第肆話 - 前編
No04
赤い。
鼻につく嫌な臭いがする。肺に入った空気が埃っぽい。瞼を上げれば、その床は見覚えのある古いフローリングが広がっていて。
緋狼は慌てて身体を起こし、周りを見回した。
壁も床も、家具も、何一つ変わらない。あの日のままのあの家がまた燃えている。
呼吸が出来ない。炎の熱さに汗が止まらない。皮膚がピリピリと痛む感覚が軈て全身を支配していく。となれば、居る筈だ。首を回して炎の中を丁寧に探し出す。
「……か、母さんッ!?」
然し居ない。
おかしい、本当ならば自分は母親に抱き込まれて炎の中に居た筈だ。居ない? 何故? ばきばきと天井から嫌な音が聞こえる。軋む木材の音が近くなる。
早く逃げなければ、そう思い立ち上がった瞬間。
上から崩れた木材と共に、天井が一気に落ちて来た。
「――………っっ!? ……はぁ、っ……」
慌てて起き上がる。スマホの電源ボタンを押せば、時刻は午前二時を示していた。
全身から汗が止まらない。緋狼は周りを見回して、ここが繋と一緒に住んでいる家だと言う事をしっかりと確認すれば、漸く大きく息を吐いた。
見なくなったと思っていた過去の夢。然し最近また炎の中で目覚める事が多くなっている気がする。緋狼には心当たりがあった。
――二か月前に見た劉楓の所為だ。
彼は緋狼とは従兄弟の関係だ。最も彼の方は緋狼の存在など知らないだろうが。緋狼の父親は彼に殺され、そして母親はその所為で追い詰められて――緋狼と無理心中を図り、全身大火傷を負い今も集中治療室で眠り続けている。
この二か月、見掛けた駒田区で聞き込みや捜索を続けているがあれ以来一度も出会っていない。もう二度と会えないかも知れない。それだけは何とか避けたかった。
必ずもう一度探し出して。
緋狼はスマートフォンをサイドテーブルに置いて、――そこに一緒に置かれているポケットナイフを見遣れば、強く唇を噛み締めた。
――必ず、殺してやる。
三月中旬。未だに玖都では肌寒い朝が続き、団地の廊下は凍結が続いている。
そんな中うっすらと雪化粧を施した連龍会本部の、代理の部屋を訪れる影が二つ。彪と乱だ。
「……以上が本件の大まかな流れです。…夜淵関係者である皆瀬弥汐を捕まえる事が出来ず、無関係の人の命まで奪ってしまい…」
「構わん」
暗い調子で話し続ける彪の言葉を簡潔に切り、化野祈愛はふと報告書の紙束から顔を上げる。
「…織川月姫は、変貌しなかったそうだな」
「え? 嗚呼…はい。何故かは分かりません。皆瀬弥汐も驚いていた様子で…」
それを聞けば祈愛は、ふんと鼻を鳴らした。神妙な面持ちでこれまでの玖泉に関する資料を手に取る。
「成程。…とすれば…。御前達が見たのは〝黒い液体が入った注射器〟で間違いないか?」
「…はい。恐らく玖泉を液状化したものなのかなと」
「…ふむ。そう言えば液体と固体の話でこう言うものがある。液体の糖質は固体より早く胃に到達し、血糖値の急上昇を促す効果がある、と。…もし、玖泉にも液体と固体の違いがあり、液体の方が早く寄生が進んで変貌個体になる可能性が高いのだとしたら?」
「え…、でもそんな事、可能なんでしょうか?」
祈愛は何も言わずに、ちらりと乱の方を見る。
乱は授業中、突然先生に当てられた子供の様にまばたきを繰り返したが、すらすらと解答を述べ始めた。
「以前起きた佐山直樹君の事件。あれは佐山直樹君の遺体に誰かが注射器で〝恐らく玖泉の様なもの〟を入れていました。そうして佐山直樹君は変貌…、した。まだ事例が少ない為未確定ですが、液体の玖泉にはいち早く変貌個体にさせる効果がある、または神の力なる、種の濃度が高いものなのかと」
「だから、驚いたんだろう。ほぼほぼ変貌する筈の液体を用いているのに、変貌しないのは何事だ…と。つまり液体の玖泉を摂取させられても、服用者と同じになる――共生する可能性があると言う事が判明した訳だな」
祈愛の言葉に彪は何も言えず、ただ飲み込み理解するのがやっとだった。
然し、胸の内に微かに湧いた疑問に冷汗が伝い落ちる。
「何にせよ、奇跡の様な確率で彼女が玖泉を取り込める身体だった事は分かった。他に何人、それに当てはまるのかは知らんが…収穫と言えよう」
「……」
「琴継、……御前が気になっている事を当ててやろうか」
「え」
弾かれる様に視線を上げれば、祈愛の鋭い視線とかち合う。
「若し皆瀬弥汐の暴力や発砲が無ければ、共生して生き永らえたのではないのか? と…考えているな」
「…っ」
「簡潔に述べるなら、無理だ」
「……あ」
「生き永らえようが、あちら側になった時点で彼女は我々や国の管理下に置かれる事になる。自ら申告しサナトリウムで生きている服用者や致命傷を負った者達と同じ様に。変貌しない様研究被検体としての生活を強いられ、もう二度と自由な生活は送れなくなるだろうな」
儚い希望は砕かれた。彪自身、たらればを考えた所で全て無駄だと言う事は分かっていたが、改めて言葉にされればショックを隠し切れず表情が歪む。その様子を見ながら尚も追い打ちをかける様に、祈愛は言葉を投げ掛けた。
「琴継。玖泉が体内に共生し生き永らえた所で、それは本当に、……〝人間〟だろうか?」
沈黙。彪が何も言わない事を確認すれば祈愛は一言「私はそうは思わない」とだけ言い、目の前の書類を片付け始めた。此処に居ては代理の邪魔になる、彪は乱と共に退室するしかなく。
元来た本部の廊下を歩きながら、彪の前を行く乱がぽつぽつと言葉を零し始めた。
「代理もあれで心配してんだよ。彪君が変な事を考えない様に、ってさ」
「…分かってます」
「分かってないから代理に気を遣わせたんでしょ~。兎に角今後の仕事に支障が出るなら休みなよ。仕事は俺が引き受けるからさぁ」
「分かってますって!!」
だん、と力強く何かがぶつかる音がした。乱は驚く素振りを一切見せず溜息を吐けば、振り返って呆れた様に笑った。
「…分かってるなら、何で泣いてるのさ」
「……っ、うるせぇ」
ぐずぐずと鼻をすすり、柱に拳を打ち付けていた彪に乱は近寄り、そっと目尻の涙を指で掬う。
あの時、恐らく自分が無茶をすれば、玖泉を打たれる前に彼女を助け出せたかも知れないと乱自身今でも後悔している。実際、月姫が暴力に蹂躙されていた時、任務を忘れ突撃しそうになってしまった事は事実だ。
けれど自分達は極道の人間だ。――この玖都を守る自警団としての認識はありつつも、決して正義のヒーローとは言えない。
街の秩序を守り、市民を守る使命は確かに負わされている。乱自身が連龍会に入る時、祈愛からそう伝えられた。――そして、〝状況、力量、感情を見誤るな〟とも。
あの時、皆瀬弥汐の後ろには未知数の力を持つ恐らく〝変貌個体〟がいた。それは地下を移動できる性質を持ち、壁を簡単に突き破ってしまえる程の力を持っていたと推測される。この時点で自分と彪で何とか対処出来るレベルだ。
然し、皆瀬弥汐も服用者だったら? 服用者と変貌個体を一度に相手をした事ない乱にとって、どんな攻撃を繰り出されるかも分からない。そしてもし、あそこで彪も人質に取られてしまったら?
救急隊や警察が来るタイミングで、もし攫われてしまったら? 殺されてしまったら?
――同じ様に、玖泉を注入されていたら。
(命が有り余るくらいあれば、二人共救えたのにな)
そんな馬鹿げた考えが頭を過ぎり、そして消える。
暫くは廊下に座り込み涙を流し続けていた彪だったが、漸く落ち着き気恥ずかしさが沸いてきたのか「部屋で休みます」と早々に告げ、わき目もふらず本部を後にした。
「…可愛いねぇ」
その背を見守りつつぽつりと呟く。と、彪が玄関前で誰かに会釈をした。気になって見続けていれば、入れ替わりに心が本部へと戻って来る。何時ものスーツではなく普段着だ。
「…あれ? 何出かけてたの?」
「嗚呼、最近刃毀れが酷くて…買い換えて来たんだ」
心は大きなホームセンターの袋を持ち上げた。中を覗けば肥料だの剪定鋏だのが入っている。
嗚呼そう言えば、心にはそう言う趣味があった。
「梅の植え替え時だ。四月からはアブラムシが付く可能性があるからな…しっかりと肥料を与える為の準備だ」
「へ、へぇ…」
「へぇ、じゃない。御前の所の敷地、目についたが酷過ぎるだろう。大体抗争で持ち帰って来たゴミはちゃんと始末白しろ。誉さんが猫がゴミ咥えてきちゃったと泣いてたぞ」
「嗚呼、はいはいすいませんね…」
心が真顔で乱に詰め寄るものの、右耳から左耳へ話が流れて行ってしまっている事は明白だった様で、彼は溜息を吐いて怒るのを辞めた。
本部の庭や蛇牀組の敷地内の樹木は全て心が整えている。時には敷地の奥、森に通じる竹の伐採も彼が一人で行っている様だ。業者に頼めばいい、と以前話したが「あそこにはかなりの数の猫が居るから、部外者が入ると吃驚してしまう」と言う心の一貫した答えに乱は黙るしかなかった。
「猫が食べたらどうするんだ。悪臭だって広がるし、ここは御前だけの家じゃないんだぞ」
「も~明日から彪君ちゃんと戻って来るからやる! やるよ! そんなぶちぶち言わないでくんない?」
「ぶちぶちって…御前は前から汚部屋作りの天才で…琴継君が就職してくれなかったら奉日本組はどうなっていたか…」
「ジジイの趣味持ってる奴は流石説教もジジイ並みに長いねぇ~!!」
乱が痺れを切らして放った一言が心の鼓膜に届いたその瞬間。
乱の目のすぐ脇を何かが飛んで行った。
それは本部の玄関の壁に突き刺さる。
――錐だ。恐らく今日心が買ってきたものの一つ。
恐る恐る心の方を見遣ればもう我慢出来ないと言う風に眉間に皺を寄せ、冷酷な瞳を乱へと向けていた。
「…馬鹿にしたな。…馬鹿にしたんだな? 俺だけならまだ良いが、俺の祖父の事も。これは環境を整える為に必要不可欠な、祖父から教えて貰った誇りある大切な趣味だ。それを…ジジイの趣味だと?」
「え? 否、別に心のじいちゃんを笑った訳じゃないし、てか趣味を馬鹿にした訳じゃ……」
「命で償ってもらう」
「は!?」
ホームセンターの袋を置き、いつの間にやら真剣に手を掛ける心。一体何処にそんなものを持っていたのか、気づけば本気の構えを見せている。乱が制止の言葉を掛けるより先に、心が地を蹴った。
その時。
「あ、あの!!!」
心の後ろから、声がした。
乱の首を撥ね飛ばさんとする刃は、寸での所で拳銃の銃身で受け止められ、甲高い金属音が辺りに響く。
振り返った先には緋狼が居た。
「…あ、あれ? 緋狼君? 何で君がここに?」
「……」
乱が刀を押し返しながら必死に心に目でアピールすれば、彼は深く溜息を吐いて緋狼の方を振り返る。その表情は何時もと変わらない、笑みを浮かべていた。
怒りが収まった訳ではなさそうだが、乱はホッと胸を撫で下ろす。
「初音さんの仕事の手伝いか? 何か協力できる事があるだろうか。兎に角、上がって……」
「あの」
心の言葉を喰う様に、緋狼が何かを差し出す。それは鈍く光るポケットナイフだ。二人共言葉を失い、――そして、それが〝異常事態〟である事を察知する。
何処の世界に、ヤクザにポケットナイフを見せる高校生がいるだろうか。
「……俺に、人の殺し方を、教えて下さい」
――何処の世界に、人の殺し方をヤクザに問う高校生がいるだろうか。
心が乱を見る。乱は首を振って応えた。〝良くない事が起こっている〟、緋狼の瞳は本気だった。
「……分かった。兎に角上がって話を聞こう」
心が優しく、差し出されたポケットナイフを持つ手を包み込む様に握り、降ろさせる。緋狼は「分かりました」とだけ言い、ナイフをしまえば大人しく二人の後ろについてきた。
蛇牀組の敷地内に入り、会議室として使っている部屋へと案内する。そうして、時折言葉を詰まらせながら、緋狼が事の経緯を話し出した。
「…つまり、御両親の仇である劉楓を見つけたから確実に殺せる方法を教えて欲しい、って事ね」
内容は、無茶にも程がある願いだった。
乱も心もどうしたものかと視線を彷徨わせ、頭を搔く。そうして乱が下手に刺激しない様に答えを返す。
「…えと、多分ね。劉楓ってやっぱり服用者とかだったりするだろうし、俺らよりも強いと思うんだ。だから、その方法を教えてる間に遠くに行っちゃったりするかも。…何処で見たの? 教えて欲しいんだけど」
「……教えたら、連龍会の方達で殺してしまうんですか? だったら教えません。…と言うか」
緋狼の目が光る。
「何故、劉楓を知っているんですか?」
「……あ」
乱が素の声を溢す。心は横で頭を抱えた。
以前喫茶店で繋に話した事をてっきり共有されているのかと思い、油断して口を滑らせてしまった。然しこうなってはもう遅い。乱は心の中で舌打ちをして繋に教えた玖泉の事、そして教団の事を話した。
話した上で、彼の意思は固かった。
……先程の彪の目よりも、余程狂気に満ちている。
「……緋狼君。君は、復讐を遂げて、どうするつもりなんだろうか」
と、これまで一切口を出して来なかった心が問い掛けた。緋狼は少し悩んで開いた口を閉じ、また開いては閉じを繰り返し、最終的には「分かりません」とだけ呟いた。
「ふむ…、じゃあ君が、もし復讐出来たとしよう。団地外で見掛けたんだったな。ではそこで彼を殺して復讐が終わった。……君に残るものは何だ? 迫り来るのは警察だ。情状酌量の余地はあるだろうが、刑事処分に相当すると判断されれば無期刑にだってなる。少年院で済めば良いが、…その後君の母親はまたレッテルに苦しめられる事になるぞ。」
「っ」
「身体が治ったって、病院の外はもう二度と歩けないかも知れなくなる。それより、罪の意識に苛まれてまた自らの命を手放そうとしてしまうかも知れない。今度は君が、母親の心に本当に深い傷を遺すんだ」
「……」
「……良く良く、考えて欲しい。……まだ未来あるその手を、汚さないでくれ」
レッテル。
緋狼の脳内に嫌な記憶が甦る。
緋狼の両親は、緋狼が産まれた時にはもう大郷に居た。物心ついてから両親は何時も周りを気にしていた事、引越しを頻繁に行っていた事を知り、然しそれが普通の事なのだとこの時は疑いもしなかった。
そして緋狼が八歳の時、父親が行方不明となる。
唯一の稼ぎ頭であった父親が居なくなり、母親はパートに出る事になった。父親の捜索、スーパーでの仕事、緋狼の世話と彼女は一人で全てを引き受けたのだ。
頼れる人間は居なかったと思う。元々親戚等には会った事がなく、仲の良い大郷人も緋狼が知る限りでは居なかった。
その一年後の事だ、緋狼が学校から帰って来た時アパートのポストに何かが投函されているのを発見した。重くて固い何かが茶封筒の中に入っている。
母親と共に開いて見ればそれは一本のビデオテープだった。
少し黄ばんだラベルには華國語が書かれていたが、産まれた時から大郷に親しんできた緋狼には読めなかった。けれど、母親がそれを見て顔を青ざめさせていた事だけは覚えている。
ビデオテープの内容は…今でも鮮明に覚えている。木製の椅子に拘束された父親の両脇に男が二人。何かを判別出来ない言葉で叫んで、用意していたありとあらゆる道具で父親を傷つけ始めた。母親がテレビの画面を叩いてもうやめて、と何度も叫んでいる。緋狼は目を背ける事も出来ず、そんな母親を支える事も出来ず、逃げる事も出来ず。
結局その拷問は父親の心臓が動かなくなるまで、父親の叫び声が聞こえなくなるまで止まる事は無かった。
それから一か月後、警察の捜索により発見された父親の遺体は見るに堪えないものだった。これだけ傷つけられているのだから若しかしたら違う遺体かもしれない。DNA 鑑定で一致の報告が出るまでは、二人共そう願っていた。
小さな葬式の後、父親の骨を持ち帰る。箸で掬った発泡スチロールみたいなあれが、父親だったとは信じられない。骨壺と父親の遺影を交互に見ながら、緋狼は心のどこかで父親が戻って来る事を期待し続けた。
然し、悪意は続く。
アパートの住民達がにわかに騒ぎ出したのだ。元より華國から大郷に移り住み、引越しを頻繁に行っていた家族だ。近所の人とも必要以上に接して来なかった為、「もしかしてあの家族は何か犯罪を犯して、復讐にあったのではないか?」と勘繰る住民が増えて行った。
更にニュースでも報道された為、アパートの周りには連日マスコミが張り込みをしており緋狼が学校に行く時にも容赦なくカメラとマイクを向けて取り囲んだのだ。当時の緋狼からしたら、大人は恐怖の対象だった。好奇の目、笑う声…その全てが自分に向けられていて、逃れる事は出来なかった。
湾曲した情報は拡散され、そうしてまた新しい噂が流れる。
毎夜鳴り響く無言電話、〝犯罪者〟〝出て行け〟と描き殴られた貼り紙が部屋の扉に広がっていた。たまにベランダのガラスが石で割られた事もあった。
その全てが、根も葉も無い噂に踊らされた人達の間違った正義感からの行動だった。
そんな生活が三年も続いたある冬の事。
