第肆話 - 後編
可愛らしい鳥の鳴き声が緋狼の耳に届く。
うっすらと目を開ければ、一瞬ここがどこだか分からずに飛び起きるも――そう言えば家出をして心と一緒に寝たのだ、と思い出し強張った身体から力が抜けた。
祈愛からは昨日だけだと言われていた為、布団を畳み早々に着替えて出て行く支度をする。と、玄関先に誰かがいた。
――心だ。
「おはようございます、心さん。昨日は本当にありがとうございました…」
「いいや、気にするな。それよりもこれ」
そう言って心が手渡したのはお弁当。そう言えば昨日は繋と衝突し、着の身着のまま連龍会の本部へ突撃して泣いて眠ってしまった。昼ご飯を食べてから何も食べていなかった、そう頭が理解すると途端に腹の虫が盛大に鳴る。
「ふ、…とりあえず腹が減っては何とやら。しっかり食べて、勉学に励む様に」
「あ、ありがとうございます…」
「代理は昨日だけだと言っていたが…今日は帰るのか? 初音さんの所に」
「…」
ふとそう言われた緋狼が視線を落とす。
復讐について諦めた訳ではない。けれど今先走っても死ぬだけだと言う事は理解した。本当ならばすぐにでも謝らなければいけないのだろうが、生憎それだけの勇気はまだ持っていなかった。
「…少しだけ、後少しだけ冷静になって考えます。宮津さんの家とか…許可が出ればそこに行こうかなって」
「…そうか。まぁあの子が断る訳はないだろうが、万が一何かあれば何時でも来てくれていいからな。乱にも、事情を話せば喜んで泊めてくれるだろう」
「……すいません、迷惑を掛けて」
「気にするな」
「これはただの大人のお節介だ」――そう続けて心は本部の中へと戻って行った。
本部の傍にある大きな木には、桜の蕾が付き始めていた。
それから実に二週間。
緋狼は学校帰りに本部に毎日通い詰め、乱に玩具にされる日々が続いた。凪は快く宿泊を許可してくれたが流石に二週間も居座る訳には行かないと、カナの家、透の宿泊先、時にはオカルト研究部の部員の家に寝泊まりする事もあった。その誰もが驚きはしたものの、快諾してくれたのだ。
やっと反抗期らしい事したか、と友人からは安心した様に言われもした。
そうして桜の花が徐々に開花しつつある三月の終わり。
とうとうその日がやって来た。
この日は若衆のメンバーも仕事を早々に終え、蛇牀組の中庭に集合していた。
思えば一番最初に二人を見守り出したのは彪だった。乱の行動を監視する意味もあっただろうが、その様子を見て雨月が、そして龍星、志、狗神、皇牙と最終的には全員が緋狼の行く末を見守る事になった。
時にヤジを飛ばしながら。時にアドバイスをしながら。
そして皇牙や彪、龍星や志が仕事終わり、軽く手合せに付き合ってくれる事も増えた。四人共極道の人間故に一般市民の高校生である緋狼に本気など出しはしなかったが、それでも構え方や視線の捉え方を根気よく教えてくれた。
何時もの様にお辞儀をして始める。
真剣を持った乱が呼吸を整えて刃を振るう。すると明らかに変わった事が一つ。
視えるのだ。太刀筋が。
恐らく緋狼相手に力の一割も出していないだろう。注意深くしっかりと視界に入れておかなければ直ぐに見失う程危ないものではあるが、初日よりも明らかに刀のルートが軌跡となって視界に映る。
身体を捻って避ける。然し次の斬撃が襲いかかり、態勢を崩す。それでも何とか起き上がり、距離を取って乱と対峙する。
彼はにこりと笑うと一呼吸置いて真っ直ぐ、緋狼の心臓目掛けて突きを繰り出した。本当なら視えなかった筈の太刀筋。全てがスローモーションに感じた。
――誰かが、「そこだ」と叫んだ。
カン、と異様な音が鳴り響く。
「…おっと」
またしても寸での所で止めようとしていた乱の握力が一瞬緩み、弾かれた真剣は空に舞い、中庭の地面に刺さった。
弾いた、奉日本乱の太刀筋を。
木刀で。
「………や」
「やった~~~!! あんた凄いじゃん!!」
緋狼の声を掻き消す様に志が立ち上がって飛び跳ねる。
「へぇ、…結構やりますね」
「すご~い、アタシ三週間もやってられないわよ、大したもんだわ」
彪も龍星も各々感心の声を上げた。
その他のメンバーも微笑んで拍手を送っている。
「いや~、まさかやられるとはね。…どう? 少しは自信ついたんじゃない? 約束通り、これからは俺も君の復讐に手伝う、それで良いね?」
真剣を拾い上げ、心に刀身を返せば乱はにっこり笑ってそう告げた。緋狼も思わず笑みが零れる。けれど、次の瞬間には神妙な面持ちに切り替わり、声を低めて緋狼に言う。
「…でもこれだけは守って。絶対に無茶をしない事。これが出来て此処に居る奴等は〝当たり前〟だし、君はスタートラインにまだ立ててもいない。言ってる意味は分かるよね?」
「……」
問いかけられた緋狼には、それが何を意味するかしっかりと理解出来ていた。
――劉楓と出会っても戦うな、と言う事だ。
緋狼は、それでも頷かなかった。
「あは、強情。……でもね、緋狼君」
ふ、と乱の姿が消える。思わずまばたきをしてしまう。
気付けば緋狼のポケットナイフは乱の手に握られており、その刃を緋狼の喉元にぴたりと当てていた。
「師匠の言う事聞けないと、ちょっと痛い目に遭って貰わなきゃいけなくなるかな」
「………あ、はや…」
思わず言葉が漏れる。
緋狼は暫く黙っていたが、軈て観念した様に「…分かりました、約束します」と小さく呟いた。喉元からナイフが外されれば、緊張の糸が切れたかの様に緋狼の膝が地面に打ち付けられる。
「劉楓とやりあいたいんなら、まずは俺か心を倒して貰わないと」
