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玖泉  作者: 涼川怠惰


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7/7

第陸話




――ぼく、大きくなったらお医者さんになる。



 何時かの母の膝の上で、僕が口にした言葉だ。


 あの頃は希望しか胸に秘めていなかったと思う。これから生きていく世界は真っ直ぐで綺麗で、幸せが沢山あるのだと信じてやまなかった。全てのものに感謝したし、全てのものを平等に愛し、赦した。


 何時からだろう。歯車が狂いだしたのは。

 何時からだろう、

 

 歯車が狂いだしたのは。


 仕事に忙殺される日々の中で、子供だけが生き甲斐だった。

 この子さえいれば、もう他に私には何も要らない位。イライラさせる患者さんも、聞き分けの悪い同僚もこの子の声を聞けば全てがどうでも良くなってしまう。


 守るべき存在だった。

 守らなければいけなかった。



 僕が、彼女を。

 私が、この子を。



 でも今なら思う。守るべきものを背負ってしまえば、人間はとても弱くなってしまうと。否が応でも、力を欲する様になってしまうのだと。

 そしてその力を授けてくれる者が現れたとしたら。






 現れたとしたら、私は、僕達は――






 九重総合病院、職員食堂。

 ホテルの食堂や宴会場等と遜色のない広々とした空間に凝った内装は、全て院長である天空の指示で作られたものらしい。そしてどれだけ忙しくても必ず一時間しっかりと休憩をとり、ご飯を食べる事が規則に書かれているのだ。天空曰く『まず医療従事者や病院内関係者にとって働きやすい環境作りが重要』なのだとか。


 そしてその院内清掃員として配備された繋も、例外では無く。ここ二週間何十個のトイレや洗面台をピカピカにしており、今日も漸く上司のおばちゃんから休憩を取っても良いよと許可を貰い、――食事もとらずに机に突っ伏している。


 どうして繋が九重総合病院で働き始めたかと言うと。


 繋が景虎と和解したその数時間後。

 繋は九重総合病院特別棟のとある会議室に通されていた。暫く景虎の病室でぼーっとしていた繋のスマホに、一つの連絡が入ったからだ。差出人は莎朗。

 そう言えば以前連絡先を交換したっけ、と思いながらMINEの画面を開くとそこには短い文章で【九重院長が、景虎君の手術代の請求書を持ってくるらしいです】とだけ書いてあった。

 後で請求はたっぷりすると豪語していた天空だ、一体何千万を請求するのだろうか、この先の人生借金地獄になるんだろうか…と頭の中で考えていれば扉が開いて莎朗と天空が姿を現した。


「お待たせ。術前カンファレンスが長引いてね、…じゃあ早速始めようか」


 天空が繋と莎朗、それぞれに二枚の紙を渡す。

 そこに記載されていたのは数字――ではなく、【九重総合病院内の裏切り者について】と言う見出しがでかでかと打ち込まれていた。二人共顔を見合わせて天空を見る。


「請求はたっぷりするって言ったろ。…探偵と刑事なんだ、これ位無償で働いて貰っても文句ないよね?」


 ゆっくりと天空が立ち上がり、スクリーンに何かを映し出す。

 豪勢な扉に付けられた電子ロックだ。その表面は傷つけられ、文字盤や指紋認証の部分は何か粉の様なものが振り掛けられている。…誰かが解錠を試みた痕跡だろう。


「これは院長室の鍵。先日から、特別棟や院長室の鍵を開けようと企む奴がいる事が分かった。無関係な人間が迂闊に触れば警報システムが作動する筈なんだけどね。被害件数は三件、そのどれも警報システムは作動しなかった、そして監視カメラに入ろうとしてる人間自体が映っていなかった……どういう意味か分かる?」

「………遠隔ハッキングか、〝そもそも人間ではない〟て事ですかね」


 莎朗の言葉に天空が微笑を浮かべつつ、次のスクリーンを映し出す。

 今度は特別棟の電子ロックだ。人目につかない場所に仰々しく空港の検査ゲートの様なものが設置されている。


「特別棟には共生者達が暮らしてる、此処を知っているのはUTSの上層部と俺と国の研究員達だけ。知ってる奴が外部の犯行に見せる様に仕組んだ可能性も捨てきれないけど、そんな事するメリットが見当たらない。…彼等に危害が加えられない様、早急に事件の犯人を見つけて貰いたい」

「…それは分かったけど、外部の人間が病院内をうろついたら怪しまれるんじゃ…」

「そこで二枚目の紙だよ。特別に御前達を歓迎してあげる」

「え」


 二人が慌てて二枚目の紙に目を通す。そこに書かれていたのは九重総合病院の規則。

 繋は清掃員としての、莎朗は看護助手としてのルールがびっちりと並べられていた。


 天空が口角を歪ませる。それはまるで次の娯楽を見つけたかのような、無邪気な子供の笑顔の様で。



「九重総合病院で働きながら、事件の調査を進めて欲しい。……拒否なんて、しないよね?」






 今思い出しても強引な請求にため息が出る。事件の調査なら無償でもやるが、潜入調査となると話は別だ。繋自身、そう言った調査方法はやった事がない。

 先が思いやられるーーそんな事を考えてまたため息を吐く繋の頭の上にがさり、と何かが置かれた感覚がした。

 頭を上げて見てみると、鮭のおにぎり。併設されているコンビニに売っているであろうものだ。


「お疲れ様です、初音さん」


 向かいの席には何時の間にか莎朗が座っており、紙パックのリンゴジュースを一口飲んでは大きなため息を吐いた。


「絶対飯食えって圧が強くて、思わず買っちゃいました。俺は要らないんで初音さんどうぞ」

「…食べる気分にもなれないんだけど。しんどすぎて。…でも有難う」


 がさがさと包みを開けて一口。食べる気分になれなかった筈の繋の胃は大喜びしている様だった。ぺろりと平らげれば、幾分か気分がすっきりした感覚になった。


「こういう労働、した事無いから堪えるな…。おれも看護助手が良かったよ」

「資格は必要とされてませんけど、患者さん一人一人とアンタ向き合えるんですか? 午前中ずっと患者さんと話しては診断書書いてまた病棟巡り。…正直俺はしんどいです」

「へぇ、話すの好きそうなのに。あ、あれかな? いっつも余計な事言って煽る会話しかしてないからそう言うのは苦手だったり」

「アンタも同じ様なもんでしょ~、自分の事棚に上げて言わないくださ~い」


 ぽつぽつと会話を繰り返していた二人だったが、軈て食堂に居る関係者が少なくなるとやっとか、と言わんばかりに二人の表情が無意識に引き締まる。


「…それで? 今の所この病院では何が起こってる?」


 繋の問いに、莎朗がポケットからメモ帳を取り出して答える。


「電子ロックが壊されそうになっていた事件から遡って一週間位ですね。そこら辺から、院内で〝悪戯〟が発生し始めました。最初は白衣にトマトジュースが掛けられていたり、悪臭がトイレから広がってるみたいな、幼稚な悪戯だったんですけど」


 莎朗の声がワントーン低くなる。


「…二週間前、患者の容体が急変した事態が発生しました。薬物の過剰投与と言う事件です。…天空さんが頭を下げて患者さんは許してくれたみたいですけど、一歩間違えれば死んでいたかも知れません」


 術後、肺塞栓症を発症した患者に薬剤を投与する際、誤って適用量以上の薬が使用されたらしい。


 本来薬の投与に限らず、何をするにしてもダブルチェックやトリプルチェックは基本とされている。然し院内の関係者全員『やっていない』と主張したのだ。調剤師の記録を見ても間違いはなく、薬品庫や病棟の監視カメラを見てもそれを持ち出したりした者は存在せず。つまりこれは、


