふじは驚いた表情のままそう言えば、ぎこちない所作で隣の貸間の札を入れ替え、ぎぎぎ…と襖を開ける。現場に出たのは数回か、或いは初めてなのだろうか。床の行燈を蹴り飛ばしたり、慌てて寝具を整えだす彼を見て、流石に繋も止めてしまった。


「……あ、あはは。申し訳ございません…何時もこうなんです。ドジばかり踏んでしまって……」

「良いよ気にしてないから。……君も白露さんに助けて貰った子?」

「あ、はい。最近此処の楼主ろうしゅ様の元へ来たのです。…何をやっても上手く行かないので、良く怒られています」

「……あれ? 楼主って、経営者だよね? 白露さんが全ての店の権利を持ってて運営している筈だけど…」


 藤はキョロキョロと辺りを見回して、繋の耳元にこっそり耳打ちする。


「権利者は白露様、と言う事になっておりますが実際は店ごとに別の楼主様が居て、彼等が実質的な指導や経営をしておられます。……白露様の負担を減らす方法だと仰っていたんですけど、白露様が賛成した訳ではなくてですね……」


 藤が聞いた話によると、もう何十年も前から白露派と他の楼主派との言い合いが続いている様だった。白露は遊華の利益を独占しようとしているとか、下層部の事を全然考えていないだとか。

 遊華の上層部、下層部と言うのは一種の位の様なもので。簡略化するなら上層部が値段も接待も環境も破格に高い遊郭の集まる場所で、下層部が金の余り持っていない人間でも来れる様ないわば〝慰め〟の様な場所の事。

 一般人は上層部で豪遊する事が出来ない。金がない時、或いは金が足りない時はほぼ下層部を利用するのだ。

 勿論下層部も接客業ではあるのでそれなりのマナーや節度を保っているが、上層部の様な煌びやかな世界とは程遠い環境である事は確かだ。


 それでも白露は上層部、下層部全ての遊女や男娼達の管理をし死ぬ寸前だった子達を救い、明日を生きる希望を見出してくれている。それ故に他の楼主の杜撰さに対する遊女や男娼達の不信感が露わになり、このままでは白露にクビにされてしまうから、今のうちに結託して白露を経営から遠ざけようとしているらしい。


「自分達がしっかりすれば、別に何でもない問題だと思うんだけど……」

「俺もそう思います…でも楼主様にも言い分があるらしく…何百人も居る遊女や男娼達の世話、貸間の掃除に修繕費用や備品の買い足し、若い衆達の指導……それらにどうしても頭が回らないと……白露様は完璧かも知れませんが自分達にそれと同等の完璧さを求められ、勝手に幻滅されたんじゃたまったものではないと……」

「何だそれ…」

「実際に頑張っていらっしゃる楼主様も沢山いらっしゃいます。己の睡眠時間を削り、少しでも経営が回る様に、全員が幸せになれる様にと努力していらっしゃる楼主様もおりました。……その楼主様達のほとんどは、首を括られました。ある日突然、糸が切れた様に階下に飛び込んで亡くなられた方も居ました」

「……」

「……遊華は連龍会が不介入の場所です。その原因は白露様にあると、楼主様が噂しておられました。……こんな事を思うのは如何なものかとは思いますが、白露様やその他の楼主様、連龍会の皆様が協力して遊華をもう少し生きやすくして欲しいと思うのです。この生活に不満を感じた事はございません、けれど頑張っている楼主様が命を絶たれる様な事にはならないで欲しくて……」


 藤は何か言いたげな様子で繋を見つめる。


「…白露様には、拾って頂いた感謝があります。下層部で臍の緒がついたまま放置されていた俺をここまで育ててくれた。……実は最近白露様の手を離れたのは、もうすぐ身請けが終るからなのです」

「え? そうなの? 良かったじゃん」

「白露様の元で働いていた時はのびのびと接客が出来ていた所為か、少しばかり人気を頂けておりまして。その縁で、玖都で開業医をされている男性に。奥様を亡くされて、自暴自棄になっていた時に此処へ来て、…と言う経緯で。……此処へ来たのは若い衆が足りず、買い手が付いた俺を代わりにと」

「……指名しちゃったじゃん、ごめんね。まさかもう身請けされるなんて」

「いえ! 俺がそれを受けたのは、初音様にお願いがあったのもありまして」


 そう言うと、藤は滑らかな所作で頭を下げる。

 顔を上げれば、神妙な面持ちが伺えた。繋も思わず背筋が伸びる。


「俺が育った遊華から離れる前にこの話をしたかったのです。貴方様は白露様に気に入られた唯一の方。どうか白露様に今一度、この話を伝えて下さいませんでしょうか。……俺では、伝えられませんでしたから。取り返しのつかない事になる前にどうか、話だけでも伝えて欲しいのです。勝手なお願いをして申し訳ございません…」

「……分かったよ。白露さんの見えない所で頑張ってる人達も居るんだよって事を伝えればいいんだよね。後は遊華を何とかしてもう少し生きやすく……だっけ」

「…小さな郭になればなる程、白露様の目が届き難くなります。その苦労を少しだけでも分かって欲しいのです……どうかそれだけです」


 藤はにこりと微笑むと、隣から襖が開く音が聞こえれば「風音様、出られましたね」と呟き立ち上がった。繋は出て行こうとする藤の腕を掴むとその手に万札を五枚握らせる。


「そ、そんな、頂けません、俺は何も」

「良いから。今後の生活資金の足しにもらっといて」


 慌てて押し返そうとする藤にチップだから、と言ってしまえば困った様にしていたものの、最終的には深々と頭を下げ、見送りをしてくれた。

 貸間を出て店の出口まで向かう。広い廊下に出れば、今度は酒に酔った客が遊女の袖を掴んで暴言を吐いていた。これが何時も通りの風景だ、と思ってしまうのが異常だったのだと繋は改めて思い直す。


「…遊華がどういう経緯で出来たとしても、身寄りのない死ぬしかなかった子供。居場所や職業を失った大人を多く救ってきた事は事実です。俺はそんな白露様が大好きですし、他の方々もきっとそう思っています。この事件が終れば、少なくとも今よりは遊華が生きやすくなっていたら……幸せですね」