「絶対無理な事言ってるこの人…」
乱の大真面目な発言に、彪がぼやいた。この二人の力には、二週間みっちり稽古を付けて貰ったからこそ、〝絶対敵わない〟と分かってしまっていた。恐らく今から特訓をし続けても傷を与えられるかどうか。
だって自分は二週間死ぬ思いを何度もしたと言うのに、乱の態度はまるで子供と遊んでいるだけに見えたのだから。それが答えなのだろう。
「あ~~、良いわぁ。ああいうの見てたらアタシも身体動かしたくなってきたわね」
「お、龍星やる? 丁度ダイエットしようと思ってたんだよねぇ」
声高らかに拳を交えようとする龍星と志を見て、雨月が呆れた様に横から呟く。
「駄目だ。御前等今日はこれから仕事だろう…俺も管理局の書類チェックがあるから、これで解散だな」
「あ、忘れてた。じゃあ行きますか」
「そうね。…緋狼! 次あたしと一戦やりましょ、ダイエット手伝ってね~!」
志が元気良く手を振りながら、先を歩いて行く龍星を追いかける様に本部から出て行く。雨月も去り際、緋狼の肩を叩いて手を上げた。その様子を見て、心が小さな声で緋狼に囁く。
「皆何だかんだ心配だったんだろう。…よくやった、緋狼君」
「…心さん。本当に色々とありがとうございました」
心に向かって深くお辞儀をする。心はやはり「気にするな」と笑った。
緋狼は次いで辺りを見回し、帰ろうとしている乱に叫ぶ。
「乱さんも、お忙しい中ずっと…ありがとうございました!」
声を掛けられた乱は既に狗神に抱き着かれている状態であった為――首だけを回し、面倒臭そうに手を振って告げた。
「は~い。無茶しちゃだめだよ、緋狼君」
「んわ! ひ~ろ、つよ!」
「ね、強いね~。狗神歩きにくいから手繋ごっか。彪君次打ち合わせ何処?」
「駒田です。報告書は今日纏めて書きますね」
狗神が楽しそうに声を上げながら、乱と彪は何時も通りの会話を交える。そうして角を曲がり姿が見えなくなった。そう言えば、とふと緋狼は狗神と一度もちゃんとした会話をしたことがなかったな、と思い至る。
たまに心に傷の手当をして貰っている時に近寄ってきて、血が出ている所を熱心に嗅いでいた記憶だけがある状態だ。彼女もまた訳アリなのだろうか。…彼女だけでなく龍星や皇牙、そして乱も。
緋狼はそんな事を考え――、しかし既に薄暗くなりつつある空模様に気付けば慌てて荷物を片付け、本部を後にした。
本部から団地に戻り、西にある駒田地区へと移動する。そこから電車に乗って三十分もすれば繋の家がある和倉宝蘭地区だ。鼎総合医療センターもそこにある。元々繋は北の方に住んでいたらしいのだが、緋狼の為に引っ越したのだと彩に教えて貰った。
「…優しすぎるんですよね、あの人」
そんな事をぼやきながら駅へと向かう。
時刻表を確認しようと顔を上げた時。
視界の端に、あの黄ばんだ白衣が視界に映った。
全身から汗が噴き出る。自然と呼吸が早くなる。
心臓の音で雑踏が掻き消える。
どうして今、ここに。
彼は何かを探す様にふらふらと人混みに消えてゆく。無意識に足がそちらへと向いた。
分かっている、無茶をするなと言われた筈だ。
約束をしたはずだ。
人の殺し方だって断られている。
そうして、散々連龍会に迷惑を掛けた事も承知している。
約束したんだ。
それでも、どうしようも出来ない。
足が止まらない。
楓はやがて人気のない路地裏で曲がると、どんどんと細い道を歩いて行く。
着いて行くべきか。
ここで諦めてしまえばきっともう二度と会えない。
でも。
――緋狼の心に様々な人の言葉が思い起こされる。
思い起こされて――
緋狼は、路地裏へと。
一歩踏み出してしまった。
室外機に挟まれた細い道を何とかして通る。途中植木鉢に足を取られそうになったが、彼はこちら等まるで気にも留めずにどんどん先に進んでいく。
奥の突き当りを更に左に曲がって、そして。
遂に行き止まりへと追い詰めた。
彼はその隅に蹲って何かをしている、つまり――気づかれていない。
緋狼はポケットナイフを握り締めて慎重に歩みを進める。
と、 不意に彼がこちらを向いた。
隅っこに居たのは子猫。楓の手から餌をゆっくりと食べている。緋狼に気付いたのか愛らしい声でにゃあ、と鳴いた。
「……劉楓」
緋狼が名前を呼ぶ。しかし楓の表情は全く変わらない。
何も考えていないのかそれとも、内心では何かを考えているのか。
「…どちら様ですか?」
自分によく似た声が返って来た。
それが余計に腹立だしくて、緋狼は反射的にポケットナイフを突きつけて叫ぶ。
「…劉緋狼。御前の父親の兄の…子供だ」
「……イトコ、ですか。……初めまして」
楓は顎に手を添え、そして導き出した答えを口にすれば手を差し伸べる。
まるで宜しくと言った風に握手を求めたのだ。勿論、緋狼に握手を返すと言う選択肢はない。
「…初めまして。初めまして……嗚呼、そうだな。会うのは初めてだ。……俺は御前の事をずっと前から探してた」
「……何故?」
「…御前が…数年前に起こした、華國の研究所の職員を皆殺しにした事件で、劉家に恨みを持った人間が、俺の父さんを殺した。……挙句母さんは追い詰められて、今、病院で眠り続けてる。……全部、御前の所為だ…。劉楓…っ!」
そう言えば楓の目が僅かに揺れ動き、そしてゆっくりと閉じられ同時に手を胸の前で握り締めた。その所作はまるで悼む様な、祈る様な動きで。微かに何かを囁いた気がした。
「……それは、気の毒に」
「……気の毒? 何をふざけた事を……」
