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玖泉  作者: 涼川怠惰


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第参話


『…でさ、こんな事御前にしか頼めないと思って』


 すっかり夜の霧に包まれた化野団地を眼下に収めながら、伊棟弐〇壱壱號室のベランダで通話をする青年が一人。栗色の髪を夜風に遊ばせて、その青年――琴継彪は深い溜息を落として言葉を繋いだ。


「…ヤクザもそんなに暇では無いんですけど。でも、まぁ……怪事件みたいだし調べる価値はあるかもですね」


 そう言えば通話口の男は声色を明るくして『有難う!やっぱ御前は最高だよ!』と述べた。

 彼の名前は佐久間晴さくまはる。彪の高校時代の同級生であり、――かつて彪をいじめていたグループの主犯格の一人だ。


 その件に関してはもう謝って貰っているので気には留めていなかったが、最近何かと動ける地位に居る彪に面倒事を押し付ける様になっているのが否めない。

 そしてその面倒事は無視出来ない〝玖泉〟に関する事件が多いから、更に厄介だ。


「それで? 詳しい内容を聞かせてもらえますか?」


 彪がそう促すとMINEの通知音が鳴る。トーク画面に貼られたのは、いかにも大学生と言う身なりの明るい髪色をした少年の画像だ。


『…発端は三週間前。行きつけのメイド喫茶に通ってた弟が姿を消した。何回も足を運んでその時の状況とか聞こうとしたんだけど、門前払いされて。玖都内だけど、俺等は団地に住んでる訳じゃない。…警察に言って中を調べて貰っても、五分で出て来て異常なしって言われたし、探偵にお願いしようにも依頼料を払うには…厳しくて』

「成程。まぁ、団地外の事は基本的に管理局も知らん顔ですしね。でもメイド喫茶で居なくなった訳じゃないでしょう? その他の要因は」

『倒れてたんだ。その一週間後に、実家の前で衰弱した弟が』


 言い終わる前に、晴が強い語気で彪を制した。


『すぐに病院に連れて行った。極度の栄養失調と低体温…もう、あいつは目も見えてなかったらしい。必死に声を掛ける俺に、手を伸ばして名前を口にしてた』


『みしお、って』

「…みしお?」


 また通知音が鳴る。送られた画像には、青丹色の髪を右側で結った可愛らしい顔つきの少女が写っていた。制服の様な衣装を身に纏って、ステージの様な所で踊っている。アイドルだろうか。


『彼女は皆瀬弥汐みなせみしお。地下アイドルで件のメイド喫茶にも所属してる。弟はその子が好きで毎週会いに行ってたんだ。……』


 晴の声色が、そこから徐々に暗くなり始める。


『最初はまぁ、微笑ましいと思ったよ。俺ら、親と折り合い悪くてさ。まぁ、俺は仕方ないけど弟にもそれが飛び火して。弟が家出てからは連絡何てたまにしか取ってなかったんだけど。…嗚呼、漸く熱中出来るモンが見つかったんだなとか、思ってた。でも段々、その連絡も徐々になくなって…』

「……それで、弟さんは」


 電話口で晴は言葉を詰まらせた。それが答えだった。

彪は一息置いて「すみません」と言葉を零す。


『……弟は、絶対何かの事件に巻き込まれたんだ。皆瀬弥汐は何かを知ってる気がしてならない…でも、俺にはそれを調べるだけの技術も、度量も、ない。彼奴に近づいたらどうなるのか、分からなくて怖いんだ。頼む彪、金は必ず払う。だから』

「…良いですよ、お金なんて。欲しくて受ける訳じゃありません。…その事件、俺が引き受けます。弟さんに何があったか、調べてきます」


 途切れ途切れだった晴の言葉は、彪の承諾を聞いた途端崩壊した。声にならない声を漏らしながら何度も謝罪と感謝の言葉を並べる。やがて落ち着きを取り戻した晴から、一連の事件について自分なりに調べた資料のZIPファイルを受け取れば、彪は通話を切った。


「……低体温、盲目。解剖はしていない、との事だったけど、十中八九服用者で間違いなさそうだな」


 二十年前、突如として流行り出した『玖泉』という薬物。

 然し当時四歳、加えて玖都の外で過ごしていた狗冥からすれば、無縁の出来事に他ならなかった。


 薬物はいけない事ですと小学校、中学校の授業で何回も聞かされたにも関わらず、服用する人が居るなんてとさえ思っていた。一種、憐れみさえ感じていたかも知れない。そんな彪が〝玖泉〟と関わる様になった切っ掛けは八年前、進学した先の高校でいじめに遭った時の事だった。


 幼い頃から身体が小さく、力も弱かった為これまでも頻繁に同級生に馬鹿にされた事はあった。けれど大概は先生や他の生徒が注意して助けてくれたので、それ程大事とは感じていなかったのだ。

 両親は共に銀行員で働きづめ、朝起きれば朝食が置かれていて夜眠るまで一言も会話をしない、そんな日はざらにあった為恐らく話しても迷惑になるだけだろうと、彪自身相談する事は一切なかった。


 だからこのいじめも、誰かが助けてくれると思っていた。

 自分よりも強い〝正義〟が目の前に現れてくれる事を心待ちにして、彪は日々重ねられる暴言や暴力に耐えた。


 然し現実は、甘くない。

 クラスメイトは愚か担任の先生でさえ見ない振り。誰も彪と目を合わせようともしない。全員が彪を〝いないもの〟として扱い始めたのだ。

 その内に要求はエスカレートしていき、彼等は金銭をたかる様になった。幸い、人よりも裕福な家庭で生まれ育った彪は親にバレる事なく、日頃貯めていたお金を少しずつ彼等に渡した。


 そうして気づいた。――このお金で人を雇って彼等を叩けばいいのではないか?


 気付いた時、笑いが堪え切れなかった。何故そんな簡単な事に気付けなかったのだろう。どうせならクラスメイト全員に復讐してやろう。バレそうになっても最初に自分を助けてくれなかった人間が悪い。

 あくどい噂で有名な先輩達の元へ一人で出向き、大金を投げつける。そして彪の〝粛清〟は始まった。

 真夜中、一人ずつ呼び出して謝罪を促す。断ればその人を取り囲み、先輩達がリンチする。

自分は笑いながらその光景を撮影しつつ、再度謝罪の言葉を促すだけ。出来なければまた暴力で沈める。いじめっ子達は泣き腫らした顔を向けて繰り返し聞き取れない謝罪の言葉を零した。

 気分が良かった、人を操る事が。この上ない優越感に浸されて、自分が〝正義〟だと錯覚してしまう程に。


 だから、気付きもしなかった。


 真夜中、何時もの様に呼び出したいじめっ子――佐久間晴は姿を見せず、代わりに若い男がふらふらと自分達の目の前に現れた。

 ミモザの花模様が裏地にあしらわれた羽織に、天狗下駄。青丹色の髪には紫のメッシュが入れられている。何か後ろに重たい影があるが、月明かりだけでは視認できない。


 彼は先輩たちの問い掛けに応えずただ一言「首謀者は誰?」と聞いて来た。全員の目が彪に向く。冷汗が伝う、この時点で気付いたのだ。


 ――あいつは、誰かに助けを求めたのだと。

   強い大人に手を伸ばして無様に命乞いをしたのだ。


 ポケットに隠したナイフを握り締めながら、慎重に彼の元へ歩みを進める。何かあれば正当防衛で切ってしまっても仕方がない。多少の罰は受けるだろうが、元はこちらが被害者だ。

 そうしてその距離が数メートルに縮んだ時、彼が口を開く。


「君が最後に粛清しようとした子、佐久間晴君ね。君と同じ様に復讐の方法を考えてたみたい」


 何を言われるのかと思えば、そんな事。

 嗤う彼の真意が分からず何も言い返せない。呆然としている彪を気にも留めずに、更に彼は話し続けた。


 その内容に、彪は今度こそ息をするのも忘れてしまう。


「玖都に居る悪い奴等に、お金を払って君を殺して貰おうとしたらしいよ。でもガキだからって相手にして貰えなくて、〝玩具〟にされちゃったみたい」


 彼の後ろにあった重たい影がずるりと動く。倒れた地面には赤黒い水たまりが広がり始めていた。

 彼――佐久間晴は、虫の息だった。何をされたかは一目瞭然だった、後一歩決定的な何かを与えられれば間違いなく死んでいただろう、晴の身体を支えながら彼は尚も続ける。


「丁度その悪い奴等をシメようとしたら鉢合ってね。泣きながら全部話して気を失っちゃったみたい。…他の子達は良かったね、まだ年端もいかない殺し方も知らない、子供にいたぶられただけで」

「……お、おい、まさかあの人」


 月明かりが彼を正確に照らし出した。その顔は知っている。

 衣服や白い肌に飛び散った鮮血、蛇の様に細く血と見紛う程の赤い瞳、歪んだ口角がこの場にいた全員を嘲笑っているかの様な。


 連龍会直参奉日本組組長、奉日本乱。


 先輩達は一人残らず逃げ出した。自分も急いで、という時に身体が全く動かない。足がもつれ、その場に尻餅をついて後退る事しか出来なかった。乱が静かに歩み寄る。


「君がいじめられていた事、聞いたよ。凄く謝ってたよ彼。……分かるよ、そんな言葉だけじゃ許したくないよね。同じ苦しみを味わわせてやりたいと思うよね」


 自分の傍に屈み込み、その頭を優しく撫でた。瞬間、

 前髪を乱暴に掴み上げられ、地面に叩きつけられる。突然の事に呼吸も忘れ、何が起こっているのか把握する前に鼻から垂れた生暖かい血液が、地面に落ちるのを確認した。


「げほっ…」

「でもこの世界って非情でさ。やり返したら今度は加害者として罪に問われる事になる。理不尽だよね、話し合いで解決出来ないって分かってるのに、被害者だった筈なのに今度は責められてさ」

「……だ、誰も、助けて、くれなかった。だから、俺は、自分で…っ」

「……〝自分〟で?」


 呂律の回らない舌を動かしていたら今度は頬を殴られる。ぶち、と音がして――それが、自分が舌を噛んだ音だと気付いたのと同時に、口内に鉄の匂いが広がった。


「君がした事って何? お金をばら撒いた事? それは君が働いたお金? 違うよね? じゃあ、リンチした事? それも違う、手を下したのは先輩達で君はただ後ろで撮影してただけ。…君は何をしたの?」



「誰かにちゃんと〝助けて〟って言ったの?」



 その言葉に何も言い返せなかった。助けてと言ったって誰も助けてくれないじゃないか、と反論する事は出来た。でも過去に自分にそんな考えはなかった、だって。

自分は〝どうせ誰かが助けてくれるだろう〟なんて、馬鹿気た事を考え続けていたんだから。


 誰かに助けてという言葉を掛けた事は一度も無い。

小学校、中学校の時も目配せしただけ。自分から言ったことは一度も無い。恥ずかしかった訳じゃない、だってそうすれば皆が助けてくれたから。


「言葉は口に出さないと、伝わらないよ。勿論、助けてって言っても助けてくれない時だってある。寧ろそれがほとんどだ。どうせ誰かが助けてくれる、なんて甘い考えは捨てて、ちゃんと自分の力で一回何とかしてみなよ」


 そう言って、乱は立ち上がり踵を返す。慌ててその羽織の裾を握ればその赤い目が自分を見た。

 汚いものを見る様な瞳、――とまでは行かないが軽蔑を孕んだ視線が俺に突き刺さる。


「た…、…助けて、くれない…んですか…」


 それでも漸く絞り出した掠れた声に、彼は酷く笑った。そしてあっけらかんと言葉を返す。


「助けてって、言われてないからね」


 そうして足で払われて、自分の身体が地面に落ちる。

 惨めだ、何もかも。多分、俺によってリンチを受けたいじめっ子達よりもっと惨めで、どうしようもない気がする。


 もし、両親に話していたら何か変わったのだろうか。

毎朝朝食やお弁当を欠かさず用意してくれていた母、休日は父から『最近学校はどうだ?』と聞かれていた。別に二人共、自分に興味が無かった訳じゃないと、今思う。ちゃんと話せていたら、こんな過ちを犯さずにいられたのではないか。

 自分の間違った考えで皆を巻き込んで、挙句一人のクラスメイトを瀕死に迄追いやって。


 もし彼が死んでいたら?