何時もの様に緋狼が家の扉を開けると、ガソリンの匂いが広がった。思わず口元を覆う。靴を脱いで床に足を乗せれば、何やら湿った感覚が緋狼を襲った。よくよく見れば、フローリングが何かコーティングされている。後からあれはガソリンがぶちまけられていたと分かったが、その時は気が動転していてそれどころではなかったのかも知れない。
「…母さん?」
呼びかけても返事はない。リビングへ行けば母親はソファに一人座っていた。もう一度呼びかければ、ゆっくりと緋狼の方を振り向く、そして。生気を失った瞳を揺らし、濡れた両手を伸ばして緋狼を抱きしめた。
「母さ」
「緋狼、もう良いの」
視界が母によって塞がれる。母親からはガソリンの匂いしかしなかった。
かち、と何かの金属音が後ろで鳴る。
分からない、母親が何をしているのか分からなかった。
軈て母親はすっぽりと緋狼に覆い被さる様に抱き締めると、――持っていたライターを手放した。
全てがスローモーションに見えた気がした。部屋中に撒き散らされたガソリンを伝って赤い炎が燃え上がる。一瞬にして部屋の温度が上昇していく。
鼻につく嫌な臭いがする。肺に入った空気が埃っぽい。呼吸が出来ない。炎の熱さに汗が止まらない。皮膚がピリピリと痛む感覚が軈て全身を支配していく。
ばきばきと天井から嫌な音が聞こえる。軋む木材の音が近くなる。
早く逃げなければ、そう思い身を捩った瞬間。
上から崩れた木材と共に、天井が一気に落ちて来た。
「緋狼君」
はっと我に返る。顔を上げれば心配そうな表情の乱と心が身を乗り出していた。
「大丈夫か? …凄い汗だ」
「あ、だ、大丈夫です…。すいません」
心がすかさずハンカチを差し出す。躊躇いながらも受け取って汗を拭えば、真夏の炎天下に居たのではないか、と思う程の汗が滴り落ちていたのに漸く気付いた。
その様子を見て、先程迄話を聞いていただけだった乱が唐突に口を開く。
「…まぁ、でも、自分の手で復讐はしたいよね。その気持ちは分かるよ、復讐心だけで生きて来た人間に、今更ヤメロなんて言っても聞く耳は持たないか」
「…おい、乱。やめろ」
「標的が夜淵関係なかったら、俺だってこんなに悩まないよ。勝手にしなって感じ。でも相手は劉楓、正真正銘化物だ」
「乱」
心が立ち上がろうとする乱の肩を抑える。どうしたって緋狼の気持ちは変わらないのだろう、それでも彼を肯定する訳にはいかなかった。
「相手は化物だ。一撃で殺されるかも知れない。復讐なんてするもんじゃない」
「……」
「…、緋狼君来て」
心の訴えに、緋狼は答えなかった。これが答えだと言わんばかりに乱は心の腕を振り払い立ち上がれば、緋狼の腕を引っ張って部屋から中庭へと出る。
ここはたまに組員達が手合せをしている場所だ。草木は少なく、広く拓けている。そんな中庭の隅っこの方に立て掛けてある木刀を一つ掴めば、緋狼の方へと投げ渡した。
「劉楓は化物。これは恐らく、事実。心がやめさせようとして言ってる嘘ではない事、分かるね?」
「…はい」
「俺達だって相手に出来ないかも知れない。それ位、怖い存在なんだよ〝夜淵〟ってのは」
「……分かっています」
「…はぁ~~、もう頑固だねぇ。無駄死にしたいの? 君はまだ何も知らないガキだろ、劉楓の実力は愚か、俺達の力も知らない」
風が止んだ。陽の光が分厚い雲に隠れる。
徐々に、柔らかかった乱の声が低くなっていく。
「君は繋君にも勝てない。透君にも。そんな力で、覚悟だけ持ったって殺されるだけ。俺らも暇じゃないんだよなぁ、ただ団地で貢献してくれてる繋君の〝お気に入り〟だから話を聞いただけで」
「…それは、すいません」
「身の程を弁えた方が良いよ、ね」
ドスの利いた声が、緋狼に襲い掛かる。心臓を握り潰されそうな感覚に追い込まれ、恐怖で立っていられなくなってしまう。震える足を何とか支えるので精一杯だ。
この様な状況に立たされても、それでも「辞めます」と宣言しない緋狼を見て、乱は大きく溜息を吐いた。これはもう言っても無駄だ、と言わんばかりに心の方へ手を差し出す。
「心、刀貸して」
「は? 御前いい加減に…」
「良いから」
言い終わらない内に乱が強い語気で心を制した。こうなってしまえば彼のお節介は止まらない。心は呆れた表情を浮かべながら、自らの刀を乱に向けて放った。
それを受け取れば、彼が笑う。
「…身の程も弁えない、逃げる事も出来なくて完全に追い込まれてる君に、一つ。提案してあげよう」
「…提案?」
「俺の太刀筋を一つでも読めたら、俺は君の復讐に協力しよう。…それで良いね?」
現連龍会直参組長の太刀筋を。
幾度となく変貌個体にも、恐らく服用者とも相対してきた彼の太刀筋を読む。
馬鹿げた提案だと、正気の人間なら思っただろう。けれど、緋狼には選択している余裕はなかった。ただ目の前の〝この人と渡り合えたらもしかしたら〟と言う気持ちが、すっかり恐怖心を失くさせていた。
「……、わ、分かりました……ッ、!」
緋狼が力強く答えたその瞬間、空気が一瞬にして変わる。
余りの息苦しさに、肺が詰まって窒息してしまいそうだ。
乱の纏う殺気が本物である、と嫌でも感じ取れる。お遊びではない、だって彼の持っている刀は人を斬れるのだから。
ゆっくりと刀身を抜き左手一本で刀を構える乱。
緊張が走る。
汗が、落ちた。
「い、一体何をすればこんな事になるんですか……」
化野団地波棟、弐〇陸号室。緋狼は凪の部屋に居た。
あれからみっちり四時間弱。〝奉日本乱の太刀筋を避ける〟ゲームをし続けた緋狼だったが初日で上手く行くはずもなく。ずっと寸での所で止められ峰打ちを喰らわされると言う、どうしようもない結果に終わってしまった。
避ける際についた切り傷や擦り傷、打撲痕を繋に見られたらまずい、と言う事で凪の家に訪問。手当をして貰う事にしたのだった。
「ちょ、ちょっと…乱さんと遊んでて…」
「や、ヤクザと遊ん…っ?!」
凪は口を大きく開けて呆然としていた。
それはそうだ。ただの高校生がヤクザの組長と打ち合いなんて、異様過ぎる。愛想笑いで誤魔化すものの、凪はそれでも心配そうに見つめていた。
「…はい、終わりましたよ」
「ありがとうございます、…すみませんいきなり押しかけてしまって」
軈て手早く包帯を巻き終わると救急箱を片付けて、キッチンへと向かいながら凪が何の気なしに口を開いた。
「大丈夫ですよ。でも、危ない事したら繋さんに怒られちゃいますからね?」
繋さん。その名前を聞けば、緋狼の表情があからさまに曇る。オレンジジュースを運んできた凪は緋狼の顔を見ると少し息を呑み、遠慮がちに問いかけた。
「…喧嘩でもしたんですか? 緋狼君が無茶するなんて、結構珍しいですよね」
「そういう、訳では」
差し出されたジュース受け取ればお礼を述べ、一口。そして無意識に溜息が零れた。 その様子を凪はただ黙って見ている事しか出来ない。緋狼は軈て困った表情を浮かべている彼を見据えると、一つの疑問を投げ掛けた。
「…宮津さんは、相手が若し自分よりも強い人で、でも絶対に復讐したい人間だったら、復讐しますか」
――凪の手が止まった。そうして身体が小刻みに震え始める。
緋狼は凪の過去を知っている訳では無いが、それでもその反応や団地に住み続ける様子から何か訳アリなのだろうと理解はしていた。
「……分かり、ません。俺があの人に、復讐なんて考えた事無いから」
「…ですよね、すみません。変な事を」
「でも」
自分と同じ意見を求めていた訳ではない。そう思い視線を外そうとした時、凪の手が力強く握り込まれたのが分かった。
「……お母さんや、兄貴に、謝って欲しいとはずっと思ってる」
重たい言葉。空を睨む凪に、何時もの様な柔らかい雰囲気は何処にも見当たらない。思わず唾を呑む。凪の瞳が緋狼を捉えれば、もうそこには先程の様な冷たい色はなく、何時も通りの暖かな眼差しが在った。
「あは、すいません。何か、こんな話」
「嗚呼、いえ。…有難うございます、答えて下さって」
お礼を言って部屋を出る。団地の外は薄暗い。少しだけアスファルトのにおいがきつくなっている気がする。雨が降るのならば早く帰らなければいけない。
と、
「緋狼君」
低い声。階段を下り終わったその先の拓けたスペースに、仁王立ちで待っていたのは繋だった。その目にはゆらゆらと怒りが籠っている。
恐らくは乱か心が連絡したのか、はたまた尾行していたのか。
「…大丈夫。あの二人からは聞いてないよ。おれが勝手に盗聴してただけ」
「ッえ」
「そんな事よりも」
繋が一歩、緋狼の方へと歩み寄る。それだけで、緋狼の足は動かなくなってしまう。
「…何で黙ってたの? 部活が忙しいなんて嘘。オカルト研究部の副部長にも聞いたけどそっちには〝探偵助手の仕事が忙しいから部活に顔出せない〟って言ったんだって? …劉楓を見掛けたから、一人で追ってたんだ」
「…それは、」
「おまけに、奉日本さんや蛇牀さんまで巻き込んで…分かるけど、どうして一言言ってくれなかったの」
繋の問い掛けに、緋狼は口を開く様子はない。
痺れを切らした繋がわざとらしく溜息を吐いて、首を振る。
「まぁ良いや。…それより、もう絶対一人で行動しない事。…劉楓の事はおれとか連龍会に任せて」
「……嫌です」
繋の言葉を、緋狼が切った。
何かの間違いかと思い繋が尚口を開こうとした時、先に緋狼が動いた。
「…アイツが玖泉をばら撒いてる夜淵って言う教団のメンバーだって事」
「……」
「今日乱さんに聞きました。…だから、最近俺に事件に関わらせない様にしてたんですか? 引き受ける依頼が〝玖泉〟と関係があれば必然的に劉楓に近づくから」
「…緋狼君、良く聞いて」
制止する様に手を伸ばす。然し緋狼の言葉は止まらない。
「…あの時、一緒に復讐手伝ってあげるって言ってくれたからここまで生きて来れたんです。… 父さんが殺されたのはアイツが勝手に何処かの華國の研究所の人間を皆殺しにしたから。その復讐が劉家に向いて…父さんが犠牲になった。母さんはそれでも頑張って俺を育ててくれた。なのに、アイツの所為である事ない事、噂されて今ッ、………今ッ!! ずっと眠り続けてる!! 五年!! 耐えたんですっ、やっと見つけたのに…ッ、どうして自分の手で殺しちゃダメなんですか!?」
緋狼の言葉の重みが、繋に襲い掛かる。
それを全て受け止めて、それでも繋は首を振った。
「落ち着いて、色々事情が変わったんだ。…まさか劉楓が夜淵の関係者だったとは思わなかったし、おれだって聞かされてなかった。知ったのはつい最近なんだよ。…奴等は、人を殺す事に躊躇しない。……本当に殺されるかも知れないんだ。何時かお母さんが目覚めて、緋狼君が死んだって知ったら、お母さんはどうなるんだ」
「今はアイツを殺す事だけしか考えられないんですッッ!! それに、母さんは父さんの仇を取ったら、絶対喜んでくれる…俺があの炎の中、生き残った意味は復讐だから!!!」
繋に、ナイフを向ける。
「緋狼君、待って…」
繋の言葉が途切れる、彼を見つめるその瞳には復讐の炎が揺らめいていた。
地面に、雨粒が落ちる。
「怖じ気づいたんでしょう。…一般人には太刀打ち出来ない力を持っているって仰ってましたもんね」
「緋狼く…、っ」
「でも俺はやります、誰に何と言われようが、絶対、その為なら、死んでも」
「いい加減にしてよ!!」
緋狼に詰め寄った繋が、彼の胸倉を掴んで壁に押し付ける。
ポケットナイフが、地面に落ちた。
「その為なら、死んでも良い? 何言ってんの?! どれだけの人間が君に力を貸して、どれだけの人間が君を生かしてきたと思う!! 君が知らないだけで沢山の人間が君と、君の母親を救ったんだ!! その命を無碍にする事は、おれが赦さないッッ!!!」
「じゃあこのまま連龍会に任せたら良いんですか?! 警察に任せたら良いんですか?! 正規の方法で裁かれても、父さんを直接殺した訳じゃないし研究所の事件だって華國だし、…きっともう証拠なんてないッ!! 死刑になるかも分からない…ッ!! アイツは確実に、…確実に〝人を殺した〟のにッッッ!!!!!」
強い力で繋を突き飛ばす。手すりに身体をぶつけた繋が苦悶の表情を浮かべた。――雪平全にやられた怪我が痛み出す。緋狼は手を伸ばし掛けたが止め、繋に背を向けた。
「…帰りません。もう、放っておいてください」
そう言って、雨の中を駆け出す。慌てて起き上がろうとしたが身体に力が入らない。
病院側に無理を言って入院期間を短くしてもらった為、まだ傷が癒えていなかったのだ。容赦なく雨粒が繋を濡らして行く。軈てすべてを諦めた様に細く息を吐くと。
「…勝手に、しろよもう…」
震える声で独り言ちた。
「………で、ここに、来たのか…」
連龍会本部。祈愛は玄関に佇むずぶ濡れの緋狼を見てそう呟いた。
急ぎの用事から帰宅し、次の会合の待ち合わせ場所へ移動しようと大門を開ければ、その傍に捨てられた子犬の様に濡れそぼった緋狼を発見したのだ。
流石にこのままにしておく訳には行かない。玄関迄避難させ、何故こんな事になっているのかを聞いてみれば…――口喧嘩したカップルか、とぼやきたくもなった。
「…今日、本部に留まる者は居るか?」
タオルを持って来た心にそう問いかければ、心は少し考えて「俺が残りますよ」と提案した。龍星も志も雨月も、今日は揃って別件の対応中だ。奉日本組も総出で夜淵の子組織の始末に当たっている。
「…分かった。今日だけだ、監視しておいてくれ」
「監視と言う言い方は…、まぁ分かりました。代理、お気をつけて」
祈愛は緋狼を一瞥すると、さっさと車へと乗り込んでしまった。二人ぽつんと残される。心は苦笑いを浮かべ持って来たタオルを緋狼の頭にかけて優しく拭きながら、「すまない、代理も気に掛けているんだよ」とフォローの言葉を続けた。
「じゃあ、俺の部屋にでも来てくれ。まずは風呂に入ろう。風邪を引いてしまうからな」
「……すいません」
敷地内の風呂は簡素な作りであったが、風情があって広々としていた。浴槽の傍の大きな窓からは光り輝く満月が見える。団地内に居る時は全く見えない、見えてもこんなに綺麗に映らない光が緋狼の心を落ち着かせてくれた。
傷が染みる。――そんな事をぼんやりと考えられる様になりながら緋狼は湯船に浸かっていた。勢いで色々言ってしまった事は否めない。それでも。
繋にだけは味方で居て欲しかった。
一緒にやり切ろうと言って欲しかった。
ずっと一緒に居てくれた、兄の様な存在だったから。
「……謝ろう」
そう溢し、風呂から上がれば着替えが用意されていた。サイズが幾分か大きいそれは心のものだろう。至れり尽くせりだ、と申し訳なくなりながら部屋に戻ると、心が救急箱を傍らに置き書類仕事をしていた。
「…あ、心さん。お風呂と着替え有難うございました」
「嗚呼、ゆっくり出来たか? おいで、傷を診よう」
「は、はい。……すいません、何もかもお世話になってしまって…」
丁寧に巻かれていく包帯を見ながら、堪らず言葉が漏れる。
心は「気にするな」とだけ言い、軈て全ての処置を終えれば、奥の部屋から一つのアルバムを取って来て、緋狼の前に置いた。
「…これは?」
「俺の、家族のアルバムだ。と言っても実家が燃えたんで祖母の家から拝借したものなんだが」
「…え?」
「少し昔の話をしようか」
アルバムを開く。そこには幼いながらも面影のある二人の少年の姿が映っていた。
どちらも黒髪だったが、黄檗色の瞳が心なのだろう。写真に写るのが恥ずかしいのか、困った様に桃色の瞳の少年の陰に隠れている。
「昔は両親と兄さん、祖父母と一緒に暮らしていたんだ。…幸せだったよ。両親は不動産業を営んでいて仕事ばかりだったが、それでも家族仲は良かったと思う」
「昔から、ヤクザじゃなかったんですね…」
「あはは、昔はただの一般人だ。けれど、………実は俺の両親は詐欺を働いていた。ある日家に、その詐欺被害者が押しかけてきて…兄さんと二人人質になって立てこもられたんだ。兄さんは硫酸を顔に掛けられて…、俺も殺されそうになった。結果的に祖父が助けに来てくれたが…祖父は燃える家から出てきはしなかった」
「…どういう、…」
「家に置いていた消臭スプレーを、その時兄さんがカレーを作っていた……火がかかっている鍋の中に放り込んで、俺達二人を助けてくれたらしい。吃驚したよ、祖父が家に入って来てから犯人に声を掛けてほんの数秒の事だったから、何にも分からなかった。俺達は爆発後に突入してきた警察官によって救助されたんだ」
アルバムが捲られる。幸せそうに笑う男女の姿だ。
恐らく両親なのだろう。
「そうして高校一年生の夏。あの日以来、姿を眩ましていた両親を見掛けたよ。…笑っていたんだ、二人共。その時、どうしようもなく怒りが込み上げてきた。祖父が死んだのは、兄さんが酷いやけどを負ったのはアイツらの所為なのに…そう思ったら止められなかった」
「……復讐、したんですか」
「嗚呼、二人共俺が刃物で殺した。丁度そんなポケットナイフだったかな」
静かに心が呟いた。
緋狼は手中のポケットナイフを握り締める。