「外部の人間が持って来た薬を、注入したって事になる。…何らかの方法で」

「…病棟の監視カメラに映ってないってのは、電子ロックの件と同じですよね。…誰かがこの病院を潰そうとしている?」

「考えられるねぇ」


 話し込む二人の頭上から、凛とした声が響いて。二人が慌てて頭を上げると、血の様に紅い瞳を湛えた天空が人差し指を唇に当て「しー」と囁いた。


「その話、結構タブーだからこんな所でしないで。皆今でも誰かが嘘ついてるんじゃないかってピリピリしてんの」

「…すいません」

「まぁでも病院破壊の陰謀論は俺も可能性あると見てる。俺を恨んでる奴なんてこの世にいっぱいいるだろうし」

「恨まれてる自覚あるんすね…。何しでかしてきたんですか」


 莎朗が興味本位で聞けば、天空はその隣に座り机に脚を投げる。幸い皆休憩時間が終ったのか、繋と莎朗の他に人はもう居なかった。


「別に大した事はしてない。病院の設備とか環境整える為に全部金で買収したり、働かない上の人間、やる気のない人間、俺に盾突いた人間全員の首を切った事位」

「あ~~滅茶苦茶恨まれてる~~」

「病院に貢献しない人間は要らない。こっちは良い条件提示してんだからそれの上に胡坐かいて惰性で仕事して欲しくは無いんだよね」

「…」


 指先で自分の髪の毛をくるくると弄る天空を、繋は見つめていた。その視線がかち合うと、天空は表情を変えない儘「何?」と繋に言葉を投げる。


「…あ、いや。…真面目なんですね」

「は? …真面目に経営しないとすぐ潰れるんだよこんな所。皆の協力があって成り立ってるの」

「へぇ~? 結構天空さんって優しいですよねイダダダ!!」


 莎朗がにこやかに紡いだ言葉は、天空にとっては癪に障ったようだ。左腕を捻り上げれば力を込めていく。


「優しい訳では無い。別に」

「うう…じゃあ何で、神様が病院経営なんてしてるんですか…」


 その質問を聞いた途端、天空の動きがぴたりと止まった。つまらなさそうに腕を投げれば立ち上がり、扉へと向かって行く。そして。



「俺は一生懸命生きようとしてる人間を見るのが好きなだけ」



 そう呟くとさっさと食堂を出て行ってしまった。

 暫く沈黙が流れていたが、左腕をさすりながら莎朗が口を開く。


「…やっぱ優しいですよねぇ、あの人」

「だね。…最初は滅茶苦茶怖い人だと思ったけど」


 天空の評判は悪い所を全くといって聞かない。

 それは医者や看護師、はたまた荷物を届ける運転手まで皆揃って『あの人は良い人だ』と言う。まぁ、そこまで聞けば天空は確かに外面〝は〟滅茶苦茶良い、…のだろう。


 腹が満たされたと言う事もあり、少しの眠気に誘われたが無慈悲にも清掃のおばちゃんに迎えに来られて、繋はまた数時間、便器と向き合う業務に勤しんだ。






 九重総合病院院長室。戻った天空は突然の来客に半ば辟易していた。

 彼は黒革張りのソファに胡坐をかき、呑気にタバコを吸って待っていたのだから。隣に行儀よく座る空色の髪の青年は、天空を見るなり困った様に微笑んで小さく会釈する。


「……何で来たの? 今回はお前達に頼んでないんだけど」

「良いじゃねぇか、別に。お手並み拝見ってとこだよ。これ以上玖泉に絡めばどうなるのか、嫌でも分かるだろうし」

「…あの二人に何か用?」


 天空の問い掛けに彼は意味深に微笑むと、空色の髪の青年の方を見遣る。青年が取り出した数枚の写真には黒い服を着こんだ男達が数名、病院回りをうろついている所が写っていた。


「…これ」


 一枚手に取った天空が目を細めて注意深くそれを見る。写っている男達の腕章や背中、肌にあしらわれているタトゥーに刻まれていたのは一見すれば歪んだ丸印の様な、はたまた桜の花びらの様な、不安定感の残る落書きみたいなもの。


 これは知っている。

 天空は顔を上げると微笑む彼に向かって写真を差し出した。


「…成程。夜淵の子組織が実績を上げようとして俺を狙いにでも来たか」

「正確に言うと夜淵の子組織…、というか追っかけみたいなもんだろうな。これの正体は調査中。恐らくどっかの小せぇ信仰宗教団体だろ」

「…でも何でそんな端くれが病院を狙うのかね。夜淵と繋がりなんて持てる団体は多くないはず…」

「さぁ? それもまとめて調べてるよ。んで」


 彼は一区切りそう呟くと立ち上がり、どかりと天空の隣に座るとその肩を抱く。


「あの二人にまだ任せる訳? 折角糸を見つけてやったんだ、もう良いだろ」


 男は宥める様にそう言う。

 ただ天空は、ーー首を横に振って手を払い除けた。


「…駄目。あの二人には、…まだ経験が必要だから」


 そう言って立ちあがろうとする天空の腕を掴めば、彼は意地悪く食い下がる。


「なら、追加報酬」

「…金が入用? …それとも」


 彼の真意の読めない赤い瞳を見据えれば、天空は顔を寄せた。

 空色の髪の青年が苦笑いを浮かべて机上に広げた写真を回収する間、水音が響く。


 呼吸を整えながら、少しばかり血色ついた頬を撫でる手を重ね天空が口を開いた。


「…御前も物好きだね、これより先を望むなんて」

「だって興味あんだも~ん、親父に身体許した美人院長のなか♡」

「あは、きっしょ」


 天空がそう言葉を吐き捨てればがり、と音を立ててその手に爪を立てる。彼は痛みに飛びのき、次いで両手を上げて降参のポーズを取って見せた。


「…冗談だよ。ただ、危険だぜ。そのやり方は」

「……」


 彼の言葉に一瞬、天空の動きが止まる。

 そう。彼は心配しているのだろう、あの二人を。〝玖泉〟の、セカイの一端しか知らない彼等がその闇に踏み入れた時、失うのは人か、身体か、思考か、希望か、それとも。

 それでも。


「……こうなったら耐えて貰うしかない。……お前だって嫌だろ? 何もせずに、誰かが死んで逝くのは」


 天空は静かに言い放ち、そして院長室から出て行った。








「あ~~~つっかれた……」

 

 午後二十一時。莎朗は鳴り響くチャイムの音を聞くと、その場で伸びをして堪らずぼやく。今日だけで作成した診断書やカルテは何百枚にものぼる。逐一患者の様子を見てその後の治療法を変えたり調整したりする為らしいのだが、余りにも過酷な雑務に軽く眩暈がしていた。


 そんな莎朗の机に缶コーヒーが置かれる。


「お疲れ様、萬代君」


 黒髪に長い前髪の下に分厚い眼鏡を掛けた、一見すれば冴えない印象の男性だ。梅雨でじめじめしている季節なのに厚手のカーディガンを羽織っている。

 莎朗はその缶コーヒーが未開封である事を確認すれば、手に取ってプルタブを開けた。


「有難うございます、お疲れ様です。…淺海先輩も」


 男性――淺海紘十あさみひろとは「有難う」と照れ臭そうに微笑みながら自分用のカフェオレを開けて勢いよく飲み干した。


「…こ、ここ大変だよね。僕も最初は結構体調崩したりしてたな…」

「あはは、淺海先輩ひ弱そうっすもんね~。休みがちになると他の人って怒りません?」

「…」


 紘十はその質問にすぐには答えなかった。

 また何か失言してしまったか? と心の中で焦る莎朗を尻目に紘十はふるふると首を横に振るとカフェオレの缶を机上に静かに置く。


「ううん…否、前まで勤めてた病院では凄く怒られたよ。ま、周りからも嫌がらせが多くて、辞めたんだ。でもどうしてもお金が必要だし、…ぼ、僕に出来る事なんて看護助手しかなかったから、九重総合病院に入った」