 警察が動いて、原因を突き止められて自分の行いが露呈して、両親に話が行って、職を追われて、自分も転校せざるを得なくなって…。

 ネットでは個人情報がばら撒かれるに違いない。親の親に迄迷惑が掛かるかもしれない。何の罪も無いのに。

 気付けば両目から止め処なく涙を溢れさせ、彪は縋る様に言葉を繰り返した。


「助けて、ください。お願いします…どうしたら、…助けて…ッ」


 震えながら訴える彪の身体を引き寄せ、腕の中に収める。


「…まずは佐久間君と仲直り。被害者達に謝罪といじめの件について謝って貰う事。そして親にちゃんと全部話す事……、良いね?」


 嗚咽混じりに息を吐く。頷くのがやっとだ。そんな彪を落ち着かせる様に、優しい声音で乱が「良い子」と囁く。


「若しその話し合いが上手く行かなくて、君を恨んだ人間が行動に出たなら、俺に連絡して。大丈夫、俺は必ず君を〝助ける〟よ」


 あの日の光景が不意にフラッシュバックする。

 目の前の人にあれから八年、ずっと付き添ってきた。大学進学も就職もせず、彪が取った行動は連龍会本部に乱の部下にして貰う様、殴り込みに行く事だった。両親はヤクザなんて大反対、本当に行くつもりなら勘当する、と言ってきたが自分の意思は固かった。


 親孝行も何も出来なくてごめん、そう言って家を出て親とはそれから何の連絡も取っていない。


 門前払いが当たり前だと思っていた為、何年でも座り込みをする準備は出来ていた。しかし殴り込み初日、玄関先で出会った乱が放った一言は『面白いから良いよ』との事。

 余りにも拍子抜け過ぎて盃を交わす際、会長代理に『本当に良いんですか?』と何回も聞いた事を今でも覚えている。


 そんな連龍会本部も、今や自分の職場だ。

連龍会直参奉日本組本部長――彪は晴から受け取った資料のコピーを乱に渡し調査許可を申請しに来ていた。座椅子にだらしなくもたれる寝巻姿の乱はさも興味無さそうな表情で受け取ったが、やがて〝玖泉〟関連の事件だと分かると途端に眼鏡を掛け、食い入る様に内容を熟読し始めた。


「…メイド喫茶の変事件ね。佐久間君が調べた情報によると、そのメイド喫茶に通ってた人間十数名がここ三か月の間で失踪してるんだって?」

「はい。その内帰って来たのが二名。晴の弟の佐久間麗君と、今も昏睡状態で意識が戻らない雪平全ゆきひらぜん君です」


 雪平全は一か月前、自身の家に逃げる様に駆け込んできたと言う。青白い顔に痩せ細った身体、ぼろぼろの布切れだけを纏っていた彼は一言「よるがくる」と言ってそのまま意識を失ったらしい。

 栄養失調、極度の脱水症状に低体温症、盲目。採血の際に血が黒い事が分かり〝服用者〟である事が判明したが、今は処罰している場合ではない。医師達の懸命な処置によって何とか一命を取り留めたものの、脳へのダメージが深く今も眠り続けている。


「ふぅん。その雪平君は何処の病院に居るの?」

あがた総合医療センターの方に。これから出向こうかと思ってはいますけど」

「嗚呼、あそこか。もしメイド喫茶側が何かしてるんだったら、生きてる雪平君は真っ先に始末したいだろうね。念の為警備を手配しよっか」


 こういう時にすぐに人を動かす判断の出来る乱は頼りになる。メイド喫茶の変事件から帰って来たただ一人の生還者だ。口封じされては、全てが闇の中に葬られる可能性も否めない。


「有難うございます。…もしかしたら、長期的な調査になると思うので業務の方には顔を出す事が出来なくなるかと」

「あ~良いよ良いよ。皇牙君も狗神も居るし、一人抜けたってへーき」


 ひらひらと手を振り、彪の懸念をあっさり切り捨てる乱。確かに彪は他の連中より非力だ。本来のヤクザの業務を重視している奉日本組で弱さは随一だろう。それは自分が一番良く分かっている。

 人知れず肩を落としているとその雰囲気を感じ取ったのか、にやにやと笑いながら乱は彪の顔を覗き込んできた。


「ばっさり言われて悲しくなっちゃった?」

「いや…別に分かってますし。気にしてません」

「気にしてる癖にぃ~」


 彼の視線から逃げる様に顔を逸らしても、わざとらしくぐるり、と体を動かしては目線を合わせようとする乱に心底辟易した。こう言う揶揄いをしつこくしてくるのは完全に遊んでいる証拠だ。


「落ち込まないでよ。逆にこう言った調査や潜入に関して君の右に出る者はまず居ない。奉日本組に足りない知力を全面的にカバーしてくれてるんだから、自信持ってよ」

「はいはい、とか何とか言って俺を誤魔化す為の口実だけは上手いですね」

「信じてくれてな~い」


 つまらないという風に顔を離せば、乱は漸くその重い腰を上げた。

 と、今度は彪がお返しとばかりに声を上げる。


「乱さんまずは寝て下さい、眼鏡掛けても顔色変わりませんよ。疲れが限界まで来てるんじゃないですか?」

「…いや? そんな事」

「その書類の確認は本来部下に任せても良いものですよ、組長」


 乱の表情が僅かに固くなった。

 顔を覗き込まれた時、微かに目の下に隈が出来ていたのを彪は見逃さなかったのだ。机の上にある書類はきっちり判を押されている、真夜中寝ずに仕上げたのだろう。昨日は遅くまで敵対組織の組員を拷問していた筈だ。

 何時もへらへらと笑っている癖に、そう言った雑務や仕事の全てを手を抜かずにやり通す。敵わないな、と思いながら彪は悪戯っぽく微笑んで見せた。そして次いで立ち上がる。


「…じゃあ行ってきます。何か欲しいものがあれば買って帰りますよ」

「…お節介だなぁ。じゃあ甘いものでも買って来てよ」


 ぽい、と眼鏡を投げ捨て敷いていた布団に倒れ込んで数秒。すっかり寝息を立て始めた乱を見れば、やれやれと言わんばかりに大きな溜息を吐く。


「ここで優しく寝支度を整え、布団を掛けてあげる――なんて事は、出来ませんしね」


 彪はそう独り言ちると、乱の身体の下から掛け布団を引っこ抜き乱雑に覆い被せた。布団から半分くらい身体がずれてしまったが仕方ない、と見ないふりをする。


「…まぁ、これで風邪は引かないでしょ」


 そう呟いて、彪はその場から足早に立ち去り目的地である鼎総合医療センターへと向かう事にした。






 鼎総合医療センターは、和倉宝蘭地区にある玖都内で最先端の医療設備と広大な敷地を持つ病院の一つだ。治療の丁寧さが評価されており医師や看護師達の対応も良い為、玖都のほとんどの人間は鼎総合医療センターへ通う位、信頼されている。


 エントランスへ向かえば、広々とした受付の待合スペースが目に飛び込んできた。天井までは吹き抜けになっており、そこから自然光が柔らかく受付を照らしている。


 彪は真っ直ぐ受付に向かうと代紋を見せ、「雪平全に面会したいのですが」と声を潜めて伝える。受付の女性は焦った様に書類を漁り、一枚のメモを取り出すと彪に申し訳なさそうな表情を向けた。


「あ、はい。雪平様は……只今別の方と面会しておりまして。後十分程で予定時間が終了となりますので暫くお待ちいただけますか?」

「……別の方? 昨日伺った時には今日は誰も面会予定は無いと聞いたんですが」

「ええと、事件の調査だかで…探偵様が」


 探偵。その言葉を聞いて思い当たる人物が一人だけ居た。和倉宝蘭地区に住んでいる彼の事だ、既に大事になりつつあるこの事件を見逃す訳が無い。


「その方は僕の連れです。…一緒に面会させて頂く事は可能ですか?」


 白いリノリウムの床に、コツコツと革靴の音が響く。入院棟の八階、突き当りの広い個室に、大仰な機械に囲まれた雪平全と――薄い笑みを浮かべて彪を迎える繋の姿があった。


「やっぱり初音さんでしたか。…例のメイド喫茶の事件調査ですか?」


 そんな話題を振りながら、彪は全の様子を流し見る。

 大学二回生でダンス部と聞いていたその身体は痩せ細り、腕も棒の様に細く、軽い。肌荒れが酷く身体の至る箇所に細い切り傷が出来ている。繋も全の方へ視線を移し、口を開いた。


「…雪平全君のお母さんがね。息子が何故こんな事になってしまったのかを調べて欲しいって。元々仲が悪くて、一人暮らししてから連絡も取ってなかったらしいんだけど。君は? 連龍会のおつかい?」

「違います。メイド喫茶失踪事件で帰って来た内の一人、佐久間麗君の兄から直々に頼まれたんです。…弟に何があったのか」

「成程。同じな訳か…、じゃあ琴継君、ここはひとつ協力と行こうよ。連龍会だって早めに解決したいでしょう?」


 にやりと笑う繋の顔から視線を外す。彪はどうにも彼の笑顔が気味悪くて苦手だった。以前、赤子の事件で繋と共に行動していた雨月は苦手意識は無かったのだろうか。あの目を見つめると何もかも見透かされている気がして心が落ち着かない。

 うんうんと唸っていると、そんな事は気にも留めず「あ、そうだ」と繋が声を上げた。


「そう言えば琴継君、緋狼君病院内で見なかった?」

「緋狼…、あ、初音さんの助手君ですよね。いいえ、見てませんけど」


 そっか、と笑う繋の表情が僅かに翳った気がした。


「…何かあったんです?」

「まぁ、ね。少し前に〝助手の仕事を少しだけ休ませて欲しい〟って言われてさ。何か用事? って聞いたら、部活が忙しくなっちゃって顔を出せない、って言われたんだけど」

「はぁ」

「ここ一週間、緋狼君の所属してるオカルト研究部が忙しくしてる所を見た事が無くてさ」

「え? 張ったんですか?」


 思わず聞き返せば繋はにこりと笑って「そうだけど?」と平然と言ってのけた。徹底的に監視されている感じがして息が詰まる。こういう人間がストーカーなんぞになるのだろうか…? と人知れず思っていると繋は何時も通りの声音で呟いた。


「まぁ、考え過ぎかな。ごめんねいきなりこんな話」

「いえ、別に。…それよりも、メイド喫茶の事件について情報共有がしたいです。事務所にお邪魔しても?」

「嗚呼、OK。じゃあ行こうか」


 繋は微笑んで了承した為、彪はそれ以上突っ込む事は出来なかった。彼の表情が僅かに引きつっている事は、何回かしか行動を共にしていない彪でさえも分かってしまった。元よりポーカーフェイスが上手い訳ではないのだろう。

緋狼と繋の関係は人づてに少しだけ聞いている。自分の弟、家族の様な存在の様子がおかしければやはり心配するものなのだろうか。そこまで考えて彪はふるふると首を横に振った。

彼も子供じゃない。助けを求めるべきタイミングや人間は自分で見極めるだろう。


「迅速な事件解決の為に、宜しくお願い致しますね。初音さん」


 それでも、最大限配慮を心掛けた行動をする事に変わりは無い。彪がそう言えば、繋は少し目を見開き――然し先程よりも柔らかく笑って「勿論」と返した。


 事件の発端はもう三か月前に遡る。

 きっかけは件のメイド喫茶「ないと★どり~みん」に通い詰めていた二十代の男性が行方不明になった事だった。彼は無職で引きこもり生活であったが、ネットで偶然見つけた――通称ないどりに興味を持つ。そして常連客から紹介してもらい、遂に引きこもりを脱したのだと言う。更には自分のお金で彼女に会いたいのだと就職活動も始め、バイトからではあるが小さい会社の清掃員に就く事も出来た。