「……幼少期の事件の被害者である事等を理由に俺は少年院に送られた。たまたま運が良かったから、……まぁ色々あって代理に拾って貰えたんだ。ただ祖母を、……両親が居なくなってから俺達を育ててくれた祖母を悲しませた事を……、漸く理解して、――…後悔した」
アルバムに映る心の祖母の姿を指で撫ぜて言う。
その隣には軍隊の衣服に身を包んだ男性と、恐らく心の祖母の若かりし時の姿の写真が挟んであった。
「…だから、君が復讐したいと言う気持ちは嫌と言う程分かる。きっとアイツも……、まぁ他人の過去を他人の口から話す事は失礼に値する故詳しくは言えないが…復讐を果たした者だから、君が今から行う事の重大さも、その後の苦労も、理解して何とか止めようとしているんだ」
緋狼の目を真っすぐ捉えて、心は声を震わせた。
復讐を果たした者の本当の言葉だからこそ、緋狼は何も言い返す事が出来ず、ただ俯く事しか出来ず。そうしてその瞳から、涙を零した。
「…分かってくれ」
抱きしめる体温が優しく緋狼を包んでいく。
溢れ出て止まらない涙が枯れるまで、心はただひたすら緋狼に寄り添い言葉を掛け続けた。
「……ずっと、意識を…取り戻さない…」
意識が浮上する。ここは集中治療室の前のソファだ。
目の前には医者と看護師が居て、どちらも浮かない表情をして緋狼を見下ろしていた。
「可能性がある、と言う事です。全身に酷いやけどを負っていて今も一刻の猶予も許さない状況です。細胞が死に続けている。……もし意識を取り戻したとしても、後遺症が酷く寝たきりの状態かも知れません」
医師の言葉が鼓膜にこびりついて離れない。暫くソファに座り込み呆然としていれば、そこに二人の男が現れた。一人は少し幼い風貌の繋。そしてもう一人は眼鏡を掛けたスーツの男性だった。自分よりも年上の雰囲気を醸し出す二人に、委縮してしまう。
「…緋狼君だっけ。おれ、初音繋。…探偵やってんだけどさ、今日からおれが君の保護者代わりになるから」
「え」
「んで、こっちが葉風彩。〝Re:Lief〟って言う有名な車ブランドの会社の社長。君のお父さんはそこで働いてたんだけど、そのよしみでお母さんの治療費はこいつが全額負担してくれるって。入院費用も心配ないからね」
「………え、え?」
話が全く読めないと言わんばかりに緋狼が二人を見つめ返すと、彩と呼ばれた青年が溜息を吐き「話を捲し立てるな」と繋に言えば緋狼の前にしゃがみ込み、途端に柔らかな表情を浮かべて口を開いた。
「今は何も理解出来なくていい。……兎に角これからの事は特段心配せず、君は母親の傍に居てあげる事。……じゃあすいません、俺はこれから仕事に戻りますので」
彩は医者に向けて深くお辞儀をすると、さっさと廊下を歩いて行ってしまった。医者と看護師も次の患者の診察があるからとその場を離れる。残ったのは緋狼と繋だった。そして、
「ねぇ緋狼君。色々君の事とか家族の事、聞いたよ」
繋が切り出した。
「君のお父さんを殺した華國人の男ね、君の従兄弟の劉楓って人を殺したかったんだって。君のお父さんが彩に全部話してくれてたみたいでね、劉楓は華國のとある研究所の人間を皆殺しにしたそうなんだ。その復讐で劉家に狙いを定められ…――君のお父さんが犠牲になった」
「………父さん、何も、悪い事してなかったんですか?」
「うん。大郷に来たのだって引越しをたくさんしてたのだって、狙われない様にする為だったみたい。彩はそれを汲んで、引越し先の支店でスムーズに働けるようにしてたらしいよ」
「そんな……何で…」
身体を震わせる緋狼の肩に優しく手を置き、繋は耳元で囁き掛ける。
「…悔しいよね。ねぇ、緋狼君。……殺したいと思わない? 劉楓の事」
「えっ」
弾かれる様に顔を上げれば、目を細めて薄く笑う繋と目が合った。
そして肩に置いていた手をゆっくりと差し出す。
「…復讐、しようよ。俺と二人で」
そう言ってくれたのに。
そう言ってくれたから、今日まで生きて来れたのに。
何故、裏切ったのか。怖気づいてしまったのか。
緋狼には何も分からなかった。
「怖気づいた訳じゃないんだよ」
ガラス張りの外に広がる都会の景色を見下ろしながら繋は呟く。
肩の痛みはマシにはなったものの、満足に動かす事は未だ出来ない。濡れた服そのままに革張りのソファに座れば、奥のデスクに座っていた男は眉根を寄せて厳しく言い放った。
「立て、汚れる」
それは幾分か大人びた顔立ちになった、葉風彩その人だった。清楚な黒髪にスクエア眼鏡、その奥にある瞳は鋭く、威圧を感じさせる黄金色に輝いていた。
大郷国内で一番の知名度と事業の大きさを誇る自動車ブランド〝Re:Lief〟の社長で、今もまだ緋狼の母親の治療費を全て負担している。
「良いじゃん、拭けば良いんでしょ。おれ今怪我人だよ」
「…御前が五年前に馬鹿げた事を言わなければ、緋狼君だってこんな事にはならなかった」
「ぐ、げほっ、ごほっ…!!」
ぐさりと本質を突く物言いに吸っていた煙草の煙が肺に侵入する。
激しく咳込んだ後にじろりと睨み付けるもすぐに視線を落とし、言い訳をする様に繋が言葉を捲し立てた。
「仕方なかったじゃん。お父さんも亡くなってお母さんも意識不明。バカ高い治療費に高校の学費、後は生活費? 幾ら何でも………諦めて死ぬ事だって視野に入れそうでしょ」
「お陰で今、御前が彼自身を危険に晒している」
「……うるさいな、分かってるって。自分でもどうしたら良いか分かんないんだもん。…あんなに拒絶されたの初めてでさぁ」
傍にあったクッションを手に取り抱きしめる繋。
益々眉間に皺を寄せた彩だったが、もう何も言わないと言う風に書類に視線を戻した。
「どうしよう、このまま……本当に劉楓と相対する事になったら」
「…御前の知り合いにヤクザ共が居るだろ。肉壁位にはなるんじゃないか」
「相手は研究所の職員皆殺しにした人間だよ? 肉壁にもなるかどうか……おれ、そう言うの漫画の中だけだと思ってた」
「は、現実は小説より奇なり。世の中には、俺達のちっぽけな脳の想像を超える出来事が転がっているに決まっているだろう」
繋の泣き言を一蹴する彩。そうしてまたシャットアウトする様に書類に視線を戻す。
繋が彩と交流を持ち始めたのはほんの数年前だ。テレビでも話題になっていた、およそ九歳で社長就任を果たしたエリートイケメン。
元は葉風一族が運営していた〝Lief〟だったが、業績が良くなかった所に一人息子が社長業を継ぎたくないと駄々をこね海外に家出。会長自ら彩と出会い養子縁組を結んだらしい。
彩の方は昔に両親が別居、事故で母親が下半身不随になってしまった所で会長と出会った。母親の医療費を肩代わりすると言う取引の元、養子縁組を結ぶ事に納得したらしい。そうして会社は〝Re:Lief〟として生まれ変わり大成功、今では取引もなくなり自分の意思で母親の医療費を負担している。
「…くそ、おれには約束された地位も知能も、金もなかったんだっての…」
「俺も無かったが? 日頃の行いの所為じゃないか。御前のツキが悪いのは」
「だって! だって…、だって!!」
「だってだってうるさい、子供か御前は」
はぁ、と深い溜息を吐く繋に、目線をやり。一拍。
今度は彩が溜息を吐けば、独り言の様に呟き始めた。
「……大郷には秘密警察なる組織が複数存在する。公安〝ゼロ〟然り、特別高等警察〝特高〟然り。今は現存している組織の方が少ないが、御前は聞いた事が無いだろうな。とある目的の為だけに作られた、内閣府直属組織下の秘密組織」
「UTS」
繋が徐にソファから立ち上がり、デスクに駆け寄る。
「ゆ、ゆーてぃーえす? 何それ」
続きを聞かせろと目で訴えれば、彩はひらりと一枚の写真を繋の目の前に落として次の言葉を紡いだ。
「Unknown The Soldiers、〝名もなき兵士達〟。俺の知り合いがたまたまそこのリーダーで、たまたまメンバーの一人と鉢合った為、たまたま教えて貰った。御前もたまたま此処に居るから、運良く口を滑らせてやる」
写真には交番の制服に身を包んだ男性が映っていた。
桃色の瞳に黒髪、火傷の跡が残った右目の上、額を包帯で巻いている。面影が、心と重なる。
「駒田交番に居る蛇牀静、何かあった時彼に言えば…軍隊レベルの人数は派遣出来るんじゃないか」
彩はそれだけ言えば、また書類仕事に向き直った。
「…本当に信用出来るの? そんな秘密警察とか、本当にあるの…?」
「無くて今迄弐日苯警察と政府だけで夜淵の問題に取り組んでいたとでも? 変貌個体を人間が、市民に気付かれず華麗に対処していたとでも?」
「…変貌個体なら出来なくはないんじゃない? 一匹だと大した事は…」
「…はぁ、そんな無知で馬鹿で恥知らずな御前にもう一つ良い話を教えてやる」
「は? 何いきなり…」
悪口に反応した繋がデスクから身を乗り出そうとした一瞬、彩が右手で拳銃を構える。
「黙って聞け。御前〝来襲〟を知らないだろう」
「……らいしゅう? もう、何新しい言葉増えすぎて頭回んないよ…」
「黙って聞けと言ってる」
繋の弱音を切り捨て、くるりと器用に指を動かして拳銃をしまえば彩は引き出しから、――高校の歴史の教科書を取り出した。余りに突然の事態に、繋は言葉を失ってしまう。
「…? え、ナニコレ」
「見ての通り、これは高校の歴史の教科書だ。中学でも小学校でも良い。このセカイに存在する歴史の教科書には描かれていない〝来襲〟と言う悲惨な事件が、もしかすると太生時代以前から発現したと考えられている。〝来襲〟とは言葉の通り何かが迫り襲ってくる事を意味し、――これが事実なら政府は意図的に隠したと言う事になる」
「……何かって、何?」
繋の問いに、彩はまたも大きな溜息を吐いてその教科書に挟んでいた複数枚の写真を取り出して見せる。そこに写っていたものに、繋は喉を鳴らした。
人の死体の山。爆撃でも受けたかのように荒れ果て、更地になっている土地。ボロボロの家に支柱だけが残されたビル。遺体を背負いながら歩く子供の姿。
それら全てを虚ろな瞳で見詰め、彩は静かに呟いた。
「…恐らく変貌個体の群衆が、大郷や全世界に襲い掛かって来た事件を〝来襲〟と呼んでいる。これらは俺が独自に調べ、今もまだ記憶が残っている人達に話を聞いて、集めた手掛かりだ。もしこれが自然発生で、定期的に全世界に被害をもたらすものなのであれば、話題にならないのはおかしい。つまりどこかでこの〝来襲〟を防いでる或いは被害を最小限に抑えている団体が居ると言う訳になる。それがUTS。…証明はしてやったが」
「待ってUTSの存在の有無より〝来襲〟の方が気になって来た」
「何なんだ御前は…」
彩があからさまに嫌そうに言葉を吐き出すが、繋の好奇心は止まらない。
スマホのメモアプリを起動すれば、矢継ぎ早に言葉を並べる。
「何でそもそも御前が知ってるの? 記憶が残ってる人って、高齢者とか? 自然発生ってどこから?」
「UTSのリーダーと知り合い故に教えて貰った。高齢者や…そうだな、人ならざる者達に聞いた。それは分からない。もしかしたら〝夜淵〟が変貌個体を集めて突撃させているのかも知れないが、理由が不明瞭だ。つまり現時点では何も分からないと言う事だけ」
「……なる、ほど。全然分かんない」
「御前がこれ以上〝玖泉〟と関わっていくのであれば、知っておいた方が良い情報だろうと思って喋った。考えてみろ」
彩が人差し指を、繋の眉間に突き出す。
「自然発生にせよ、誘発的にせよ、〝来襲〟が起こる可能性はゼロじゃない。歴史の中で確かに起こってきているんだから。その時、いち早くこれは〝異常事態〟だと思った方が生き残る確率は高くなるだろう。後、これは憶測にしか過ぎないが、――」
「この〝来襲〟レベルに。若しくはそれ以上に、夜淵の関係者は力があるかも知れない」
可愛らしい鳥の鳴き声が緋狼の耳に届く。
うっすらと目を開ければ、一瞬ここがどこだか分からずに飛び起きるも――そう言えば家出をして心と一緒に寝たのだ、と思い出し強張った身体から力が抜けた。
祈愛からは昨日だけだと言われていた為、布団を畳み早々に着替えて出て行く支度をする。と、玄関先に誰かがいた。
――心だ。
「おはようございます、心さん。昨日は本当にありがとうございました…」
「いいや、気にするな。それよりもこれ」
そう言って心が手渡したのはお弁当。そう言えば昨日は繋と衝突し、着の身着のまま連龍会の本部へ突撃して泣いて眠ってしまった。昼ご飯を食べてから何も食べていなかった、そう頭が理解すると途端に腹の虫が盛大に鳴る。
「ふ、…とりあえず腹が減っては何とやら。しっかり食べて、勉学に励む様に」
「あ、ありがとうございます…」
「代理は昨日だけだと言っていたが…今日は帰るのか? 初音さんの所に」
「…」
ふとそう言われた緋狼が視線を落とす。
復讐について諦めた訳ではない。けれど今先走っても死ぬだけだと言う事は理解した。本当ならばすぐにでも謝らなければいけないのだろうが、生憎それだけの勇気はまだ持っていなかった。
「…少しだけ、後少しだけ冷静になって考えます。宮津さんの家とか…許可が出ればそこに行こうかなって」
「…そうか。まぁあの子が断る訳はないだろうが、万が一何かあれば何時でも来てくれていいからな。乱にも、事情を話せば喜んで泊めてくれるだろう」
「……すいません、迷惑を掛けて」
「気にするな」
「これはただの大人のお節介だ」――そう続けて心は本部の中へと戻って行った。
本部の傍にある大きな木には、桜の蕾が付き始めていた。
それから実に二週間。
緋狼は学校帰りに本部に毎日通い詰め、乱に玩具にされる日々が続いた。凪は快く宿泊を許可してくれたが流石に二週間も居座る訳には行かないと、カナの家、透の宿泊先、時にはオカルト研究部の部員の家に寝泊まりする事もあった。その誰もが驚きはしたものの、快諾してくれたのだ。
やっと反抗期らしい事したか、と友人からは安心した様に言われもした。
そうして桜の花が徐々に開花しつつある三月の終わり。
とうとうその日がやって来た。
この日は若衆のメンバーも仕事を早々に終え、蛇牀組の中庭に集合していた。
思えば一番最初に二人を見守り出したのは彪だった。乱の行動を監視する意味もあっただろうが、その様子を見て雨月が、そして龍星、志、狗神、皇牙と最終的には全員が緋狼の行く末を見守る事になった。
時にヤジを飛ばしながら。時にアドバイスをしながら。
そして皇牙や彪、龍星や志が仕事終わり、軽く手合せに付き合ってくれる事も増えた。四人共極道の人間故に一般市民の高校生である緋狼に本気など出しはしなかったが、それでも構え方や視線の捉え方を根気よく教えてくれた。
何時もの様にお辞儀をして始める。
真剣を持った乱が呼吸を整えて刃を振るう。すると明らかに変わった事が一つ。
視えるのだ。太刀筋が。
恐らく緋狼相手に力の一割も出していないだろう。注意深くしっかりと視界に入れておかなければ直ぐに見失う程危ないものではあるが、初日よりも明らかに刀のルートが軌跡となって視界に映る。
身体を捻って避ける。然し次の斬撃が襲いかかり、態勢を崩す。それでも何とか起き上がり、距離を取って乱と対峙する。
彼はにこりと笑うと一呼吸置いて真っ直ぐ、緋狼の心臓目掛けて突きを繰り出した。本当なら視えなかった筈の太刀筋。全てがスローモーションに感じた。
――誰かが、「そこだ」と叫んだ。
カン、と異様な音が鳴り響く。
「…おっと」
またしても寸での所で止めようとしていた乱の握力が一瞬緩み、弾かれた真剣は空に舞い、中庭の地面に刺さった。
弾いた、奉日本乱の太刀筋を。
木刀で。
「………や」
「やった~~~!! あんた凄いじゃん!!」
緋狼の声を掻き消す様に志が立ち上がって飛び跳ねる。
「へぇ、…結構やりますね」
「すご~い、アタシ三週間もやってられないわよ、大したもんだわ」
彪も龍星も各々感心の声を上げた。
その他のメンバーも微笑んで拍手を送っている。
「いや~、まさかやられるとはね。…どう? 少しは自信ついたんじゃない? 約束通り、これからは俺も君の復讐に手伝う、それで良いね?」
真剣を拾い上げ、心に刀身を返せば乱はにっこり笑ってそう告げた。緋狼も思わず笑みが零れる。けれど、次の瞬間には神妙な面持ちに切り替わり、声を低めて緋狼に言う。
「…でもこれだけは守って。絶対に無茶をしない事。これが出来て此処に居る奴等は〝当たり前〟だし、君はスタートラインにまだ立ててもいない。言ってる意味は分かるよね?」
「……」
問いかけられた緋狼には、それが何を意味するかしっかりと理解出来ていた。
――劉楓と出会っても戦うな、と言う事だ。
緋狼は、それでも頷かなかった。
「あは、強情。……でもね、緋狼君」
ふ、と乱の姿が消える。思わずまばたきをしてしまう。
気付けば緋狼のポケットナイフは乱の手に握られており、その刃を緋狼の喉元にぴたりと当てていた。
「師匠の言う事聞けないと、ちょっと痛い目に遭って貰わなきゃいけなくなるかな」