「ボクが直接あなたの御父上を殺した訳ではなく、あなたの御母上を追い詰めた訳ではありません。…どうしてボクに殺意を向けるのですか?」
楓の言い分に歯を食いしばる。分かっていた、きっとそう言われるだろう事は。
然しいざ直接言われてみれば、堪えようのない怒りが身体を支配する。
「…ッ、御前が、華國であんな事件を…起こさなければ、劉家は、恨みを買う事は無かった!! 無関係だった父さんが死ぬ事は無かった!! 直接的でないにしろ、御前にも原因はある!! それでも、言い逃れするって言うのか?!」
瞬間。
楓の目が見開かれた。
見つめれば吸い込まれそうなほどに深く、冷たく、寒く、黒い眼。
「…ふぅん、…先に手を出したのは、アイツらなのに…。ボクの全てを……あっちが先に奪ったのに……」
そうして手を伸ばす。小さな白い手に握られていたのは、一本のメスだ。
楓は未だに何かをぶつぶつと呟きながら、――唐突にそれを投げた。
「ッ!」
咄嗟の事に反応しきれなかった緋狼だったが、それでも。
乱から教わった〝太刀筋を視る〟事で、何とかそれを防ぎ切った。投げた姿勢のまま固まる楓。
そしてまた袖口からメスを取り出すと今度は二本、先程よりも速く投げる。
緋狼は、それすらも防ぐ事が出来た。
「…反応、するんですね」
「…何も出来ないと、思いやがって…」
息を切らしながら、楓と真正面から対峙する緋狼。
楓は深く考え込む様に腕を組み、そして彼の視線が緋狼から外れた。
――その瞬間、緋狼の足が地面を蹴る。
距離は三メートル程。詰め寄って薙ぎ払えば、致命傷とは行かなくても何処かには当たる筈。
楓を驚かせていると言う〝思い込み〟。それらから緋狼はまたも、軽率な一歩を踏み出してしまう。ざり、とアスファルトを踏みしめた音が響いたと同時に、楓の視線がこちらに向いた。
「…子供はこれだから、……扱いやすい」
「――ッ!」
緋狼が反応した時には既に遅く、何時の間にか楓は緋狼の上――上空に浮かび上がっており、彼の袖口から放たれた数十本ものメスが緋狼の身体に突き刺さった。二、三歩後退りして、緋狼は無様に背中を打ち付ける。
「ぐ、ぅ」
「幾ら何でも甘すぎます。相手の力を見極めない低すぎる観察眼、反応速度の遅さ、勘違いから生まれる隙の多さ、全てが研究対象外レベルです」
「……く、…っ」
突き刺さったメスを抜こうと力を入れるが、何かが引っかかっているのか激痛が疾る。立っている事もままならない。楓はそんな緋狼を憐れみを込めた目で見つめる。
「…やはり、復讐は良くないですね。…新たな悲しみが生まれます。…仕方がないのでボクがあなたと御母上を、御父上に逢わせてあげます」
「……な、に」
徐に、緩慢な動作で楓がポケットから注射器を取り出した。
その中に入っている液体は黒い。
――服用させられる。
真っ先にそう危惧した緋狼は身を捩ったが次の瞬間、楓はそれを自らの首元に刺した。
中身が空になった注射器を捨て、数分。
楓の背から、どす黒いもやの塊が蠢き出す。玖泉を服用した人間が化物に変貌すると言う話は繋から聞かされていたが、――目の前で見たそれは明らかに様子が違っていた。
触手が連なった不気味な羽根が、楓の背中で奇妙に胎動し脈打っている。変貌個体は姿が化物になり、自我も崩壊する筈。なのに何故、楓は今も変わらない姿で、冷たく自分を見つめているのか。
「大丈夫、苦しまずに殺します。痛いのは、嫌でしょうから」
楓が薄く笑った。さながら命を刈り取る死神の様な、迎えに来た天使の様な。有り得ない程に穏やかな笑みを湛えて、その羽根を槍状に収縮させ――緋狼目掛けて突き出した。
視界が回転する。
緋狼の身体を誰かが抱きしめた。
と同時に、左腕が熱い感覚に襲われる。
状況が呑み込めないまま緋狼の身体は地面に叩きつけられ、軈てじわじわと痛みと熱が身体を支配していく。と、
「…ひーろ、君……、ごめんね……、いた、かった、でしょ…」
緋狼に覆い被さっていた人物が苦し気に声を絞り出した。
ブロンドの髪に、グリーンアイ。
普段の余裕綽々な笑みは消え、今は痛みを堪えるのに精一杯の表情を浮かべている。
そんなカナの右腹部は半分がえぐり取られていた。
だから、見えてしまった。
ぽっかりと穴が開いたその先に、見覚えのある左腕が落ちている。
気付いて、気付いてしまった。
「ッッッッ!!!!!!!!」
同時刻、連龍会本部。乱の部屋の前でうたたねをしていた狗神が突然起き上がった。
そして仕事中の乱の部屋を躊躇いも無く開ければ、ペンを走らせるその背中に構う事無く飛びつく。
「ら~ん!! らんらん! らん!!」
「痛ってぇ!? ちょっとちょっと何…嗚呼も~、ずれた…」
「らん!! ちー!! ちーのにおいがする!!」
――血。
書類をコピーし直さなければ、と呑気な事を考えていた乱が狗神の一言で表情を変えた。 すぐさま眼鏡を外しスマートフォンを掴むと、文字を打ちながら狗神へと言葉を掛ける。
「狗神、どっち? 方向は」
「ん~? ん~、あっち!!」
「あっち? 本部より向こう? ……駒田か、誰の血の匂いかな。多い? 少ない?」
狗神はふんふんと鼻を鳴らし、やがて眉間に皺を寄せると鼻を手で覆った。
「えっとね~、えとね、ひ~ろ!! とねぇ、くろいちー!! あかいちーは、た~くさん!!」
「…………そ、」
狗神の鼻は利く。彼女は視覚を遮断している代わりに聴覚と嗅覚が発達し過ぎたらしく、血の匂いでおおまかにどこにいるか、誰のものか、出血量がどの程度かを知る事が出来る。