 両親は泣いて喜んでいたがその一ヶ月後、彼は姿を消した。

 それを皮切りに次々とメイド喫茶の客が姿を消す事になる。そして戻って来たのは佐久間麗と雪平全、この二名だけであった。


「ないと★どり~みんは、お客様に深い夜の安らぎを、夢の様な時間を与えたいという意味からつけられたそうです。…完全紹介制、ネット等で常連客から紹介して貰って初めてお店の中に入れる…と言った感じでしょうね」


 SNSアカウントのヘッダー画像は黒と紫を基調としたゴシックデザインにまとめられている。

 お店の住所や電話番号は書いておらず、問い合わせのメールアドレスがぽつんと載せられているだけだ。


「凄い徹底ぶり。それでも客は増えるんだから…余程探求心がそそられるんだろうね」

「メイド達のSNSは非公開…お店のSNSは、どれもこれも今日のシフトに入るメイドの名前告知のみ。…働いているメイド達の顔写真や情報は一切無し。個人情報が守られるという点では良いんでしょうが、興味だけでこんな店、行くんですかね」


 溜息を吐く彪に対して、資料から顔を上げた繋がおもむろに問いかける。


「あれ? 琴継君もしかして童貞?」

「…………何、ですか。経験は、ありませんけど」

「ええ?! 童貞なのに興味持たないの!? 中高生の時とか女子のスカートの中の夢に思いをはせるもんでしょ!? 知らないけど」

「夢も何も…、恋愛とかには興味ありませんでしたから」


 そう言えば「うわ、童貞が何か言ってる」と言わんばかりの表情を返す繋。

 思い返せば、自身の恋愛経験は皆無だ。綺麗だとか可愛いだとか思う女子は確かに居たが、話してみたいだの触れたいだの思う事は一度も無かった。

 特にいじめられてからの女子からの視線は一層冷たいものに変わっていた為、余り関わらない様にしていたのかも知れない。


「人間分からないものに興味そそられるし、ほら見て。〝メイドとの二人きりの甘い時間を堪能していただく為、当店は個室完備です〟って書いてある。……これは世の童貞、おじさん、行っちゃうでしょ~」

「普通に違法風俗か何かですか? これ…。飲食店で営業許可取ってるんですかね? 風営法でしょっぴいても良いんじゃないですか」

「いや…一応、風俗営業許可は取ってるんじゃないのかな? しかし本っ当にお堅いな、琴継君……でもまぁ、個室で二人きりって事はそういう事を致せてしまう訳でもあるしね。客として行くのも手だけど……手っ取り早い話があるんだ」


 暫くSNSを眺めていた繋が、徐に画面をスワイプして別のタブの画面を見せてくる。そこには〝当店で働きたいと希望するメイドは常時面接募集中です〟と言う文面が映し出されていた。

 よくよく見ると、『ないと★どり~みん』の問い合わせメールアドレスからの返信らしい。


「……って、問い合わせたんですか!? 従業員募集はしているかって!?」

「勿論。客として行っても裏側までは分からない。風営法違反でしょっぴいても、イタチごっこだ。もうこの店から服用者が出てる以上、根絶を視野に入れないといけない。長期的な調査になる事は目に見えてるんだから、いっその事何ヶ月が働いてみた方が良い発見があるかも」

「それは…、俺もそう思いますけど。……え? 誰か、が……メイドになるって事ですか?」


 ここまで同意してはた、と気付いた。そして全身から嫌な汗が流れる。震える声音で一番あって欲しくない考えを口にすれば、繋は待ってましたとばかりにぱちん、とウインクして指を差した。




「そう。つまり、琴継君、君がメイドになるんだよ」




 生まれてこの方、自分の容姿を格好良いと思った事は一度もない。増してや可愛いだなんて考えた事もない。ファッションセンスなんて持っていないし、周りの人の間で何が流行っているのかなんて調べた事もなかった。


 奉日本組に入ってからはほとんどがスーツかジャージだ。たまに私服で出掛けたりもするけれど、それでもシャツに上着という簡素な組み合わせが多い。

 そんな人間が女の子になりすまして、何ヶ月もメイド喫茶に通う? ーー考えただけで、彪は目眩がして視線を地面に落とした。


 商業エリアのとある店の前で立ち止まった繋は、奥のカウンターでスマートフォンを弄っていた男に手を上げて挨拶をする。ブロンドの髪にグリーンアイ、椿木カナは二人に気が付けばその表情を和らげて手を振り返した。


「いらっしゃい、ツナグ。彼がカオル? 俺は椿木カナ、宜しくねぇ」

「初めまして。連龍会直参奉日本組本部長、琴継彪と申します。以後お見知り置きを」

「あはは、可愛い顔してお堅いなぁ。大丈夫? 面接でそんな堅苦しい自己紹介したら落とされちゃうかもよぉ?」


 頭を下げる彪の頭から爪先までを暫く品定めする様に見つめていたカナだったが、やがて微笑みを浮かべ「早速やろっか」と言って彪をカウンターの奥の扉まで案内する。

 そうして数時間、ああだこうだと色合いを悩むカナに付き合わされて漸く化粧が完成した時にはもう日はとっぷりと暮れ、彪達の居る部屋に夕日の光が差し込んでいた。


「‥うん、良いね。中々可愛いんじゃない?」


 目を開けて、改めて自分の顔を見つめる。

 一見化粧をしているのかと思う程ナチュラルで、けれど端々にほんのりと桜色のチークやリップの色が見える。長めのウィッグは毛先がふんわりとカールしている。嗚呼、確かに、これは。


「……何と言うか、俺の顔に馴染みますね」

「でっしょ~!! 男の子の顔を化粧する事はあんまり無いからちょっと時間掛かっちゃった。後は服だね、まぁこれは何点か見繕ってて~」


 カナはにこにこと上機嫌な様子で彪の腕を引っ張って自分の店へと戻る。待ちぼうけを喰らっていた筈の繋の姿は既に無く、店にはバイトの店員と客が数名いる程度だった。今更何を言ってもすっかりテンションの上がっているらしいカナが聞く筈等無いと、初対面ながら察していた彪は重い溜息を吐いて天を仰いだ。


 ――女装するなんて組の奴等に知れたら、笑いものにされるんだろうなと半ば虚無の表情を浮かべて。





 次の日、彪は面接本番前に乱の部屋へと赴いていた。理由は一つ、今日から女装してメイド喫茶で働く事を伝える為。説明を受けた、と言うか彪の姿を一目見た乱は腹がちぎれるんじゃないかと言わんばかりに笑い、彪の姿を写真に納めていた。


「あ~、笑った笑った。…で、荷物ね。盗聴器、イヤホン…GPS…。録音データも欲しいからこのペンも持ってって」


 数分間笑い転げた乱は漸く起き上がり、調査に必要な持ち物を確認し始める。そしてピアスサイズのGPSを手に取ると、何時もとは違う神妙な面持ちで彪の方を振り返った。


「…分かってると思うけど、君が今から飛び込むのは玖泉がはびこる完全なアウェイだ。…皆瀬弥汐も服用者、もしかしたら〝夜淵〟の関係者かも知れない」

「分かっています」

「万一、潜入がバレた時これの裏を押すと俺のスマホに信号が入る。位置情報が届く訳。これが命綱、分かる?」

「……分かって、ま……え、何?」


 じりじりとにじり寄る乱。そうして壁まで追いやった彪の傷一つ無い耳朶にそっと触れて――こう呟いた。


「下着、靴の裏、衣服、指輪、ウィッグ…どれも剥かれれば終わり。…本当は余り見えない腿の裏とかねぇ、刺したいんだけど。…まぁ耳で良いか」


 嫌な予感がする。

 彪がそう察知し身を捩って出て行こうとする前に、乱がその身体を組み伏せて目の前に百均ショップで良く見るピアッサーを突きつけた。

 その表情が余りにも純真無垢で、曇り一つ無い無邪気な笑顔だったので。


 彪は大人しく目を閉じてそれを受け入れる事にした。

 一瞬の痛みに、慣れていない彪は思わず絶叫しかけたのだが。






 「ないと★どり~みん」のスタッフに指示された場所は古ぼけた民家の立ち並ぶ路地裏だった。ずきずきと痛む耳朶をさすりながら彪が待っていると、そこへ大きなバンが一つ狭い路地裏へと入って来る。


「……狗山芽衣いぬやまめいさんで、お間違いないですか?」


 スタッフは皆一様にスーツにサングラスと言う某鬼ごっこゲームに出てきそうな出で立ちだった。思わずじっと見つめてしまう。だってこれは、言い方を変えるなら…。


「…それでは参りましょう。面接官が御待ちです」

「は、はいっ…」


 はっとして慌てて車へ乗り込む。

 景色は黒いガラスの向こうに塗りつぶされ、中も無音。ラジオ等は一切掛かっておらずエンジン音だけが支配しているこの空間。周りのスタッフも腕を組んで微動だにしない。


 連れて来られた場所は先程の路地裏から数十分東に走った町の雑居ビルの一角。看板は出ていないが中に入って階段を昇れば、イーゼルスタンドに置かれた黒板に可愛らしく「ないと★どり~みん」と書かれていた。入ればこの任務の最初の関門、――面接だ。


 名前と学歴、ありきたりな志望理由を話して出勤可能時間を伝える。彪のはっきりとした口調はスタッフには好印象だった様で、暫し和やかな時間が続いた。それからスタッフの一人がメイド服を持ってくる。


「狗山さん、今すぐにでも働いて貰いたい位だよ。…とりあえず研修生として、合格。制服のサイズを測るから――」


 ほっとした表情を浮かべた刹那、彪の耳に衝撃的な言葉が舞い込んでくる。


「今ここで脱いでくれる?」

「……い、い、今、ここ、ここでです、か? 試着室…とか」


 全身から汗が噴き出た。笑顔を作れているかどうかは分からない。

 スタッフはそんな彪に構う事無く、じっと見つめてくる。


「うん、いやね、良くいるんだよ。女装して来る子。ウチ男の娘とかそう言う類は一切取らなくてね。面倒かも知れないけど…あ、下着は脱がなくて良いから、分かるから」

「否、そう言う問題じゃ……」


 焦って反抗的な態度を見せた瞬間、スタッフの表情が一変した。


「何? ……脱げないの?」


 ぴりついた空気が部屋を覆った。今ここで着替えなければ合格は愚か、恐らく正体がバレる。然し隠しながら着替えたってバレるに決まっている。完全に袋小路だ。

…どうやったって最悪な結末には違いない。


「わ、かり、ました……」


 制服を受け取って椅子から立ち上がる。上着を脱ぎシャツへと手を掛ける。脱げばバレる。身体は華奢と言われるとはいえ、男だ。どうしたら女性の身体に見えるのか、向きなのか、そんな事を考えながらシャツのボタンを全て外し終わると――







「おはようございまぁ~~す。……あれ? 面接中?」








 一際明るい声が響く。青丹色の髪を右側で結った可愛らしい少女だ。嫌でも目に焼き付けた、その少女・皆瀬弥汐本人だった。弥汐は彪を一瞥すると鼻先が触れるのではないかと思う程に身体を密着させ、するりとその手を内腿に滑らせる。

 際どい部位への感覚に、思わず全身に鳥肌が立ってしまう。


「あッ?! ちょ…」

「……鼠が紛れ込んだのかしら。良いわ、丁度暇してたの。助けてあげる」

「…へ?」


 弥汐はそう言って彪から離れれば、スタッフの方へ向き直り向日葵が咲き誇った様な眩しい笑顔を見せる。


「皆、この子はあたしの推薦! 話通ってなかった? 書類見た時に言ってたんだけどな…。今から店内の案内と仕事内容教えるから、はい、解散!」


 スタッフ達はぽかんとしていたが、軈て事態を飲み込むと「なんだそうだったのか、頑張れよ」と笑って、ばらばらと部屋から出て行った。彪と弥汐だけが残される。


「さてと、」


 声を落とした弥汐は先程の笑顔とは打って変わり、標的を見つけた獣の様な鋭い眼光を携え、彪を見据えた。その眼圧は乱に良く似ていると、ふとそんな考えが頭を過る。


「何しに来たのか知らないけど、店で働く以上、半端な真似はしないでね。一応接客業なんだから」

「……はぁ。…じゃなくて! 皆瀬弥汐、佐久間麗と雪平全を知っているな」


 その名前に、僅かに弥汐の身体が硬直する。


「…やはり。客として通っていた佐久間麗、雪平全の両名が何故か死亡、意識不明の状態で戻ってきている。……おまけに佐久間麗は御前の名前を呟いた。…何をした? まさか」