 藤は虚空を見つめてそう溢す。時刻はすっかり二十一時を過ぎていた。

 「又、逢いに来てくださいまし」と言った藤に繋は手を振って応えると、風音が出てくる迄壁にもたれて煙草を吸う。

 被害者は全員、白露が手を掛けた子達だ。

 ならばこれは白露への復讐だと考えるのが自然だろう。犯人は楼主達の中か、或いは楼主の家族…遺族か。玖泉を服用し尚且つ変貌している者。意識がなければ、誰彼構わず――露木藍生の様に見境なく襲いに来るはずなので、劉楓の様に化物としての意識を保っている、共生している者だと考えられる。

 だとすればあの鎖は何だろうか。楼主達が身に着けていた…と考えるのは違和感が残る。


「……首輪、鎖……奴隷……? もしかして、化物を飼ってる……」

「何の話してんの?」

「うわっ、風音君。……否、情報整理だよ」


 繋のすぐ隣には、私服に着替えた風音が立っていた。こうして見れば、遊華の男娼もただの少年だ。家まで送るよ、と言うとそれなら泊まって行けば? と言われたが丁重にお断りする。だらだらと事件に関係する情報が無いか歩きながら話していた二人だったが、ふと風音がそう言えば、と話題を変える。


「ねぇ、藤と何の話してたの? 僕が出てきた時も話してたよね?」


 繋は白露が他の楼主と対立している事、もうすぐ身請けされる藤の事、遊華が連龍会不介入になった原因は白露にある事を纏めて話せば、風音は驚いた様に目を見開いた。


「……藤、身請けされるんだ」

「そうらしいよ。……で、不介入の原因とか知ってたりする? 風音君は白露さんと一緒に居る時間が長いでしょ? 何か聞いてない?」

「…いや、何も。そう言った事は殆ど聞いてないかな。白露さん、自分の話しないから。あ、でも」


 ぴたりと足を止めて、風音が答える。


「…白露さん、昔の何かの約束で〝部屋から出られない〟って言ってた。それが、何を意味するのかは聞かせて貰えなかったけど」

「…部屋? 遊華からって事なのかな…」

「そうじゃない? ここも一応棟の部屋扱いだし…っと」


 遊華の廊下を突き当り迄進めば、質素な鉄製の扉が姿を現す。風音が鍵を回して開ければ、そこには化野団地の何時もの廊下があった。恐らくここが遊女や男娼達の住居になっているのだろう。


「此処迄来たら大丈夫。今日は有難う、見送って貰っちゃって」

「うん。気を付けてね、君も〝白露さんが手を掛けた子〟なんだから」


 そう言えば、風音は少しだけ表情を翳らせる。


「…そうだね。白露さんの為にも、僕はやられない様にしなきゃ」


 じゃあまた。

 そう言って控えめに手を振った風音の後ろ。

 烏の濡れ羽色と言うべきか、漆黒の長髪にこれまた深い闇色の瞳を持った青年がそこに立っていた。

 ――繋に向かって、微笑む。


「…!?」


 瞬きをしてもう一度見遣る。然しそこに青年の姿はなく、きょとんとした風音が立っているだけだった。


「…初音繋? 大丈夫?」


 繋は冷汗を拭いながら「何でもないよ」と答え、軈て彼を見届けてからぱたんと扉を閉める。どうやらオートロックらしい、こういう所はハイテクなんだなと思いながら、重い溜息を吐いた。

 あれは一体何だったのだろう。それにこの事件、言い様のない違和感がずっと心の中に残っている。


「…変な感じ。まぁいいか」


 明日から本格的な調査に乗り出そう、白露にももう一度話を聞きたい。そう決めれば大きく伸びをして繋は呂棟の連絡通路へと出た。相変わらず空は曇っていたが、何故か普段は伸びる事のない月の光が団地内を照らしていて。

 奇妙な感覚に、繋は胸のとっかかりを外せないまま、事務所で眠りについた。

 その次の日。



 まだ七時にもならない時間、風音から繋は最悪の連絡を受ける。








 ――『藤が、死んだ』。








 勤務を終えた藤は一人で住居へと帰ろうとしたらしい。鉄製の扉に凭れ掛かる様にして死んでいた藤の手には、ネックレスチェーンに着けられた指輪が握り締められていた。

 その最期の表情は鬼気迫ったものであり、恐らく激しく抵抗したのだろう、喉を裂いた致命傷の他に脇腹や手足、頭にも裂傷が散見された。

 藤だって白露が手を掛けた子である事は間違いなかった。けれどもうすぐ身請けされ、遊華から出て行く子を狙う理由はあるのか? 幸せにはさせないと言う犯人の意図であるならば多少は納得が行く。それでも、繋の心は晴れなかった。


「初音繋…、白露さんが遺体は身請け先の人に渡したいって。その人もせめて弔ってあげたいって…」


 風音が未だに遺体の傍で立ち尽くす繋に声を掛ける。

 如何したら良かったのか。此処には白露が手を掛けた子が殆どだ。次に誰が狙われるかなんて予想もつかない。藤が狙われたのは偶然だと思いたい。そう思わなければ自分に色んな事を話した所為で、藤が殺された事を認めてしまう。

 繋は「分かった」とだけ言えば、花街を後にした。






 ふらふらと足取り重く、辿り着いたのは波棟の弐〇陸号室。何時も通りインターホンを鳴らせば凪が応えてくれる。が、


「あ、いらっしゃいま……繋…さん?」


 余りに生気のない表情に、凪の言葉が途切れた。その様子を見ていた透も何事だと近寄って来る。

 何時もは減らず口を叩いて透にストレスを掛けてくる繋が、何も言わずに部屋に上がり込むのは初めてだった。


「……大丈夫かよ」

「大丈夫に見える? ……最悪だよ、こっちはさ」


 繋はこれまでの全てを透に話した。途中、気分が悪くなったと言い凪が外出してしまったが、それに構いもせず淡々と起こった事を伝え切る。透は終始黙って聞いていたが、繋が話し終えると妙に納得した様子で口を開いた。