「………あ、はや…」
思わず言葉が漏れる。
緋狼は暫く黙っていたが、軈て観念した様に「…分かりました、約束します」と小さく呟いた。喉元からナイフが外されれば、緊張の糸が切れたかの様に緋狼の膝が地面に打ち付けられる。
「劉楓とやりあいたいんなら、まずは俺か心を倒して貰わないと」
「絶対無理な事言ってるこの人…」
乱の大真面目な発言に、彪がぼやいた。この二人の力には、二週間みっちり稽古を付けて貰ったからこそ、〝絶対敵わない〟と分かってしまっていた。恐らく今から特訓をし続けても傷を与えられるかどうか。
だって自分は二週間死ぬ思いを何度もしたと言うのに、乱の態度はまるで子供と遊んでいるだけに見えたのだから。それが答えなのだろう。
「あ~~、良いわぁ。ああいうの見てたらアタシも身体動かしたくなってきたわね」
「お、龍星やる? 丁度ダイエットしようと思ってたんだよねぇ」
声高らかに拳を交えようとする龍星と志を見て、雨月が呆れた様に横から呟く。
「駄目だ。御前等今日はこれから仕事だろう…俺も管理局の書類チェックがあるから、これで解散だな」
「あ、忘れてた。じゃあ行きますか」
「そうね。…緋狼! 次あたしと一戦やりましょ、ダイエット手伝ってね~!」
志が元気良く手を振りながら、先を歩いて行く龍星を追いかける様に本部から出て行く。雨月も去り際、緋狼の肩を叩いて手を上げた。その様子を見て、心が小さな声で緋狼に囁く。
「皆何だかんだ心配だったんだろう。…よくやった、緋狼君」
「…心さん。本当に色々とありがとうございました」
心に向かって深くお辞儀をする。心はやはり「気にするな」と笑った。
緋狼は次いで辺りを見回し、帰ろうとしている乱に叫ぶ。
「乱さんも、お忙しい中ずっと…ありがとうございました!」
声を掛けられた乱は既に狗神に抱き着かれている状態であった為――首だけを回し、面倒臭そうに手を振って告げた。
「は~い。無茶しちゃだめだよ、緋狼君」
「んわ! ひ~ろ、つよ!」
「ね、強いね~。狗神歩きにくいから手繋ごっか。彪君次打ち合わせ何処?」
「駒田です。報告書は今日纏めて書きますね」
狗神が楽しそうに声を上げながら、乱と彪は何時も通りの会話を交える。そうして角を曲がり姿が見えなくなった。そう言えば、とふと緋狼は狗神と一度もちゃんとした会話をしたことがなかったな、と思い至る。
たまに心に傷の手当をして貰っている時に近寄ってきて、血が出ている所を熱心に嗅いでいた記憶だけがある状態だ。彼女もまた訳アリなのだろうか。…彼女だけでなく龍星や皇牙、そして乱も。
緋狼はそんな事を考え――、しかし既に薄暗くなりつつある空模様に気付けば慌てて荷物を片付け、本部を後にした。
本部から団地に戻り、西にある駒田地区へと移動する。そこから電車に乗って三十分もすれば繋の家がある和倉宝蘭地区だ。鼎総合医療センターもそこにある。元々繋は北の方に住んでいたらしいのだが、緋狼の為に引っ越したのだと彩に教えて貰った。
「…優しすぎるんですよね、あの人」
そんな事をぼやきながら駅へと向かう。
時刻表を確認しようと顔を上げた時。
視界の端に、あの黄ばんだ白衣が視界に映った。
全身から汗が噴き出る。自然と呼吸が早くなる。
心臓の音で雑踏が掻き消える。
どうして今、ここに。
彼は何かを探す様にふらふらと人混みに消えてゆく。無意識に足がそちらへと向いた。
分かっている、無茶をするなと言われた筈だ。
約束をしたはずだ。
人の殺し方だって断られている。
そうして、散々連龍会に迷惑を掛けた事も承知している。
約束したんだ。
それでも、どうしようも出来ない。
足が止まらない。
楓はやがて人気のない路地裏で曲がると、どんどんと細い道を歩いて行く。
着いて行くべきか。
ここで諦めてしまえばきっともう二度と会えない。
でも。
――緋狼の心に様々な人の言葉が思い起こされる。
思い起こされて――
緋狼は、路地裏へと。
一歩踏み出してしまった。
室外機に挟まれた細い道を何とかして通る。途中植木鉢に足を取られそうになったが、彼はこちら等まるで気にも留めずにどんどん先に進んでいく。
奥の突き当りを更に左に曲がって、そして。
遂に行き止まりへと追い詰めた。
彼はその隅に蹲って何かをしている、つまり――気づかれていない。
緋狼はポケットナイフを握り締めて慎重に歩みを進める。
と、 不意に彼がこちらを向いた。
隅っこに居たのは子猫。楓の手から餌をゆっくりと食べている。緋狼に気付いたのか愛らしい声でにゃあ、と鳴いた。
「……劉楓」
緋狼が名前を呼ぶ。しかし楓の表情は全く変わらない。
何も考えていないのかそれとも、内心では何かを考えているのか。
「…どちら様ですか?」
自分によく似た声が返って来た。
それが余計に腹立だしくて、緋狼は反射的にポケットナイフを突きつけて叫ぶ。
「…劉緋狼。御前の父親の兄の…子供だ」
「……イトコ、ですか。……初めまして」
楓は顎に手を添え、そして導き出した答えを口にすれば手を差し伸べる。
まるで宜しくと言った風に握手を求めたのだ。勿論、緋狼に握手を返すと言う選択肢はない。
「…初めまして。初めまして……嗚呼、そうだな。会うのは初めてだ。……俺は御前の事をずっと前から探してた」
「……何故?」
「…御前が…数年前に起こした、華國の研究所の職員を皆殺しにした事件で、劉家に恨みを持った人間が、俺の父さんを殺した。……挙句母さんは追い詰められて、今、病院で眠り続けてる。……全部、御前の所為だ…。劉楓…っ!」
そう言えば楓の目が僅かに揺れ動き、そしてゆっくりと閉じられ同時に手を胸の前で握り締めた。その所作はまるで悼む様な、祈る様な動きで。微かに何かを囁いた気がした。
「……それは、気の毒に」
「……気の毒? 何をふざけた事を……」
「ボクが直接あなたの御父上を殺した訳ではなく、あなたの御母上を追い詰めた訳ではありません。…どうしてボクに殺意を向けるのですか?」
楓の言い分に歯を食いしばる。分かっていた、きっとそう言われるだろう事は。
然しいざ直接言われてみれば、堪えようのない怒りが身体を支配する。
「…ッ、御前が、華國であんな事件を…起こさなければ、劉家は、恨みを買う事は無かった!! 無関係だった父さんが死ぬ事は無かった!! 直接的でないにしろ、御前にも原因はある!! それでも、言い逃れするって言うのか?!」
瞬間。
楓の目が見開かれた。
見つめれば吸い込まれそうなほどに深く、冷たく、寒く、黒い眼。
「…ふぅん、…先に手を出したのは、アイツらなのに…。ボクの全てを……あっちが先に奪ったのに……」
そうして手を伸ばす。小さな白い手に握られていたのは、一本のメスだ。
楓は未だに何かをぶつぶつと呟きながら、――唐突にそれを投げた。
「ッ!」
咄嗟の事に反応しきれなかった緋狼だったが、それでも。
乱から教わった〝太刀筋を視る〟事で、何とかそれを防ぎ切った。投げた姿勢のまま固まる楓。
そしてまた袖口からメスを取り出すと今度は二本、先程よりも速く投げる。
緋狼は、それすらも防ぐ事が出来た。
「…反応、するんですね」
「…何も出来ないと、思いやがって…」
息を切らしながら、楓と真正面から対峙する緋狼。
楓は深く考え込む様に腕を組み、そして彼の視線が緋狼から外れた。
――その瞬間、緋狼の足が地面を蹴る。
距離は三メートル程。詰め寄って薙ぎ払えば、致命傷とは行かなくても何処かには当たる筈。
楓を驚かせていると言う〝思い込み〟。それらから緋狼はまたも、軽率な一歩を踏み出してしまう。ざり、とアスファルトを踏みしめた音が響いたと同時に、楓の視線がこちらに向いた。
「…子供はこれだから、……扱いやすい」
「――ッ!」
緋狼が反応した時には既に遅く、何時の間にか楓は緋狼の上――上空に浮かび上がっており、彼の袖口から放たれた数十本ものメスが緋狼の身体に突き刺さった。二、三歩後退りして、緋狼は無様に背中を打ち付ける。
「ぐ、ぅ」
「幾ら何でも甘すぎます。相手の力を見極めない低すぎる観察眼、反応速度の遅さ、勘違いから生まれる隙の多さ、全てが研究対象外レベルです」
「……く、…っ」
突き刺さったメスを抜こうと力を入れるが、何かが引っかかっているのか激痛が疾る。立っている事もままならない。楓はそんな緋狼を憐れみを込めた目で見つめる。
「…やはり、復讐は良くないですね。…新たな悲しみが生まれます。…仕方がないのでボクがあなたと御母上を、御父上に逢わせてあげます」
「……な、に」
徐に、緩慢な動作で楓がポケットから注射器を取り出した。
その中に入っている液体は黒い。
――服用させられる。
真っ先にそう危惧した緋狼は身を捩ったが次の瞬間、楓はそれを自らの首元に刺した。
中身が空になった注射器を捨て、数分。
楓の背から、どす黒いもやの塊が蠢き出す。玖泉を服用した人間が化物に変貌すると言う話は繋から聞かされていたが、――目の前で見たそれは明らかに様子が違っていた。
触手が連なった不気味な羽根が、楓の背中で奇妙に胎動し脈打っている。変貌個体は姿が化物になり、自我も崩壊する筈。なのに何故、楓は今も変わらない姿で、冷たく自分を見つめているのか。
「大丈夫、苦しまずに殺します。痛いのは、嫌でしょうから」
楓が薄く笑った。さながら命を刈り取る死神の様な、迎えに来た天使の様な。有り得ない程に穏やかな笑みを湛えて、その羽根を槍状に収縮させ――緋狼目掛けて突き出した。
視界が回転する。
緋狼の身体を誰かが抱きしめた。
と同時に、左腕が熱い感覚に襲われる。
状況が呑み込めないまま緋狼の身体は地面に叩きつけられ、軈てじわじわと痛みと熱が身体を支配していく。と、
「…ひーろ、君……、ごめんね……、いた、かった、でしょ…」
緋狼に覆い被さっていた人物が苦し気に声を絞り出した。
ブロンドの髪に、グリーンアイ。
普段の余裕綽々な笑みは消え、今は痛みを堪えるのに精一杯の表情を浮かべている。
そんなカナの右腹部は半分がえぐり取られていた。
だから、見えてしまった。
ぽっかりと穴が開いたその先に、見覚えのある左腕が落ちている。
気付いて、気付いてしまった。
「ッッッッ!!!!!!!!」
同時刻、連龍会本部。乱の部屋の前でうたたねをしていた狗神が突然起き上がった。
そして仕事中の乱の部屋を躊躇いも無く開ければ、ペンを走らせるその背中に構う事無く飛びつく。
「ら~ん!! らんらん! らん!!」
「痛ってぇ!? ちょっとちょっと何…嗚呼も~、ずれた…」
「らん!! ちー!! ちーのにおいがする!!」
――血。
書類をコピーし直さなければ、と呑気な事を考えていた乱が狗神の一言で表情を変えた。 すぐさま眼鏡を外しスマートフォンを掴むと、文字を打ちながら狗神へと言葉を掛ける。
「狗神、どっち? 方向は」
「ん~? ん~、あっち!!」
「あっち? 本部より向こう? ……駒田か、誰の血の匂いかな。多い? 少ない?」
狗神はふんふんと鼻を鳴らし、やがて眉間に皺を寄せると鼻を手で覆った。
「えっとね~、えとね、ひ~ろ!! とねぇ、くろいちー!! あかいちーは、た~くさん!!」
「…………そ、」
狗神の鼻は利く。彼女は視覚を遮断している代わりに聴覚と嗅覚が発達し過ぎたらしく、血の匂いでおおまかにどこにいるか、誰のものか、出血量がどの程度かを知る事が出来る。
そして今の言葉が本当であれば、十中八九緋狼は楓と接触している。更に言えば、緋狼は取り返しのつかない大怪我をしている事が分かった。
分かってしまった。
「何で……、約束したじゃんか……ッ」
そう言って、乱の足が、思考が止まった。
彼がこれ程までに、復讐の決意を固めていた事を漸く理解した。
数週間一緒に居れば何か分かるかと思ったのだ。彼は物事をちゃんと理解していたし、危ない橋を渡らない、慎重な人間だと思っていた。――思い込んでいただけだったのかも知れない。
対抗手段を一つ、覚えたからこそその一歩を踏み出してしまったのかも知れない。
彼はまだ、子供なのだから。
「……最悪だ」
乱は大きく舌打ちをすると部屋を飛び出し、何処かに電話を掛けた。
そうして一人の打ち合わせ先が駒田であった事を思い出し――
その人物のGPS情報を起動した。
緋狼は、恐る恐る自分の左腕を見る。
紛れもなく、綺麗に、切断されていた。
「う……あ“ぁああっ、ぁ”」
「…ぐ、っ…嗚呼、クソ……、ごめん、…ひいろ、君、…」
痛みに慟哭し、我を失った緋狼を抱きしめる。
止血をしようにも充分な道具も無ければ、カナ自身動ける身体でもない。
彼の身体からは黒い血がぼたぼたと零れ落ちており、臓器や肉がある筈の箇所は黒く塗りつぶされていた。緋狼には見られていない。
然し楓には、バレてしまった様だ。
「あなた、…あなたは人間じゃないですね」
興味深そうにカナに近づき、傷口の断面を注意深く観察する楓。
最早緋狼の事等眼中から消してしまった様だ。カナの傍に座ると自身が黒い血で汚れるのも厭わず屈み込んだ。
「…あなたも服用者? いいや、それにしては人並みの生活が出来すぎている…。あなた、もしかして」
「……ッ、それ、…今、答えなきゃ、いけ、ない…?」
「我らが同胞なら、傷を癒して差し上げようかと思ったのに……。まぁ、あなたはそっちより研究価値がありそうです。連れて帰ります」
「なッ、ちょ…やめて! 離せ…っ!!」
楓の背中の羽根が、優しく包み込む様にカナの身体を持ち上げる。
このままでは緋狼が本当に死んでしまう。然し、藻掻くカナの力は抵抗と呼ぶには余りにも小さく、楓には何の効果も無かった。
その時、ぴん、と何かが弾かれた音がして――
「カナさん頭を守って下さい!!!!!!」
楓の羽根の付け根。パイプ爆弾が爆発し、轟音が辺りに鳴り響く。火薬の量が少なかった為か緋狼は巻き込まれず、またカナの身体も羽根の先で掴まれていた故に直接当たりはしなかった。
叫び声と共にビルの外階段の手すりから飛び降り、素早く楓の前に立ちはだかった彪は早まる心臓を何とか落ち着かせようと、耳朶に手を触れる。
「…か、おる、君……ッ、何で…」
「丁度カナさんが路地裏に入って行った所を見掛けまして。…まさかこんな事になってるとは思いませんでしたが…」
「はや、く、ひーろ君…、つれて、…にげ、て」
カナが震える声で叫ぶ。本当なら彪だってそうしたい。けれど首を縦に振る事は出来なかった。今目の前にいる彼は、明らかに出会ってきた玖泉服用者や変貌個体とは違う。
例え隙を作って緋狼を抱えられたとしても、楓から逃げられる自信が無い。
そして。
それ以前に、カナを見捨てて逃げる事は絶対に出来なかったからだ。
拳銃を構えて、彪が口を開く。
「…劉楓、だな。…御前は夜淵と言う宗教団体の、…一員か?」
「…はい」
「……、では、…皆瀬弥汐と言う人間も…、御前の仲間か」
「…みなせ、みしお。誰でしょう…」
「………、知らないのか? 仲間を。…それとも、興味が…ないのか?」
慎重に、間を空けて。ゆっくりと、はきはきした口調で話す。
今の彪に出来る事はこれしかなかった。こんな事でしか〝時間を稼ぐ〟事は出来なかった。
そんな彪の質問には答えず、まるで彪の思考など手に取る様に分かると言わんばかりに、楓は見開かれた瞳で彼を捉える。
「時間稼ぎ」
「ッ!!!」
カナと緋狼が受けた一撃を寸での所で躱す。
然し、羽根の間から楓が投げたメスが彪の、右腿を切り裂いた。
力が抜け堪らず膝をつく彪だったが、倒れる勢いのまま楓の足目掛けて二発。
「…」
一つは羽根に弾き飛ばされたが、もう一つはその隙間を縫って的確に楓の脛へと命中した。どくどくと黒い血が溢れ出す。
だと言うのに、彼の表情は全く変わらず、しっかりとその足で大地を踏んでいる。
「…舐めていました。ごめんなさい」
「っく、!」
徐に楓の羽根が胎動した。細く紐の様な長さに変貌すれば、急いで体勢を立て直そうとする彪の右足に素早く絡み付くと、
――力のままにその右足を締め上げ、歪な音を響かせた。
「っぐぅ……っう”…っ、ぁ」
「かおる、君…!!!」
堪らずカナが叫ぶ。
彪はポケットからもう一つのパイプ爆弾を取り出せば、それを躊躇なく足元に放った。爆発音がして右足の圧迫感が無くなる。その隙に足を引きずって楓と二人の間に入り、守る様に身体を晒しながら途切れ途切れに呟いた。
「…ごめんなさい、時間、…稼ぎにも、ならなかった…」
「…そん、な事、」
言い掛けたカナが咳込む。慌てて手を取ればもう二人共熱が弱い。一刻も早く病院に連れて行かなければ、本当に。
本当に死んでしまう。
「逃げれば良かったのに」
楓がゆっくりと三人に近づく。はっ、として振り返ればそこには無傷の楓が立っていた。もう脛からの出血は見えないし、爆発で持って行った羽は復活してしまっている。
彪だって変貌個体を幾度か見て来たし、戦ってきた事もある。けれど、――これは、何だ?