「……ん~~、じゃあ答えてあげる。あんたがこの店のトップになれば、ね」

「は?」


 弥汐はくるりとわざとらしく回って微笑む。まるでこの状況をただただ純粋に楽しんでいるかの様な表情だ。ふわりと舞い上がったスカートから白い肌が覗けば、慌てて視線を逸らし彪は追い立てる様に言葉をぶつける。


「御前…このまま俺が働くとでも? 御前にこの詳細を聞く為にここまで来たんだ。吐く迄逃がしはしない」

「だから、拷問でもするの? それじゃつまらないでしょ。遊びましょうよ、ちゃんとあんたがトップになるまであたし待っててあげるから。約束は守るから」

「……何を言って」

「それとも」


 刹那、弥汐の姿が消えた。反応の遅れた彪のすぐ後ろから細く白い手が伸びる。握られていたのは注射器。黒い液体の入ったそれに、彪の直感が危険信号を出した。


 ――〝玖泉〟。


「あんたがこのゲーム、やらないって言うなら今すぐあんたにも客の全員にも、何も知らないメイドちゃん達にもこれを打ってあげる。傑作ね! もう分かるでしょ?」

「……まさか」


 静かな声が、彪の鼓膜に反響する。


「あたしはあんたらの追ってる、〝夜淵〟のメンバー。あんたらが喉から手が出るほど欲しがってる〝夜淵〟の内情ぜぇ~んぶ知ってる訳。もしかしたらあんたの頑張り次第で、少しだけ分かっちゃうかもよ?」

「…」

「ほらどうするの? やるの? やらないの? 全員の命を握ってるのはあたし。御前は単なる鼠。……立場を弁えて喋りなさいよ」


 針が首元に刺される。力を入れられれば間違いなく服用する事になる。

 彪は渋々両手を上げて降参のポーズを取り「分かった」と一言呟いた。…然し、針が抜かれる様子はない。


「……分かりました。皆瀬さん。そのゲーム、やらせて頂きます」

「上出来。目上の人間には敬語を使わなきゃ。じゃあ来て、あんたの指導係を紹介してあげる」


 彪の言葉ににこやかな笑みを湛えてそう言えば弥汐は針を抜き、奥の扉を開いた。そして大声で「かぐや~!! ちょっと来て!」と叫ぶ。


 少しして、ぱたぱたと慌ててやって来たその少女は怯えた瞳をこちらに向け、今にも泣きだしそうなか細い声で何かを呟いた。

 …何も聞こえない。その様子に、弥汐は笑顔のまま声を上げる。


「かぐや、何時も言ってるよね! もっと大きな声出せって」

「はっ……はい。……す、すみ、ません……。あの…こ、こ、こちらの、方は…」

「今日から働く事になった、狗山芽衣さん! かぐやもうアンタも働いて三年でしょ。そろそろ先輩として後輩に指導する頃合いよ」

「えっ、わ、わた、わたし…が……? そんな、の…」


 不意に弥汐が、かぐやと呼ばれた少女の桜色の髪を乱暴に掴み上げた。そのまま頭を壁に打ち付けて――、先程彪に向けて発したのと同じ低い声でかぐやを恫喝する。


「………〝はい、分かりました〟は?」

「は………、はい、わ、…分かり……ました……」

「いい子。じゃあ……せいぜい頑張ってね、かぐや、芽衣」


 弥汐はそれだけ言うと奥の扉をさっさと開けて出て行ってしまった。ずるずると解放される様にかぐやと呼ばれた少女が床にへたり込む。慌てて傍に近寄り、その肩に触れた途端少女は大袈裟な程に身を震わせ、そしてあははと笑った。


「あっ、あ…すいません。あの……えと。わ、わたし、織川月姫おりかわかぐやと、言います。宜しく、お願いします…い、狗山さん……」

「…はい。こちらこそ…だ、大丈夫、ですか?」

「あ、はい! い、いつもの、事、なので…」


 ぎこちない挨拶の後に続く会話はなく、月姫はあたふたと手を動かしながら「店内、案内しますね…」と言うと、弥汐が出て行った扉を開けて先導し始めた。


 店内は普通のメイド喫茶と同じ様な作りだった。

 黒と紫を基調としたゴシックスタイルの様相、たまにさし色で桃色や空色があしらわれている箇所もあり、雰囲気は穏やかで窮屈さは感じられなかった。

 彪が着るメイド服はサイズがぴったりだったのだが、ロングスカートでなく弥汐が着ていたぎりぎりの丈のミニスカートを渡されてしまった為、太ももが露わになってしまっていた。… それでも男とは区別出来ない程、細かったのだけは救いか。

かぐやがフォローのつもりで「似合っています!」と言ってくれたものの、彪は一人でに自嘲していた。


 スタッフルームも普通の控室と大差ない。キッチンに仮眠用のソファ、奥に数台のドレッサー、カーテンで仕切られた向こう側にロッカーがあると言うものだった。

 監視カメラの類も見た感じ取り付けられていない。…防犯上で絶対の自信があるのかはたまた、スタッフに気付かせない為か。


「…以上が、業務の内容です。お客様の注文通りに、フードやドリンクを作って……配膳して…、えと、この所々にあるサービスタイムでは、お客様とじゃんけんしたりして…にゃんチェキ撮ったり…、あ、呪文リストも渡さないと…」

「……にゃ……じゅも……? あの、織川さん。単刀直入に聞きますが、このお店ってそういういかがわしい事とかってしておられないんですか?」

「い、い、いかか、いか、いかがわし……ッ!? し、知りませんわたし……。わたしがやっているのは、本当に…お掃除と皿洗い位で……」


 月姫は目をぐるぐるとさせて激しく否定した。――否定したのは、自分だけだ。


「……何か、知っているんですか? あなた〝が〟やっているのはそれだけだと仰いましたが」

「えっ、いや、ほん、本当に違うんです!! わたし、わたしは何も…ッ」

「……そう、ですか」


 泳ぐ視線、上擦る声、言葉終わりの唇の動き。


 明らかに嘘をついている。これ程分かり易い子は早々いない。弥汐はゲームだと言って彪がトップになれば全てを教えると言っていた。だが、彪は勿論そんなまどろっこしい事をしている暇などない。どうやって月姫に知っている事を吐かせようかと思案していると、スタッフルームの扉が開いた。どちらも地雷系と呼ばれる化粧に髪型の少女だ。


 二人のメイドは一瞬目を見開いたが、やがて笑顔を貼り付けて彪に言葉を掛ける。


「あれ、新人さ~ん? あたしリツ! 薺井律都なずないりつって言うの。宜しくね」

藤乃春南ふじのはるみで~す。ハルで~す。」

「初めまして、今日から働かせて頂く事になりました。狗山芽衣と言います。宜しくお願いいたします」

「あっは、めいちん堅過ぎ~~。良いよ全然敬語じゃなくて~、超しっかりしてるじゃん」

「物覚えも良さそ~う! 凄い字きれ~い! これメモ? すご~~い」


 二人は彪の取っていたメモを見ながらきゃっきゃと騒いでいたが、既に空気になりつつあった月姫に春南が気づき、唾を吐くようにこんな事を呟いた。


「三年も働いて未だに指名なしの雑用ドクズとは出来が違いそうだね~~」

「てか、かぐやが先輩指導? こんなの当てられてめいちんかわいそ~。あんまりコイツの言う事聞かない方が良いよ~。給料泥棒って言われてる位何も出来ないから」


 クスクスと二人が笑う。余りにもどす黒い悪意が満ちている。

 彪は何も言えなかった。


 やがて着替え終えた二人は「めいちん、これから頑張ってこうね!」と別れ際、明るい笑顔で手を振りその場を後にして――、スタッフルームには重苦しい空気だけが残っていた。


「……じゃ、じゃあ…あの、……わたしの仕事…ですけど……、な、慣れる為に…、一緒に、やって、みます、か」


 そう提案する月姫の表情は暗い。当たり前だ、きっと先輩指導なんてしたくもなかっただろうに弥汐に無理矢理押し付けられ、新人の前で恥をかかされたのだから。


「……織川〝先輩〟は悔しくないんですか」

「……、え、な、何が」

「皆瀬さんにしてもあの二人にしても…、何も口を出さないのは、見ていて歯がゆいです」

「……良いんです。……本当の事、なので。ほら、早く、仕事、しないと、ですから」


 月姫は、無理矢理笑顔を繕い彪に向けて見せた。

痛ましい、そう思う事しか出来なかった。彪はまだここに来たばかりだ。何の事情も理由も知らない。勝手にでしゃばる事がかえって月姫の迷惑になるなら、今は口を閉ざすしかなかった。



 こうして彪は「ないと★どり~みん」のメイドとして働き始めた。



 初めは皿洗いや掃除のみだったが、徐々に仕事も覚えて行き一か月後には配膳を任され、客とコミュニケーションをとる事も多くなった。はきはきとした物言いや丁寧な態度が客にも好印象を与え、その反面かなり恥ずかしがりながらサービスタイムをこなす表情がギャップだと判断されたらしい。

 当人である彪は、サービスタイムの度に客と体を近付けなければならない為、バレやしないかとひやひやしているだけだったのだが。


 気付けば働き始めてもうすぐ二か月目だ、とスタッフルームで彪は煙草を吸いながら給与明細を見ていた。皆瀬弥汐が〝玖泉〟の入った注射器を持っていた時点でアウトなのには変わりないが、この店自体におかしな点はない。雪平全も佐久間麗もどこで、どの様にしてあんな状態になってしまったのか、一向に新しい情報が無いまま日々が過ぎていく。


『まだ収穫無し? 割と堅牢だね、その店のシステムって奴は』


 夕方のシフト休憩中。突然の乱からの着信に声を潜めて応対する。


「…すいません。本当に店自体がクリーンで…。何であんな事になったのかお、……私にも全く見当がつきません」

『まぁ良いか。焦る事は無いし、どの道トップになれば皆瀬弥汐が全部教えてくれるんでしょ? トップになっちゃえば?』


 電話口の向こうで複数人の笑い声が聞こえた。

 彪は「嫌です」と間を空けずに即答する。


「…と言うか。何してんですかアンタ。声的に皇牙や狗神では無いですよね…まさか」

『今日は給料日だよ~! 二十日締め!! 酒飲みたい放題~!! 彪君も来る? 仕事終わりに! あはは!!』

「…………俺が本部に帰る頃にはアンタ酔い潰れて寝てるに一票です。では」


 液晶画面の赤いボタンを割れそうな程力強くタップして通話を切る。

 自分の仕事とは言え、こうものけ者にされているとそれはそれで面白くない。こっちはやりたくない女装で週五フルタイムでバイトさせられて。休みの日は組の残った仕事に追われてイライラしていると言うのに。