「つまり…犯人はまだ分かんねぇけど容疑者として有力な人間がいる地下の闘技場に行きたい訳だな」

「御前はカジノ棟を良く知ってるでしょ。……俺あんま行った事無いから、手伝って欲しい」


 地下の闘技場は遊華がある階層よりももっと下、地下に作られている。なので、遊華にある連絡用の階段を使わなければそこへ辿り着く事が出来ないのだが、繋は遊華よりも下に行った事が無いのだ。

 カジノ等無縁だった訳で、そこへ透に白羽の矢が立ったのである。


「良いけど…。顔色良くねぇぞ、ちょっと休んでから行けば?」

「……まさか、御前に心配される日が来るなんてね」


 透に差し出された水の入ったコップを受け取れば、一気に飲み干す。まだあの鉄錆の匂いが鼻に残っている。表情が和らがない事に気付けば透は畳に座り、何気なく口を開いた。


「〝景虎〟だろ、その…遊華の奴等が見たとか言って、御前が思い浮かんだ奴って」

「…最初は楼主か、遺族だと思ったんだけどね。鎖の説明を付けられるのが彼奴しか居なくて」

「鎖ね…園で、あんな事件起こしたんだし俺だって覚えてる。……でも本当にアイツがやったのかな」

「…それを今から聞きに行くんだよ。やってないなら遊華に行ってたのかどうか、吐かせないと」


 透はまだ何か言いたげだったが、細く息を吐いて「分かった」と告げれば部屋を出る。会話も無いまま遊華にある連絡用の階段まで辿り着けば、透はそこに居た警備員に何かを見せていた。警備員が頷けば、繋に手招きして大きな扉を開ける。


「…何見せたのそれ」

「え? まぁ…。カジノ棟初めての奴って手続きが面倒臭いんだよ、それを省いて貰った。俺のツレだよって事で」

「ふぅん、顔広いんだ」

「伊達に博徒やってませんから」


 そんな事を言い合っていれば、中から派手な音が聞こえてくる扉の前に到着する。床には張り巡らされた電線や何かのコード、剥き出しの配管に取り付けられたタグやラベルに何かの機械。…全てカジノ棟の運営に必要なものなのだろうか。考えを巡らせながら、透が開けた扉の先へ足を踏み入れた。


 そこはさながらラスベガスのカジノ施設の様な、豪華な作りをしていた。黄金のガラス細工のシャンデリアにレッドカーペット。大きなルーレット盤が噴水に突き刺さっているのも衝撃が大きい。こういうデザインなのだろうか…と思っていれば、透に襟首を掴まれずんずんと奥へと入って行く。

 少しその豪華な空間から離れれば、裏路地の様な汚い一面が姿を見せた。放置されたゴミに落書きだらけの廊下、チンピラみたいな風貌の青年たちが初めて見る人間に警戒心を露わにしている。


「ここが地下闘技場の入り口。……パス無いから、ごめん、我慢してくれ」

「え?」


 そう言えば透が上着を徐に繋の頭から被せた。一瞬の事に声も出せずにいれば、視界が塞がれたまま肩に手を回され何処かへ連れて行かれる。


「おお、透。……どうした、それ?」

「悪い悪い、俺の財布スったガキでさ。ここの中の人間だったんだわ、飛将に処分任せようと思って連れて来たの。入っていい?」

「あはは、透に喧嘩売る奴なんか居るんだな。可哀想に……入れ入れ」

「ありがと、じゃあな」


 暫くの会話の後、歩き続けていた透がぴたりと足を止めた。上着を取り去れば明らかに不機嫌な様子の繋が、髪の毛を整えながら口を開く。


「誰が…御前の財布をスったガキだって…?」

「悪かったって。こうでもしないと入れないんだよ。さっきも言ったろカジノ棟に初めて来る奴の手続きは面倒だって。ここもパスが無いと基本立ち入れない。…我慢してくれ」


 繋は盛大な舌打ちをして黙る。それが彼なりの譲歩だと言う事に気付けば、透は苦笑いして「こっちだ」と手を引いて行く。落書きだらけのシャッターには、びりびりに破れた奇抜なポスターが上から次々と貼り足されている。あちらこちらにガムや唾を吐いた跡、ゴミ、吐瀉物が散乱しており、またしても繋は吐きそうになるのを堪えながら透の背を追った。

 そんな廊下を進んだ先に、円形の観客席が広がる。もう既に満員の様だ。下を覗けば金網と有刺鉄線で囲まれたステージが鎮座していた。これが地下闘技場なのだろう。透はそのステージの脇に居た空色の髪の少年に声を掛ける。


飛将ひしょう


 スマートフォンから顔を上げ、獣の様な細い瞳を透に向けたかと思えば、その唇が柔く微笑む。片手をあげたその人は、繋に気付けば「誰?」と興味深そうに鼻を近付けて来た。


「こっちは初音繋。…こいつは地下闘技場の運営をしてる御菩薩池飛将みぞろげひしょう。あとここら辺全体を仕切ってる奴でもある」

「よろしく。つなぐ」

「嗚呼、どうも」


 簡単な挨拶を交わせば、繋は早速飛将に質問を投げ掛けようとした。その時。

 わぁ、と観客達が一斉に声を上げる。

 何事かとステージを見遣れば、そこには韓紅からくれない色の髪の青年がステージに入って来ていた。

 首輪に手枷、足枷を嵌めたその青年は空色の瞳を、入って来た挑戦者と思しき人間に向ける。

 彼が身体を動かす度に、ちゃり、と枷から伸びた鎖が音を鳴らした。瞬間、繋の視界に遊華で見たあの金属片が鮮明に思い起こされる。



 心臓が跳ねる。遠目からでもはっきりと分かる。

 これだ、これに違いない。



 腕をだらりと垂らして、身体を揺らす。

 挑戦者の咆哮の後、青年の身体が飛んだ。人間の動きではない、獅子が獲物に爪を立てる様なそんな所作。


 空中で身体を捻って、刹那。


 彼の爪が異様に長く、黒く、変化した様な気がした。すとん、と青年が音もなく着地する。挑戦者の首は綺麗に切断され、鮮血を吹き出してその場に崩れ落ちた。そのモーションが今迄命を奪われた被害者達と重なる。暫しの沈黙、しかしやがて観客の歓声が上がると隣に居た飛将も笑ってその光景を見守っている事に気付いた。