「…ここは、やっぱり優しいんすか?」

「ふふ、優しいなんて言葉では表せない位…寧ろ快適な環境だよ」


 そう言えば、紘十は立ち上がって全員のシフトが書き出されているホワイトボードの前に立った。

 今日は看護師長が休みでその他ベテランの看護師さんも何名かが休みだった筈だ。


「い、院長はね、僕の体調の事、家庭の事を鑑みて働かせてくれてる。いきなり今日は休みたいとか、今日は夜まで働けますって連絡しても怒らずにその通りにしてくれる。…でもそれは皆も同じ。誰かだけ特別でないからこそ、皆仲間の休みにどうこう言わないんだ。働いたら働くだけ、院長は見ててくれるし、ボーナスも増やしてくれる。……ここに入れて良かった」

「…淺海先輩の、家庭の事って…?」


 その瞬間、それまで笑顔で話していた紘十の表情が強張った。

 然しそれは一瞬の事で、笑顔を繕ったまま振り返れば「少しね」と話を切り出した。


「病弱な妹が居るんだ。…うちは母親が早くに亡くなって、父親は…機能していないから。お金が必要なんだ、しゅ、手術代かな」

「…ふぅん、大変っすね。じゃあ早く帰ってあげないと」

「あ、うん。まぁ、き、今日は大丈夫だから」


 そう言って笑う紘十の言葉が、莎朗の心に強く引っ掛かった。

 働き始めて二週間、この人がカーディガンを脱いだ所を見た事が無い。医療従事者であれば長い前髪は余り好ましくない。

 看護助手だとしても鬱陶しい前髪は、患者さんと向き合うにしては印象が悪い。


「…淺海先輩。勘違いだったら本当に申し訳ないんですけど、先輩……」


 と、その時だ。暗い廊下の向こうで何かが響いた。

 咄嗟に二人共そちらの方向を見遣る。


「……何かが落ちる様な音がしましたね。まだ巡回の時間ではないはずですけど」

「め、面会時間も終わってますし…、な、何でしょう…」

「…様子見に行ってきます。淺海先輩はここに」


 カーディガンの下に隠した拳銃に触れながら莎朗が立ち上がる。然し、その袖口を強く掴んだ紘十は泣きそうな瞳で莎朗を見つめ「ぼ、僕も行く!」と言って聞かなかった。


「だ、だってもし強盗とかだったらっ! ひ、一人じゃ危ないよ萬代君!!」

「えぁ…え~~と……じゃあ、まぁ、行きますか…」


 そう言えば自分は刑事だから大丈夫だなんて、今は言えないんだったか。そんな事を思いながら莎朗と紘十は音の鳴った方へと慎重に足を進めていく。

 この先は外に繋がる外階段があった筈だ。然し本来は施錠されている為、患者さんが自由に出入りする事は出来ない。つまり、患者以外の何かがそこに居ると言う事。


 震える手で扉を引く。鍵は開いていた。

 外は五月中旬の少し蒸し暑い空気が立ち込めていた。生温い風で髪を遊ばせながら、鉄の階段の先を覗き込む。

 


 見えたのは、赤黒い液体。



 それを視認した途端、噎せ返る様な鉄錆の匂いが鼻を襲い、二人共反射的に口元を覆った。

 そうして、液体の中に沈む看護師の姿を見つけ――



 地獄が、幕を開けた。





「……意識、戻ると良いですね」


 あれから数十分、迅速な処置のお陰で看護師の嘉谷由葵ひろやゆきは容体が安定した。もう少し発見が遅れていたら助かる可能性が消えていたとの事でそれを聞けば二人共、がくり、とソファに崩れ落ちた。


「…良かった本当に。でもどうしてあんな場所に…」

「萬代!」


 言い掛けた紘十の言葉を掻き消して、繋がバタバタと廊下を走ってやって来る。どうやら事件の事を聞きつけたのか、天空も一緒だった。


「看護師が襲われたって聞いた。どう言う状況?」

「や、ま~ったくまだ分かりません。少なくとも彼女の意識が戻らないと何も」

「…」


 話し込む二人を他所に、集中治療室の中で眠る由葵の姿を見つめる天空。ガラス窓に触れた指先は微かに震えていた。然し、


「淺海君、萬代」


 毅然とした態度は何時も通りに、天空は振り返るとその頭を下げた。

 突然の行動に三人共何も言えなくなる。


「有難う、早く発見してくれて。お陰で彼女の命は繋ぎ止められた」

「…え」

「てか淺海君、早く帰らないとまずいんじゃないの。もう二十二時だよ」

「え、あ」


 天空の感謝を受け取り慌てふためいていた紘十だったが、時間を確認すればみるみる顔を青くさせて「ぼ、僕これで帰ります!!」と頭を下げるとさっさと廊下を走って行ってしまった。

 その様子を見守りながら、ーー莎朗が恐る恐る天空に問いかける。


「……天空さん、あの人訳ありですか?」

「…理由は?」

「もう夏に近いのに厚手のカーディガンを脱がない事。父親は機能していないと言う言い方もそうですけど、妹さんのためにも早く帰ってあげないとって言ったら、あの人〝今日は大丈夫だから〟って返したんです。…何か変では?」


 天空はその見解にただ、微笑むだけだった。


「…気になるなら本人に聞いてみれば? 聞いた所で話して貰えるかは分からないけど」

「…ですよねぇ」

「……まぁお前は理由が少しだけ分かるんじゃない? 同族みたいなもんだし」


その瞬間、莎朗の表情が微かに強ばった。然し天空はこれ以上の言及はしないと踏んだのか話題を逸らす。


「そんな事より、早く犯人を見つけてよね。これ以上病院内が荒らされて、信用が落ちるのは困るんだよ」


天空のごもっともな意見に莎朗は押し黙ってしまう。その前に出たのは繋だった。


「…これ、この事件も一か月位前から続いてる悪戯の延長だと思うんですけど。…天空さんでも犯人は分からずじまいなんですか?」

「俺でも、って何。そうだから御前等を雇ったんじゃない。もしかして俺がわざと泳がせてるとでも?」

「…」


 繋が言葉を失えば、天空はわざとらしく鼻を鳴らした。


「は、そんな事して損失を被るのは誰だと思う? 俺だよ。わざわざそんな事してもメリットなんてない。言ったでしょ、俺に盾突く人間は要らないの」

「…でも神様なら、何か見えたり」

「全知全能の始祖や、過去視が出来る神格なら見えただろうね。でも俺はただの海の神格だから。…全く白露じゃないんだから変な勘繰りしないでよ。御前等を雇った意味がなくなるでしょ」


 白露。以前遊郭で男娼達が襲われた事件が起きたその際、犯人を知りながらその事実を受け止められず、事件を眺めているしかなかった統括主だ。

 天空が真実を知っているとは思わず、その名前が出てきた途端繋は言い様のない胸の痛みに顔を顰めた。その様子に天空は意味深に微笑む。


「…ま、そういう訳で俺は何も知らないから。引き続き調査、宜しくね」

「…」


何も言えない繋は、ただ黙って天空が遠ざかるのを見つめる。

然しその天空の足を止めたのは、食い下がった莎朗だった。

 