 考えれば考える程に彪のストレスが募る。それは無意識に独り言が零れる程。


「大体二十日締めで飲みまくるって何だ。絶対俺が居ないからって本部で好き勝手やってる…」

「…山、さん……」

「あ~もう! 皇雅はマイペースだし狗神は乱さんの言う事しか聞かないし何なんだよあの組はぁぁ~!!」

「……あの、狗山さん……」

「何ですか!? 今俺休憩………ちゅ……」


 そう。だから気付かなかった。

 休憩時間が三十分、月姫と被っていて。月姫がスタッフルームの扉を開けていた事に。


「あ、え……と…、あの、すいま、せん……、えと…い、狗山さん……あは、あ、あれ、ですかね…お、俺って言う女の子、今時珍しくもないですし…」

「………」

「あ、あの、ほ、ほ、本部も、あれ、ですかね……何か、他のお仕事とか……えへ、そ、そうで、すよね……えと……ら、乱って……、その…」


 気付いている。分かっている。

 この地で〝乱〟と名前の付く人間は一人しか居ない。会話を最初から聞かれていたのならば、もう致し方ない。彪は大きく溜息を吐いて免許証と代紋を月姫の目の前に出す。

 月姫はそれだけで察した様だった。


「申し訳ございません、…今日終業次第お時間ありますか」

「……え」

「お話があります、ご協力を…」


 そう言って足を踏み出したその時。





「こ、来ないで!!!!!」





 二か月、ずっと一緒に居て初めて月姫の大声を聞いた。その目は恐怖に支配されていて。その身体は小刻みに震えていて。直感で分かる、これは力の大きい者に対しての防衛反応だ。


 そのまま月姫はロッカールームへと姿を消してしまった。

 一人取り残された彪だったが、後三十分で休憩も終わる。


扉を開けて非常階段の方へ歩いて行き――、そしてしゃがみ込んだ。


失態だ。幾ら何でもストレスが溜まっていたとは言え、あってはならないミスを犯してしまった。そして、


「…駄目じゃない。本業の連絡は敷地外でしないと」


 そんな艶やかな声が彪のすぐ耳元で聞こえた。気付いた時にはもう遅く彼女は彪の襟首を掴み、地面に引き倒す。弥汐はその上に跨って愉しそうな表情を浮かべ言葉を続ける。


「がッ……、み、皆瀬…弥汐…ッ」

「ねぇ、芽衣ちゃん。別にアンタがトップになる為に正体をばらすのも一つの手段よ。あたしは別にこのゲームにルールなんて設けてないもの。まぁそれをしたところで待ってるのは解雇、だろうけど」

「……どけ」

「でも良くやるわね。指導役にしたのはあたしだけど、味方に月姫を選ぶなんて。手玉に取り易かったでしょ? あの子は言えば何でもしてくれるわよ」

「そんなんじゃ」


「そうね、言えば……、ヤらせてくれるんじゃない? 実の父親にいっつもヤられてるみたいだし!! あっはは!!」


 彪の手が止まる。

 面白くて仕方ないと言う風に弥汐は更に言葉を繋げた。


「あの子早く家を出たいんですって。今高校三年生? だったかしら。自分でお金を貯めて玖都の外に出るって。客は男だけど良いの? って聞いたら時給が高いし我慢するって言ったんだけどね。案の定サービスタイムで吐いてそれからずっと雑用よ。可哀想だからそれさえやってくれれば働かせてあげるって約束したら泣いて喜んでたわ。…まぁ他のメイドには馬鹿にされまくってるけどね」

「……そんな、事をどうして俺に」

「ヒントよヒント! 味方にしたいんでしょ? こっちが有利過ぎるゲームもつまんないから、平等に行こうじゃない」

「……っ」


 弥汐の身体を突き飛ばす。

 未だににやにやと笑っている弥汐だったが、それを無視して彪はスタッフルームへ足を運んだ。その扉をノックしようとして――、その手が止まる。


 胸のわだかまりが取れない。



 きっと怖い思いをしただろう。

 今迄二か月、すぐ傍で男が働いていたんだから。



 裏切られた気分だったろう。

 きっともう、話は聞いて貰えない。



「……ごめん、なさい」



 届くかも分からない謝罪を、口にする事だけで今は精一杯だった。






 次の日から彪と月姫は全く言葉を交わす事が無くなった。その雰囲気を察してか律都と春南が彪に話しかけたり、一緒に休憩を取ったりとこちら側へ引き込む素振りを見せ始めていたが、月姫は何も言わずにただただその光景を見守っている様だった。


「めいちん、これ三番お願いしま~す!」


 土曜日のかき入れ時。店は何時もの様に満員で、ホールも厨房もスタッフが忙しなく動き回っていた。彪も例外では無く、すっかり人気になってしまったが故にテーブルからテーブルへと移ってはお決まりの呪文と笑顔をばらまいていた。


 と、その時突然奥からガタンと大きな音が聞こえてくる。


 恐らく月姫の居るトイレの方からだ。何時もドジばかり踏む彼女なので、他のメイドはまた失敗でもしたのだろうと気にも留めなかったが、彪だけは嫌な予感が胸を掠めた。広いとは言え、幾つもの抗争や潜入を引き受けてきた彪にとっては狭すぎる程の店内だ。常に全員の位置は把握している。


 ――客の一人が、トイレに居る事も。


 慌ててトイレに向かい、清掃中の看板を蹴り飛ばして扉を開ける。

 そこには洗面台を背に座り込む彼女と、ズボンのチャックを全開にした太った男が立っていた。扉が開いた音に気付いたのか、男は呆けた顔をこちらに向け、――彼女は涙で濡れた瞳を彪に向けていた。



 一瞬で状況を理解、把握し彪が動く。



「……に、やってんだこの変態がぁッ!!」



 ふわりとスカートが揺れる。身体を捻り、眼前で片足を踏み込み。

 男の顎めがけて思い切り掌底を入れた。



 男性は後方に吹き飛ばされ、トイレの仕切り壁に激突しその意識を飛ばす。



 月姫の視界に汚いものを映さない様に、と慌てて男性の身体を個室に押し込める。こんな卑劣で醜悪な人間、本当なら問答無用で頭を吹き飛ばしてやりたい所だったが、生憎今は拳銃を所持していない。

 命が助かっただけでもラッキーだな、と心の中で吐いていればか細い声が後ろから響いた。


「……どう、して」

「え? 嗚呼、物音がしたので」

「……でも、…こんな事したら…」


 月姫は客に暴力を振るったことを心配している様だった。彪が手を洗ってそっと視線を合わせる様に座り込む。相変わらずビクついてはいたが、来ないでと言う言葉は紡がれなかった。


「だからって織川先輩をあのまま放っておけませんし。他に何かケガはないですか?」

「…だ、大丈夫。……あの」



「有難う、……狗山さん、わたし」



 その声の続きは遅れてトイレに入って来た律都によって掻き消された。


「ちょっと何やってんの二人共?! ほら早く立って! めいちんはホール!! 何泣いてんのよ大丈夫?!」

「あ、は、はい! ごめんなさ」

「……――」


 慌てて立ち上がろうとした彪のエプロンの裾が引っ張られる。月姫は何かを決心した様な瞳で彪を見つめていた。その視線に思わず唾を吞む。


「……待って、ます。仕事終わり、店の裏口で」


 そう言えばさっさと立ち上がり、掃除用具を集めて月姫はトイレから出て行ってしまった。

 気付けばここで働き始めてから二か月と二週間が経っていた。






 午後二十二時。ビルから出れば、肌寒い空気が纏わりつく。

 少し離れた場所で、マフラーを巻き普段着らしいモノトーンのコートを羽織った月姫が立っていた。ぺこりと頭を下げて合図する。


「…じゃあ、何処か話せる場所…カフェとかで良いですか」

「あ、あの…誰かに聞かれたら、困るので……あの……」


 言い淀む彼女は、ちらりと代紋を見た。


「嗚呼……じゃあ本部で良いですかね。もう皆帰ってるでしょうし」

「は、はい…ありがとうございます…」


 店から離れたパーキングに向かう。メイド喫茶で働いている人間がいかつい車に乗っていると知られたくないし、ナンバープレートで連龍会の人間だとバレる恐れもある。後部座席にしますか? と問い掛ければ、彼女は「助手席で大丈夫です」と答えた。

ここから本部迄は車を飛ばしても一時間近く掛かる。暫くは沈黙が車内に充満していたが、それを破ったのは月姫だった。


「……わたし、男の人が、怖いんです」

「…」


 ハンドルを強く握りしめる。…何か言うべきなのか、言葉を探している間にも、月姫は視線を自分の膝に落としたまま話し続けた。


「兄も母も居るんです。家に。でも DV が酷くて、わたしの事は庇えないみたいで。今あそこで働いてるのも〝塾に行ってる〟って嘘ついてるんです。…早く家を出たいから」

「……御父上から、性的暴力を受けていると…、その、あの日正体がバレた後で皆瀬さんから聞きました。すいません…」

「…良いんです。ごめんなさい、怒鳴ってしまって……琴継さんはそんな事しないって…、思ってますから」


 そう言葉を紡ぐ月姫の腕が強く握られて、震えているのが分かる。きっと今も葛藤しているだろう、彪は何も言わなかった。


「…初めは、気の迷いだと思ったんです。でも小学校上がる位からお父さん、人が変わった様に…… 毎晩……、お母さんやお兄ちゃんには、暴力を振るうだけで」

「…」

「わたしが、落ちこぼれだからですかね。お兄ちゃんは頭も良くてスポーツも出来て…、わたし、馬鹿だから、…お父さんは、これは教育だって言ってました」

「…そんな事、馬鹿げてる」


 赤信号に変わる。停車して、彪は月姫の方を向いて口を開いた。

 瞳を潤ませた月姫が、じっと彪を見つめ返す。


「暴力を振るう事が何の教育に繋がるんですか? 暴力で何もかもを支配してそれで満足なんですか? …そんな事したって、やられた方の人間の心は死んでいくだけなのに…。貴女は、何も悪くないのに……」


 かつての自分と同じ様な事をしている人間に心底腹が立った。暴力を受けなければ人は変わらない。自分んが正しい事をしてやっていると言う気持ちになっていた自分と、月姫の父親が重なる。

 そんな事実に、吐き気がした。

けれどその怒りを月姫に吐き出したところで現状が変わる訳ではない。分かっているのに、吐き出さずにはいられなかった。


「…ありがとうございます。わたしは、大丈夫ですよ」


 信号が青に変わる。

 そう紡がれた月姫の言葉は、余りにも脆くて、彪にはこれ以上触れられなかった。


 本部はすっかり灯を落としていて、今や起きている人間は居ない。

 こっそりと裏口の鍵を回し、奉日本組の敷地へと入る。本部内は化野の家屋と、蛇牀組と奉日本組の敷地、そして他の直参の敷地とで分かれている。綺麗に整頓された蛇牀組の敷地内とは打って変わって、こちらはさびれた鉄くずや回収したものの放置されたゴミなどが散らばっている。何時もは彪がまめに掃除をするのだが、今は長期的な調査で組の掃除に迄頭が回らない。


 こうもゴミ屋敷になるか…と半ば呆れながら、臨時の仮眠室へと月姫を案内する。

 このままの方が月姫も落ち着くのではないかと思い、女装したままで居ようとしたが「着替えて下さって大丈夫ですよ」と言う月姫の言葉に甘える事にした。


「珈琲で良いですか? ウチそれ以外だと酒しかなくて…」

「大丈夫です。ありがとうございます」


 珈琲の香りが仮眠室に広がる。何時の間にやらマフラーとコートを脱いでいた彼女の首には痛々しいあざが見て取れた。そう言えばメイド服もクラシカルタイプで襟が立っていた筈。…傷を隠すのにも苦労しているのだな、と人知れず心が痛んだ。


「…それで、お話、と言うのは」

「……、以前…いかがわしい事をしていないかって…琴継さん、聞きましたよね。わたしは本当にしていなかったんですけど…弥汐さんや、…後他のベテランメイドさんは通常の業務とは別にもう一つ仕事があるみたいなんです」


 そう言ってスマートフォンを操作して、ある一人の少女の写真を見せて来た。一人が月姫で、もう一人が優しそうな目をしたツインテールの少女だった。仲が良かったのか二人共ピースサインをして写っている。