「これが……、地下闘技場? 信じられない…」

「こうやって俺等は生きてんの。何でもありのルール、負けた奴は死ぬだけ。勝った奴は今日の飯を食える。分かりやすいだろ」


 遊華だって、大変な境遇の世界だと承知している。然しここも負けず劣らずだった。こんなスラム街の様な文化が根付いた地区があるなんて思わなかった、――繋は受けた衝撃に耐えきれずぼんやりとしていたが、軈て青年がステージから降りようとしていた事に気付き慌てて声を荒げる。


「双ツ神景虎ふたつがみかげとら!!」


 その瞬間、弾かれた様に景虎が繋を見た。その瞳には恐怖が滲んでいて、顔を青くさせた彼は繋の制止を聞く事なく、奥の控室へと逃げる様に去って行った。


「………、あいつ」


 繋はすぐさま飛将の襟元を掴むと控室へと走って行く。控室には次の挑戦者や、出番を待って身体を動かす者が居たが、その中に景虎の姿はいない。


「いてぇ、いてぇって。景虎の知り合い? 何か聞きたい事でもあったの?」


 飛将の質問にも答える事なく、繋は控室より更に向こうの物置や関係者しか入れないモニタールーム等に侵入したが、やはりそこにも景虎は居なかった。遅れて透も走って来るが、やはり景虎の姿は見ていない様だった。


「…ねぇ御菩薩池飛将。あいつの寝泊まりしてる所って知ってる?」

「は? いや知らねぇよ。部屋持ってんのかな。持ってても多分帰ってないと思うぞ」

「じゃあ行きそうな所! ここら辺であいつが良く行く場所とかないの?!」


 繋の切羽詰まった様子に、飛将も言葉を詰まらせてしまう。見兼ねて透が「とりあえず手分けして探そう」と言えば、繋は飛将から視線を逸らしてこくりと頷いた。

 それから数時間三人でカジノ棟を必死に探したものの景虎の姿は全くなく、緋狼からのMINE通知で午後十九時をとうに回っていた事を知り、今日の所は諦めるしかないと繋を説得してカジノ棟を出た。


「また明日にでも探そう。…俺も協力するからさ」

「……嗚呼…、あ、萩原透」


 波棟に続く連絡通路に差し掛かった時、繋は聞こえない程度に「ありがと」と呟く。それが透に伝わったのかどうかは定かでは無かったが、少しだけ微笑んで手を振った。


 事務所に戻ればがらん、とした室内が目に飛び込んでくる。少しだけ埃っぽいその部屋のソファに倒れ込めば、緋狼とのトーク画面を立ち上げた。何気ない入院中の話に、誰がお見舞いに来たかなどの報告だ。怪しい人が来たら必ず連絡しろと入れてあったが、真面目な緋狼は全てに報告義務があると思い込んでいるらしい。

 そこが緋狼君の良い所なんだけどね、なんて考えながら何時の間にか緩んだ口角のまま返事を打つ。

 今日も部屋の外で、黄金色の月が輝いていた。






 それから幾度となく地下闘技場と裏路地、カジノ棟や遊華を探し回ったものの景虎の姿を再び見る事は出来なかった。繋の中に苛立ちだけが募っていく。あの衝撃的な姿を見てから、黒い爪が頭から離れない。あんな風に人の頭を飛ばせるのはもう、彼奴しか居ないだろう。早く見つけないといけないのに。

こんな事をしている合間にも、また新たな被害者が出るかも知れないのに。



 何も出来ない、八方塞がりのまま時が過ぎ、そして。



 飛将から光明が見える連絡が来たのだ。――〝今日のエントリー表に景虎の名前がある〟と。恐らくそこでしか生活出来ない景虎の事だ、生きて行く金を稼ぐ為に仕方なくエントリーしたのだろうと伺えた。

 すぐに透にも連絡を取り、カジノ棟及び地下闘技場へ入り込む。

 景虎は前回同様、あっという間に優勝してしまった。が、その表情は相変わらず硬い。すぐに金を受け取っては闘技場を後にする。彼の気を逸らし、確実に話を聞くには飛将が止めておく方法が一番だと話し合い、作戦は決行された。二人は飛将の後をつけ、その様子を見守る。


「景虎~、今日もお疲れ。飯行かね?」

「…嗚呼、うん」


 飛将の誘いに景虎が乗った。二人は顔を見合わせ頷き合う。

 そこから行き止まりのポイントまで飛将が誘い込む手筈だが、景虎は終始俯いて表情が読めない。軈てすんなりとその地点に辿り着いた時、漸く景虎が顔を上げ――不審そうに飛将を見た。


「……飛しょ」

「御菩薩池飛将、案内有難う。これで心置きなく、話が出来るよ……双ツ神景虎」


 繋の声が裏路地に響いたと同時に、景虎の姿が揺れる。それを間一髪で止めたのは飛将だった。地面へと組み伏せ、暴れる景虎を抑えながら溜息を吐く。


「…っと、悪ぃな。相応の金貰っちゃってよ。頼むから話に付き合ってやってくんねぇかな」

「っぐ……、くそ…ッ」


 じたばたと暴れる景虎の首根っこを押さえる飛将の身体は全くびくともしない。景虎ばかりが目立っていたが、実は飛将も相当の腕の持ち主なのではないかと、人知れず繋は冷静に観察し――そして、口を開く。


「……久し振り。金百合園かなゆりえんで御前が俺の耳を千切った時以来だっけ。……あの時の謝罪は要らないから、単刀直入に聞くね。……遊華で起こってる事件の犯人、御前は知ってる?」