「…若し犯人が分かったら、天空さんはどうするんですか?」


 何気ない質問。然し天空は答えない。

 訝し気に見つめる繋を横目に、莎朗が微笑んで煽る様に答えを投げた。


「……もしかして、殺そうとしてます?」

「…」


 沈黙が流れる。

 天空の表情は変わらないが、血の様に紅い瞳がただただ二人を捉えている。


 言えないが反論の余地はない、と言う事なのだろう。

 つまり。


「……、病院を荒らしてる犯人に報復したいから、その為に俺等に犯人を見つけ出せって?」


 繋の語気が荒くなる。バレてしまえば、天空は物怖じするどころかすっかり何時もの調子に戻って口を開いた。


「…そう言う事。あの電子ロックの件から察するに、壊した跡をつけている所が監視カメラに映らないのはおかしい。カメラは正常に作動していた。つまり…」

「…〝カメラに映らない身体や能力を有している〟、って事ですかね」


 それに答えたのは莎朗。天空は彼の方に視線を合わせて「ご名答」と答えて見せた。

 莎朗の表情が真剣なものに変わる。


「それなら俺は天空さんの方針に納得です。相手が〝人間〟でないと確信が持てたら、生かしておくのは危険ですから」

「……」

「…そもそも俺等は犯人捜しをしろって言われただけですよ。その後の事は警察なり天空さんになり任せればいい。そうでしょ?」


 露木藍生の件は乱が殺した。

 百瀬沙月の件は佐山直樹が自ら手を下し、消えてしまった。

 織川月姫、並びに雪平全の件、そして風音の件も繋は何もしていない。


 全部他人がやってくれた事だ。

 犯人が人間でないのなら、その処理は理解出来るし、納得もする。然し。


 殺す為に探し出せ等と言われて、はいそうですかと素直に頷く事はどうしても出来なかった。


「…それでも探し出したら猶予が欲しい。どうしてこんな事をしたのか、聞いておきたい」

「黒血は、自我の崩壊が進んでいればどうしてこんな事をしたのかなんて言う理由すら忘れる。無意味だと思うけど?」

「…それでも」


 一歩も引かない繋の様子に、天空は大きな溜息を吐いて。それから暫くして「分かったよ」とだけ呟いた。


「…ま、今の感じだと共生者の可能性が高いですよね。力を使って理性的に天空さんを追い詰めようとしている。余り刺激させない様に、犯人に理由を吐き出させないと」

「…萬代」

「俺だってそうは言ったものの、まぁ理由は気になりますし。自我が崩壊してなければ、聞き出したくはありますからね」


 莎朗が繋の意思を後押しする様に言葉を並べる。

 沈黙が流れて、言葉を発したのは天空だった。


「…兎に角二人共、もう遅いから帰りな。まだやって貰わなきゃいけない事が沢山あるんだから、ここでへばるなよ」


 そうして二人の背を押す。着替えて二人で病院を出て。

 その後は言葉も交わさないまま、二人共帰路に着いた。






 翌日。病院は朝から昨夜の事件でもちきりだった。それもそうだろう、看護師がトイレに立った瞬間外階段に突き飛ばされるなんて、自分にも充分に降りかかるきっかけだ。考えたら怖すぎる。

 現場検証はもう既に終わっていた。嘉谷由葵が未だに目を覚まさないので、警官達は想定の行動を頼りに犯人の手掛かりを追うしかない。繋達も事情聴取と言う名の捜査に入り込んでおり、会議室の一角で繋が先程聞いた嘉谷由葵の一連の流れを誦じる。


「午後二十一時、嘉谷由葵は外階段の近くにある資材庫で検品をしていた。チェックリストにハンコが押されてるから、これは問題なく終わったと思う。んで資材庫から出て、〝何らかの理由で〟外階段に向かって、足を滑らせて下へ落ちた…」


 警官達が下した流れに沿って、二人とももう一度思考を巡らせる。が。


「何らかの理由って何でしょうね…」

「んんん……」


 莎朗がそう呟いた。続けて繋も眉間に皺を寄せて唸る。外階段は本来施錠されている。何の用事もない場合、外階段の扉の鍵はナースステーションに保管されている筈だ。


「でもずっとナースステーションには俺と淺海先輩が居ましたよ。夕診が終った午後二十時から、ずっと二人でナースステーションの中を行ったり来たりしていましたし」

「おれもそれは見た。それにその他にも回診を終えた看護師達が、ナースステーションに入ったり出たりしてるんでしょ? ここから誰が鍵を持ち出したかなんて……」


 そこまで言ってふと、繋はナースステーションに掛けられたキーボックスの隣にある点検表を見つめた。


「…鍵の点検は一日に八回。持ち出せるタイミングとしては事件が起こる一時間前の午後二十時。それまでは全部チェックリストで確認されてる」

「……そう、ですね。でも一時間前から開けてたらそれこそ患者さんが被害に……」


 そう言って莎朗も何かに気づき目を見開く。繋は神妙な面持ちで〝最悪な想定〟を口にした。


「誰でも良かった」


 その場にいた警官達が絶句する。

 莎朗は繋の意見に同調するものの、納得が行かないと言う風に言葉を投げた。


「前の被害者は確かに患者さんでしたけど……じゃあ犯人の目的は? 無差別に患者さんやナースを危険な目に遭わせて何をするつもりなんでしょう」

「……う〜ん、無難に考えたら…」


 と、考え込む二人を他所にバタバタと忙しなく看護師達が走って行く。

 その中には天空も居た。何時もと違って深刻そうな表情を浮かべて集中治療室に向かっている。


「…何かあったのかな。あ、ねぇ」


 繋が一人の看護師を呼び止める。彼女は慌てた様子だったが、後ろに居た警官達を見ると足を止めてくれた。


「院長達も、どうかしたの? 何か慌ててるみたいだけど」

「あ…、ええと、集中治療室の方でまた…」


 看護師は答えあぐねていたが、それだけ呟けばぺこりとお辞儀をして、走って行ってしまった。暫くぽかんとしていた二人だったがーー瞬時に状況を理解し、足がそちらへ向かって行く。



 集中治療室には、嘉谷由葵が居る。

 そこでまた。



 二人が集中治療室までやってくると、嘉谷由葵がストレッチャーに乗せられ手術室へと向かって行く様子が見えた。驚いて二人共足を止める。と、


「……何で」


 すぐ隣で、ぽつりと誰かが呟いた。

 過ぎ去っていく患者を見守る、顔を青くした女性医師と紘十だ。


 彼女は確か麻酔科医の京目由仁かなどめゆにだ。長い茶髪を結って肩に流している、美人麻酔科医と噂されている子持ちの女医。莎朗と繋は二人に近づくと、由仁を支えてソファに座らせる。


「…あ、ま、萬代君。…た、大変な事に…」

「何があったんですか? 嘉谷さんの容態が急変したとか…?」

「誰かが、麻酔を過剰投与したのよ…」


 震える声で由仁が語る。

 嘉谷由葵の担当医と相談し、昨夜は正常に投与されていた筈の麻酔の量が今朝確認したら基準値を超える量が投与されていた。その針もフィルターもコネクタもこの病院で扱われているものではない。

 最初に四肢の指の震えを見た看護師が由仁に相談。次いで痙攣が起こり、心停止。緊急手術を行う事になったのだと言う。


 これは明らかに、誰かが嘉谷由葵の口を塞ごうとした証拠。


「…医療機器は法人や事業者にしか売られない。地方厚生局に必要な届け出を行わなければならない。…でもこんな事する人が、正規の手順を踏んでるはずがない…」

「医薬品医療機器等法違反の可能性、そう言う輸入を隠れて行っている組織的犯行の線が見えてきましたね」


 繋と莎朗の淡々としたやり取りに由仁が顔を上げる。


「…貴方達、本当に……」

「…何か?」


 天空との取引はまだ終わった訳ではない。由仁にそう詰められて莎朗も、そして繋も顔が強張った。そうだ、自分達は今刑事と探偵でなく、看護助手と清掃員だ。ーー改めてそう肝に銘じれば、繋は軽く咳払いをした。


「…それでは自分はこれで」


 ここに残って事件の事を洗いざらい聞きたい気持ちはかなりあるが、歯を食いしばってそれを耐える。すれ違いざまに莎朗の肩に軽く触れれば、彼はその意図を理解したのか「お疲れ様です」とだけ答えた。