そして今の言葉が本当であれば、十中八九緋狼は楓と接触している。更に言えば、緋狼は取り返しのつかない大怪我をしている事が分かった。
分かってしまった。
「何で……、約束したじゃんか……ッ」
そう言って、乱の足が、思考が止まった。
彼がこれ程までに、復讐の決意を固めていた事を漸く理解した。
数週間一緒に居れば何か分かるかと思ったのだ。彼は物事をちゃんと理解していたし、危ない橋を渡らない、慎重な人間だと思っていた。――思い込んでいただけだったのかも知れない。
対抗手段を一つ、覚えたからこそその一歩を踏み出してしまったのかも知れない。
彼はまだ、子供なのだから。
「……最悪だ」
乱は大きく舌打ちをすると部屋を飛び出し、何処かに電話を掛けた。
そうして一人の打ち合わせ先が駒田であった事を思い出し――
その人物のGPS情報を起動した。
緋狼は、恐る恐る自分の左腕を見る。
紛れもなく、綺麗に、切断されていた。
「う……あ“ぁああっ、ぁ”」
「…ぐ、っ…嗚呼、クソ……、ごめん、…ひいろ、君、…」
痛みに慟哭し、我を失った緋狼を抱きしめる。
止血をしようにも充分な道具も無ければ、カナ自身動ける身体でもない。
彼の身体からは黒い血がぼたぼたと零れ落ちており、臓器や肉がある筈の箇所は黒く塗りつぶされていた。緋狼には見られていない。
然し楓には、バレてしまった様だ。
「あなた、…あなたは人間じゃないですね」
興味深そうにカナに近づき、傷口の断面を注意深く観察する楓。
最早緋狼の事等眼中から消してしまった様だ。カナの傍に座ると自身が黒い血で汚れるのも厭わず屈み込んだ。
「…あなたも服用者? いいや、それにしては人並みの生活が出来すぎている…。あなた、もしかして」
「……ッ、それ、…今、答えなきゃ、いけ、ない…?」
「我らが同胞なら、傷を癒して差し上げようかと思ったのに……。まぁ、あなたはそっちより研究価値がありそうです。連れて帰ります」
「なッ、ちょ…やめて! 離せ…っ!!」
楓の背中の羽根が、優しく包み込む様にカナの身体を持ち上げる。
このままでは緋狼が本当に死んでしまう。然し、藻掻くカナの力は抵抗と呼ぶには余りにも小さく、楓には何の効果も無かった。
その時、ぴん、と何かが弾かれた音がして――
「カナさん頭を守って下さい!!!!!!」
楓の羽根の付け根。パイプ爆弾が爆発し、轟音が辺りに鳴り響く。火薬の量が少なかった為か緋狼は巻き込まれず、またカナの身体も羽根の先で掴まれていた故に直接当たりはしなかった。
叫び声と共にビルの外階段の手すりから飛び降り、素早く楓の前に立ちはだかった彪は早まる心臓を何とか落ち着かせようと、耳朶に手を触れる。
「…か、おる、君……ッ、何で…」
「丁度カナさんが路地裏に入って行った所を見掛けまして。…まさかこんな事になってるとは思いませんでしたが…」
「はや、く、ひーろ君…、つれて、…にげ、て」
カナが震える声で叫ぶ。本当なら彪だってそうしたい。けれど首を縦に振る事は出来なかった。今目の前にいる彼は、明らかに出会ってきた玖泉服用者や変貌個体とは違う。
例え隙を作って緋狼を抱えられたとしても、楓から逃げられる自信が無い。
そして。
それ以前に、カナを見捨てて逃げる事は絶対に出来なかったからだ。
拳銃を構えて、彪が口を開く。
「…劉楓、だな。…御前は夜淵と言う宗教団体の、…一員か?」
「…はい」
「……、では、…皆瀬弥汐と言う人間も…、御前の仲間か」
「…みなせ、みしお。誰でしょう…」
「………、知らないのか? 仲間を。…それとも、興味が…ないのか?」
慎重に、間を空けて。ゆっくりと、はきはきした口調で話す。
今の彪に出来る事はこれしかなかった。こんな事でしか〝時間を稼ぐ〟事は出来なかった。
そんな彪の質問には答えず、まるで彪の思考など手に取る様に分かると言わんばかりに、楓は見開かれた瞳で彼を捉える。
「時間稼ぎ」
「ッ!!!」
カナと緋狼が受けた一撃を寸での所で躱す。
然し、羽根の間から楓が投げたメスが彪の、右腿を切り裂いた。
力が抜け堪らず膝をつく彪だったが、倒れる勢いのまま楓の足目掛けて二発。
「…」
一つは羽根に弾き飛ばされたが、もう一つはその隙間を縫って的確に楓の脛へと命中した。どくどくと黒い血が溢れ出す。
だと言うのに、彼の表情は全く変わらず、しっかりとその足で大地を踏んでいる。
「…舐めていました。ごめんなさい」
「っく、!」
徐に楓の羽根が胎動した。細く紐の様な長さに変貌すれば、急いで体勢を立て直そうとする彪の右足に素早く絡み付くと、
――力のままにその右足を締め上げ、歪な音を響かせた。
「っぐぅ……っう”…っ、ぁ」
「かおる、君…!!!」
堪らずカナが叫ぶ。
彪はポケットからもう一つのパイプ爆弾を取り出せば、それを躊躇なく足元に放った。爆発音がして右足の圧迫感が無くなる。その隙に足を引きずって楓と二人の間に入り、守る様に身体を晒しながら途切れ途切れに呟いた。
「…ごめんなさい、時間、…稼ぎにも、ならなかった…」
「…そん、な事、」
言い掛けたカナが咳込む。慌てて手を取ればもう二人共熱が弱い。一刻も早く病院に連れて行かなければ、本当に。
本当に死んでしまう。
「逃げれば良かったのに」
楓がゆっくりと三人に近づく。はっ、として振り返ればそこには無傷の楓が立っていた。もう脛からの出血は見えないし、爆発で持って行った羽は復活してしまっている。
彪だって変貌個体を幾度か見て来たし、戦ってきた事もある。けれど、――これは、何だ?