「……」


 景虎は表情を歪めて唇を噛み締めた。何も知らないのであれば、少なくともそんな悔しそうな表情はしないだろう。つまり彼は〝バレかけている〟と言う事を理解しているのだ。

 繋は彼に歩み寄り、それぞれ被害者の写真を景虎の目の前に並べる。


「…彼等、彼女等は何の罪もない子達だ。なのにただその人に救われた子供と言うだけで狙われ、首を切られ、殺された。…この子達が、どんな思いをしながら死んでいったか分かる?」

「……」

「知っている事があるなら教えて欲しい。どうしても吐かないって言うんなら、御前を連龍会の人達に受け渡してプロに口を割るのを手伝ってもらう」

「……」

「だんまりか。仕方ない、飛将そいつ一緒に連れて―――」

 


 刹那。

 飛将と繋の身体が大きく吹き飛ばされた。



 コンクリートの壁に打ち付けられた二人は地面に倒れ伏し、一気に酸素が肺を満たして息苦しさに噎せ返る。慌てて景虎に視線を移すと、彼の身体からはバチバチと金の粒子が光り輝いていた。髪の色も、瞳の色も一層金色に煌めき、その爪は鋭く長く伸び切っている。

 腕をだらりと垂らして、身体を揺らすあの動きは、――獲物を捕らえる前準備だ。


「……変貌…?」


 繋は思わずそう呟いた。然しその問いに、景虎は「違う」と静かに呟く。意思疎通が出来る、その点で繋は違和感を覚えていた。化物に変貌すれば、自我を失うとそう聞いていたから。やはり彼は緋狼から聞いた、劉楓と同じ様な共生者だと言う事?――そう考えを巡らせていれば、景虎は自ら口を開いた。


「玖泉なんか飲まなくても、生まれた時から人間じゃなかった……それだけだ」


 そうして景虎の姿が消える。常人の目では全く追いつけないそれは繋の目の前まで迫って来る。

 その爪が伸ばされる。


 動く事すらできないコンマ零秒の世界の中、

 ――闇い弾丸が景虎の肩を正確に撃ち抜いた。


「っぐ、ぅ」


 呻き声を上げた景虎の身体を慌てて飛将が抑え直す。ざり、と砂を踏む音が近づいて来て、現れたのは莎朗だった。何時もの薄ら笑いを浮かべ、拳銃をしまうと繋の傍へと近寄る。


「大丈夫ですか? 初音さん。思いっきりぶち当たってましたけど」

「……平気。それより何で御前が居るの」

「玖泉の匂いがしたのでやってきました。でもここの空気はあまり良くないですね」


 よくよく見れば莎朗の顔色は悪い。彼もゴミや吐瀉物の匂いにやられたのだろうか。そんな事を考えていたものの繋は直ぐに景虎の方へ思考を移し、ふらふらと立ち上がると彼に近寄っていく。


「……ほら、もう御前に打開方法はない。今度暴れれば命は無いよ」

「……」


 飛将が身体を離す。景虎の身体から力が抜けたのを確認した為だろう。ゆっくりと身を起こし、未だに血が溢れ出る肩を抑えながら彼は悔しそうな表情を浮かべて息を吐いた。


「…で? 犯人を知ってるの? 御前は何をしてるの? 何で俺達から逃げた?」


 景虎は答えない。

 痺れを切らした繋が胸倉を掴み上げた瞬間、慌てて景虎は口を開いた。然し。


「……知ってる、けど言えない。全部、言えないんだ」


 返って来た答えは誰もが失望する様な回答で。

 繋は思わず彼の身体を地面へと押し倒し、胸倉を掴んで怒鳴る。


「っ、ぐ」

「……何それ!? 何人死んでると思ってんの?! 御前いい加減にしなよ、何で自分の意思を持たない訳?! どうせ犯人に脅されてるとかそんな所でしょ? 御前の力使えば良いじゃん! 返り討ちに出来るんじゃないの?! 何でやらないの!?」


 溜まった、行き場の無い怒りを全てぶつける。それでも景虎は何も答えなかった。軈て沈黙が場を支配する。どうしたものかと見ていた莎朗が溜息を吐いた時、飛将が思いついた様に声を上げた。


「あ、じゃあさ、景虎に勝ったら犯人教えて貰うとかで良くない? 闘技場にエントリーしてさ」

「…は?」


 言葉の意味が理解出来ない。

 きょとんとする繋だったが、すぐにその意図を理解したのか途端にしかめっ面になる。


「……化物に、挑もうっての? そんなの死ぬじゃん」

「でも知りたいんだろ? 郷に入っては郷に従えだ。ここで勝ったら景虎は理由を教える。負けたら御前等は諦める。このままだんまり続けられるだけで時間の無駄ならそうした方が早くね?」

「…面白がってるだろ」

「まぁ半分は」


 飛将がそう言ってからりと笑う。ただ、言っている事は凡そ間違ってはいなかった。それでも先程見せつけられた力を目の前にすると、どうしても命が惜しくなってしまう。繋も透も黙りこくっていると、莎朗が今度は手を上げた。


「それって初音さんとかじゃなくてもいいんですか?」

「まぁ景虎に挑むんだから、多少の助っ人はありって事で」

「連龍会の人に頼みましょうよ。腕利きの人居るでしょ? 断られたら初音さん頑張れ」

「……御前が出てくれてもいいんだけど?」

「俺、体術はからっきしで~~」

「…うざ」


 話がまとまれば、飛将は景虎の身体を支え路地裏を後にした。繋も、未だに打ち付けられた背中が痛んだが、こうしてはいられない。約束の日は一週間後。それまでに助っ人を見つけなければ、繋自身が景虎と相対する事になってしまう。