まるで絶望が形になってそこに存在しているかのような。
「力の差なんて、一目瞭然でしょう」
それでも、逃げる訳には行かなかった。
彪は拳銃を震える手で握り締めて、そして尚も、――構える。
「……もう」
「もう誰も、死なせたくないんです。絶対に」
その拳銃が弾き飛ばされる。
触手の重い一打は人間の骨を容易く粉砕した。
痛みは感じなかった。
全てが一瞬だった。
無力だった。何もかも。
到底、敵いもしなかったのだ。
「出来もしない理想を、弱者が口にする。哀れな世界ですね」
そう言って楓が笑った。
羽根を一つにまとめて頭上へと振り上げる。
―――ぐちゃ。
何時まで経っても痛みはやってこない。
反射的に閉じていた目を開ける。
見知った羽織、青丹色の髪。
スーツ姿に、真剣二本を携えた背中。
「よくやった、彪君。君のお陰だ」
乱と心が振り下ろされた羽根を受け止めていた。一人は鞘、もう一人は木刀で。
明らかに力量が一般人とは違う、と楓が羽根を退かせ距離を取る。
乱は彪の傍に屈むと、かつて自分が開けたピアスがついた耳に軽く触れた。
「…これ、付けててくれたんだね。有難う」
「…ッ、…外す理由もありませんから」
彪がそう言ってそっぽを向く。然し、そんな言葉を返せる程身体は大丈夫そうではない。右足は不自然に曲がり、両の手首は青紫色に腫れ上がっている。
痛々しい傷跡を見ながら、緋狼の止血を施した心が白い刀を構え直した。
「救急隊はもう呼んである。〝彼等〟もだ。…さて、何分行ける?」
「俺ら両方とも長くは動けないでしょ? 持って十分位かな」
「だな、十分過ぎても立っていられたら良しとしよう」
そんな調子で喋っていた二人が、楓と相対した。
これまでとは比べ物にならない殺気に、彪も辛うじて意識のあるカナも全身を震わせる。
そして、二人が消えた。
彪が目で追えるのは、二人が楓と衝突した時だけだった。長年背中を任せ合っていたのかと錯覚する位、息が合っている。あんなに厄介だった羽根の一撃をいなして逸らし、或いは両断して捥いでいるのだ。再生しようとした瞬間に、どちらかの刃が傷をつけた箇所を執拗に狙う為、楓のリズムが崩れ始める。お互いがお互いを補う様に動き、楓の視界を攪乱させ、追撃を試みては失敗した時の読み迄完璧だ。
甲高い金属音、そして地を踏む音と、微かに。
微かに大勢の足音がし始めた。
不意に楓が、心達の後ろに居る彪達の元へ羽根を伸ばした。
それにやはり、心が反応する。
踵を返し彪達の前に出ようとした瞬間、――その羽根が急回転し、心目掛けて襲い掛かった。
二人の呼吸が乱れる。
だがそのどちらも、冷静だった。
鋭い切っ先は心の片腕を切り裂き、辺りに赤い血が零れる。
そのまま羽根は勢いを緩めず、背中を向けている乱へと伸びて行く。このままでは乱の身体が貫かれてしまう――と、心が振り向きざまに懐に隠していた小刀を放った。
乱の心臓を突く直前、それは羽根と接触し僅かに上に逸れる。
楓が標的を変えた。
乱の、頭へと。
――然し接触音を、乱は聞き逃さなかった。
地面を蹴って、何とかその場から離れる。瞬間、赤い血が吹き出した。
後数ミリずれていたら、乱の頭蓋に穴を開けていたであろう切っ先は乱の左目の下を滑って行った。
そのまま乱は心の肩を支え、後方へ飛ぶと彪に叫ぶ。
「彪君、伏せてッッ!!!!!!」
訳も分からず、呼ばれた彪は緋狼とカナの上に覆い被さる様に伏せる。その瞬間――
「斉射ッッ!!!!!!!!!!!」
弾丸の嵐が、楓の身体を襲った。
鼓膜が破れてしまったのかと思う程何も聞こえず、舞う砂嵐で息が出来なくなる。何時間も続いたのではないかと思う位の一瞬。銃撃が鳴り止めば、彪はゆっくりと顔を上げた。と、
「緋狼君……ッ!」
聞き覚えのある声が近くなる。振り返れば繋が真っ青な顔で緋狼に駆け寄って来ていた。
その後ろからは救急隊員達が担架を運んでいる姿が見える。
「緋狼君、ッカナさん……、琴継、君…、」
然し、繋は目に飛び込んできたカナや彪の状況を把握すれば、言葉を失いただただ瞳を震わせていた。当たり前だろう、以前に繋が同行していた事件のストーカーの変貌や、子供の変貌とは訳が違う。
ここまで差がつくものか、と痛む身体を見下ろしながら彪は自嘲した。
「嗚呼、…うるさかった」
――その言葉に、全員が息を呑み、そちらを見遣る。
繭だ。楓の背中から生えている羽根がすっぽりと楓を覆い隠してしまっている。弾丸の嵐を受け止め切った羽根は夥しい量の黒い血が流れているが、楓には一切届いていなかったのだろう。
確かに全弾命中した筈なのに、――誰かがそう叫んだ声が聞こえて、刹那。
「今度はこちら、お返ししますね」
楓がそう呟いた瞬間、羽根が胎動した。勢い良く広げられたそれから撃たれた弾丸全てが、建物の廊下に配備されていた機動隊員に跳ね返って来る。
危ない、――そう思った時にはもう、繋の身体を乱が引っ張り抱きしめていた。視線だけを動かせば彪の上に心が覆い被さっている。
時間にして一瞬だったが、その一瞬で全てが破壊された。
建物の柵からは血が滴り落ち、吹き出した血飛沫が雨になって楓の身体を濡らす。
「……ッ、痛すぎ……」
音が止み、乱が拘束を緩める。頭に被弾している様子はなかったが、離れた身体には三か所、血が滲んでいる箇所が見えた。弾も貫通しておらず、体内に残っているのだろう。痛みに顔を歪める乱だったが、繋の視線に気付けばへらりと笑みを浮かべた。
「…大丈夫だった? けがは、ない?」
「な、ない、ですけど、奉日本さん、血が、っ」
繋の言葉を聞けば良かった、と呟き刹那。大量の血を吐き出した。
内臓をやられてしまっているのかも知れない。自分ではどうしようもない現状に頭が追い付かない。
――この〝来襲〟レベルに、若しくはそれ以上に、夜淵の関係者は力があるかも知れない。
彩の言葉が思い起こされた。たった一撃で四方を取り囲んでいた二百余りの隊員が死んだ。ここで爆撃が起こったと言っても過言ではない惨状に、恐怖で声が出てこない。そんな繋達をただただ眺めながら、楓は最終的に緋狼に視線を移した。
「…まぁとりあえず殺しておきますか。復讐なんてくだらない」
ゆっくりと楓の足が動く。そうしてカナの身体を蹴り飛ばし、弱く息をしている緋狼の前に立ちはだかった。その背に生えた羽根が胎動する。
そして、一撃。
加えようとして、楓の身体が停止した。
「…まだやるか、…もう、いいだろう」
「ちょっとは…手加減、してよね」
羽根の刃を、心と乱が止めている。心は腹からの出血が酷く、立っているのも限界なのだろう。ふらふらと頭が揺れている様子を見て、繋は――そこから動く事が出来なかった。
央士の言葉が、今になって理解出来た。
死ぬ。このままではあの二人もやられて、緋狼君も助けられなくて、全員死んでしまう。
それだけは嫌な筈なのに、こんな肝心な時に限って身体が言う事を聞かない。恐怖に支配された身体は全く動かなくて。ナイフを握る手も、無様に力を抜いてしまう。
目の前ではもう死ぬかも知れないのに、緋狼を守りながら戦い、血を流す二人の姿が在る。
何で? お願い、もう帰ってよ。
「っ、く、そ…もう刃が通ら」
繋の傍らに、心の刀が転がって来る。はっとして視線を戻すと、丁度その時。よろけた心の身体に羽根で作った槍が突き刺さった。
「蛇牀さんっ――!!!」
と、羽根の槍を、心が掴んだ。引き抜こうとした楓の身体がぐらつく。
その隙を見逃さず、今度は乱が楓の首元に木刀を入れた。
「はぁ?! 硬過ぎなんですけど……ッ!!」
歪な音がして楓の表情が僅かに歪んだ瞬間、乱の身体が羽根に薙ぎ払われる。
建物の壁に激突した乱は、動きを止めた。それでも倒れる前に膝をついて、大きく呼吸を繰り返す。
「奉日本さん……ッ」
そうして、楓と目が合う。
殺気が全身を襲い、それだけで呼吸が上手く出来なくなって。
やられる。――そう思った瞬間。
時が止まった感覚がして、繋の視界に桜の花びらが見えた様な気がした。
誰かが、自分の中に入ってきている。
――還りなさい。
暗闇が視界を支配する。
然しそれは一瞬の事で、次の瞬間には視界が開け――そこに楓の姿はもうなかった。
嘘の様な静寂が辺りを支配する。
「……い、居ない…」
全身から力が抜け、地面にへたり込む。
正直未だに心臓が暴れ回っているし、足が自分のものじゃない感覚がして変だ。それでも、静寂を破る救急隊員の声が繋を現実に引き戻してくれる。
「……状況は? 共生者は逃亡、只今より怪我人の搬送を開始します」
「UTS後処理班に連絡。生存者の確認と、チップの破壊を最優先に」
それぞれが通信を入れる中、救急隊員は手早く緋狼と彪、乱と心をすぐさま鼎総合医療センターへと向かう救急車の中へ運んで行く。
そのさなか、繋は辺りを見回しそして気付いた。
――カナが居ない。
慌てて探しに行こうとしたものの、救急隊員に腕を掴まれ「ついてくる様に」と半ば無理矢理救急車に乗せられてしまい、繋はそのまま和倉宝蘭迄移動する事となった。
救急車の中から見えた光景は、さながらフィクションの中の世界で。
崩れた瓦礫、あちこちから滴る血。
誰かは誰かの名前を必死に呼び。
心臓マッサージを施す隊員を、誰かが止めて首を振ったり。
血に濡れたトリアージのタグを、誰かが解いたり。
落ちた刀にゴミの様に積まれた薬莢、拳銃。
そして、地面に溢れた黒い影。
あの時の感覚は一体何だったのか。
楓は何故消えてしまったのか。
気付けば辺りは真っ暗になり、本物の夜が世界を飲み込もうとしていた。
「目を覚まされましたよ」
あれから数時間後。
緋狼の手術が始まってから、終わり。個室に運ばれて尚ソファから動けずにいた繋に看護師がそう告げに来てくれたのだ。
勢い良く顔を上げると、すぐさま病室へと向かう。
そこには、――左腕を失った緋狼が横たわっていた。
「…緋狼君」
酸素マスクをした緋狼は、繋の姿を捉えるや否やその瞳から大粒の涙を零す。
「つ、繋さ…ごめ、ッ…ごめんなさい、おれ」
「……」
「分かって、たのに…ッ皆、止めて、くれて、たのに…、ちゃんと、分かって、て…っでも…ッ、ごめんなさ…ぅ、う“ッ…」
「……奉日本さんが、俺に謝罪してたよ」
「…え、?」
ずるずると鼻をすすりながら、涙で汚れた顔を繋に向ける。
「〝警告したとは言え、未成年を危ない事件に巻き込む要因を作ってしまって本当に申し訳ない〟って。…おれとか大人が居ない時に鉢合わせた時の対処法が最善策かと思って、教えてくれたんだって。でも…緋狼君の復讐に対する執着の深さを見誤ってたって」
「そんなッ! 違います、乱さんは何も悪くないですッ!! 俺が勝手に…」
「そうだ。君が勝手に突っ走った所為だ」
繋の言葉に、言い掛けた言葉が引っ込む。
彼は、静かに涙を流しながら言葉を続けた。
「…ごめん。保護者だって抜かしてた癖に、…復讐しようって言った癖に、途中で投げ出して。おれが最期まで責任を持たなきゃいけなかったのに。…元はと言えば、おれが五年前に復讐なんて持ち掛けたから…こんな事になった」
「っ、違いです!! だってあれが無かったら俺は、…っ、」
堰を切った様に、再び緋狼の瞳から涙が溢れる。
「死んでたかも……知れない、から…ッ」
それを聞けば、繋は視線を下に落とす。
表情の見えなくなった繋に、慌てて緋狼が次の言葉を紡ごうとした時。
「……ら、……でよ……」
繋が何かを呟いた。
弱弱しく、今にも消えそうな声で、然し確かに呟いた。
「…だったら、もう一人で…いかないでよ…」
「…」
「劉楓を見つけた時にどうして一言言ってくれなかったの?! 何で一人で抱え込もうとしちゃうの?! おれに嘘迄吐いて、連龍会の人に頼み込んで。……お願いだから、…ちゃんと言って。……確かに、連龍会に比べたら、頼りないかもしれない。…でも、言ってよ…」
「繋さ」
言い掛けた言葉は、繋の悲痛な叫びによって掻き消される。
「居なくなって欲しくないんだよッ!! 誰よりもおれが、そう思ってんのッ!! …大切な家族なんだから……」
そう言えば、緋狼の無くなった左腕に触れた。
繋がここまで感情を露わにする事は初めてだった。
表情を崩して泣く繋を見たのは、これが初めてだった。
「………生きてて良かった。緋狼君」
心からの言葉に、緋狼は何も言わず。
ただただ一緒になって泣いていた。
同時刻。鼎総合医療センターの病室にて。
うっすらと目を開ける。彪は自由の利かない身体になったな、と内心愚痴を漏らしながら首を回して周囲を確認した。
どうやらここは病室らしい。然も個室。
窓から漏れる光が、朝を告げていた。
と、
「彪君、お早う」
目の下にガーゼを当てた乱が病室に入って来た。一瞬、甘い香りが広がる。
その手には缶珈琲が一つ、握られていた。
何食わぬ上司の様子に、彪は開いた口が塞がらなくなる。
「……アンタ、嘘でしょ?」
確か意識が朦朧として全ては見ていなかったが、あの弾丸の雨を受け壁に吹き飛ばされていた筈だ。然も一日経っていない。目を見開いて固まる彪に、しーと唇の前で人差し指を立てた乱は声を潜める。
「病院嫌いなんだよね、このまま逃げちゃおかな。被弾箇所も割と大した事無くてさ」
「馬鹿過ぎる…絶対だめです。動かないで下さい」
彪の言葉にけらけらと笑いながらはぁい、と間延びした返事をする乱。
その様子に絶対約束守らないな、と内心吐き捨てながら彪が話を切り出した。
「…緋狼君と蛇牀組長…、後カナさんは?」
「緋狼君は腕が無くなったけど目を覚ましたよ。心は腹部の傷が酷くてまだ目を覚まさない。命に別状はないって。その人は知らない、現場に居たの?」
「……いえ、居なかったなら、良いです」
緋狼を庇っていた時に彼から流れる黒い血を、彪も確認した。
彼が夜淵側であったのならあちらで治療を受けているか、そうでなかったら誰かを頼って消えたか。いずれにせよ緋狼を救おうとしていた彼に、敵意は見つからなかった。
「あ、そう言えば」
「ん?」
「ありがとうございました、乱さん。助けてくれて」
何と無しにお礼を述べれば、乱は暫く缶珈琲を開けたままぽかんとしていたが、軈て薄く笑うと「どういたしまして」と得意げに言葉を返す。
然し直ぐにトントン、とガーゼを指で叩いて皮肉交じりに呟いた。
「まぁでも二人がかりでこのザマだからね。…やっぱ強いな、人間じゃない奴って」
「……勝てるんでしょうか。いずれ、夜淵と全面戦争になったら、人間は」
「無理じゃない?」
「は?」
神妙な空気が一転、あっけらかんと返す乱に思わず苛立ちを込めた声が漏れる。
それでも乱は笑って言った。
「勝とうとしたら負けだよ。正攻法でも勝てないなら、押し留め続けるしかない、でしょ?」
「……押し留め続けられなかったら」
「ネガティブだな~。…人間なんて幾らでも替えが利く生き物だよ。誰かが居なくなったらまた誰かが押し留めるさ。彪君でも、俺でも一緒」
「そんな馬鹿げた事…」
「も~うるさいな~。あ、彪君俺珈琲飲みたいの、ちょっとこっち来て」