 それから数日後、莎朗から「話があるので会えますか」という連絡を受けた繋は休日の昼下がり、探偵事務所で別件の資料に目を通しながら待つ。

 莎朗が来たのはそれから少しして。買い出しに出掛けた緋狼と共に事務所へやって来た。


「どうも。ここ最近忙し過ぎて、話を纏めるのに少し時間が掛かっちゃいましたよ」

「良いよ、御前の方が件の関係者と近い。おれもそれなりに収穫はあったし」

「そうなんですか? 楽しみぃ〜」


 莎朗が鞄から書類を数枚取り出しながらそんな事を呟く。

 数分もすれば緋狼が湯気の立つ珈琲を運んで来て、捜査会議が始まった。


「嘉谷由葵ですけど。あれからまだ目を覚まさないですね。犯人の口封じは未だに行われているし、また命を狙われる可能性も加味して、天空さんが特別病棟に移しました」

「嗚呼、あの黒血とかを匿ってる所…」


 差し出された書類には嘉谷由葵の詳しい容体がずらりと並んでいる。恐らくこれは病院で作成されたカルテだ。コイツ勝手に持ち出してる…、と思いながらも繋は話を進めた。


「それで? 誰が鍵を持ち出したとか、突き落としたとかは分かったの?」

「そこら辺は分かってませんけど。…俺的にはこの人が気になって仕方なくてちょっと調べて貰ったんですよね」


 莎朗が書類を捲る。そこにあったのは淺海紘十の顔写真と。


「……誕生日、現住所、家族構成、学歴、資格……何これ? 天空さんに頼んで履歴書でも貰ったの?」

「あはは、流石に見せて貰えませんよそれは。…それにこれは履歴書じゃありません」


 莎朗の言う言葉の意味が良く分からず、読み進めていた繋が言葉を失った。資格取得の下に書かれていたのはーー幼い頃の紘十の様子、起こった事件、そして現在に至るまで。その内容が事細かに書かれていたからだ。


「…こんなの、どうやって」

「ちょっと先輩に協力して貰って。まぁ良いじゃないですかそれは」

「…ふぅん?」


 莎朗が困った様に微笑みながら繋に「とりあえず読んで下さい」と急かす。

 まぁ国の機関、UTSなのだ。そう言う事も出来なくはないだろうと言う事で繋は最後まで目を通してみる。


 淺海紘十、二十二歳。看護師。

 家族構成は両親と高校生の妹が一人。然し母親は紘十が中学生に上がる前に離婚して姿を消してしまった。その理由について、父親を良く知る人物に話を聞いた所〝特殊性癖〟のせいじゃないかと言う話が浮上した。

 それが〝幼女性愛〟。

 つまり、母親に隠れて妹は父親の手によって穢されていたのだ。

 発覚してから母親はすぐさま弁護士に相談。子供を守ろうとしたものの、父親による度重なる恐喝や暴力によって、弁護士に相談もしないまま泣く泣く親権を譲渡。


「おれに頼んでくれたら、親権と子供両方守って豚箱行きに出来たのに」


 父親の詳しい恐喝の内容に、思わずそんな事を呟く。

 その様子を眺めながらも、莎朗は首を振って応えた。


「……女性一人を黙らせるのに、恐喝。暴力。それだけで事足りるんですから、何か遣る瀬無いですよね」

「……ほんとに」


 繋は重たいため息を吐いて、続きを読み始める。

 そうして紘十がそれに気づいたのが高校生の頃。ただその時には紘十も虐待を受けており、父親に何かを発言する気力すら失われていた。

 然し〝妹だけは守り通さないと〟と言う意思から、父親に隠れて妹を全寮制の高校に進学させる。結果はすぐにバレて退学させられ、通信制高校に通わされる結末に至り。


 そこから紘十は、時間が掛かっても父親を法的に裁く事を決意。

 何があっても対処できる様に、得られる知識は全て身に着けようとした。が、元々身体の弱い彼だった為、無理がたたって医学部受験に失敗。

 二浪したものの結果はついて来ず、看護師として医療従事者になる事を決めた。


「…これ、妹さんが進言したんだね? 看護師になるのはどうかって」

「自分から話してたみたいですね。医学部に落ちて諦めようとした先輩にやってみたらどうかと。そのお陰で今がある、とも」


 それぞれの顔写真を眺める。

 二人共母親に良く似て顔が整っている。父親の方は厳格そうな印象だが、髪も髭も整えられており清潔さも伺える。こんな人が幼女性愛者、と思ってしまう位には普通のサラリーマンだった。


「…まぁ淺海紘十が、凄まじい家庭環境の持ち主だって事は分かったけど。…これ、この件と何か関係あるの?」

「あはは、さぁ~。でも……、」


 それまでへらへらとした様子で言葉を交わしていた莎朗が、目を細めて繋を見つめた。



「〝院内で操りやすい人間〟として選ぶなら、俺は選びそうですね」



 空気が変わる。

 繋は顔写真から顔を上げ、理解したかの様にその糸筋を辿って見せた。


「…成程。過剰投与にしてもこの間の麻酔事件にしても…この病院内の薬が使われていないから、外部から持ち込まれた可能性が高い。でもICUには病院の関係者に完璧に化けない限り、潜入は難しい。…この事件、外部の犯人と内部の協力者がいるかも知れないって訳ね」

「恐らく。あの病院に勤めてる人達が薬物の取引をしていたか、今UTSで調べて貰ってます。こっちは結構時間が掛かりそうですね…。外部の方は何らかの犯罪組織な気がしますけど」


 院内での〝悪戯〟。院長室や特別病棟の電子ロックを解錠しようとした件。

 そして、そこに居る人間に危害を及ぼして回る犯人の影を捉えた。


 繋はふ、と微笑むと紘十の写真をトントン、と指で示す。


「じゃあ御前は淺海紘十を徹底的に監視して。何かあったらすぐ連絡してよ」

「分かりました。……あ、そう言えば初音さんの収穫は何なんですか?」


 繋はそう言われて「忘れてた」と零せば、アイパッドを立ち上げスワイプする。

 出てきたのは一枚の写真。一見すれば普通の優しそうなおじいさんが、子供達に飴を配っている。


「〝キャンディ配りおじさん〟、知ってる?」

「は?」


 余りにもかけ離れた話題に、莎朗が間の抜けた声を上げる。それに繋は想定内の反応だったのか、特に嫌味を言わずにポケットを漁りそしてそれを机の上に置く。

 黒い、パッケージ。

 市販の飴だったらあるはずのデザインは一切施されていない。


「だいぶ前から九重総合病院の周辺一帯で、子供が変な飴を貰ったって情報が急増しててね。緋狼君に頼んでこの飴子供から貰って来てくれたの。…何だと思う?」


 莎朗が包み紙を開ける。

 その中にはパッケージと同じ、黒い艶やかな飴が入っていた。やはりというべきか、そんな感情に苛まれながら莎朗が答えを呟く。


「……玖泉、ですか。…どうして急に」

「清掃のおばちゃんがね、孫が勝手に食べちゃったって話してて。ここって学校からも近いし怖いでしょ。……でも偶然とは思えないんだよね」


 この辺りの住宅街には九重総合病院に勤める大人がかなり多い。そして、その家族の子供も勿論沢山いる。加えて近くに小学校と高校がある密集地帯だ。偶然なのか意図的なのか、どちらにせよ対処が必要だ、と莎朗が渋い顔をする。