 彼の力は子供の頃から良く知っている。

 …敵う筈がないと、分かり切っている。


「繋、大丈夫か?」


 透が心配そうな表情で手を差し出した。今自分はどんな表情をしていたのだろうか。それでも無理矢理に笑顔を作って、「問題ないよ」と言えばその手を掴んで身体を起こす。



 満月は何時の間にか、血の様に紅く煌めいていた。






 翌日、繋は莎朗と共に連龍会本部を訪れていた。たまたま本部に居た雨月が応対し、その一連の出来事を話したのだが――、反応は二人が思った通り、渋いものだった。


「……幾ら腕利きだからと言って、組長クラスも流石に化物に勝てるとは思えませんね。うちの組長をそんな危険な目に遭わせる訳にも行きませんし」

「……だよねぇ。…はぁ」

「まぁまぁ、奉日本組の方に聞いてみましょうよ。まだ好戦的な奴はいるかも」


 莎朗が励ます様に、半ば馬鹿にしている様にそう言うも繋にそれを諫める気力もなく。気まずい空気が流れたまま、渡り廊下を歩いて奉日本組へと向かう。生憎乱は別件で玖都にすらいないらしく、応対したのは繋とは初対面の九頭竜皇牙くずりゅうこうがだった。

 やる気の無さそうな瞳で繋と莎朗を一瞥した後、そのまま「無理です」と一言。踵を返そうとした皇牙を慌てて引き留めて繋が叫ぶ。


「そんな事言わないでさ! 誰かいないの? ほら、闘技場でも関係ないぜみたいな奴!」

「いやいませんよ…、てか遊華には俺等不介入でって言われてるんで……。服伸びる…」

「じゃあ奉日本さんには俺から言っておくから! 俺の代わりに死んで!」

「…誰があんたの為なんかに死ぬか!」


 皇牙に手を振り払われさっさと奥へ消えられれば、繋はがくりと項垂れた。これには莎朗もどうしようもない。半ばこの件に飽きた様子でスマホを弄っていれば、ふと渡り廊下を踏みしめる音が聞こえてきて、反射的にそちらを向いた。



「じゃあアタシが行ってあげましょうか」



 桃色の髪を横に流したレザージャケット姿の龍星だった。丁度本部へ顔を出しに来たのか、黒い鞄を持ってマスクをしている。


「…マジ? 相手は化物だけど」

「良いわよ。丁度運動したいと思ってたの」

「……本当に? それで死んじゃっても文句言わないでよ?」

「言わないわよ、死なないもの」


 あっけらかんと全てを軽く返す龍星に不安が募る繋だったが、今はそんな事を言っていられない。この人の申し出を断れば、自分の死が確定するのは確かなのだから。

 じゃあ宜しく頼むよ、と言えば龍星は「任せて」とマスクを取ってはにかんだ。この人の事を全て知っている訳では無いが、それでもその微笑に何故か上手く行くと思えてしまったのは気の所為なのだろうか。

 その日は連絡先を交換し、一週間後闘技場前で落ち合おうと話を付けて解散となった。


 化野団地に夕暮れが訪れる。

 寂れた汚い廊下を歩きながら、莎朗がふと口を開いた。


「初音さんは何で玖泉の事件を追う様になったんですか?」

「…初めて担当したのが半年位前の…露木の件で。そこから不思議な事に担当する事件全部玖泉絡みでさ。遊華の…今の事件だって、連龍会に言えないから玖泉の事に詳しい俺に頼んできたみたい」

「へぇ、奇妙な偶然ですね。もしかして偶然じゃなかったり」

「…怖い事言わないでくれる?」

「あはは、すいません」


 軽く笑っていた莎朗だったが、次発した言葉には不思議な重みがあった。


「でも気を付けて下さいよ。玖泉に〝呼ばれてる〟なんて事、俺は信じてませんけど、実際にあるみたいですし」

「……呼ばれてる?」


 足がぴたりと止まる。そう言えばこの間、嫌な声を聞いたっけ。

 男なのか女なのかも分からない、酷く歪で、酷く安心する様な声。


「〝還っておいで〟、と。呼ばれるみたいですよ。玖泉服用者に聞き取り調査を行っていた時に聞きました。そいつは数週間後に、変貌しましたけどね」


 陽が団地の陰に沈んでいく。繋は暫く無言を貫いた後「そうなんだ」とだけ返した。莎朗はそれ以降何も話す事無く、団地の外に出れば付けていた車に乗り込んで帰って行った。

 自分が玖泉服用者である記憶も、事実もない。だからこそ、疲れているだけのただの幻聴なのだと思っていた。けれど、服用しなくても服用者になる方法はもう一つある。


 嫌な予感を振り払って、繋は重たい足を引きずりながらある場所へと向かった。






 一週間後、とうとうその日はやって来た。闘技場前にはジャージ姿の龍星が準備運動をしている。そしてその隣には本人から聞いたのか、同じくジャージ姿の志が立っていた。


「儚井さん、…何でいるの?」

「え? 龍星が何か大会に出るとか言ってたから。冷やかしに来てやろうと思って」


 どうやらこの子は生死がかかった武闘会を、何かのイベントだと勘違いしているらしい。訂正する気力も無い為笑って誤魔化した。ここで今、龍星が死ぬかもしれないなんて事を伝えればまた喚き出すに決まっている。繋は観覧席に座って透と莎朗、飛将と志の五人で行く末を見守る事にした。


 闘技場のルールは何でもあり。武器及び拳銃の持ち込みは禁止。生死の責任は問わない。それでもエントリー数が減らないのは、皆困窮しているからか。目の前の莫大な金に釣られて命を落とすのだ。

 龍星はノーシードで順調に勝ち上がって行った。傷も負わずに六連勝。中には服用者の様な能力の片鱗を見せた対戦相手も居たが、それでも龍星は身一つでノックアウトしてしまったのだ。隣に座っていた志がぽつりと呟く。


「彼奴、そのカゲトラ? って奴の前に本気を見せないつもりかしら」

「…え? あれで本気じゃないの? 結構重いパンチとか入ってると思うんだけど」


 繋が驚いた様に問いかければ、彼女はすぐさま首を横に振って否定する。


「一割も無いわね。あたしとやる時も二割出してないか位。本当は滅茶苦茶強いと思うよ。…元ボクサーだし、それに」


 言い掛けた言葉の先を繋が拾う事は無かった。わっと歓声が上がって、舞台に景虎が降り立つ。その視線は、龍星を捉えていた。試合開始のゴングが今まさに打ち鳴らされる――その時、龍星が突然手を上げた。