本部に居る時の様に小言を漏らす彪だったが、ちょいちょいと手招きされれば顔を近付ける。
刹那、目の前まで乱の瞳が近づいた。
唇に何かが触れる感覚がして、甘いものが押しやられる。と、同時にざらついた、生暖かい感覚も口内に広がっていく。慌てて顔を離すと、悪戯が成功した子供の様な表情で乱が見ていた。
「………死んでほしいです」
「あははは!! あれ~、彪君ファーストキス?! 良かったね~、俺上手かったでしょ!! ね、気持ち良かっ」
「あ、居た~~~!! 奉日本さん!! どうして歩いているんですか!?」
「…げ、やば……」
すっかり上機嫌になっていた乱の後ろで看護婦が吠える。そうして首根っこを掴むと病室から引きずり出されていた。
呆れ顔のまま彪はその様子を眺めつつ、――そして先程迄、乱が舐めていた飴が自分の嫌いないちごみるくだと気付けば。
「……まじ最悪」
そう毒吐いて、微笑んだ。
同時刻。とある病室にて。
カナは、ベッドの上で目を覚ました。窓はカーテンが閉め切られており、外の光が一切入ってこない。
心電図モニターから、機械的な音が鳴る。心拍数の数値は記録されているがその他の数値の一切が反応していない。酸素マスクを取り外せば大きく伸びをして、抉られた筈の右腹部をさする。
そこに傷は、もうなかった。
「ねぇ、勝手に起きないでくれる?」
と、ベッドサイドから声がした。そちらを向けば、パイプ椅子に足を組んで座る白衣の人間が一人。彫刻の様に端正に整えられた顔立ちと、華奢な体躯から一見しても性別が判断出来ないその人は冷たい目線をカナに送る。
「まだ安静にしてて欲しいんだけど」
「……てんちゃんが、助けてくれたの? 傷もだけど…、あの暗闇」
てんちゃん、と呼ばれたその人は「はぁ?」とわざとらしく大きな声で威圧する様に返す。
「暗闇? 何それ俺は知らない。とりあえず劉楓が居なくなったから御前を連れ出しただけ」
「…俺の身体ここまで運んでくれたんだ、有難う」
その人の言い草にはもう慣れっこなのか、カナは微笑んで言葉を掛ける。
一方の白衣の人間は、それが面白くないのか更にくどくどと言葉を並べ立て始めた。
「別に。御前の蝙蝠がバタバタ院長室に飛んで来てうるさかったんだよ。仕方なく助けてあげた訳」
「…素直じゃないな。お礼は素直に受け取っておきなよぉ」
流石に引っかかるものがあったのか、カナが膨れた様子で呟く。
その言葉を聞くや否や、その人は「何? その態度」と勢い良く立ち上がり、カナの顎を掴んで引き寄せる。
「こちとら三徹目! 昨日も緊急オペで首が回らなかったのに、今日もなんて聞いてない! 昨日の記録も書けてない、ストレスマックスな訳!! そんな状態で受け取れる訳ないでしょ!! 何をしたらこんな大惨事になる訳?! ねぇ? あの隊員達の処置、こっちにも回って来たんですけど? 鼎が病床数クソしょぼい所為でさぁ!!」
「それが仕事なんじゃないのぉ~…んぐっ」
「…チッ」
カナの言い分に反論出来ずじまいで舌打ちをすれば掴んでいた手を乱暴に離し、病室の扉を開ける。朝の光が差し込み、その人の顔が照らし出された。
黒く長い髪はピンクのよれたリボンで結われ、赤く染まった瞳が太陽を捉える。
名札には、〝九重総合病院院長 九重天空〟と記されていた。ひらりと白衣が舞う。
「仕事だから、御前の命は助けたでしょう。お礼とか良いから、治ったらすぐ帰りなよ」
天空がそう吐き捨て出て行けば、カナはぽつんと一人残される。
そうして堪え切れず笑いが漏れた。
「本っ当に、素直じゃないんだから…」
「じゃあ、また。家の事とか学校の事は心配せずにゆっくり休むんだよ」
太陽はすっかりのぼり、時計の針が七時をさす。
繋は寝たきりの緋狼にそう告げれば、病室の扉を開ける。と、
「あっ」
目の前に学生服を身に纏った子供達が立っていた。その面々に繋は見覚えがある。
「嗚呼、オカルト研究部の…緋狼君なら起きてるよ。どうぞ」
「ど、どうも…」
紺色の髪をポニーテールにした少女が、訝し気に繋を見ながらも頭を下げて入室する。そのままその少女に続いて残りの子供達も入って行けば、緋狼のベッドを囲んで口々に言葉を掛けていた。その様子を微笑ましく眺めながら、繋は廊下に出る。
すると、ずっとそこで待っていたのだろうか。緋狼の病室の前で腕を組んでいた男性が、出てきた繋に向けて口を開いた。
「劉緋狼君だっけ。…再建は出来なかったか、左腕」
黒髪に桃色の瞳、心と良く似た顔立ちだが痛々しい火傷の跡が右目に残されている。蛇牀静――駒田交番勤務の彼は、スーツを着てそこに立っていた。
一瞬警戒の表情を浮かべたが、繋は彩から聞かされた情報を思い出し静に歩み寄る。
「蛇牀静さんだっけ。御噂はかねがね」
「静で良い。心と混ざるだろ。…まぁ命があって何よりだ、間に合って本当に良かったよ」
「…うん、ええと、何か用? おれ学校に連絡入れとかなきゃで…」
繋が徐にスマートフォンを取り出した。
それを察した静が何かを言うより先に、ベンチにだらしなく座っていた青年が立ち上がり繋に近づく。
「ほ~~んと、命があって何よりですよねぇ、超ラッキー!!」
咄嗟の事に静も繋も、反応出来ない。
と言うより、繋は彼の顔を見て固まってしまっていた。
自分と同じ淡紅色の瞳。
そして左目には薄く桜の花が浮かんでいる。
明るい紫色の髪の、人を小馬鹿にした様な笑みを浮かべる彼は、硬直している繋を気にも留めずにこやかな表情を崩さぬまま喋り続ける。
「ただの一般人が夜淵と相対して、左腕だけで済むって相当運が無いと出来っこないですよぉ。あ、もしかして親戚だから見逃して貰えたんですかね? 仲良しじゃないですかぁ!! い~なぁ、じゃあもっかい突撃しても生き延びられるんでしょうかね! あはは、試してみたくないです?」
「……誰、アンタ」
へらへらと笑いながら彼はポケットから警察手帳を取り出すと、わざとらしく敬礼してみせた。
「警視庁刑事部捜査一課巡査、萬代莎朗って言いま~~す。あ、UTS で~す」
「……アンタが、刑事?」
信じられないと言う風に莎朗を睨み付ける繋に、静が困った様な表情を浮かべて必死にフォローをする。
「…悪い奴じゃないんだ。ただちょっと言葉が選べない奴なだけで…」
「言葉は選んで煽ってますよ? 何言ってるんですか?」
が、そのフォローは莎朗自身によって粉々に砕かれた。
一気に繋の表情が冷ややかなものになる。
「…まぁ良いや。萬代さん、取り合えず黙っててくれない? おれアンタの事嫌いになりそう」
「同族嫌悪ですか? 分かりますぅ~! 俺もアンタの事苦手ですもん、案外似てますよね俺たぅ“ッ!!」
廊下の空気が氷点下に迄落ち込む。これ以上莎朗が何か言えば一触即発の空気――だったのだが、すかさず静が莎朗の鳩尾を殴りつけてそれを制した。
蹲った莎朗にヘッドロックをかましながら静が言う。
「悪いな、後で殺しとくから…。俺達はちゃんと用事があって来たんだよ」
「……静君だけで良かったのに、来るの。…で、用事って?」
酷い! と、文句を垂れ流す莎朗の首をさらにきつく締めあげる静。
然し次の言葉を紡ぎその腕が解放されれば、静も莎朗もその表情にこれまでの緩やかな雰囲気は微塵も残されていなかった。
何時だったろうか。、あれは確か赤子の事件。
繋が初めて玖泉の一端を知り、劉楓が夜淵の関係者であると知ったあの日。
あの日も確か、この事件が序章にすらならなかったのだと思い知った。
然し、それとは訳が違う。
これは、団地の中で済む問題とはとうにかけ離れていた事を。
これは、世界を巻き込んだ絶望的な問題である事を。
「玖泉、そして夜淵。…俺達が知ってる事を御前に教える。まず、聞いて欲しい」
「現時点の全世界人口、八十億五千万の内、約三割は既に〝玖泉服用者である〟と初めに理解していて欲しい」
赤い。
鼻につく嫌な臭いがする。肺に入った空気が埃っぽい。瞼を上げれば、その床は見覚えのある古いフローリングが広がっていて。
緋狼は慌てて身体を起こし、周りを見回した。
壁も床も、家具も、何一つ変わらない。あの日のままのあの家がまた燃えている。
呼吸が出来ない。炎の熱さに汗が止まらない。皮膚がピリピリと痛む感覚が軈て全身を支配していく。となれば、居る筈だ。首を回して炎の中を丁寧に探し出す。
「……か、母さんッ!?」
然し居ない。
おかしい、本当ならば自分は母親に抱き込まれて炎の中に居た筈だ。居ない? 何故? ばきばきと天井から嫌な音が聞こえる。軋む木材の音が近くなる。
早く逃げなければ、そう思い立ち上がった瞬間。
上から崩れた木材と共に、天井が一気に落ちて来た。
「――………っっ!? ……はぁ、っ……」
慌てて起き上がる。スマホの電源ボタンを押せば、時刻は午前二時を示していた。
全身から汗が止まらない。緋狼は周りを見回して、ここが繋と一緒に住んでいる家だと言う事をしっかりと確認すれば、漸く大きく息を吐いた。
見なくなったと思っていた過去の夢。然し最近また炎の中で目覚める事が多くなっている気がする。緋狼には心当たりがあった。
――二か月前に見た劉楓の所為だ。
彼は緋狼とは従兄弟の関係だ。最も彼の方は緋狼の存在など知らないだろうが。緋狼の父親は彼に殺され、そして母親はその所為で追い詰められて――緋狼と無理心中を図り、全身大火傷を負い今も集中治療室で眠り続けている。
この二か月、見掛けた駒田区で聞き込みや捜索を続けているがあれ以来一度も出会っていない。もう二度と会えないかも知れない。それだけは何とか避けたかった。
必ずもう一度探し出して。
緋狼はスマートフォンをサイドテーブルに置いて、――そこに一緒に置かれているポケットナイフを見遣れば、強く唇を噛み締めた。
――必ず、殺してやる。
三月中旬。未だに玖都では肌寒い朝が続き、団地の廊下は凍結が続いている。
そんな中うっすらと雪化粧を施した連龍会本部の、代理の部屋を訪れる影が二つ。彪と乱だ。
「……以上が本件の大まかな流れです。…夜淵関係者である皆瀬弥汐を捕まえる事が出来ず、無関係の人の命まで奪ってしまい…」
「構わん」
暗い調子で話し続ける彪の言葉を簡潔に切り、化野祈愛はふと報告書の紙束から顔を上げる。
「…織川月姫は、変貌しなかったそうだな」
「え? 嗚呼…はい。何故かは分かりません。皆瀬弥汐も驚いていた様子で…」
それを聞けば祈愛は、ふんと鼻を鳴らした。神妙な面持ちでこれまでの玖泉に関する資料を手に取る。
「成程。…とすれば…。御前達が見たのは〝黒い液体が入った注射器〟で間違いないか?」
「…はい。恐らく玖泉を液状化したものなのかなと」
「…ふむ。そう言えば液体と固体の話でこう言うものがある。液体の糖質は固体より早く胃に到達し、血糖値の急上昇を促す効果がある、と。…もし、玖泉にも液体と固体の違いがあり、液体の方が早く寄生が進んで変貌個体になる可能性が高いのだとしたら?」
「え…、でもそんな事、可能なんでしょうか?」
祈愛は何も言わずに、ちらりと乱の方を見る。
乱は授業中、突然先生に当てられた子供の様にまばたきを繰り返したが、すらすらと解答を述べ始めた。
「以前起きた佐山直樹君の事件。あれは佐山直樹君の遺体に誰かが注射器で〝恐らく玖泉の様なもの〟を入れていました。そうして佐山直樹君は変貌…、した。まだ事例が少ない為未確定ですが、液体の玖泉にはいち早く変貌個体にさせる効果がある、または神の力なる、種の濃度が高いものなのかと」
「だから、驚いたんだろう。ほぼほぼ変貌する筈の液体を用いているのに、変貌しないのは何事だ…と。つまり液体の玖泉を摂取させられても、服用者と同じになる――共生する可能性があると言う事が判明した訳だな」
祈愛の言葉に彪は何も言えず、ただ飲み込み理解するのがやっとだった。
然し、胸の内に微かに湧いた疑問に冷汗が伝い落ちる。
「何にせよ、奇跡の様な確率で彼女が玖泉を取り込める身体だった事は分かった。他に何人、それに当てはまるのかは知らんが…収穫と言えよう」
「……」
「琴継、……御前が気になっている事を当ててやろうか」
「え」
弾かれる様に視線を上げれば、祈愛の鋭い視線とかち合う。
「若し皆瀬弥汐の暴力や発砲が無ければ、共生して生き永らえたのではないのか? と…考えているな」
「…っ」
「簡潔に述べるなら、無理だ」
「……あ」
「生き永らえようが、あちら側になった時点で彼女は我々や国の管理下に置かれる事になる。自ら申告しサナトリウムで生きている服用者や致命傷を負った者達と同じ様に。変貌しない様研究被検体としての生活を強いられ、もう二度と自由な生活は送れなくなるだろうな」
儚い希望は砕かれた。彪自身、たらればを考えた所で全て無駄だと言う事は分かっていたが、改めて言葉にされればショックを隠し切れず表情が歪む。その様子を見ながら尚も追い打ちをかける様に、祈愛は言葉を投げ掛けた。
「琴継。玖泉が体内に共生し生き永らえた所で、それは本当に、……〝人間〟だろうか?」
沈黙。彪が何も言わない事を確認すれば祈愛は一言「私はそうは思わない」とだけ言い、目の前の書類を片付け始めた。此処に居ては代理の邪魔になる、彪は乱と共に退室するしかなく。
元来た本部の廊下を歩きながら、彪の前を行く乱がぽつぽつと言葉を零し始めた。
「代理もあれで心配してんだよ。彪君が変な事を考えない様に、ってさ」
「…分かってます」
「分かってないから代理に気を遣わせたんでしょ~。兎に角今後の仕事に支障が出るなら休みなよ。仕事は俺が引き受けるからさぁ」
「分かってますって!!」
だん、と力強く何かがぶつかる音がした。乱は驚く素振りを一切見せず溜息を吐けば、振り返って呆れた様に笑った。
「…分かってるなら、何で泣いてるのさ」
「……っ、うるせぇ」
ぐずぐずと鼻をすすり、柱に拳を打ち付けていた彪に乱は近寄り、そっと目尻の涙を指で掬う。
あの時、恐らく自分が無茶をすれば、玖泉を打たれる前に彼女を助け出せたかも知れないと乱自身今でも後悔している。実際、月姫が暴力に蹂躙されていた時、任務を忘れ突撃しそうになってしまった事は事実だ。
けれど自分達は極道の人間だ。――この玖都を守る自警団としての認識はありつつも、決して正義のヒーローとは言えない。
街の秩序を守り、市民を守る使命は確かに負わされている。乱自身が連龍会に入る時、祈愛からそう伝えられた。――そして、〝状況、力量、感情を見誤るな〟とも。
あの時、皆瀬弥汐の後ろには未知数の力を持つ恐らく〝変貌個体〟がいた。それは地下を移動できる性質を持ち、壁を簡単に突き破ってしまえる程の力を持っていたと推測される。この時点で自分と彪で何とか対処出来るレベルだ。
然し、皆瀬弥汐も服用者だったら? 服用者と変貌個体を一度に相手をした事ない乱にとって、どんな攻撃を繰り出されるかも分からない。そしてもし、あそこで彪も人質に取られてしまったら?
救急隊や警察が来るタイミングで、もし攫われてしまったら? 殺されてしまったら?