「普通にUTSとしての案件になりそうなもん出てるじゃないですか! 仕事増やさないで下さいよ」

「て言うか、電子ロック事件でカメラに映らない犯人だって分かってるんだからもう少し早く動きなよ。国の機関はいつも行動がおっそいね〜」

「そんなの上に言って下さい! で、これも調べろって?」


 莎朗が不貞腐れた様な表情でそう問い掛ける。


「いや、これは緋狼君に調べて貰ってるよ。余り危険な事はしない様にって言ってあるし大丈夫だと思う」


 繋がそう言えば、キッチンのコーヒー棚を整理していた緋狼が顔を出して「任せて下さい!」と微笑んだ。その笑顔に釣られて莎朗も微笑めば、少し声を抑えて繋に囁く。


「……今は警官に紛れてるUTSの職員が彼を監視しています。何かあれば直ぐ連絡は来ると思いますけど、本当に大丈夫そうですか?」

「うわ、何? 萬代、緋狼君の力を信じてくれてないの?」

「いや、そう言う訳じゃないですけど…」

「信じてくれてないんですか!?」


 何時の間にか莎朗の後ろに居た緋狼が悲痛な叫び声を漏らす。

 そうして話題は他愛のない話や愚痴に切り替わり、気づけば時刻は過ぎ、午後十六時。

 莎朗と化野団地の前で別れ、ふと空を見る。


 団地の外の景色は、他の町と変わらない普通の景色だった。空は夕暮れ色に染まり、その赤色がビルや道路を美しく照らしている。然し一歩団地の中に入れば、その空は漆黒の雲に覆われ、団地の無機質な灰色だけが視界を埋め尽くしていく。


 まるで、暗闇の中に囚われた様だ、と繋は人知れず感じながら自身の事務所の扉を開けた。





 それから一週間後。嘉谷由葵は昏睡状態のまま未だに目を覚まさず、捜査も進展しない中ただ時間だけが過ぎていく事に、二人は徐々に焦りを覚え始めた。

 あれから紘十の行動を業務の傍ら監視しているものの、動きはない。

 そして誰が犯人なのか見当もつかない現状に、繋も莎朗も辟易としてひたすら精神力を削る羽目になっていた。


 今日は雨。ただでさえ重い身体に更なる負荷がかかる。繋は深い溜息を吐いて、硬い食堂の椅子に凭れていた。と、


「大丈夫ですか? 初音、さん」


 凛とした声が繋の鼓膜に響く。顔を向ければそこには由仁が立っていた。


「嗚呼…京目さん。…大丈夫ですよ」

「…初音、繋さんでしたよね。あたしも名前は良く知ってて」


 陰鬱とした表情のまま由仁が、繋の耳元に顔を寄せて囁く。



「……探偵から、清掃員に転職したんですか?」



 沈黙が辺りを包む。

 幸い今は食堂に誰も居ない。繋の瞳が微かに揺れたのを察知してか、由仁は首を横に振って次の言葉を続けた。


「…誰にも言いません。院長が雇ったんでしょう? 萬代君は、…警察の子かな」

「…どうして、分かったんですか?」


 向かいの席に座ってお弁当を広げ始める由仁に、繋はゆっくりと問いかける。由仁は暫く何も言わなかったがふと微笑めば「分かるよ」とだけ呟いた。


「あたしはもう十何年もここに居てね。たま~に院長が誰かを突然雇ったりするの、見てきたの。その時にいっつも事件が起こる。…でもそうやって内密に進めないと、大事になれば患者さんも不安がるし。…あたしの他にも気づいてる人は少しだけ居るかも。でもこの事件の調査の為の関係者か、としか思ってないから。口出しもしないし」

「……成程」


 確かに大事になって病院内に何も知らない警察関係者が入り込めば、自ずと特別病棟も晒さなければいけなくなる。世間には、まだ黒血や共生者の事を分からない人間が沢山居る。だからこそ内内で事件を解決してしまいたいのだろう。


「……京目さんは、何か知りませんか? 怪しい人を見たとか」


 一瞬、由仁の箸を持つ手が止まった。

 その違和感を振り払う様に彼女が首を横に振って応える。


「……さぁ。由葵ちゃんの時も本当に気付かない間にICUに入られて。良くあんな短時間で過剰投与が出来たもんだなと思ったくらい」

「…、そうですか」


 繋は胸ポケットにあるボイスレコーダーをそれとなく起動させる。由仁がそれに気づいている様子はない。


「ねぇ、初音君。お願いがあるんだけど」


 そう言われて視線を上げれば、由仁の視線とかち合う。

 彼女は抑揚のない調子で続きの言葉を吐いた。


「…あたしの旦那、探してくれないかな」

「……え?」


 一瞬、思考が止まった。

 由仁はそんな事すら厭わずスマホの写真をスワイプして繋に見せる。由仁の隣に居るのは優しそうな黒髪の青年だ。その間に元気そうな男の子も写っている。


「……この人」

「見た事あるよね? 閖比良証券の現社長。閖比良鳳理ゆりひらほうりって言うんだけど」


 勿論知っている。玖都に住んでいるなら知らない方がおかしい位の有名な金融企業の社長だ。ニュースで一般女性と結婚とあったが、まさか由仁と結婚していたなんて。


「知ってます。…この人が、失踪したんですか?」

「うん……一か月前位かな。朝起きたらリビングテーブルの上に指輪と離婚届が置いてあって…」

「…でも、ご実家とかに戻られてたら連絡位は…」

「そう思ってあたしもスマホに何度か掛けてみたんだけど、全く繋がらなくて。…鳳理のお義父様にも連絡してみたけど、出張中の一点張りで」


 それまでお弁当に視線を落としながら喋っていた由仁は、ふと顔を上げ。神妙な面持ちで繋を見つめる。


「……お願い。良く分かんない儘このまま離婚したくない。鳳理が無事ならそれで良い、離婚したいなら、理由を聞いてからじゃないと納得出来ないの」

「…それは、確かに」


 余りの悲痛な声音に繋の良心が痛んだ。以前であれば線引きをして、兎に角閖比良鳳理を探す事だけに集中出来ていた。でも今はどうだろう。

 「何故?」「どうして?」が先行して上手く頭が働かない。

 そんな繋を他所に由仁が身を乗り出して、手を取った。


「……今起こってる事件と、無関係とは言い切れない。だからお願い」


 確かにその言い分は一理ある、と繋は頭を振って思考を再開する。

 犯人の目的は未だに分からないが、〝この病院内を荒らしたい〟と言う意図は感じられる。それなら院内関係者、の関係者も危険に晒される可能性はあるだろう。

 もしかしたら、新たな糸口になり得るかもしれない。


「……分かりました。萬代にも共有して閖比良さんを探してみます」


 その言葉を聞けば由仁は手を離した。陰鬱な表情は何時の間にか消え去り、どこか覚悟を決めた様な目をして立ち上がれば頭を下げて、食堂から出て行く。一人残された繋はボイスレコーダーの録音を切り、――そのデータを莎朗へと転送しながらぽつりと呟く。


「……無関係とは、言い切れない…ね」


 そうして自分も立ち上がると、深く帽子をかぶり直して業務へ戻った。






 それから数時間。

 漸く今日の業務が終りそうな時刻に、繋のスマホが鳴り響いた。ディスプレイ画面には〝緋狼君〟の文字。


『…あ、もしもし繋さん? 緋狼です』

「嗚呼…どうしたの? 何かあった?」


 電話口の向こうの声は限りなく小さい。微かに聞こえる雑踏から、緋狼は町の喧騒から外れた所で声を潜めている事が推測される。つまり。


『…今、キャンディ配りおじさんを尾行していたんですけど。怪しいビルに入って行ったのが見えて…その近くで待機してます』

「……成程。とんでもない場面に居合わせてるって事ね」


 大手柄の緋狼だが、今ここでバレては自分の身にも危険が及ぶ。前回の過ちを繰り返さない為か、今回はしっかりと繋に報告をしてきた様だった。

 繋はGPS位置を記録すると、ロッカールームへと向かい慌ただしく帰り支度を始める。


「とりあえず、今から俺も向かうから…」

『あ、はい。…じゃあ少し離れた方がいいですよね…』

「いや、待って今動いたら…」


 誰かに見られるかも、と言う繋の声が届く前に電話口から緋狼がジャリ、とアスファルトを引っ掻いた音が聞こえた。

 やばい、と二人が思ったその時だ。

 一瞬の静寂を皮切りに、奥からバタバタと足音が聞こえてくる。そして早口で捲し立てられる華國語。


『你在干什么!抓住它!』

『うわ、ぁ、ッ…繋さ』


 緋狼の声が遠ざかり、そして。

 電話は無情にも、切れてしまった。


「……ああ、もうッ!」


 繋はすぐさまGPSのアプリを立ち上げる。スマートフォンの電源は落とされてしまったのかGPSの反応は無くなっていたが、緋狼が連れて行かれたのはその怪しいビルだろう。