まるで絶望が形になってそこに存在しているかのような。
「力の差なんて、一目瞭然でしょう」
それでも、逃げる訳には行かなかった。
彪は拳銃を震える手で握り締めて、そして尚も、――構える。
「……もう」
「もう誰も、死なせたくないんです。絶対に」
その拳銃が弾き飛ばされる。
触手の重い一打は人間の骨を容易く粉砕した。
痛みは感じなかった。
全てが一瞬だった。
無力だった。何もかも。
到底、敵いもしなかったのだ。
「出来もしない理想を、弱者が口にする。哀れな世界ですね」
そう言って楓が笑った。
羽根を一つにまとめて頭上へと振り上げる。
―――ぐちゃ。
何時まで経っても痛みはやってこない。
反射的に閉じていた目を開ける。
見知った羽織、青丹色の髪。
スーツ姿に、真剣二本を携えた背中。
「よくやった、彪君。君のお陰だ」
乱と心が振り下ろされた羽根を受け止めていた。一人は鞘、もう一人は木刀で。
明らかに力量が一般人とは違う、と楓が羽根を退かせ距離を取る。
乱は彪の傍に屈むと、かつて自分が開けたピアスがついた耳に軽く触れた。
「…これ、付けててくれたんだね。有難う」
「…ッ、…外す理由もありませんから」
彪がそう言ってそっぽを向く。然し、そんな言葉を返せる程身体は大丈夫そうではない。右足は不自然に曲がり、両の手首は青紫色に腫れ上がっている。
痛々しい傷跡を見ながら、緋狼の止血を施した心が白い刀を構え直した。
「救急隊はもう呼んである。〝彼等〟もだ。…さて、何分行ける?」
「俺ら両方とも長くは動けないでしょ? 持って十分位かな」
「だな、十分過ぎても立っていられたら良しとしよう」
そんな調子で喋っていた二人が、楓と相対した。
これまでとは比べ物にならない殺気に、彪も辛うじて意識のあるカナも全身を震わせる。
そして、二人が消えた。
彪が目で追えるのは、二人が楓と衝突した時だけだった。長年背中を任せ合っていたのかと錯覚する位、息が合っている。あんなに厄介だった羽根の一撃をいなして逸らし、或いは両断して捥いでいるのだ。再生しようとした瞬間に、どちらかの刃が傷をつけた箇所を執拗に狙う為、楓のリズムが崩れ始める。お互いがお互いを補う様に動き、楓の視界を攪乱させ、追撃を試みては失敗した時の読み迄完璧だ。
甲高い金属音、そして地を踏む音と、微かに。
微かに大勢の足音がし始めた。
不意に楓が、心達の後ろに居る彪達の元へ羽根を伸ばした。
それにやはり、心が反応する。
踵を返し彪達の前に出ようとした瞬間、――その羽根が急回転し、心目掛けて襲い掛かった。
二人の呼吸が乱れる。
だがそのどちらも、冷静だった。
鋭い切っ先は心の片腕を切り裂き、辺りに赤い血が零れる。
そのまま羽根は勢いを緩めず、背中を向けている乱へと伸びて行く。このままでは乱の身体が貫かれてしまう――と、心が振り向きざまに懐に隠していた小刀を放った。
乱の心臓を突く直前、それは羽根と接触し僅かに上に逸れる。
楓が標的を変えた。
乱の、頭へと。
――然し接触音を、乱は聞き逃さなかった。
地面を蹴って、何とかその場から離れる。瞬間、赤い血が吹き出した。
後数ミリずれていたら、乱の頭蓋に穴を開けていたであろう切っ先は乱の左目の下を滑って行った。
そのまま乱は心の肩を支え、後方へ飛ぶと彪に叫ぶ。
「彪君、伏せてッッ!!!!!!」
訳も分からず、呼ばれた彪は緋狼とカナの上に覆い被さる様に伏せる。その瞬間――
「斉射ッッ!!!!!!!!!!!」
弾丸の嵐が、楓の身体を襲った。
鼓膜が破れてしまったのかと思う程何も聞こえず、舞う砂嵐で息が出来なくなる。何時間も続いたのではないかと思う位の一瞬。銃撃が鳴り止めば、彪はゆっくりと顔を上げた。と、
「緋狼君……ッ!」
聞き覚えのある声が近くなる。振り返れば繋が真っ青な顔で緋狼に駆け寄って来ていた。
その後ろからは救急隊員達が担架を運んでいる姿が見える。
「緋狼君、ッカナさん……、琴継、君…、」
然し、繋は目に飛び込んできたカナや彪の状況を把握すれば、言葉を失いただただ瞳を震わせていた。当たり前だろう、以前に繋が同行していた事件のストーカーの変貌や、子供の変貌とは訳が違う。
ここまで差がつくものか、と痛む身体を見下ろしながら彪は自嘲した。
「嗚呼、…うるさかった」
――その言葉に、全員が息を呑み、そちらを見遣る。
繭だ。楓の背中から生えている羽根がすっぽりと楓を覆い隠してしまっている。弾丸の嵐を受け止め切った羽根は夥しい量の黒い血が流れているが、楓には一切届いていなかったのだろう。
確かに全弾命中した筈なのに、――誰かがそう叫んだ声が聞こえて、刹那。
「今度はこちら、お返ししますね」
楓がそう呟いた瞬間、羽根が胎動した。勢い良く広げられたそれから撃たれた弾丸全てが、建物の廊下に配備されていた機動隊員に跳ね返って来る。
危ない、――そう思った時にはもう、繋の身体を乱が引っ張り抱きしめていた。視線だけを動かせば彪の上に心が覆い被さっている。
時間にして一瞬だったが、その一瞬で全てが破壊された。
建物の柵からは血が滴り落ち、吹き出した血飛沫が雨になって楓の身体を濡らす。
「……ッ、痛すぎ……」
音が止み、乱が拘束を緩める。頭に被弾している様子はなかったが、離れた身体には三か所、血が滲んでいる箇所が見えた。弾も貫通しておらず、体内に残っているのだろう。痛みに顔を歪める乱だったが、繋の視線に気付けばへらりと笑みを浮かべた。
「…大丈夫だった? けがは、ない?」
「な、ない、ですけど、奉日本さん、血が、っ」
繋の言葉を聞けば良かった、と呟き刹那。大量の血を吐き出した。
内臓をやられてしまっているのかも知れない。自分ではどうしようもない現状に頭が追い付かない。