 辺りが沈黙に包まれる。


「少しだけ、話をしてもいいかしら」

「…」


 沈黙を肯定と受け取ったのか、龍星はジャージの上着を脱ぎながら話し始める。


「アタシもね、貴方に興味あったの。連龍会は遊華不介入だけど、アタシは隠れて闘技場とかカジノとかね、行ってたんだけどさ。……貴方、【純血】でしょう」

「ッ」


 突然の問い掛けに景虎が目を見開いた。龍星は構わず言葉を続ける。


「【黒血】と間違われて迫害されて、…分かるわよその気持ち。アタシもそうだから。…だからね、今日本当に楽しみにしてたの」


 そうして景虎に向き直る。何時も長袖で隠れて見えなかった二の腕部分には、痛々しい火傷の跡が刻み込まれていた。それだけではない、肩や肘、そして全体的な白い肌は青あざや切り傷に侵され黒く変色している箇所まで見受けられる。その姿に、流石の景虎も息を呑んでそれを見つめた。


「やっと本気を出せる相手、見つけちゃった」


 そうして龍星が審判に合図する。ゴングが鳴った。まず飛び出したのは景虎、何時もの様に長くなった爪で龍星の首を正確に捉えようとする。――筈だったのだが、その爪は標的に届かず、何本かが真っ二つに折れた。

 一瞬何をしたのか、観客も景虎自身も分からず、距離を取って良く見ても以前龍星は構えているだけ。それ以降も、景虎が何回攻撃を仕掛けても龍星に届く事は無かった。届いても硬い何かではばまれる。段々痺れを切らした景虎の周囲に、繋が以前見た黄金の粒子が舞う。髪も瞳も一層金色に光り、バチバチと弾ける様な音が闘技場に鳴り響く。


「…やっと本気出すのね。いい試合にしましょ」


 龍星は嬉しそうに呟きながら、漸くボクサーらしい構えをし出した。一瞬の静寂。時間が止まったかの様な感覚。動いたのは景虎だった。

 首、ではなく動きを止める為に後ろに回り込み足を払う。がくりと体勢を崩した龍星に、次いで腹部にその鋭い爪を突き刺した。そうしてそれを勢い任せに横に薙ぐ。



 黒い血が辺りに舞う。



 繋も透も莎朗も、その現状を見つめる事しか出来ない。

 慌てて止めようと立ち上がった繋を訝し気に志が見上げる。


「龍星さん…ッ、本当に死んだらまずいって!」

「…何慌ててんの?」

「何で慌ててないの!? 自分の仲間が死んだんだよ!?」


 繋の指差した先には夥しい量の黒い血の海に沈んだ龍星。その身体は真っ二つに裂け、ぴくりとも動かない。それでも尚、志は慌てる事なく――笑った。


「馬鹿だな慌てすぎ。龍星はそんなんじゃ死なないから」

「…え」


 繋が声を上げた瞬間、龍星の身体が動いた。目にもとまらぬ速さで景虎の鳩尾を正確に殴りつける。上半身だけの状態で動いていると言う現状に観客からは悲鳴が上がったが、龍星はそんな事気にも留めずに腹部をポンポンと数回叩く。

 すると、その裂けた腹部から下半身が生えてきた。何も着ていない素肌が晒され、その様子を蹲って見ていた景虎の視線があからさまに彷徨う。勿論観客も大騒ぎなのだが、龍星はやはり通常運転で動かなくなった下半身から衣類をはぎ取るとそれを身に着けてしまった。


「…ふぅ、これ地味に痛いから嫌なのよね。このパンツも気に入ってたのにベルト部分が切られちゃった…がっくし」

「…な、何あれ、どう言う事?」


 未だに状況を飲み込めていない繋が、恐る恐る志に問いかける。


「さぁ、あたしも説明されたけど良く分かんなくて。確か…そういう妖怪の力があるみたいな? 話を聞いた事はあるよ。名前忘れちゃったけど」

「……服用者って、事?」

「玖泉飲んだかは知らないけど、本人は飲んでないって言ってた。頭を打ったことも無いってよ」

「は…」

「あたしもつい最近知ったんだけどね。この世界には神様、神獣、妖怪、幽霊、化身…? とか伝説上の生き物が本当に存在してるんだってさ。神様以外の伝説上の生き物の事を【純血】って言うんだって。ファンタジー過ぎるよね」


 そこまで言われて繋の脳裏に、先日景虎が言っていた言葉が思い起こされた。――玖泉等飲まなくても元々人間じゃなかった。この世界には、〝玖泉で化物に変えられた人間〟の他にもっと昔から〝純粋な化物〟が存在していたと言う事。

 人々が崇め奉っている神様、神獣、妖怪、幽霊、化身が玖泉のルーツになる。ならばそのルーツの元となった人ならざるものは、存在していなければいけないのだ。ようやく理解した。


 これは現実だ。

 絵空事だと信じて疑わなかった自分が恐ろしい。

 理解しなければいけない、自分は何の力も持たない人間なのだと。

 そしてその強大な力に、恐れを抱いている事を。


 震える手を握り締めながら、勝負の行方を見守る。腕を切り裂いても、足を捥いでも龍星の身体はみるみる内に再生していく。そうこうしている間に龍星が景虎の動きを見切ったからか、攻撃がどんどん当たらなくなっていった。

 軈て、景虎の表情に疲弊が見え始める。金色の粒子はその光を失っていき、髪の色がゆっくりと韓紅色に戻っていく。それでも尚も龍星に立ち向かっていく姿を、皆固唾を飲んで見守る事しか出来ない。