 幸いここから走ったら十分程で着ける距離だ。

 繋は制止を掛けるナースを振り切ってナースステーションに身を乗り出すと、黙々と仕事をしている莎朗に向けて言葉を放った。


「萬代!! 緋狼君が捕まった!! 至急応援!!」

「………は? ちょっと…」


 事態を詳しく聞こうと莎朗が歩み寄るも、繋は血相を変えて飛び出してしまう。

 一人取り残された莎朗は暫く呆然としていたが一呼吸落とせばエントランスとは逆の方向、ロッカールームへと足を運んで電話を繋いだ。


「……お疲れ様です。萬代です。……以前、劉緋狼のGPS情報渡しましたよね。動ける人でそこに向かって下さい。恐らく、事件に巻き込まれた可能性があります」


 電話口の相手の応答はない。その代わりに強い風の音が聞こえ続けている。


「……お~い。聞こえてます? アンタ今どこに居るんですか?」


 雨上がりの空は晴れるでもなく、黒い雲が敷き詰められたまま。

 廃墟の屋上で煙草を吸う彼は、怪しい男達が緋狼を連れてビルに入っていく姿を眼下に眺めながらゆっくりとその問いに応えた。




『劉緋狼が囚われたビルの前。もう居るよ』




 十分後。

 駆け付けた繋の眼前にあった光景は、息を呑むものだった。


 黒いローブを纏った人間が何十人と、床に転がっている。その中には写真で見たキャンディ配りおじさんも居た。窓は全て黒い布で覆われ、光源は蝋燭の灯りのみ。そして床に描かれた一見すれば歪んだ丸印の様な、はたまた桜の花びらの様な、不安定感の残る落書きみたいな模様。


 嗚呼、これは。

 繋の身体が揺れ、堪らず膝をつく、その瞬間。



「繋さん!!」



 慌てた様子で緋狼が繋の身体を支えた。その顔には殴られた痕があり、少し出血している。声が脳内に響けば失われかけた意識が戻され、繋はゆっくりと緋狼の目を見据えた。


「あ、あれ……緋狼君、無事だったの?」

「…はい、えと、……さっき助けてくれた人が居たんですけど…、どっか行っちゃったな…」



 緋狼はきょろきょろと辺りを見回すが、人影は何処にもない。やっぱり居ないみたいですね、と彼が言うより早く繋は強く、緋狼を抱きしめた。


「…良かった、無事で…やっぱり危険だった、ごめん」

「あ、い、いや! これは俺のミスですから!! …あんな所で電話したのがいけなかったんですし」

「それでもだよ…」


 繋の悲痛な声に緋狼の動きが止まる。

 切断された左腕が痛んだ気がした。


「……ごめんなさい。…ほら、もう無事ですから離れて下さいよ…」

「…嫌だ」

「えっ!?」


 慌てふためく緋狼を他所に、繋は何も答えず抱きしめた儘。

 莎朗が呼んだ警察が駆け付けて詳しい個別事情聴取が行われるまで、緋狼は抱きつかれた儘過ごす事になったのは言うまでもない。

 

「初音さん、お疲れ様です」


 結局聴取が終わったのはそれから数時間後。

 やっとの思いで部屋から出た繋を待っていたのはソファで寛ぐ莎朗と緋狼だった。


「緋狼君の処置はもう終わってますよ。軽い擦り傷と打撲、だそうです」

「ご心配お掛けしました…」

「本当ですよ。…次からは尾行のやり方も教えないとですね」


 警官にこってり絞られたのか小さくなっている緋狼を見ながら、くすくすと笑う莎朗。


「…それで、その伸びてた奴等の事は何か分かったの?」


 そんな二人の様子を眺めながら緋狼の隣に座り身を寄せる繋に莎朗は待ってました、とばかりにノートパソコンを立ち上げる。そこにはいかにもといった怪しい慈善団体のホームページが映されていた。


琉奏りゅうか協会。表向きでは慈善活動やボランティア活動をしてる団体ですけど、裏では人身売買や違法薬物の取引、さらには武器調達等……華國からの違法輸入を手助け斡旋して、手数料をせしめてる組織ですね」


 ホームページ上ではどこどこで炊き出しをしました、と言う文と共に信者達がにこやかに笑って写っている写真も添えられている。胡散臭さが凄いな、と鼻で笑いつつ繋はパソコンの画面を爪先で押しやった。


「…あの団体の拠点には〝夜淵〟の文様が刻まれていた。……つまり夜淵の一員だったって事だよね?」


 繋の問い掛けに、莎朗は苦い顔をして言葉を詰まらせる。


「……恐らくそうなんだと思うんですけどね。その〜、玖泉の詳しい成分や夜淵の内情を吐かせようとしたんですが…」

「……ですが?」


 鸚鵡返しに、莎朗は両手を広げて肩をすくめた。


「何聞いても〝夜淵の存在は永遠に!死の救済を!〟って叫んで暴れるもんだから手が付けられなくて。他のまともな奴に話を聞いても何も知らないらしくて。多分夜淵を崇拝してるただの個人宗教団体でしょうね」

「……何だそれ」


 その答えに、繋はがくりと肩を落とす。

 が、今は落ち込んでいる場合ではない。


「……じゃあ何で、玖泉をばら撒いてたの?」


 その質問を聞けば、不意に彼は口角を歪ませて微笑んだ。


「…実は、仲間の一人がそれについて吐きましてね。……〝ある人に頼まれた〟と。誰だと思います?」

「ええ、知らないよ。…九重総合病院の医者の誰か?」

「違いますよ。 …曜名續。夜淵の幹部が頼んだらしいです。〝九重総合病院の周りでこれを配ってくれ〟って」


 繋は勢い良く顔を上げる。

 景虎の友人で、今は会う事すらも拒絶している共生者。その理由を教えてもらう為に、景虎は遊郭の事件の犯人になろうとした。…純粋な友情を踏みにじった、卑劣な化物だと繋は軽蔑している。


「何であれが? ……そう言えば遊華で風音君を唆したのも彼奴だった様な」

「夜淵内で、彼はそう言う立ち位置なのかも知れません。……薬を使って火種を撒く役。…ただそれが殺人に発展して、夜淵に何のメリットがあるのかは謎ですが」


 確かにそうだ。

 新興宗教団体なのであれば、信者を増やして何か大きな事をするのが目的なのだろうとか、凡その推測はつく。

 ただ彼等は薬を使い殺人事件を起こして挙句、協力させた風音も殺している。以前の弥汐についても奇妙な事を言っていたと彪から報告を受けた。


 信者集めに資金集め、薬を打てばママの野望に近づく、と。

 VIPルームでただまぐわう事しか考えていなかった様子の男女を信者と呼べるのか。

 そしてそんな男女からお金を巻き上げ続けられるのか。


 あの惨状を見た彪からは疑問しか感じなかったと、聞いた記憶がある。


「…そう言う事件を起こして、人々に認知されたいのかな、…ほらよくあるドラマとかじゃ、街頭スクリーンジャックして〝我々は世界を救済する~〟とか」

「それはドラマの世界ですよ…。てか夜淵は今迄存在すら公になってなかったですし。…余り認知されたくないのでは?」


 莎朗がそう言った後。

 二人とも、言い知れぬ違和感を感じた。


 夜淵自体は認知されたくない。確かに弥汐も續も陰で薬を使い人々を破滅させて来た。然し今回の琉奏協会は、人々に〝キャンディ配りおじさん〟として認知されてしまっている。