――この〝来襲〟レベルに、若しくはそれ以上に、夜淵の関係者は力があるかも知れない。
彩の言葉が思い起こされた。たった一撃で四方を取り囲んでいた二百余りの隊員が死んだ。ここで爆撃が起こったと言っても過言ではない惨状に、恐怖で声が出てこない。そんな繋達をただただ眺めながら、楓は最終的に緋狼に視線を移した。
「…まぁとりあえず殺しておきますか。復讐なんてくだらない」
ゆっくりと楓の足が動く。そうしてカナの身体を蹴り飛ばし、弱く息をしている緋狼の前に立ちはだかった。その背に生えた羽根が胎動する。
そして、一撃。
加えようとして、楓の身体が停止した。
「…まだやるか、…もう、いいだろう」
「ちょっとは…手加減、してよね」
羽根の刃を、心と乱が止めている。心は腹からの出血が酷く、立っているのも限界なのだろう。ふらふらと頭が揺れている様子を見て、繋は――そこから動く事が出来なかった。
央士の言葉が、今になって理解出来た。
死ぬ。このままではあの二人もやられて、緋狼君も助けられなくて、全員死んでしまう。
それだけは嫌な筈なのに、こんな肝心な時に限って身体が言う事を聞かない。恐怖に支配された身体は全く動かなくて。ナイフを握る手も、無様に力を抜いてしまう。
目の前ではもう死ぬかも知れないのに、緋狼を守りながら戦い、血を流す二人の姿が在る。
何で? お願い、もう帰ってよ。
「っ、く、そ…もう刃が通ら」
繋の傍らに、心の刀が転がって来る。はっとして視線を戻すと、丁度その時。よろけた心の身体に羽根で作った槍が突き刺さった。
「蛇牀さんっ――!!!」
と、羽根の槍を、心が掴んだ。引き抜こうとした楓の身体がぐらつく。
その隙を見逃さず、今度は乱が楓の首元に木刀を入れた。
「はぁ?! 硬過ぎなんですけど……ッ!!」
歪な音がして楓の表情が僅かに歪んだ瞬間、乱の身体が羽根に薙ぎ払われる。
建物の壁に激突した乱は、動きを止めた。それでも倒れる前に膝をついて、大きく呼吸を繰り返す。
「奉日本さん……ッ」
そうして、楓と目が合う。
殺気が全身を襲い、それだけで呼吸が上手く出来なくなって。
やられる。――そう思った瞬間。
時が止まった感覚がして、繋の視界に桜の花びらが見えた様な気がした。
誰かが、自分の中に入ってきている。
――還りなさい。
暗闇が視界を支配する。
然しそれは一瞬の事で、次の瞬間には視界が開け――そこに楓の姿はもうなかった。
嘘の様な静寂が辺りを支配する。
「……い、居ない…」
全身から力が抜け、地面にへたり込む。
正直未だに心臓が暴れ回っているし、足が自分のものじゃない感覚がして変だ。それでも、静寂を破る救急隊員の声が繋を現実に引き戻してくれる。
「……状況は? 共生者は逃亡、只今より怪我人の搬送を開始します」
「UTS後処理班に連絡。生存者の確認と、チップの破壊を最優先に」
それぞれが通信を入れる中、救急隊員は手早く緋狼と彪、乱と心をすぐさま鼎総合医療センターへと向かう救急車の中へ運んで行く。
そのさなか、繋は辺りを見回しそして気付いた。
――カナが居ない。
慌てて探しに行こうとしたものの、救急隊員に腕を掴まれ「ついてくる様に」と半ば無理矢理救急車に乗せられてしまい、繋はそのまま和倉宝蘭迄移動する事となった。
救急車の中から見えた光景は、さながらフィクションの中の世界で。
崩れた瓦礫、あちこちから滴る血。
誰かは誰かの名前を必死に呼び。
心臓マッサージを施す隊員を、誰かが止めて首を振ったり。
血に濡れたトリアージのタグを、誰かが解いたり。
落ちた刀にゴミの様に積まれた薬莢、拳銃。
そして、地面に溢れた黒い影。
あの時の感覚は一体何だったのか。
楓は何故消えてしまったのか。
気付けば辺りは真っ暗になり、本物の夜が世界を飲み込もうとしていた。
「目を覚まされましたよ」
あれから数時間後。
緋狼の手術が始まってから、終わり。個室に運ばれて尚ソファから動けずにいた繋に看護師がそう告げに来てくれたのだ。
勢い良く顔を上げると、すぐさま病室へと向かう。
そこには、――左腕を失った緋狼が横たわっていた。
「…緋狼君」
酸素マスクをした緋狼は、繋の姿を捉えるや否やその瞳から大粒の涙を零す。
「つ、繋さ…ごめ、ッ…ごめんなさい、おれ」
「……」
「分かって、たのに…ッ皆、止めて、くれて、たのに…、ちゃんと、分かって、て…っでも…ッ、ごめんなさ…ぅ、う“ッ…」
「……奉日本さんが、俺に謝罪してたよ」
「…え、?」
ずるずると鼻をすすりながら、涙で汚れた顔を繋に向ける。
「〝警告したとは言え、未成年を危ない事件に巻き込む要因を作ってしまって本当に申し訳ない〟って。…おれとか大人が居ない時に鉢合わせた時の対処法が最善策かと思って、教えてくれたんだって。でも…緋狼君の復讐に対する執着の深さを見誤ってたって」
「そんなッ! 違います、乱さんは何も悪くないですッ!! 俺が勝手に…」
「そうだ。君が勝手に突っ走った所為だ」
繋の言葉に、言い掛けた言葉が引っ込む。
彼は、静かに涙を流しながら言葉を続けた。
「…ごめん。保護者だって抜かしてた癖に、…復讐しようって言った癖に、途中で投げ出して。おれが最期まで責任を持たなきゃいけなかったのに。…元はと言えば、おれが五年前に復讐なんて持ち掛けたから…こんな事になった」
「っ、違いです!! だってあれが無かったら俺は、…っ、」
堰を切った様に、再び緋狼の瞳から涙が溢れる。
「死んでたかも……知れない、から…ッ」
それを聞けば、繋は視線を下に落とす。
表情の見えなくなった繋に、慌てて緋狼が次の言葉を紡ごうとした時。
「……ら、……でよ……」
繋が何かを呟いた。