――同じ様に、玖泉を注入されていたら。
(命が有り余るくらいあれば、二人共救えたのにな)
そんな馬鹿げた考えが頭を過ぎり、そして消える。
暫くは廊下に座り込み涙を流し続けていた彪だったが、漸く落ち着き気恥ずかしさが沸いてきたのか「部屋で休みます」と早々に告げ、わき目もふらず本部を後にした。
「…可愛いねぇ」
その背を見守りつつぽつりと呟く。と、彪が玄関前で誰かに会釈をした。気になって見続けていれば、入れ替わりに心が本部へと戻って来る。何時ものスーツではなく普段着だ。
「…あれ? 何出かけてたの?」
「嗚呼、最近刃毀れが酷くて…買い換えて来たんだ」
心は大きなホームセンターの袋を持ち上げた。中を覗けば肥料だの剪定鋏だのが入っている。
嗚呼そう言えば、心にはそう言う趣味があった。
「梅の植え替え時だ。四月からはアブラムシが付く可能性があるからな…しっかりと肥料を与える為の準備だ」
「へ、へぇ…」
「へぇ、じゃない。御前の所の敷地、目についたが酷過ぎるだろう。大体抗争で持ち帰って来たゴミはちゃんと始末白しろ。誉さんが猫がゴミ咥えてきちゃったと泣いてたぞ」
「嗚呼、はいはいすいませんね…」
心が真顔で乱に詰め寄るものの、右耳から左耳へ話が流れて行ってしまっている事は明白だった様で、彼は溜息を吐いて怒るのを辞めた。
本部の庭や蛇牀組の敷地内の樹木は全て心が整えている。時には敷地の奥、森に通じる竹の伐採も彼が一人で行っている様だ。業者に頼めばいい、と以前話したが「あそこにはかなりの数の猫が居るから、部外者が入ると吃驚してしまう」と言う心の一貫した答えに乱は黙るしかなかった。
「猫が食べたらどうするんだ。悪臭だって広がるし、ここは御前だけの家じゃないんだぞ」
「も~明日から彪君ちゃんと戻って来るからやる! やるよ! そんなぶちぶち言わないでくんない?」
「ぶちぶちって…御前は前から汚部屋作りの天才で…琴継君が就職してくれなかったら奉日本組はどうなっていたか…」
「ジジイの趣味持ってる奴は流石説教もジジイ並みに長いねぇ~!!」
乱が痺れを切らして放った一言が心の鼓膜に届いたその瞬間。
乱の目のすぐ脇を何かが飛んで行った。
それは本部の玄関の壁に突き刺さる。
――錐だ。恐らく今日心が買ってきたものの一つ。
恐る恐る心の方を見遣ればもう我慢出来ないと言う風に眉間に皺を寄せ、冷酷な瞳を乱へと向けていた。
「…馬鹿にしたな。…馬鹿にしたんだな? 俺だけならまだ良いが、俺の祖父の事も。これは環境を整える為に必要不可欠な、祖父から教えて貰った誇りある大切な趣味だ。それを…ジジイの趣味だと?」
「え? 否、別に心のじいちゃんを笑った訳じゃないし、てか趣味を馬鹿にした訳じゃ……」
「命で償ってもらう」
「は!?」
ホームセンターの袋を置き、いつの間にやら真剣に手を掛ける心。一体何処にそんなものを持っていたのか、気づけば本気の構えを見せている。乱が制止の言葉を掛けるより先に、心が地を蹴った。
その時。
「あ、あの!!!」
心の後ろから、声がした。
乱の首を撥ね飛ばさんとする刃は、寸での所で拳銃の銃身で受け止められ、甲高い金属音が辺りに響く。
振り返った先には緋狼が居た。
「…あ、あれ? 緋狼君? 何で君がここに?」
「……」
乱が刀を押し返しながら必死に心に目でアピールすれば、彼は深く溜息を吐いて緋狼の方を振り返る。その表情は何時もと変わらない、笑みを浮かべていた。
怒りが収まった訳ではなさそうだが、乱はホッと胸を撫で下ろす。
「初音さんの仕事の手伝いか? 何か協力できる事があるだろうか。兎に角、上がって……」
「あの」
心の言葉を喰う様に、緋狼が何かを差し出す。それは鈍く光るポケットナイフだ。二人共言葉を失い、――そして、それが〝異常事態〟である事を察知する。
何処の世界に、ヤクザにポケットナイフを見せる高校生がいるだろうか。
「……俺に、人の殺し方を、教えて下さい」
――何処の世界に、人の殺し方をヤクザに問う高校生がいるだろうか。
心が乱を見る。乱は首を振って応えた。〝良くない事が起こっている〟、緋狼の瞳は本気だった。
「……分かった。兎に角上がって話を聞こう」
心が優しく、差し出されたポケットナイフを持つ手を包み込む様に握り、降ろさせる。緋狼は「分かりました」とだけ言い、ナイフをしまえば大人しく二人の後ろについてきた。
蛇牀組の敷地内に入り、会議室として使っている部屋へと案内する。そうして、時折言葉を詰まらせながら、緋狼が事の経緯を話し出した。
「…つまり、御両親の仇である劉楓を見つけたから確実に殺せる方法を教えて欲しい、って事ね」
内容は、無茶にも程がある願いだった。
乱も心もどうしたものかと視線を彷徨わせ、頭を搔く。そうして乱が下手に刺激しない様に答えを返す。
「…えと、多分ね。劉楓ってやっぱり服用者とかだったりするだろうし、俺らよりも強いと思うんだ。だから、その方法を教えてる間に遠くに行っちゃったりするかも。…何処で見たの? 教えて欲しいんだけど」
「……教えたら、連龍会の方達で殺してしまうんですか? だったら教えません。…と言うか」
緋狼の目が光る。
「何故、劉楓を知っているんですか?」
「……あ」
乱が素の声を溢す。心は横で頭を抱えた。
以前喫茶店で繋に話した事をてっきり共有されているのかと思い、油断して口を滑らせてしまった。然しこうなってはもう遅い。乱は心の中で舌打ちをして繋に教えた玖泉の事、そして教団の事を話した。
話した上で、彼の意思は固かった。
……先程の彪の目よりも、余程狂気に満ちている。
「……緋狼君。君は、復讐を遂げて、どうするつもりなんだろうか」
と、これまで一切口を出して来なかった心が問い掛けた。緋狼は少し悩んで開いた口を閉じ、また開いては閉じを繰り返し、最終的には「分かりません」とだけ呟いた。
「ふむ…、じゃあ君が、もし復讐出来たとしよう。団地外で見掛けたんだったな。ではそこで彼を殺して復讐が終わった。……君に残るものは何だ? 迫り来るのは警察だ。情状酌量の余地はあるだろうが、刑事処分に相当すると判断されれば無期刑にだってなる。少年院で済めば良いが、…その後君の母親はまたレッテルに苦しめられる事になるぞ。」
「っ」
「身体が治ったって、病院の外はもう二度と歩けないかも知れなくなる。それより、罪の意識に苛まれてまた自らの命を手放そうとしてしまうかも知れない。今度は君が、母親の心に本当に深い傷を遺すんだ」
「……」
「……良く良く、考えて欲しい。……まだ未来あるその手を、汚さないでくれ」
レッテル。
緋狼の脳内に嫌な記憶が甦る。
緋狼の両親は、緋狼が産まれた時にはもう大郷に居た。物心ついてから両親は何時も周りを気にしていた事、引越しを頻繁に行っていた事を知り、然しそれが普通の事なのだとこの時は疑いもしなかった。
そして緋狼が八歳の時、父親が行方不明となる。
唯一の稼ぎ頭であった父親が居なくなり、母親はパートに出る事になった。父親の捜索、スーパーでの仕事、緋狼の世話と彼女は一人で全てを引き受けたのだ。
頼れる人間は居なかったと思う。元々親戚等には会った事がなく、仲の良い大郷人も緋狼が知る限りでは居なかった。
その一年後の事だ、緋狼が学校から帰って来た時アパートのポストに何かが投函されているのを発見した。重くて固い何かが茶封筒の中に入っている。
母親と共に開いて見ればそれは一本のビデオテープだった。
少し黄ばんだラベルには華國語が書かれていたが、産まれた時から大郷に親しんできた緋狼には読めなかった。けれど、母親がそれを見て顔を青ざめさせていた事だけは覚えている。
ビデオテープの内容は…今でも鮮明に覚えている。木製の椅子に拘束された父親の両脇に男が二人。何かを判別出来ない言葉で叫んで、用意していたありとあらゆる道具で父親を傷つけ始めた。母親がテレビの画面を叩いてもうやめて、と何度も叫んでいる。緋狼は目を背ける事も出来ず、そんな母親を支える事も出来ず、逃げる事も出来ず。
結局その拷問は父親の心臓が動かなくなるまで、父親の叫び声が聞こえなくなるまで止まる事は無かった。
それから一か月後、警察の捜索により発見された父親の遺体は見るに堪えないものだった。これだけ傷つけられているのだから若しかしたら違う遺体かもしれない。DNA 鑑定で一致の報告が出るまでは、二人共そう願っていた。
小さな葬式の後、父親の骨を持ち帰る。箸で掬った発泡スチロールみたいなあれが、父親だったとは信じられない。骨壺と父親の遺影を交互に見ながら、緋狼は心のどこかで父親が戻って来る事を期待し続けた。
然し、悪意は続く。
アパートの住民達がにわかに騒ぎ出したのだ。元より華國から大郷に移り住み、引越しを頻繁に行っていた家族だ。近所の人とも必要以上に接して来なかった為、「もしかしてあの家族は何か犯罪を犯して、復讐にあったのではないか?」と勘繰る住民が増えて行った。
更にニュースでも報道された為、アパートの周りには連日マスコミが張り込みをしており緋狼が学校に行く時にも容赦なくカメラとマイクを向けて取り囲んだのだ。当時の緋狼からしたら、大人は恐怖の対象だった。好奇の目、笑う声…その全てが自分に向けられていて、逃れる事は出来なかった。
湾曲した情報は拡散され、そうしてまた新しい噂が流れる。
毎夜鳴り響く無言電話、〝犯罪者〟〝出て行け〟と描き殴られた貼り紙が部屋の扉に広がっていた。たまにベランダのガラスが石で割られた事もあった。
その全てが、根も葉も無い噂に踊らされた人達の間違った正義感からの行動だった。
そんな生活が三年も続いたある冬の事。
何時もの様に緋狼が家の扉を開けると、ガソリンの匂いが広がった。思わず口元を覆う。靴を脱いで床に足を乗せれば、何やら湿った感覚が緋狼を襲った。よくよく見れば、フローリングが何かコーティングされている。後からあれはガソリンがぶちまけられていたと分かったが、その時は気が動転していてそれどころではなかったのかも知れない。
「…母さん?」
呼びかけても返事はない。リビングへ行けば母親はソファに一人座っていた。もう一度呼びかければ、ゆっくりと緋狼の方を振り向く、そして。生気を失った瞳を揺らし、濡れた両手を伸ばして緋狼を抱きしめた。
「母さ」
「緋狼、もう良いの」
視界が母によって塞がれる。母親からはガソリンの匂いしかしなかった。
かち、と何かの金属音が後ろで鳴る。
分からない、母親が何をしているのか分からなかった。
軈て母親はすっぽりと緋狼に覆い被さる様に抱き締めると、――持っていたライターを手放した。
全てがスローモーションに見えた気がした。部屋中に撒き散らされたガソリンを伝って赤い炎が燃え上がる。一瞬にして部屋の温度が上昇していく。
鼻につく嫌な臭いがする。肺に入った空気が埃っぽい。呼吸が出来ない。炎の熱さに汗が止まらない。皮膚がピリピリと痛む感覚が軈て全身を支配していく。
ばきばきと天井から嫌な音が聞こえる。軋む木材の音が近くなる。
早く逃げなければ、そう思い身を捩った瞬間。
上から崩れた木材と共に、天井が一気に落ちて来た。
「緋狼君」
はっと我に返る。顔を上げれば心配そうな表情の乱と心が身を乗り出していた。
「大丈夫か? …凄い汗だ」
「あ、だ、大丈夫です…。すいません」
心がすかさずハンカチを差し出す。躊躇いながらも受け取って汗を拭えば、真夏の炎天下に居たのではないか、と思う程の汗が滴り落ちていたのに漸く気付いた。
その様子を見て、先程迄話を聞いていただけだった乱が唐突に口を開く。
「…まぁ、でも、自分の手で復讐はしたいよね。その気持ちは分かるよ、復讐心だけで生きて来た人間に、今更ヤメロなんて言っても聞く耳は持たないか」
「…おい、乱。やめろ」
「標的が夜淵関係なかったら、俺だってこんなに悩まないよ。勝手にしなって感じ。でも相手は劉楓、正真正銘化物だ」
「乱」
心が立ち上がろうとする乱の肩を抑える。どうしたって緋狼の気持ちは変わらないのだろう、それでも彼を肯定する訳にはいかなかった。
「相手は化物だ。一撃で殺されるかも知れない。復讐なんてするもんじゃない」
「……」
「…、緋狼君来て」
心の訴えに、緋狼は答えなかった。これが答えだと言わんばかりに乱は心の腕を振り払い立ち上がれば、緋狼の腕を引っ張って部屋から中庭へと出る。
ここはたまに組員達が手合せをしている場所だ。草木は少なく、広く拓けている。そんな中庭の隅っこの方に立て掛けてある木刀を一つ掴めば、緋狼の方へと投げ渡した。
「劉楓は化物。これは恐らく、事実。心がやめさせようとして言ってる嘘ではない事、分かるね?」
「…はい」
「俺達だって相手に出来ないかも知れない。それ位、怖い存在なんだよ〝夜淵〟ってのは」
「……分かっています」
「…はぁ~~、もう頑固だねぇ。無駄死にしたいの? 君はまだ何も知らないガキだろ、劉楓の実力は愚か、俺達の力も知らない」
風が止んだ。陽の光が分厚い雲に隠れる。
徐々に、柔らかかった乱の声が低くなっていく。
「君は繋君にも勝てない。透君にも。そんな力で、覚悟だけ持ったって殺されるだけ。俺らも暇じゃないんだよなぁ、ただ団地で貢献してくれてる繋君の〝お気に入り〟だから話を聞いただけで」
「…それは、すいません」
「身の程を弁えた方が良いよ、ね」
ドスの利いた声が、緋狼に襲い掛かる。心臓を握り潰されそうな感覚に追い込まれ、恐怖で立っていられなくなってしまう。震える足を何とか支えるので精一杯だ。
この様な状況に立たされても、それでも「辞めます」と宣言しない緋狼を見て、乱は大きく溜息を吐いた。これはもう言っても無駄だ、と言わんばかりに心の方へ手を差し出す。
「心、刀貸して」
「は? 御前いい加減に…」
「良いから」
言い終わらない内に乱が強い語気で心を制した。こうなってしまえば彼のお節介は止まらない。心は呆れた表情を浮かべながら、自らの刀を乱に向けて放った。
それを受け取れば、彼が笑う。
「…身の程も弁えない、逃げる事も出来なくて完全に追い込まれてる君に、一つ。提案してあげよう」
「…提案?」
「俺の太刀筋を一つでも読めたら、俺は君の復讐に協力しよう。…それで良いね?」
現連龍会直参組長の太刀筋を。
幾度となく変貌個体にも、恐らく服用者とも相対してきた彼の太刀筋を読む。
馬鹿げた提案だと、正気の人間なら思っただろう。けれど、緋狼には選択している余裕はなかった。ただ目の前の〝この人と渡り合えたらもしかしたら〟と言う気持ちが、すっかり恐怖心を失くさせていた。
「……、わ、分かりました……ッ、!」
緋狼が力強く答えたその瞬間、空気が一瞬にして変わる。
余りの息苦しさに、肺が詰まって窒息してしまいそうだ。
乱の纏う殺気が本物である、と嫌でも感じ取れる。お遊びではない、だって彼の持っている刀は人を斬れるのだから。
ゆっくりと刀身を抜き左手一本で刀を構える乱。
緊張が走る。
汗が、落ちた。
「い、一体何をすればこんな事になるんですか……」
化野団地波棟、弐〇陸号室。緋狼は凪の部屋に居た。
あれからみっちり四時間弱。〝奉日本乱の太刀筋を避ける〟ゲームをし続けた緋狼だったが初日で上手く行くはずもなく。ずっと寸での所で止められ峰打ちを喰らわされると言う、どうしようもない結果に終わってしまった。
避ける際についた切り傷や擦り傷、打撲痕を繋に見られたらまずい、と言う事で凪の家に訪問。手当をして貰う事にしたのだった。
「ちょ、ちょっと…乱さんと遊んでて…」
「や、ヤクザと遊ん…っ?!」
凪は口を大きく開けて呆然としていた。
それはそうだ。ただの高校生がヤクザの組長と打ち合いなんて、異様過ぎる。愛想笑いで誤魔化すものの、凪はそれでも心配そうに見つめていた。
「…はい、終わりましたよ」
「ありがとうございます、…すみませんいきなり押しかけてしまって」
軈て手早く包帯を巻き終わると救急箱を片付けて、キッチンへと向かいながら凪が何の気なしに口を開いた。
「大丈夫ですよ。でも、危ない事したら繋さんに怒られちゃいますからね?」
繋さん。その名前を聞けば、緋狼の表情があからさまに曇る。オレンジジュースを運んできた凪は緋狼の顔を見ると少し息を呑み、遠慮がちに問いかけた。
「…喧嘩でもしたんですか? 緋狼君が無茶するなんて、結構珍しいですよね」
「そういう、訳では」
差し出されたジュース受け取ればお礼を述べ、一口。そして無意識に溜息が零れた。 その様子を凪はただ黙って見ている事しか出来ない。緋狼は軈て困った表情を浮かべている彼を見据えると、一つの疑問を投げ掛けた。
「…宮津さんは、相手が若し自分よりも強い人で、でも絶対に復讐したい人間だったら、復讐しますか」
――凪の手が止まった。そうして身体が小刻みに震え始める。
緋狼は凪の過去を知っている訳では無いが、それでもその反応や団地に住み続ける様子から何か訳アリなのだろうと理解はしていた。
「……分かり、ません。俺があの人に、復讐なんて考えた事無いから」
「…ですよね、すみません。変な事を」
「でも」
自分と同じ意見を求めていた訳ではない。そう思い視線を外そうとした時、凪の手が力強く握り込まれたのが分かった。
「……お母さんや、兄貴に、謝って欲しいとはずっと思ってる」
重たい言葉。空を睨む凪に、何時もの様な柔らかい雰囲気は何処にも見当たらない。思わず唾を呑む。凪の瞳が緋狼を捉えれば、もうそこには先程の様な冷たい色はなく、何時も通りの暖かな眼差しが在った。
「あは、すいません。何か、こんな話」
「嗚呼、いえ。…有難うございます、答えて下さって」
お礼を言って部屋を出る。団地の外は薄暗い。少しだけアスファルトのにおいがきつくなっている気がする。雨が降るのならば早く帰らなければいけない。
と、
「緋狼君」
低い声。階段を下り終わったその先の拓けたスペースに、仁王立ちで待っていたのは繋だった。その目にはゆらゆらと怒りが籠っている。
恐らくは乱か心が連絡したのか、はたまた尾行していたのか。
「…大丈夫。あの二人からは聞いてないよ。おれが勝手に盗聴してただけ」
「ッえ」
「そんな事よりも」
繋が一歩、緋狼の方へと歩み寄る。それだけで、緋狼の足は動かなくなってしまう。
「…何で黙ってたの? 部活が忙しいなんて嘘。オカルト研究部の副部長にも聞いたけどそっちには〝探偵助手の仕事が忙しいから部活に顔出せない〟って言ったんだって? …劉楓を見掛けたから、一人で追ってたんだ」
「…それは、」
「おまけに、奉日本さんや蛇牀さんまで巻き込んで…分かるけど、どうして一言言ってくれなかったの」
繋の問い掛けに、緋狼は口を開く様子はない。
痺れを切らした繋がわざとらしく溜息を吐いて、首を振る。
「まぁ良いや。…それより、もう絶対一人で行動しない事。…劉楓の事はおれとか連龍会に任せて」
「……嫌です」
繋の言葉を、緋狼が切った。
何かの間違いかと思い繋が尚口を開こうとした時、先に緋狼が動いた。
「…アイツが玖泉をばら撒いてる夜淵って言う教団のメンバーだって事」
「……」
「今日乱さんに聞きました。…だから、最近俺に事件に関わらせない様にしてたんですか? 引き受ける依頼が〝玖泉〟と関係があれば必然的に劉楓に近づくから」