「彼女…上原七季うえはらななきって言うんですけど。…わたしに色々教えてくれた先輩で…でもある日、トップの売り上げを記録して、〝VIPルーム〟に異動になって……」

「VIPルーム…?」

「七季先輩が、…居なくなる前にわたしにくれたMINEです。…これ、…」


 ひらがなの長文で綴られたそれに、目を通す。

 そうして、言葉を失った。


 皆瀬弥汐が何故トップになったら教えてあげると言ったのか。

 意味が分かった、気がした。


『かぐやへ。

ごめんなさいもうあえない、いまからいうことはほんと、ここにきちゃだめ。 びっぷるーむはばいしゅんみたいなとこ、ずっときゃくとめいどがやってる。

ときおりくすりをのまされるの、すごくきぶんがよくなるからまやく? だとおもう。

いまもさむくて、ときどきめがみえなくて、よるがきたのかとおもうくらい。

いえにかえりたい。おーなーがわらいながらしんじゃがふえてる!ってさけんでる。

しんじゃってなんだろう。うごかなくなっためいどとか、きゃくはどこかへいっちゃった。

でもたぶん、たべてるの。

きこえるの、おくのへやで、なにかばりばりいってるの。

こわい。

わたしもしんだらたべられるんだとおもう。

かぐやはやくみせをやめて。

にげて』


「先輩も…、親とは疎遠で……わたし、先輩が居なくなった後に家に行ってみたんです。御両親は〝家出でもしたんだろう〟って言ってました。…わたし、何も、言えなかった」


 MINEの日付は一年前だ。恐らく上原七季の生存の可能性はゼロに等しい。

 食い入る様に画面を見つめていると、ふと視界が翳った。


「つまり、VIPルームと銘打って、本当はここで玖泉を打たれてヤリまくって〝共喰い〟させてたって事?だったら余程気持ち悪い趣味を持ってるよねぇ、ここのオーナーって奴はさ」

「?! ら、乱さん…音もなく入ってこないで下さい……」


 眼鏡を掛けた普段着の乱が笑いながら、自然な流れで彪の珈琲に口を付ける。そしてまじまじと月姫を見た後に何かを察したのか、考えられない程穏やかな声で「俺も同じ人間だよ」とだけ囁いた。

 何か伝わったのだろうか、月姫は警戒していた表情を崩して口角を緩めた。


「ん~成程。トップになればVIPルーム行きが濃厚になる。指名の太客が何人も居れば、それらまとめてVIP送りに出来るんだし。…玖泉、嗚呼…ええとこの麻薬は特別に高い。しかも服用すれば辞められない。金を引き出すだけ引き出させて使い物にならなくなったら喰わせる… か。メイドの回転率も速くていいね。トップの子がのさばらない、何時でも新規客を取り込めるいいサービスだ。だから常時メイドも募集してんだろうね」

「…でも、人気のメイドを喰わせるって…。普通は人気のない子がそっちに行くのかと思ってました」

「客が居ないと始まらないシステムだからじゃないかな? 集客はほぼSNSで、訳アリのメイドや客が多い。発端の被害者も元は引きこもり、上原さんも家族とは疎遠。でも織川さんはかなり過干渉な父親が居る。それこそVIPルーム行きにしたら、怒ってもっと大事にしそうな爆弾がね。オーナーはそう言う所を見て、事件が公になる可能性が低い人をVIPルーム行きにしてたんだと思う」

「じゃあ、わたし、…お父さんのお陰で、…助かってたん、ですかね」

「…」


 その言葉に、誰も何も言えなかった。酷い事をされていると言うのに、月姫からはどうしたって父親を怨む気持ちが見て取れない。…きっとまだ信じているのかも知れない。彪はいたたまれなくなって、乱に視線を移した。

 乱は苦笑いを浮かべながら、MINEのやり取りを撮影しつつ口を開く。


「…でもこれで証拠が出たね。少なくとも何処かにVIPルームは存在し、そこでは玖泉が乱用されている。夜淵の信者集めが目的なのかどうかは知らないけど、そうであるならぶっ潰すまでだ」

「えっ」


 乱からスマートフォンを受け取った月姫が、大きな声を上げた。

 その目は怯えながらも、真っすぐだ。


「あそこが無くなったらわたし…、お金、どうやって貯めれば…」

「ええと、君は今いくつだっけ」

「…十八歳です、……」

「嗚呼、そうか。…訳アリなんだよね。話を聞かせて貰ってもいい? 君が性的虐待と暴力の被害者なのは見て分かったけど、やっぱり詳しい事は何も分かんないから」

「えっ」


 見て分かった…? と驚きに満ちた目を向ければ乱は薄く笑う。


「本当の親からじゃないし、性的虐待は無いけど暴力を受けた人間は分かるよ。…傷もあるし、ずっと視線がうろうろして落ち着きがない。だから言ったでしょ、同じ人間だよって」


 月姫は頷いて、途切れ途切れに言葉を吐き出した。車中で聞いた話の他にも耳を塞ぎたくなる様な話が出る。一体何年、家族で耐えていたんだろう。彪は何故か自分が泣きそうになるのに気づき、大きく深呼吸をする。乱はただ黙って、月姫の言葉を受け止めていた。

 軈て、泣き崩れて言葉にもならない声が聞こえなくなるまで、しっかりと受け止めていた。


「…じゃあ、彪君。VIPルームの所在が分かったら作戦を立てて突入。それからの事は幾らでも何とかなるよ」


 泣き疲れて眠ってしまった月姫に布団を掛けながら乱が言う。

 お金を貯める場所が無くなれば、彼女があの家に居る時間が伸びる。けれどこのままメイド達や客をあの店に通わせる訳には行かない。


「…新しいメイド喫茶でも作って頂けるんですか?」

「それもいいかもね! 団地の商業エリアにまだスペースあるでしょ。健全なメイド喫茶、作っちゃうか~。ま、又考えとくよ。今日はもう寝な」


 けらけらと笑いながら、乱は部屋を出て行く。

その背中を見守って彪も布団へ入れば、眼前に月姫の泣き腫らした顔があった。もう何度泣き通した夜を過ごしたんだろう。

 今日だけは深く眠れますようにと。強く、月姫の手を握り締めながら彪も眠りに落ちた。



「受け皿、作るんすか」



 仮眠室から出れば、眠そうな目をした皇雅が立っていた。

 そっと眼鏡を外して、何時もの笑みを浮かべる。


「なぁに? 反対? 確かに風俗系は聖さん所担当だけど。俺の我儘なんだしそれ位は管理するよ」

「違います。又負担がかかるじゃないですか」

「嗚呼、彪君なら大丈夫だよ。代わりに外に出る任務を減らしてあげて」

「アンタだよ」


 脇を通り抜けようとしたその腕が強く掴まれ壁に押しやられる。

 何とも言い様の無い威圧感が、乱の動きを止めた。


「アンタ、自分の仕事量ちゃんと見えてます? 何でもかんでも首突っ込み過ぎ。一緒に背負い過ぎ。…部下に頼らなさ過ぎ」

「………」


 瞬間、真顔だった乱の表情がにやりと悪戯っぽい笑みに変わる。

 あ、これ面倒な奴だ、と皇牙が引くのとほぼ同時に首の後ろに手を回し、顔を近付けた。


「皇牙君頼って欲しかったの~~?? なぁんだ、拗ねてたんだぁ!」

「うわ…めんどくせ~、違います。もういいですアンタなんかどっかで野垂れ死んでください」

「ねぇ、さっきから上司の事御前とか死ねとか酷くない?! うわ~ん、皇牙君が反抗期だよ~」


 振り払われたものの皇牙の手を無理矢理繋げば、まるで純粋な子供の様にはしゃぐ乱。

 二月の凍り付く様な夜、軈て空から雪が降り始めた。






 冬の朝は寒い。

 目が覚めると、彪の視界には月姫の寝顔が広がっていた。


 驚きで声も出ない彪は、昨日の記憶を必死に辿り――、そう言えば夜通し見守っているつもりが自分も眠くなってしまい一緒に寝たのだと理解し、ロボットよりもぎこちない動作で起き上がった。

 月姫は良く眠れた様で朝に乱の部屋へ赴き、お礼を伝えてから本部を後にした。


「…本当にありがとうございました。今日はお休みなので、家に帰って勉強でもします」

「……そう、ですか」


 家と言う言葉に、安心出来ない彪が微妙な表情をしている事に気付けば、月姫は何故か微笑んで口を開く。


「…ふふ。大丈夫ですよ。…もう何年もこんな感じですから」


 そう言って笑う。

 彪は、何も言えなかった。


 こういう時に気の利いた言葉位掛けられれば良かったのだろうと思いつつ、その背中を見守る事しか出来なかった。



 それから四日後。

 彪と月姫はとうとう、VIPルームの所在を突き止めた。



 現在VIPルームに異動になっているメイド達は、上原七季の様になっているのであるならばそこから出て来れない状況にあるのが妥当だろう。実際、シフトには休みと記載されているVIPルーム行きのメイド達に連絡を取ってみても、音信不通で家族に事情を説明しても〝帰ってきていない〟と確認が取れた。

それ故、二人は自由に出入りをしている皆瀬弥汐に目を付ける。

 少しずつ距離を詰めて、漸く彼女が【VIPシフト】とスケジュールに記載している日、喫茶本店のビルの地下に入って行く所を捉えたのだ。ただの物置なのだろうなとしか思わなかった扉の先に、暗い廊下が広がっているのをこの目で見た。


あそこが地獄の入り口に違いない。


 奉日本組の本部では各々が武器の調子を見たり、装備品の確認を行っていた。

 今日は彪も居る。勿論、メイド喫茶は無断欠勤だ。然し何ら悪びれる事は無い、――今日でメイド喫茶は閉店するのだから。

 彪は煙草に火を点けると、ゆっくりと煙を吐き出した。


 緊張しているのかも知れない。

 抗争は何時ぶりだろう。未だに慣れない人間の中身の匂いを思い出しては眉根を寄せる。今から行く場所に何があるのかは分からないが、少なくとも綺麗なものが落ちている可能性は極めて低いだろう。


「…ていうか、何で乱さんと二人なんですか? 皇牙と狗神は?」

「二人は別件だよ。まぁ俺と二人なら余裕でしょう。皆も居る事だし」


 構成員十余名と組長、本部長と言う編成だ。狭いビル内だからこの位の人数がベストなのだろう。車は直ぐに目的地へと到着し、構成員の半分がメイド喫茶に向かう。客とメイドを逃がし、それから本丸の地下を潰そうと言う魂胆だ。