「…」


 景虎の頬から、大粒の汗が滴り落ちた。勝敗はもう分かり切っている、けれど景虎は一心にその拳を振るい続ける。何かを、守るために。


 然し体力はもう残っていなかったのか、床を蹴って、その途中。がくりと膝をついた。

 一瞬の静寂。


 景虎が震える手を上げて、――そして床を二回叩いた。

 タップアウト、――降参だ。


 観客が一斉に声を上げる。

 ある者は常勝を願っていた悲痛な叫び声を、ある者は新しい勝者の誕生を喜ぶ歓声を。




 数時間にも及ぶ耐久戦は、龍星の勝利に終わった。






 そうしてトーナメントが全て終わり、地下闘技場の裏手。

 景虎と飛将、繋、莎朗が集まっていた。龍星と志は、遊華での事件の事は大方耳に入っていたらしい。ただ、不介入の掟を守らなければいけない二人は「これは単なる観光だから」とさっさと地下闘技場を出て行ってしまった。


「…さて、双ツ神景虎。全部話して貰うよ」


 繋の言葉に肩が跳ねる。暫く青い顔で俯いていた景虎だったが、意を決しその顔を上げ震える唇から言葉が漏れた。


「…犯人、は。知ってる」

「…誰? 名前、教えて」

「…か」


「…、……曜名續かぐなつづる


 聞き慣れない名前に三人共顔を見合わせる。白露を恨んでいる人物なのだろうか? 白露と仲の深い繋でもそんな人物の名前は聞いた事が無かった。


「…その人は、白露さんとどういう関係?」


 繋の問いに、景虎は首を横に振った。


「白露さん、の知り合いじゃない」

「…は? え、どう言う事?」


 じゃあ何故、見ず知らずの他人が遊華の花魁や男娼達を次々に襲っているのか。身を乗り出して質問を投げかければ、景虎はびくりと身体を震わせながらも途切れ途切れに言葉を呟く。


「……、れ、の……ち…」

「は? なんて?」

「…俺の、友達……」


 場が静まり返る。犯人は景虎の友達だと言う曜名續。その重要な真実には辿り着けたものの、何がどうなってそんな事件を起こしたのかまるで分からない。繋はあからさまに深い溜息を吐いた。

 苛立ちが目に見えたのを見兼ねてか、莎朗が一歩前に出る。


「…景虎君ですっけ。怖いっすよねこの人、話もまとまんないのにせっつかれて」

「は? 何いきなり」

「あ、いや……」

「ゆっくりでいっすよ。アンタも何かを…その人を守りたくて、言いたくなかったんでしょ」


 子供に話す様に、座り込む景虎と視線を合わせてにこりと微笑む。その穏やかな笑顔に幾分か心が落ち着いたのか景虎はゆっくりと頷いた。


「…俺と續は小さい頃からの友達だったんだけど、色々、あって…二十歳になった時会いに行ったら、俺の事を忘れてて…御前なんか知らないって」

「…記憶喪失か、はたまた景虎君と関係を断ちたいが為の嘘か、って事ですか」


 景虎がぐっと唇を噛み締める。その裏にどんな事情があったのかは計り知れないが、少なくとも景虎にとっては大切な友人だった事が、今にも崩れそうな表情から伺えた。


「それで、暫くして突然…呼び出されたんだ。それまでは一切の連絡も無視されてたのに。…續は簡潔に〝何故御前を無視していたか、理由が知りたければ力を貸せ〟って言ってきた。それが今回の事件の〝犯人役〟になる事。……この力を利用して」

「…御前はそれを受けたって訳か」


 景虎が頷く。その瞳からはこらえきれない程の涙が溢れ出していた。


「…この機会を逃せば、…二度と續に会えないと思った。…罪悪感が無かった訳じゃない、…續が人を殺す所を見て、でも…止められなくて…」

「……」


 繋は泣き崩れる景虎を一瞥して、裏手から出て行く。莎朗が後を追えば繋は道のど真ん中で座り込んで俯いていた。声を掛ける前に足音で気付いたのか、繋が口を開く。


「…馬鹿だよね。その友達に利用されて犯人に仕立て上げられてるのに。そこまで知りたかったんだって思うと、怒る気も湧かなくてさ」

「…だからって見殺しは良くないと思いますけどね」

「それは分かってるけどさ」


 繋が立ち上がり煙草に火を点けたタイミングで、莎朗も同じ様に煙草を取り出す。長く煙を吐いて、繋は言葉を続けた。


「彼奴もおれも同じ児童養護施設で出会った。…周りからは化物だなんだって言われてたけど、その力を抑える練習もして、素直で職員の手伝いをする良い奴だった印象が強くてさ。…でも、ある日、…その、喧嘩して、彼奴は力を暴走させておれの耳を千切った。突発的な衝動を抑えられない奴だってのは知ってるけど、こう……何かの為に一心不乱に行動するのは、分かる気がして」

「…ああ~、確かに初音さん達二人共相性合わなさそう。ひねくれてた初音さんはそんな景虎君が羨ましかったり」

「殴るよ」


 すいません、と笑って謝る莎朗を横目に、繋は湿気った煙草を踏み潰して踵を返す。


「…彼をどうするんですか?」

「取引に応じて犯人役に仕立て上げられてただけなら、何も言えない。連龍会も不介入だしおれに彼奴の罪を裁く権利は無いよ。…ただ曜名續には会わないと。どうしてこんな事をしたのか、そして〝服用者〟なら御前達も逮捕しなきゃでしょ」

「ですねぇ、でも俺だけじゃ心許ないので頼れる先輩にも連絡しときます」


 頼んだ、と返して繋が二人の居た場所へ戻ると、そこに景虎の姿はなく。

 辺り一帯に濃い鉄錆の匂いが広がっている事に気付いた脳が、急速に状況を理解し始める。



「………な」



 壁際、腹部から夥しい黒い血液を流した飛将が苦しそうな表情で繋を見ていた。弾かれた様にそちらに駆け寄れば飛将は血を吐きながら空を指差す。

 ――その先に、黄金色に輝いた彼が居た。その姿は直ぐに建物の陰に消えてしまう。

 冷静に考えてみれば当たり前だろう、今頃犯人の元へ帰っているのだろうか。そんな事を考えながら震える指で鼎総合医療センターに居る寿へ電話を掛ける。


 終わらない。

 掴みかけた真実は、又も遠く離れてしまう。




 月はもう、見えなかった。





続きます。

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