「…緋狼君、良く聞いて」
制止する様に手を伸ばす。然し緋狼の言葉は止まらない。
「…あの時、一緒に復讐手伝ってあげるって言ってくれたからここまで生きて来れたんです。… 父さんが殺されたのはアイツが勝手に何処かの華國の研究所の人間を皆殺しにしたから。その復讐が劉家に向いて…父さんが犠牲になった。母さんはそれでも頑張って俺を育ててくれた。なのに、アイツの所為である事ない事、噂されて今ッ、………今ッ!! ずっと眠り続けてる!! 五年!! 耐えたんですっ、やっと見つけたのに…ッ、どうして自分の手で殺しちゃダメなんですか!?」
緋狼の言葉の重みが、繋に襲い掛かる。
それを全て受け止めて、それでも繋は首を振った。
「落ち着いて、色々事情が変わったんだ。…まさか劉楓が夜淵の関係者だったとは思わなかったし、おれだって聞かされてなかった。知ったのはつい最近なんだよ。…奴等は、人を殺す事に躊躇しない。……本当に殺されるかも知れないんだ。何時かお母さんが目覚めて、緋狼君が死んだって知ったら、お母さんはどうなるんだ」
「今はアイツを殺す事だけしか考えられないんですッッ!! それに、母さんは父さんの仇を取ったら、絶対喜んでくれる…俺があの炎の中、生き残った意味は復讐だから!!!」
繋に、ナイフを向ける。
「緋狼君、待って…」
繋の言葉が途切れる、彼を見つめるその瞳には復讐の炎が揺らめいていた。
地面に、雨粒が落ちる。
「怖じ気づいたんでしょう。…一般人には太刀打ち出来ない力を持っているって仰ってましたもんね」
「緋狼く…、っ」
「でも俺はやります、誰に何と言われようが、絶対、その為なら、死んでも」
「いい加減にしてよ!!」
緋狼に詰め寄った繋が、彼の胸倉を掴んで壁に押し付ける。
ポケットナイフが、地面に落ちた。
「その為なら、死んでも良い? 何言ってんの?! どれだけの人間が君に力を貸して、どれだけの人間が君を生かしてきたと思う!! 君が知らないだけで沢山の人間が君と、君の母親を救ったんだ!! その命を無碍にする事は、おれが赦さないッッ!!!」
「じゃあこのまま連龍会に任せたら良いんですか?! 警察に任せたら良いんですか?! 正規の方法で裁かれても、父さんを直接殺した訳じゃないし研究所の事件だって華國だし、…きっともう証拠なんてないッ!! 死刑になるかも分からない…ッ!! アイツは確実に、…確実に〝人を殺した〟のにッッッ!!!!!」
強い力で繋を突き飛ばす。手すりに身体をぶつけた繋が苦悶の表情を浮かべた。――雪平全にやられた怪我が痛み出す。緋狼は手を伸ばし掛けたが止め、繋に背を向けた。
「…帰りません。もう、放っておいてください」
そう言って、雨の中を駆け出す。慌てて起き上がろうとしたが身体に力が入らない。
病院側に無理を言って入院期間を短くしてもらった為、まだ傷が癒えていなかったのだ。容赦なく雨粒が繋を濡らして行く。軈てすべてを諦めた様に細く息を吐くと。
「…勝手に、しろよもう…」
震える声で独り言ちた。
「………で、ここに、来たのか…」
連龍会本部。祈愛は玄関に佇むずぶ濡れの緋狼を見てそう呟いた。
急ぎの用事から帰宅し、次の会合の待ち合わせ場所へ移動しようと大門を開ければ、その傍に捨てられた子犬の様に濡れそぼった緋狼を発見したのだ。
流石にこのままにしておく訳には行かない。玄関迄避難させ、何故こんな事になっているのかを聞いてみれば…――口喧嘩したカップルか、とぼやきたくもなった。
「…今日、本部に留まる者は居るか?」
タオルを持って来た心にそう問いかければ、心は少し考えて「俺が残りますよ」と提案した。龍星も志も雨月も、今日は揃って別件の対応中だ。奉日本組も総出で夜淵の子組織の始末に当たっている。
「…分かった。今日だけだ、監視しておいてくれ」
「監視と言う言い方は…、まぁ分かりました。代理、お気をつけて」
祈愛は緋狼を一瞥すると、さっさと車へと乗り込んでしまった。二人ぽつんと残される。心は苦笑いを浮かべ持って来たタオルを緋狼の頭にかけて優しく拭きながら、「すまない、代理も気に掛けているんだよ」とフォローの言葉を続けた。
「じゃあ、俺の部屋にでも来てくれ。まずは風呂に入ろう。風邪を引いてしまうからな」
「……すいません」
敷地内の風呂は簡素な作りであったが、風情があって広々としていた。浴槽の傍の大きな窓からは光り輝く満月が見える。団地内に居る時は全く見えない、見えてもこんなに綺麗に映らない光が緋狼の心を落ち着かせてくれた。
傷が染みる。――そんな事をぼんやりと考えられる様になりながら緋狼は湯船に浸かっていた。勢いで色々言ってしまった事は否めない。それでも。
繋にだけは味方で居て欲しかった。
一緒にやり切ろうと言って欲しかった。
ずっと一緒に居てくれた、兄の様な存在だったから。
「……謝ろう」
そう溢し、風呂から上がれば着替えが用意されていた。サイズが幾分か大きいそれは心のものだろう。至れり尽くせりだ、と申し訳なくなりながら部屋に戻ると、心が救急箱を傍らに置き書類仕事をしていた。
「…あ、心さん。お風呂と着替え有難うございました」
「嗚呼、ゆっくり出来たか? おいで、傷を診よう」
「は、はい。……すいません、何もかもお世話になってしまって…」
丁寧に巻かれていく包帯を見ながら、堪らず言葉が漏れる。
心は「気にするな」とだけ言い、軈て全ての処置を終えれば、奥の部屋から一つのアルバムを取って来て、緋狼の前に置いた。
「…これは?」
「俺の、家族のアルバムだ。と言っても実家が燃えたんで祖母の家から拝借したものなんだが」
「…え?」
「少し昔の話をしようか」
アルバムを開く。そこには幼いながらも面影のある二人の少年の姿が映っていた。
どちらも黒髪だったが、黄檗色の瞳が心なのだろう。写真に写るのが恥ずかしいのか、困った様に桃色の瞳の少年の陰に隠れている。
「昔は両親と兄さん、祖父母と一緒に暮らしていたんだ。…幸せだったよ。両親は不動産業を営んでいて仕事ばかりだったが、それでも家族仲は良かったと思う」
「昔から、ヤクザじゃなかったんですね…」
「あはは、昔はただの一般人だ。けれど、………実は俺の両親は詐欺を働いていた。ある日家に、その詐欺被害者が押しかけてきて…兄さんと二人人質になって立てこもられたんだ。兄さんは硫酸を顔に掛けられて…、俺も殺されそうになった。結果的に祖父が助けに来てくれたが…祖父は燃える家から出てきはしなかった」
「…どういう、…」
「家に置いていた消臭スプレーを、その時兄さんがカレーを作っていた……火がかかっている鍋の中に放り込んで、俺達二人を助けてくれたらしい。吃驚したよ、祖父が家に入って来てから犯人に声を掛けてほんの数秒の事だったから、何にも分からなかった。俺達は爆発後に突入してきた警察官によって救助されたんだ」
アルバムが捲られる。幸せそうに笑う男女の姿だ。
恐らく両親なのだろう。
「そうして高校一年生の夏。あの日以来、姿を眩ましていた両親を見掛けたよ。…笑っていたんだ、二人共。その時、どうしようもなく怒りが込み上げてきた。祖父が死んだのは、兄さんが酷いやけどを負ったのはアイツらの所為なのに…そう思ったら止められなかった」
「……復讐、したんですか」
「嗚呼、二人共俺が刃物で殺した。丁度そんなポケットナイフだったかな」
静かに心が呟いた。
緋狼は手中のポケットナイフを握り締める。
「……幼少期の事件の被害者である事等を理由に俺は少年院に送られた。たまたま運が良かったから、……まぁ色々あって代理に拾って貰えたんだ。ただ祖母を、……両親が居なくなってから俺達を育ててくれた祖母を悲しませた事を……、漸く理解して、――…後悔した」
アルバムに映る心の祖母の姿を指で撫ぜて言う。
その隣には軍隊の衣服に身を包んだ男性と、恐らく心の祖母の若かりし時の姿の写真が挟んであった。
「…だから、君が復讐したいと言う気持ちは嫌と言う程分かる。きっとアイツも……、まぁ他人の過去を他人の口から話す事は失礼に値する故詳しくは言えないが…復讐を果たした者だから、君が今から行う事の重大さも、その後の苦労も、理解して何とか止めようとしているんだ」
緋狼の目を真っすぐ捉えて、心は声を震わせた。
復讐を果たした者の本当の言葉だからこそ、緋狼は何も言い返す事が出来ず、ただ俯く事しか出来ず。そうしてその瞳から、涙を零した。
「…分かってくれ」
抱きしめる体温が優しく緋狼を包んでいく。
溢れ出て止まらない涙が枯れるまで、心はただひたすら緋狼に寄り添い言葉を掛け続けた。
「……ずっと、意識を…取り戻さない…」
意識が浮上する。ここは集中治療室の前のソファだ。
目の前には医者と看護師が居て、どちらも浮かない表情をして緋狼を見下ろしていた。
「可能性がある、と言う事です。全身に酷いやけどを負っていて今も一刻の猶予も許さない状況です。細胞が死に続けている。……もし意識を取り戻したとしても、後遺症が酷く寝たきりの状態かも知れません」
医師の言葉が鼓膜にこびりついて離れない。暫くソファに座り込み呆然としていれば、そこに二人の男が現れた。一人は少し幼い風貌の繋。そしてもう一人は眼鏡を掛けたスーツの男性だった。自分よりも年上の雰囲気を醸し出す二人に、委縮してしまう。
「…緋狼君だっけ。おれ、初音繋。…探偵やってんだけどさ、今日からおれが君の保護者代わりになるから」
「え」
「んで、こっちが葉風彩。〝Re:Lief〟って言う有名な車ブランドの会社の社長。君のお父さんはそこで働いてたんだけど、そのよしみでお母さんの治療費はこいつが全額負担してくれるって。入院費用も心配ないからね」
「………え、え?」
話が全く読めないと言わんばかりに緋狼が二人を見つめ返すと、彩と呼ばれた青年が溜息を吐き「話を捲し立てるな」と繋に言えば緋狼の前にしゃがみ込み、途端に柔らかな表情を浮かべて口を開いた。
「今は何も理解出来なくていい。……兎に角これからの事は特段心配せず、君は母親の傍に居てあげる事。……じゃあすいません、俺はこれから仕事に戻りますので」
彩は医者に向けて深くお辞儀をすると、さっさと廊下を歩いて行ってしまった。医者と看護師も次の患者の診察があるからとその場を離れる。残ったのは緋狼と繋だった。そして、
「ねぇ緋狼君。色々君の事とか家族の事、聞いたよ」
繋が切り出した。
「君のお父さんを殺した華國人の男ね、君の従兄弟の劉楓って人を殺したかったんだって。君のお父さんが彩に全部話してくれてたみたいでね、劉楓は華國のとある研究所の人間を皆殺しにしたそうなんだ。その復讐で劉家に狙いを定められ…――君のお父さんが犠牲になった」
「………父さん、何も、悪い事してなかったんですか?」
「うん。大郷に来たのだって引越しをたくさんしてたのだって、狙われない様にする為だったみたい。彩はそれを汲んで、引越し先の支店でスムーズに働けるようにしてたらしいよ」
「そんな……何で…」
身体を震わせる緋狼の肩に優しく手を置き、繋は耳元で囁き掛ける。
「…悔しいよね。ねぇ、緋狼君。……殺したいと思わない? 劉楓の事」
「えっ」
弾かれる様に顔を上げれば、目を細めて薄く笑う繋と目が合った。
そして肩に置いていた手をゆっくりと差し出す。
「…復讐、しようよ。俺と二人で」
そう言ってくれたのに。
そう言ってくれたから、今日まで生きて来れたのに。
何故、裏切ったのか。怖気づいてしまったのか。
緋狼には何も分からなかった。
「怖気づいた訳じゃないんだよ」
ガラス張りの外に広がる都会の景色を見下ろしながら繋は呟く。
肩の痛みはマシにはなったものの、満足に動かす事は未だ出来ない。濡れた服そのままに革張りのソファに座れば、奥のデスクに座っていた男は眉根を寄せて厳しく言い放った。
「立て、汚れる」
それは幾分か大人びた顔立ちになった、葉風彩その人だった。清楚な黒髪にスクエア眼鏡、その奥にある瞳は鋭く、威圧を感じさせる黄金色に輝いていた。
大郷国内で一番の知名度と事業の大きさを誇る自動車ブランド〝Re:Lief〟の社長で、今もまだ緋狼の母親の治療費を全て負担している。
「良いじゃん、拭けば良いんでしょ。おれ今怪我人だよ」
「…御前が五年前に馬鹿げた事を言わなければ、緋狼君だってこんな事にはならなかった」
「ぐ、げほっ、ごほっ…!!」
ぐさりと本質を突く物言いに吸っていた煙草の煙が肺に侵入する。
激しく咳込んだ後にじろりと睨み付けるもすぐに視線を落とし、言い訳をする様に繋が言葉を捲し立てた。
「仕方なかったじゃん。お父さんも亡くなってお母さんも意識不明。バカ高い治療費に高校の学費、後は生活費? 幾ら何でも………諦めて死ぬ事だって視野に入れそうでしょ」
「お陰で今、御前が彼自身を危険に晒している」
「……うるさいな、分かってるって。自分でもどうしたら良いか分かんないんだもん。…あんなに拒絶されたの初めてでさぁ」
傍にあったクッションを手に取り抱きしめる繋。
益々眉間に皺を寄せた彩だったが、もう何も言わないと言う風に書類に視線を戻した。
「どうしよう、このまま……本当に劉楓と相対する事になったら」
「…御前の知り合いにヤクザ共が居るだろ。肉壁位にはなるんじゃないか」
「相手は研究所の職員皆殺しにした人間だよ? 肉壁にもなるかどうか……おれ、そう言うの漫画の中だけだと思ってた」
「は、現実は小説より奇なり。世の中には、俺達のちっぽけな脳の想像を超える出来事が転がっているに決まっているだろう」
繋の泣き言を一蹴する彩。そうしてまたシャットアウトする様に書類に視線を戻す。
繋が彩と交流を持ち始めたのはほんの数年前だ。テレビでも話題になっていた、およそ九歳で社長就任を果たしたエリートイケメン。
元は葉風一族が運営していた〝Lief〟だったが、業績が良くなかった所に一人息子が社長業を継ぎたくないと駄々をこね海外に家出。会長自ら彩と出会い養子縁組を結んだらしい。
彩の方は昔に両親が別居、事故で母親が下半身不随になってしまった所で会長と出会った。母親の医療費を肩代わりすると言う取引の元、養子縁組を結ぶ事に納得したらしい。そうして会社は〝Re:Lief〟として生まれ変わり大成功、今では取引もなくなり自分の意思で母親の医療費を負担している。
「…くそ、おれには約束された地位も知能も、金もなかったんだっての…」
「俺も無かったが? 日頃の行いの所為じゃないか。御前のツキが悪いのは」
「だって! だって…、だって!!」
「だってだってうるさい、子供か御前は」
はぁ、と深い溜息を吐く繋に、目線をやり。一拍。
今度は彩が溜息を吐けば、独り言の様に呟き始めた。
「……大郷には秘密警察なる組織が複数存在する。公安〝ゼロ〟然り、特別高等警察〝特高〟然り。今は現存している組織の方が少ないが、御前は聞いた事が無いだろうな。とある目的の為だけに作られた、内閣府直属組織下の秘密組織」
「UTS」
繋が徐にソファから立ち上がり、デスクに駆け寄る。
「ゆ、ゆーてぃーえす? 何それ」
続きを聞かせろと目で訴えれば、彩はひらりと一枚の写真を繋の目の前に落として次の言葉を紡いだ。
「Unknown The Soldiers、〝名もなき兵士達〟。俺の知り合いがたまたまそこのリーダーで、たまたまメンバーの一人と鉢合った為、たまたま教えて貰った。御前もたまたま此処に居るから、運良く口を滑らせてやる」
写真には交番の制服に身を包んだ男性が映っていた。
桃色の瞳に黒髪、火傷の跡が残った右目の上、額を包帯で巻いている。面影が、心と重なる。
「駒田交番に居る蛇牀静、何かあった時彼に言えば…軍隊レベルの人数は派遣出来るんじゃないか」
彩はそれだけ言えば、また書類仕事に向き直った。
「…本当に信用出来るの? そんな秘密警察とか、本当にあるの…?」
「無くて今迄弐日苯警察と政府だけで夜淵の問題に取り組んでいたとでも? 変貌個体を人間が、市民に気付かれず華麗に対処していたとでも?」
「…変貌個体なら出来なくはないんじゃない? 一匹だと大した事は…」
「…はぁ、そんな無知で馬鹿で恥知らずな御前にもう一つ良い話を教えてやる」
「は? 何いきなり…」
悪口に反応した繋がデスクから身を乗り出そうとした一瞬、彩が右手で拳銃を構える。
「黙って聞け。御前〝来襲〟を知らないだろう」
「……らいしゅう? もう、何新しい言葉増えすぎて頭回んないよ…」
「黙って聞けと言ってる」
繋の弱音を切り捨て、くるりと器用に指を動かして拳銃をしまえば彩は引き出しから、――高校の歴史の教科書を取り出した。余りに突然の事態に、繋は言葉を失ってしまう。
「…? え、ナニコレ」
「見ての通り、これは高校の歴史の教科書だ。中学でも小学校でも良い。このセカイに存在する歴史の教科書には描かれていない〝来襲〟と言う悲惨な事件が、もしかすると太生時代以前から発現したと考えられている。〝来襲〟とは言葉の通り何かが迫り襲ってくる事を意味し、――これが事実なら政府は意図的に隠したと言う事になる」
「……何かって、何?」
繋の問いに、彩はまたも大きな溜息を吐いてその教科書に挟んでいた複数枚の写真を取り出して見せる。そこに写っていたものに、繋は喉を鳴らした。
人の死体の山。爆撃でも受けたかのように荒れ果て、更地になっている土地。ボロボロの家に支柱だけが残されたビル。遺体を背負いながら歩く子供の姿。
それら全てを虚ろな瞳で見詰め、彩は静かに呟いた。
「…恐らく変貌個体の群衆が、大郷や全世界に襲い掛かって来た事件を〝来襲〟と呼んでいる。これらは俺が独自に調べ、今もまだ記憶が残っている人達に話を聞いて、集めた手掛かりだ。もしこれが自然発生で、定期的に全世界に被害をもたらすものなのであれば、話題にならないのはおかしい。つまりどこかでこの〝来襲〟を防いでる或いは被害を最小限に抑えている団体が居ると言う訳になる。それがUTS。…証明はしてやったが」
「待ってUTSの存在の有無より〝来襲〟の方が気になって来た」
「何なんだ御前は…」
彩があからさまに嫌そうに言葉を吐き出すが、繋の好奇心は止まらない。
スマホのメモアプリを起動すれば、矢継ぎ早に言葉を並べる。
「何でそもそも御前が知ってるの? 記憶が残ってる人って、高齢者とか? 自然発生ってどこから?」
「UTSのリーダーと知り合い故に教えて貰った。高齢者や…そうだな、人ならざる者達に聞いた。それは分からない。もしかしたら〝夜淵〟が変貌個体を集めて突撃させているのかも知れないが、理由が不明瞭だ。つまり現時点では何も分からないと言う事だけ」
「……なる、ほど。全然分かんない」
「御前がこれ以上〝玖泉〟と関わっていくのであれば、知っておいた方が良い情報だろうと思って喋った。考えてみろ」
彩が人差し指を、繋の眉間に突き出す。
「自然発生にせよ、誘発的にせよ、〝来襲〟が起こる可能性はゼロじゃない。歴史の中で確かに起こってきているんだから。その時、いち早くこれは〝異常事態〟だと思った方が生き残る確率は高くなるだろう。後、これは憶測にしか過ぎないが、――」
「この〝来襲〟レベルに。若しくはそれ以上に、夜淵の関係者は力があるかも知れない」