 月姫からは数分前に弥汐が地下へ行ったと言う報告を受けている。了解、と返信を打ったのだが未だに既読が付かないのだけが気がかりだ。しかし決行するなら今。

合図をして扉のノブに手を掛ける。


 地下への扉の、――鍵は開いていた。

 嫌な予感が、二人の脳裏を過る。今迄公に出る可能性を考慮しながら、散々荒稼ぎして来た弥汐の事だ。タイミング的に罠を張っているとも考えられる。


 それでも進むしかなかった。光の灯らない廊下を慎重に進んでいくと、微かに奥の扉から物音がした。扉の隙間から白い光が漏れている。

乱がノブを回し扉を開け放った瞬間、醜悪の権化の様な性の匂いが広がった。


「――っ?!」


 さながらそこは地獄だった。

 狂う人。

 重なり合い、笑い、性をまき散らす人。

 腕がもげても、化物の様な見た目に変貌しても、その人達はまぐわう事をやめなかった。



 人生で二度と見る事のない異様な光景に、思わず吐きそうになったが何とか堪え、彪は弥汐の影を探す。と、同時に腕を引っ張られた。乱が目で「ついて来い」と指示する。

 彼等を横目にまっすぐ進んだ部屋の奥、又も扉だ。慎重に開ければ、そこは更に地下に続いており、階段を下りきった先には広い、広い部屋があった。


「ようこそ、VIPルームへ」


 その中央に弥汐が堂々と立っている。彪は、すぐさま銃を構えた。だと言うのに、弥汐の表情は全く変わらない。それどころか、寧ろ愉しそうに見えた様な気がした。


「…これが、トップになれば全てを教えると言っていた事か」

「そう! トップになれば、VIPルーム送り! 客とアンタまとめてヤク漬けにして殺せたってのに、惜しい事したわねぇ」

「これも…夜淵の信者集めが目的か? …それにしてもさっきの部屋に居た人達は信者と言うより…」

「あれは餌よ。餌って書いて信者と読む。信者と書いて餌って読む、ふふ」


 にこやかに笑い、ステップを踏む。

 態とらしく舞う姿はさながらステージで踊るアイドルの様だ。


「…兎に角、詳しい話を聞かせろ。抵抗しないなら余り手荒な事はしない」

「え? まさか。まさか、アンタ達二人にあたしを止められるとでも?」

「……御前もどうせ化物になるんだろう。変貌個体は慣れてる」

「あはははは!! 慣れてる? …アンタが? …ふぅん、」


 彪の言葉を笑って一蹴する弥汐が指を鳴らした。刹那――

 化物の様な大きな腕が弥汐の背後の壁から飛び出て来た。瓦礫が舞う。

 その化物の腕の先には、小さな人影。


「…は?」


 その姿を、彪は良く知っている。

 メイド服姿の、月姫。ぐったりとしているが、呼吸はしている様だ。そんな月姫を掴む腕を撫でながら、弥汐は表情を崩さずに静かに呟く。


「殺せるもんなら殺してみなさいよ。撃てない? ほら、的はここよ?」


 トリガーを引く指が震える。

 撃てる訳がない。何かを狙ったって〝的〟が動くのは至極当然の事。

 発砲しない彪と乱に、弥汐は益々唇を歪ませて笑う。


「撃てないの? 口だけって事? …ほらそこの鼠、芽衣ちゃん。…銃を捨ててここまで来て。〝どうか月姫だけは助けてあげてください〟って土下座して」

「…」


 弥汐は自分の足元を指差して言う。


「…意地悪ばっかり言って悪いとは思ってるのよ? だから誠意を見せて? 約束はちゃんと守るから」


 彼女に良心があるとは思えない。罠だと分かり切っている余興。

 それでも、彪はやるしかなかった。


 銃を捨て、弥汐の元迄歩み寄り。その膝をついた。

 深く頭を下げれば、地面の冷たい感覚が伝わる。


「…どうか、織川さんだけは、…助けてあげてください」

「…ぷ、あははははっ! ほんとにやったの…、ええ、ええ。良いわ! 気に入った、返してあげる」


 その言葉が頭上から降って来るや否や、化物の腕が動いた。

 思わず頭を上げると、解放された月姫が地面にへたり込む様子が視界に映る。

 手を伸ばせば、届く距離。


「織川さ…ッ」




 その目の前で、弥汐が動く。

ポケットから注射器を取り出せば、彼女の首に素早く刺し込んだ。




 声を上げた時にはもう遅く。

 注射器の中身の黒い液体は残らず彼女の中に注入された。


「あ“…っ、う…」

「あっははははッ!! 約束なんてする訳ないじゃない!! ざぁんねん、打たれちゃったけどどうする!? あんたに殺せんの!? ほらほら早くしないとバケモンになっちゃうわよ!」


 苦し気な声を上げながら身体を小刻みに震わせ、何かを耐える様に大きく息を吐く月姫。それを嬉々とした表情で見下しながら弥汐が叫ぶ。乱も、彪も呆然とその様子を見つめる事しか出来なかった。

 このままでは、本当に彼女が化物になってしまう。



 ――脳幹を撃ち、その生命を終わらせる。



 やるべき事は分かっている筈だ。

 分かっている筈だった。理解したし、実践でもやり遂げる筈だった。


 ――ようやく気付いた。

 出来る訳が無い。




「…?」




 ――三分は経過しただろうか。


 月姫の身体は大きく変化する事なく、未だ息を切らして身体を震わせている。

 乱や彪、そして弥汐さえその状況を上手く呑み込めずに何も言葉を発せないでいた。


 五分、十分。

 幾ら時が過ぎても、月姫は変貌しない。


「…何で? 早く化物になりなさい、よっ」


 堪らず、弥汐が蹲る月姫の腹を蹴り上げる。


「御前っ、」

「彪君!」


 咄嗟に庇おうとした彪の身体を止めようと乱が叫ぶが一歩遅く。踏み出した彪は化物の腕によって薙ぎ払われ、後方へと飛んで行った。壁に全身を打ち付け、呼吸すらままならない。


 その傍には、自分が捨てた拳銃が転がっていた。


「クソ…何で? こんなコンプレックスの塊みたいな奴、すぐに変貌しないなんておかしい…」

「…っは、……わ、…わた、しは…」


 暫く暴力に耐えていた月姫だったが、突然弥汐の足を掴み血に濡れた顔を上げた。

 激しく咳込み、吐いた血が辺りに散る。吐血とは言い難い位の血液量だった。

 それでも彼女は、真っすぐ弥汐を見て、言い放つ。


「……わた、しは…、ば、ばけも、のに…なら、…ない」

「は…? 何…」

「わたしはッ……」



「やっと…、自分が、すきに、なれた、から…」



 消え入りそうな声が銃声によって掻き消される。

 弥汐が放った弾丸は、正確に月姫の右目を捉えていた。


 掴まれた腕を振り払い、倒れた身体に更に銃弾を浴びせる。


「はぁ?! 一体何なの? もう化物になるって言うのに最期の悪あがき? アハハ、気持ち悪い、御前なんか誰にも愛されなかった癖に!!父親に犯されて、母親には助けて貰えないッ、友達も居ない、ぼっちで!! 社会不適合者のッ!! クズの癖にッッ!!!!」


 最後の弾丸が月姫の頭を貫いた時、彼女の身体からはもう黒い血が流れ切っていた。何処がどの部位かも分からない程に破裂した肉体は人の形を辛うじて保っている様だった。


 それでも彼女は、息をする事をやめなかった。しかしその様子が、弥汐の癪に障ったのだろう。


「……気持ち悪い。さっさと死ねよ、ゴミクズッッ!!」


 拳銃を投げ捨て、指を鳴らす。地鳴りがしたかと思えば、倒れている月姫めがけて壁から化物のもう片方の腕が飛び掛かって来た。



「…織川さんッッ!!」



彪が叫んで身体を起こそうとするが間に合わない。瓦礫や砂埃が彼女の身体を打つ、そして化物の腕によって叩き潰される、――前に動いた影があった。



「…な」



 気付けば、化物の腕は手首が両断されていて。

あんなに瓦礫や砂埃で視界が不明瞭だったと言うのに、迷わず突っ切って斬りかかった、――乱は〝木刀〟を腰にしまい月姫を抱えて寸分の狂いなく、元の位置に戻っていた。


「……御前、まさか」


 そう言って、動かそうとした足から数センチ離れた地面に銃弾がめり込む。乱の右手には何時の間にか拳銃が握られており、有無を言わせないその雰囲気に弥汐の表情が硬直した。

 怒りも悲しみも、憎しみも最早浮かんでいない、ただ静かな瞳で弥汐を見る。



「もう良いでしょ。もう、…動かないでくれ」

「…」



 彼女の衣服は、今や血と肉で汚れきってしまっている。化物も腕が両断された事に驚いたのか、もう一つの腕は壁の奥へと消えて行った。そんな中でも、乱の言葉を受けても、彼女はやはり薄く笑みを浮かべていた。


「もう良いって…状況分かってる? 雪平全も、そろそろ化物になる頃合いよ。こんな所で道草食っててもいいの? 組長さん」


 揶揄う様に弥汐が乱を見る。

 乱は、話題を振られたものの表情を全く変えず、二の句を継いだ。


「そうだろうと思って、探偵君に任せてあるからそっちは大丈夫。…ビルの地下で爆発物は使えないし、御前の飼い慣らしてるペットの力も未知数。今考えてるのは、ここからどうやって君を連れ出そうかなって事だけ」

「……ふぅん。この期に及んでまだあたしを捕まえようとしてる訳? じゃ、そろそろ本気出してあげ」


 風を切る音が聞こえた、一瞬。

 弥汐の言葉が途切れ、彼女の頬から血が流れ出る。


 その血は、黒かった。


 乱の後方、吹き飛ばされた彪の弾丸が弥汐を掠めたのだ。

 余りにも突然の事で、弥汐はおろか化物も、乱ですらもその場を動く事が出来なかった。


「……へぇ、アンタ…やるじゃん。アイドルの顔を傷つけるなんて…」


 彪は臨戦態勢に入っている。弥汐も口角を上げてそれに応えようとした。

 その時。ふ、と表情を崩して弥汐が上を見る。


「…チッ、来やがったか」


 彪も遅れて天井から、サイレンの音や誰かが走る音が響いているのが分かった。

 恐らくは連龍会が呼んだ救急隊員や警察だろう、弥汐は再度短く舌打ちすると最後にとびきりの笑顔を貼り付けて手を振った。


「琴継彪、アンタ絶対許さないから。…また、ぜ~ったい、会いましょ」


 そう言って彼女が指を鳴らした瞬間。弥汐の姿は一気に霧散していった。気付けばあの化物ももう壁の向こうに気配を感じない。

 空気が軽くなったと同時に弾かれた様に彪は、乱と月姫の傍へと駆け寄る。


 彼女は、まだ息をしていた。


「……織川さん、織川さん…しっかりして下さい…」


 右目を潰され、残った左目ももう光を失いかけていたが、彪の言葉にぴくりと指が動いた。

 何も言葉は発されなかった。

 ただ、ほんの少し暖かい体温が、彪の手を伝わり。





 織川月姫は、目を閉じた。






「……彪君。処理は、やっておこうか。君は戻った方が」


 何時間、そこに居ただろうか。

 警察達を引き留めるのはもう限界だ。

 乱がそう言えばゆっくりと彪は頭をもたげ、ただ確かな口調で呟いた。


「俺がやります」


 光を失った瞳に、乱も「…そう」とだけ言い、その部屋を後にした。

 拳銃を握り締める。彼女の脳幹を確実に捉える。後は、引き金を引くだけ。


「…織川さん、…言えなかった言葉を、今言っておきます」

「貴女は……、強い人です」

「…塾だと嘘をついて、バレれば凄く怒られる事なのに、自分が、家族が逃げる為の最善の努力をした」

「…その為に、馬鹿にされても、酷い扱いを受けても、生きる事を辞めなかった」

「……本当に、強い人、です」

「俺も、貴女に、何か伝えたかった」

「…力に、なれれば、と」

「思って、」




「……嗚呼、すいません。…言葉は口に出さないと、伝わらないって……、…」

「……ッ、八年前に、…言われたはず、なんですけど…」





「…守れなくて、ごめんなさい」

「どうか、ゆっくり眠って下さい」





「…貴女を、人の形のまま眠らせる事が出来て良かった」




 撃ち抜いた直後。

 彼女の身体が淡紅色の花びらの様に舞う。少しずつ彼女の身体が融けて行く。


 彼女が生きた事実を、忘れない。

 彼女が足掻いていた人生を、忘れない。


 そうして、彪の手には、涙で汚れた血まみれの衣服と壊れたスマートフォンだけが遺った。







 時は遡り、メイド喫茶の地下突入同時刻。鼎総合医療センター。 繋は切れた唇から流れる血を拭い、目の前の異形と戦っていた。


 彪が「ないと★どり~みん」へ面接に行った直後、乱から呼び出しを受けた繋は今回の役目を引き受けた。メイド喫茶に潜入し、夜淵の関係者と相対するよりは簡単な依頼だと、その時は高を括っていたのだが。


「……化物になるなんて、聞いてないよ…全くさぁ!」


 集中治療室で異形化した雪平全はまるで大型犬の様な、けれど歪な頭や腕を振り回して手始めに母親を〝喰らった〟。

 首を引き千切り、丁寧に味わう様に咀嚼する様を呆然見つめる事しか出来なかった繋を他所に、彼は部屋を飛び出し次々と病院関係者を〝喰らったのだ〟。しかしそれでも満たされなかったのか、雪平全は今もこうして病院内で暴れ狂っている。


(ここには緋狼君のお母さんも居るのに…、これ以上暴れられたらまずい)