弱弱しく、今にも消えそうな声で、然し確かに呟いた。
「…だったら、もう一人で…いかないでよ…」
「…」
「劉楓を見つけた時にどうして一言言ってくれなかったの?! 何で一人で抱え込もうとしちゃうの?! おれに嘘迄吐いて、連龍会の人に頼み込んで。……お願いだから、…ちゃんと言って。……確かに、連龍会に比べたら、頼りないかもしれない。…でも、言ってよ…」
「繋さ」
言い掛けた言葉は、繋の悲痛な叫びによって掻き消される。
「居なくなって欲しくないんだよッ!! 誰よりもおれが、そう思ってんのッ!! …大切な家族なんだから……」
そう言えば、緋狼の無くなった左腕に触れた。
繋がここまで感情を露わにする事は初めてだった。
表情を崩して泣く繋を見たのは、これが初めてだった。
「………生きてて良かった。緋狼君」
心からの言葉に、緋狼は何も言わず。
ただただ一緒になって泣いていた。
同時刻。鼎総合医療センターの病室にて。
うっすらと目を開ける。彪は自由の利かない身体になったな、と内心愚痴を漏らしながら首を回して周囲を確認した。
どうやらここは病室らしい。然も個室。
窓から漏れる光が、朝を告げていた。
と、
「彪君、お早う」
目の下にガーゼを当てた乱が病室に入って来た。一瞬、甘い香りが広がる。
その手には缶珈琲が一つ、握られていた。
何食わぬ上司の様子に、彪は開いた口が塞がらなくなる。
「……アンタ、嘘でしょ?」
確か意識が朦朧として全ては見ていなかったが、あの弾丸の雨を受け壁に吹き飛ばされていた筈だ。然も一日経っていない。目を見開いて固まる彪に、しーと唇の前で人差し指を立てた乱は声を潜める。
「病院嫌いなんだよね、このまま逃げちゃおかな。被弾箇所も割と大した事無くてさ」
「馬鹿過ぎる…絶対だめです。動かないで下さい」
彪の言葉にけらけらと笑いながらはぁい、と間延びした返事をする乱。
その様子に絶対約束守らないな、と内心吐き捨てながら彪が話を切り出した。
「…緋狼君と蛇牀組長…、後カナさんは?」
「緋狼君は腕が無くなったけど目を覚ましたよ。心は腹部の傷が酷くてまだ目を覚まさない。命に別状はないって。その人は知らない、現場に居たの?」
「……いえ、居なかったなら、良いです」
緋狼を庇っていた時に彼から流れる黒い血を、彪も確認した。
彼が夜淵側であったのならあちらで治療を受けているか、そうでなかったら誰かを頼って消えたか。いずれにせよ緋狼を救おうとしていた彼に、敵意は見つからなかった。
「あ、そう言えば」
「ん?」
「ありがとうございました、乱さん。助けてくれて」
何と無しにお礼を述べれば、乱は暫く缶珈琲を開けたままぽかんとしていたが、軈て薄く笑うと「どういたしまして」と得意げに言葉を返す。
然し直ぐにトントン、とガーゼを指で叩いて皮肉交じりに呟いた。
「まぁでも二人がかりでこのザマだからね。…やっぱ強いな、人間じゃない奴って」
「……勝てるんでしょうか。いずれ、夜淵と全面戦争になったら、人間は」
「無理じゃない?」
「は?」
神妙な空気が一転、あっけらかんと返す乱に思わず苛立ちを込めた声が漏れる。
それでも乱は笑って言った。
「勝とうとしたら負けだよ。正攻法でも勝てないなら、押し留め続けるしかない、でしょ?」
「……押し留め続けられなかったら」
「ネガティブだな~。…人間なんて幾らでも替えが利く生き物だよ。誰かが居なくなったらまた誰かが押し留めるさ。彪君でも、俺でも一緒」
「そんな馬鹿げた事…」
「も~うるさいな~。あ、彪君俺珈琲飲みたいの、ちょっとこっち来て」
本部に居る時の様に小言を漏らす彪だったが、ちょいちょいと手招きされれば顔を近付ける。
刹那、目の前まで乱の瞳が近づいた。
唇に何かが触れる感覚がして、甘いものが押しやられる。と、同時にざらついた、生暖かい感覚も口内に広がっていく。慌てて顔を離すと、悪戯が成功した子供の様な表情で乱が見ていた。
「………死んでほしいです」
「あははは!! あれ~、彪君ファーストキス?! 良かったね~、俺上手かったでしょ!! ね、気持ち良かっ」
「あ、居た~~~!! 奉日本さん!! どうして歩いているんですか!?」
「…げ、やば……」
すっかり上機嫌になっていた乱の後ろで看護婦が吠える。そうして首根っこを掴むと病室から引きずり出されていた。
呆れ顔のまま彪はその様子を眺めつつ、――そして先程迄、乱が舐めていた飴が自分の嫌いないちごみるくだと気付けば。
「……まじ最悪」
そう毒吐いて、微笑んだ。
同時刻。とある病室にて。
カナは、ベッドの上で目を覚ました。窓はカーテンが閉め切られており、外の光が一切入ってこない。
心電図モニターから、機械的な音が鳴る。心拍数の数値は記録されているがその他の数値の一切が反応していない。酸素マスクを取り外せば大きく伸びをして、抉られた筈の右腹部をさする。
そこに傷は、もうなかった。
「ねぇ、勝手に起きないでくれる?」
と、ベッドサイドから声がした。そちらを向けば、パイプ椅子に足を組んで座る白衣の人間が一人。彫刻の様に端正に整えられた顔立ちと、華奢な体躯から一見しても性別が判断出来ないその人は冷たい目線をカナに送る。
「まだ安静にしてて欲しいんだけど」
「……てんちゃんが、助けてくれたの? 傷もだけど…、あの暗闇」
てんちゃん、と呼ばれたその人は「はぁ?」とわざとらしく大きな声で威圧する様に返す。
「暗闇? 何それ俺は知らない。とりあえず劉楓が居なくなったから御前を連れ出しただけ」
「…俺の身体ここまで運んでくれたんだ、有難う」
その人の言い草にはもう慣れっこなのか、カナは微笑んで言葉を掛ける。
一方の白衣の人間は、それが面白くないのか更にくどくどと言葉を並べ立て始めた。
「別に。御前の蝙蝠がバタバタ院長室に飛んで来てうるさかったんだよ。仕方なく助けてあげた訳」
「…素直じゃないな。お礼は素直に受け取っておきなよぉ」
流石に引っかかるものがあったのか、カナが膨れた様子で呟く。
その言葉を聞くや否や、その人は「何? その態度」と勢い良く立ち上がり、カナの顎を掴んで引き寄せる。
「こちとら三徹目! 昨日も緊急オペで首が回らなかったのに、今日もなんて聞いてない! 昨日の記録も書けてない、ストレスマックスな訳!! そんな状態で受け取れる訳ないでしょ!! 何をしたらこんな大惨事になる訳?! ねぇ? あの隊員達の処置、こっちにも回って来たんですけど? 鼎が病床数クソしょぼい所為でさぁ!!」
「それが仕事なんじゃないのぉ~…んぐっ」
「…チッ」
カナの言い分に反論出来ずじまいで舌打ちをすれば掴んでいた手を乱暴に離し、病室の扉を開ける。朝の光が差し込み、その人の顔が照らし出された。
黒く長い髪はピンクのよれたリボンで結われ、赤く染まった瞳が太陽を捉える。
名札には、〝九重総合病院院長 九重天空〟と記されていた。ひらりと白衣が舞う。
「仕事だから、御前の命は助けたでしょう。お礼とか良いから、治ったらすぐ帰りなよ」
天空がそう吐き捨て出て行けば、カナはぽつんと一人残される。
そうして堪え切れず笑いが漏れた。
「本っ当に、素直じゃないんだから…」
「じゃあ、また。家の事とか学校の事は心配せずにゆっくり休むんだよ」
太陽はすっかりのぼり、時計の針が七時をさす。
繋は寝たきりの緋狼にそう告げれば、病室の扉を開ける。と、
「あっ」
目の前に学生服を身に纏った子供達が立っていた。その面々に繋は見覚えがある。
「嗚呼、オカルト研究部の…緋狼君なら起きてるよ。どうぞ」
「ど、どうも…」
紺色の髪をポニーテールにした少女が、訝し気に繋を見ながらも頭を下げて入室する。そのままその少女に続いて残りの子供達も入って行けば、緋狼のベッドを囲んで口々に言葉を掛けていた。その様子を微笑ましく眺めながら、繋は廊下に出る。
すると、ずっとそこで待っていたのだろうか。緋狼の病室の前で腕を組んでいた男性が、出てきた繋に向けて口を開いた。
「劉緋狼君だっけ。…再建は出来なかったか、左腕」
黒髪に桃色の瞳、心と良く似た顔立ちだが痛々しい火傷の跡が右目に残されている。蛇牀静――駒田交番勤務の彼は、スーツを着てそこに立っていた。
一瞬警戒の表情を浮かべたが、繋は彩から聞かされた情報を思い出し静に歩み寄る。
「蛇牀静さんだっけ。御噂はかねがね」
「静で良い。心と混ざるだろ。…まぁ命があって何よりだ、間に合って本当に良かったよ」
「…うん、ええと、何か用? おれ学校に連絡入れとかなきゃで…」
繋が徐にスマートフォンを取り出した。
それを察した静が何かを言うより先に、ベンチにだらしなく座っていた青年が立ち上がり繋に近づく。
「ほ~~んと、命があって何よりですよねぇ、超ラッキー!!」
咄嗟の事に静も繋も、反応出来ない。
と言うより、繋は彼の顔を見て固まってしまっていた。
自分と同じ淡紅色の瞳。
そして左目には薄く桜の花が浮かんでいる。
明るい紫色の髪の、人を小馬鹿にした様な笑みを浮かべる彼は、硬直している繋を気にも留めずにこやかな表情を崩さぬまま喋り続ける。
「ただの一般人が夜淵と相対して、左腕だけで済むって相当運が無いと出来っこないですよぉ。あ、もしかして親戚だから見逃して貰えたんですかね? 仲良しじゃないですかぁ!! い~なぁ、じゃあもっかい突撃しても生き延びられるんでしょうかね! あはは、試してみたくないです?」
「……誰、アンタ」
へらへらと笑いながら彼はポケットから警察手帳を取り出すと、わざとらしく敬礼してみせた。
「警視庁刑事部捜査一課巡査、萬代莎朗って言いま~~す。あ、UTS で~す」
「……アンタが、刑事?」
信じられないと言う風に莎朗を睨み付ける繋に、静が困った様な表情を浮かべて必死にフォローをする。
「…悪い奴じゃないんだ。ただちょっと言葉が選べない奴なだけで…」
「言葉は選んで煽ってますよ? 何言ってるんですか?」
が、そのフォローは莎朗自身によって粉々に砕かれた。
一気に繋の表情が冷ややかなものになる。
「…まぁ良いや。萬代さん、取り合えず黙っててくれない? おれアンタの事嫌いになりそう」
「同族嫌悪ですか? 分かりますぅ~! 俺もアンタの事苦手ですもん、案外似てますよね俺たぅ“ッ!!」
廊下の空気が氷点下に迄落ち込む。これ以上莎朗が何か言えば一触即発の空気――だったのだが、すかさず静が莎朗の鳩尾を殴りつけてそれを制した。
蹲った莎朗にヘッドロックをかましながら静が言う。
「悪いな、後で殺しとくから…。俺達はちゃんと用事があって来たんだよ」
「……静君だけで良かったのに、来るの。…で、用事って?」
酷い! と、文句を垂れ流す莎朗の首をさらにきつく締めあげる静。
然し次の言葉を紡ぎその腕が解放されれば、静も莎朗もその表情にこれまでの緩やかな雰囲気は微塵も残されていなかった。
何時だったろうか。、あれは確か赤子の事件。
繋が初めて玖泉の一端を知り、劉楓が夜淵の関係者であると知ったあの日。
あの日も確か、この事件が序章にすらならなかったのだと思い知った。
然し、それとは訳が違う。
これは、団地の中で済む問題とはとうにかけ離れていた事を。
これは、世界を巻き込んだ絶望的な問題である事を。
「玖泉、そして夜淵。…俺達が知ってる事を御前に教える。まず、聞いて欲しい」
「現時点の全世界人口、八十億五千万の内、約三割は既に〝玖泉服用者である〟と初めに理解していて欲しい」