 警察が到着するまで暫く掛かる。

今戦える人間は繋だけだが、露木藍生と同じ変貌個体だからか攻撃も幾分か単調だ。避ける事自体は難しくない。――時間稼ぎ位は出来る。

標的を自分に定めて。他の人を襲わせない様に細心の注意を払いながら。


 その時、雪平全が飛び掛かった。鋭い犬歯をポケットナイフで受け止める。

 鎬を削る音、そして金属音。

 その瞬間、露木藍生との戦闘を思い出した。あの時もこのナイフで固い皮膚を斬り付けた。



刃毀れなんか、気にしていなかった。

不味い。



 ――繋の持っていたポケットナイフが、折れた。



「ッく、そ」


 動揺した繋に、すかさず雪平全は噛みつく。鋭い牙が肉を抉り、血管を引き千切り、骨を砕こうとする。


「ッあ“、痛……っ!!」


もう少し力を入れられれば腕が確実に千切れるだろう。それに、次は? 一瞬でも気を抜けば今度は首を持って行かれる。雪平全の口からぼたぼたと赤い血が床に滴っていく。

今振り払えるだけの手段も、武器も、繋は持ち合わせていなかった。




 ――やられる。




 瞬間、何か軽快な音が鳴った。それは雪平全の首元に命中し、噛み付いていた頭が離れる。

よろめく繋の身体を誰かが支えた。

懐かしい匂い、大きな手。見上げれば、ちゃんと整えているのか?と疑う程に印象の悪いもじゃもじゃ頭に趣味の悪い丸眼鏡、その奥にある切れ長の瞳の白衣の男。


「御前な、一人で無茶し過ぎだろ…」


 はぁ、と溜息を吐く彼に、繋はわざとらしく声を上げた。

 会うのは何年振りか。高校を卒業してからはすっかり顔を見せなくなった。


「だぁって、出来ると思ったんだもん、…パパ」


 繋の父親・初音央士はつねひさし、その人だった。


 雪平全はその後駆け付けた警察官によって脳幹を傷つけられ、――身体が消えた。死亡者怪我人合わせて二十余り。繋も例外では無く、すぐに手術室へと運ばれた。

 一時は騒然となった病院内だが、数時間で後処理は終了。気が付けば時計の針は午後四時を差していた。


 幸い噛み付かれた箇所を縫うに留まったが、後数分遅ければ腕の切断は愚か命に迄関わる様な傷になったに違いない。ベッドの上で溜息を吐く繋の傍で、央士が口を開いた。


「…こんなに大怪我したのは、左耳を千切られた時以降か」


 そっと、繋の髪に触れ何時もは隠れて見えない顔の左側を露わにする。そこに左耳は無く歪に縮こまった皮膚の残りと、左目の下に伸びる青黒い傷跡が痛々しく残っていた。


「…嗚呼、そんな事もあったね。あの化物にやられて、此処に来てアンタと出会った」

「…今も未だ探偵なんぞ続けてるのか?」

「悪い? 結構いい金になるんだよ。まさか玖泉と関わる事になるとは思わなかったけどね」


 玖泉、それ聞いて央士は視線を床に落とした。然し彼から何か言葉を紡がれる様子はない。

 繋が訝し気に彼の顔を覗き込めば、表情は翳っており顔色も幾分か悪くなっている。


「…どしたの、仕事に戻んないの?」


 その様子に異様な引っ掛かりを覚え、言葉を投げるも央士は黙ったままその場に留まったままだ。

 これ以上何も喋らないか、と思い視線を外したその時。


「…これ以上、〝玖泉〟に関わる事件を引き受けない方が良い」


 央士が静かにそう告げた。繋が驚きに目を見開く。


「……何で、アンタがそんな事言うの」

「…玖泉の怖さを知っているからだ。それにこれは御前の為でもあるが、緋狼君の為でもある」

「……え」


 央士の言葉は止まらない。


「彼等は、〝夜淵〟は人を殺す事に何の疑いも躊躇いも持たない。緋狼君の復讐の手伝い、及び劉楓の殺害を若し企てているなら……今すぐに辞めた方が良い」

「どう、し」

「必ず死ぬぞ。緋狼君も、御前も」


 今までだってどんな人間からも「復讐なんて馬鹿げている」だの「死ぬのがオチだ」だの吐かれた事はあった。それでも、こんなに心にずっしりと衝撃を与える様な言葉では無かった。


 だから大丈夫だと答えられた。

 どんな時でも、おれが守ってあげれば良いんでしょ、と軽く返せたと言うのに。

 今は何の言葉も出てこない。見つめる央士の瞳からは心配が見て取れた。きっと彼は家族として心配もしている。それは繋にも理解出来る。

 ただそれ以上に暗い、何か威圧の様なものが繋の心を押し潰そうとしていた。



 窓の外から差し込む夕日の赤が、白いベッドをゆっくりと焼き焦がして行く。

 どこかで、烏が一際大きく啼いた。








 次の日、小さなホールで月姫の葬式が執り行われた。

 彪は乱と一緒に月姫の母親に呼ばれたのだ。その真意は分からなかったが、せめて最期迄見届けたいと言う気持ちはあった為、参加させて貰う運びとなった。


 遺体を入れる為の大きな棺桶には、沢山の花と唯一笑顔で写っている月姫と上原七季の写真が入れられているだけだった。


 焼香を済ませて、彪はその写真の月姫と目が合う。

 いたたまれない気持ちと無力さに押しつぶされそうになって、思わず目を逸らした。



 何も出来なかった。

 ただ、それだけ。



 一般の弔問客は数人程度だった。けれどそこには藤乃春南と薺井律都も居た様で。

 彪が女装をして潜入をしていた事には驚きを隠せなかった様子だが、メイド喫茶の裏側を知れば助けてくれてありがとう、とお礼を述べた。

そして、月姫の遺影が立て掛けられている祭壇に向かって頭を下げる。二人も家族とは疎遠になっていた様だったが、これを機にもう一度ちゃんと頑張ってみる、と清々しい表情で語っていた。と、




「何故月姫が死ななければならなかったんだッッ!! この出来損ないがァッ!!」




 突然の怒鳴り声。何かが倒れる音と、割れる音。

反射的に二人共そちらを振り返る、――地面に倒れた車椅子、蹲る月姫の母親を若い男が庇っている。その男の上から初老の男性が二人を蹴っている光景が目に飛び込んできた。


「なぁにが塾だ!! そうやって噓ばかり吐いて、月姫は死ぬ事になったんだぞ! これなら静成しずなりに家庭教師でもお願いした方がマシだったな!! 御前はッ!! 俺のッ!! 娘をッ!! 殺したんだ!!!」

「御前も御前だ!! 何でこの二人を放置した!! この愚図が!! 頭がいいだけの、容量の悪いカスッ!! 御前等二人共ゴミクズだっっ!!!」


 顔面にめがけて男の革靴が振り下ろされる。

 がつ、と鈍い音が鳴って受け止めたのは彪だった。


「…誰だ御前」


 月姫の母親を車椅子に座らせ、乱が避難させる。

彪はその背を見送れば、漸く――父親と相対した。

皺の入った顔つきではあるが、厳格そうな父親だった。若い頃は相当美形だったのだろうと察せられる。これが教育と称して、自分の娘に手を出し、家族に暴力を振るった男。


「連龍会直参奉日本組本部長、琴継彪と申します。…この度、俺の不手際で、貴女の娘さんを殺しました」

「ッな」

「……貴女の娘さんと一緒に働き、手を繋ぎ、寝ました。そして殺しました」


 淡々と告げる彪の顔が殴りつけられる。

 血走った眼をぎらつかせて、父親は何度も何度も、倒れた彪の身体を暴力で支配する。


「人殺し!! 絶対に許さない!! 御前が死ねば良かったんだ!! どうしてこんな事にッ!! 俺の、俺の」

「どうして、…?」

「黙れッッッ!!!!!」


 飛んできた拳を呆気なく受け止める。

 掴まれた胸倉を引き離して、今度は彪が父親の襟を掴み上げた。



「どうして、こんな事に、なったかって? …アンタが最初から織川さんにあんな事しなければッ、彼女はメイド喫茶で働く事も無かった」

「ああ?! 御前」

「意味の無い暴力に耐え忍ぶ日々も無かった。アンタ言ったんだよな、教育だって。じゃあ、アンタもその〝教育〟って奴を受けたのか?」


 彪の言葉に、気圧されたのか父親が押し黙る。

そのまま気まずくなったのか身体を離そうとするが、彪の腕はびくともしない。


「違ぇだろ、勝手な事言って自分を正当化して、……現実も見ずに自分の娘を玩具の様に扱う、…確かに俺は殺した。でもな、……アンタだって」






「自分の娘をこんな未来に追い詰めた、原因の一つなんだよッッ!!」






 言い終わると同時に父親の襟を掴んでいた手を離す。

 他の弔問客も、父親も放心状態でその場に座り込んでいた。

だが落ち着きを取り戻したのか一言、



「俺は悪くない」



とだけ呟き、襟を正してホールから出て行ってしまった。

 そんな父親の背中を見送り、彪は踵を返して反対側のエントランスから出る。


正直、言い足りない言葉は山ほどある。

 それを全て吐き捨てたって、彼にはもう何を言っても届きはしない。分かっていた。

 でも、何かを言ってやりたかった。



 もう言葉を発せなくなった彼女の代わりに。



「格好良かったよ、彪君」


 車迄戻れば、月姫の母親と兄の静成と乱が待っていた。母親はぺこぺこと車椅子に座ってお辞儀を繰り返している、その瞳からは涙を溢れさせて。


「…本当にありがとうございました」


 静成が呟く。彼は額に大きな傷跡があった。

理由を聞けば、一度父親が逆上した時にタンスの角に頭をぶつけざっくりと額を斬ってしまったらしい。彪がそれを聞き言葉を失うも、彼は視線を落とし「僕はこんな傷程度で済んでしまいました」と小さく呟いた。

 母親の方はその時階段から突き落とされ、両足が上手く動かなくなってしまったらしい。生活的にも不自由になる身の上、どうしても父親の経済力に頼るしかなかったのだ。


「…月姫をホテルに逃がしても、三人で遠くに逃げても。彼は必ず追いかけてきました。…そうして多分、もう逃げる意志をなくしてやろうと、私の足を折ったんでしょうね。……彼は元々自尊心が高過ぎて…自分の言う通りにならないと、気の済まない人でしたから」

「…そう、なんですか。あの……」


 彪は母親の近くに寄り、両膝をついた。

 どんなに感謝されても、紛れもなく最期を送ったのは彪だ。謝らなければならない。頭を下げたその時。


「謝らないで下さい。…私、本当に感謝しているんです、貴方には」


 母親の優しい声が響いた。

 思わず動きを止め、彼女を見遣る。


「…学校にもバイト先にも居場所が無くて、ただ家と外を往復してた月姫が、二か月前から話す事は貴方の事ばかり。〝凄い人が入って来たんだ〟って嬉しそうに話してくれて。…少し前に男性だと知った時は悲しそうにしていましたけど。…それでも、貴方が暴漢から助けてくれた時は、もう、…」


「見た事もない様な笑顔で〝ヒーローみたいで格好良かった〟って興奮してたんですよ」


 そうして彼女は鞄から白い紙きれを出した。ノートの切れ端を四つ折りにしただけのもの。その外側には、女の子の可愛らしい文字で〝琴継さん〟と書かれている。


「あの子の鞄の底から出てきたものです。渡すか悩んだのだけど、…ごめんなさいね。伝えてあげたかったの。許してね」


 青々と澄んだ冬空に白い雲がぽつぽつと浮かぶ。

 母親と静成は、これから火葬場へ行くと言う。その内また、お墓にも遊びに来てあげてくださいと言われれば笑顔で「勿論です」と返した。


 二か月にも及んだ調査は、誰にとってもハッピーエンドとは程遠い結末を迎えた。

 それでも、もうすぐ春がやって来る。

































 〝今度、一緒にごはん食べに行きたいです〟





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