「…つまり、追っかけって言うのは案外嘘じゃないのかもね。曜名續が撒いた種ではあるけど、琉奏協会が結構ド派手に行動しちゃって、今迄みたいな暗躍が出来てないって訳か」

「曜名續も想定外でしょうね~。動かしやすい標的ではあったと思いますけど、詰めが甘かったって事でしょうし〜」


 莎朗が鼻で笑う。

 が、暫しの沈黙の後、二人とも口に出したのは「…だから?」だった。


「曜名續が琉奏協会を唆して薬をばら撒いた。だけど…病院内の事件との繋がりは? そこが繋がらないんじゃ意味ないじゃん」

「意味ないですねぇ〜…もしかしたら普通に別件なんじゃないかって思いますよ」


 それ以降も琉奏協会について、そして病院内の裏切り者について思案していたものの、特にどれも引っかからずもやもやとしたわだかまりが残るだけであった。軈て「分からない」と一言吐いてがくりと項垂れる。


「こうなったら京目さんの方を当たってみるかぁ」

「京目…? 嗚呼、何かさっき音声記録送って来た奴ですか? 閖比良鳳理さんを探すって」

「そう。一ヶ月前から連絡ないらしくて。…あ、萬代アポ取っといてよ。御前なら出来るでしょ」

「ええ…門前払いかも知れませんよ? 一応連絡してみますけど」


 繋の無茶なお願いに明らかに嫌そうな顔をしながら、莎朗はのろのろと奥の部屋へと消えていく。

 その様子を眺めていると、今まで会話に入って来なかった緋狼がおずおずと繋に声をかけて来る。


「……あの人達、全員無事だったんですかね?」

「あの人達って…、琉奏協会の人? 話を聞けた人は居たみたいだよ、何で?」

「…」


 緋狼は言いにくいのか視線をうろうろと彷徨わせていたものの、軈て小さく声を漏らす。


「助けに来てくれた人、その琉奏協会の人達を丸焼きにしてたので…」

「……え?」


 緋狼の言葉に顔を顰める繋。


「ビルに連れ込まれて、床に倒されて、……そこで赤髪の男の人が部屋に入ってきたんです。だから琉奏協会の人が止めようとしたんですよ。その瞬間、青い火花が飛び散って、……その人は一瞬で真っ黒になってました」

「……もしかして、それって」


 黒血、共生者。恐らくはそうだろう。

 そしてその話が本当なら、琉奏協会の人間は少なからず一人以上は死んでいる。


「…助けに来てくれた人には感謝してますけど。結構軽率に、命を奪うんだなぁと」

「……」

「でも仕方ないんですかね、玖泉の事とかありますし…もし全員が黒血、だったら、あれが正しい処理の方法なんでしょうし」


 その言葉に、繋は何も言い返せなかった。

 琉奏協会の人間が黒血なのか、本当に人間なのかは繋は聞かされていない。繋は黒血を見つけ出す事が仕事ではないからだ。

 探偵の仕事は、事件を解決する、犯人を見つけ出す。それまで。

 その犯人が人間であるならば警察に引き渡す。


 でも人間では無かったら?

 自我を失った化物は、殺すしかないのだろうか?


 ――本当に?


 鬱屈とした感情が頭の中を覆いつくそうとしたその時。

 莎朗の声が廊下中に響き渡った。




「……閖比良鳳理が、………亡くなってる?」






 後日。閖比良邸に繋と莎朗、緋狼の三人が赴いた。豪華な仏間で焼香を終えれば、広間に案内される。そこには現社長の閖比良祥鳳ゆりひらしょうほうが座っていた。その姿は写真やテレビで見るよりすっかり小さく、寂しく感じられる。


「…この度は、ご冥福をお祈り申し上げます。…その亡くなられた理由とかって…」

「…窒息死、でした。一か月前から帰って来ず、公にしては世間を混乱させるとの事で警察関係者と内々に捜索を進めていたのですが、つい三日程前に団地沿いの川に浮いているのを発見されまして…」

「……もしかして、姿が見えなくなってから直ぐに殺されて沈められたんですかね」


 莎朗の問いに、祥鳳は暫く何も答えず――軈て両手で顔を覆った。


「……、…はい。その様です。……皮膚がふやけて、人の形をしていたのが奇跡だと、言われて…免許証を持っていたので……それで、息子だと、分かったんです……」

「…」


 悲痛な声音に、三人共押し黙る。

 数週間、必死になって探していた息子がそんな姿で帰って来たらと思うと、何の言葉も掛けられなかった。帰って来てくれるだけ良いものだと思う者も居るのかも知れないが、その姿を目の当たりにしたショックは計り知れないだろう。


「…祥鳳さん。…鳳理さんは…一ヶ月前京目由仁さんに何も言わず、離婚届を置いて失踪しました。何か知っている事があれば、教えて欲しいんですけど」


 繋が沈黙に耐えかねて口を開く。

 その問いに祥鳳は――、目を見開いて「今何と?」と問い返してきた。

 その様子に三人とも困惑してしまう。


「…え、えと」

「鳳理が離婚届を、置いて? どういう事ですか…?」


 莎朗と繋は事の顛末を一から説明する。

 事の発端は一か月前に、鳳理がリビングテーブルの上に指輪と離婚届を置いて失踪した事から始まる。由仁は納得が行かないと離婚届を無視。実家に連絡したものの、使用人からは捜査の事を明かせず「出張中だ」の一点張り。

 そしてその一か月後に団地沿いの川で発見された。


「…そ、そんな。な、何で……」


 全てを聞いた祥鳳は青い顔をして震えていた。


「……息子は、とても由仁さんを愛していたんです。お見合いからでしたが、由仁さんも息子の体調を気遣ったり、仕事のサポートをしてくれて…なのに何故、離婚届なんか…」


 祥鳳の様子から、嘘を吐いている様には到底思えない。繋も莎朗も視線を合わせて頷けば、莎朗が口を開いた。


「…その、鳳理さんのお部屋とかって触らせて貰えたりします?」

「……嗚呼、はい。どうぞ、まだ調査もされていないので」


 祥鳳がふらふらと立ち上がり、奥の部屋へと三人を案内する。

 広い和室にはベッドと本棚、そしてノートパソコンとデスクだけが置かれていた。何とも言えない殺風景な部屋だ。井草の匂いもあまりしない。


 本棚には分厚い経営の本や啓発本などがきっちり作者順に並んでいる。だがこれと言っておかしな点はない。部屋の中を観察しながら、繋が徐にノートパソコンを立ち上げてみる。


「あ、パスワード…まぁ当たり前か」

「流石に社長のパソコンノーパスだったら笑いますよ。……これはUTSに持ち帰って解析してみます。データが書き換えられてたら詰みですけど」

「ありがと」


 そう言いながらノートパソコンを鞄にしまう莎朗の後ろで、倒れた写真立てが目に入った。

 ザラザラとした灰の感触が残る机を少し撫で、繋はそれをきちんと直す。佐助の入学式の写真だろう。由仁と鳳理の手を繋ぎ、三人共が幸せそうに微笑んでいる。


「…ん?」


 その後ろ、重なった写真の端が見えた。

 部屋から見ても几帳面だと分かる性格なら違和感が残るそれに、繋の手が伸びる。


 重なった写真の正体は、真っ白なウエディングドレスに身を包み、恥ずかしそうに笑う由仁の姿だった。鏡にスーツ姿の鳳理が写っている事からお色直しの最中で撮られたのだろうか、きっと撮るなと怒られながらも鳳理はカメラを向けたのだろう、幸せそうに――そこまで考えて、繋ははっと我に返り、写真から目を離す。


 ――今、何を考えてた?


 本来探偵は真実を探るのが仕事。写真一つからその人がその時何を考えていたかなんて、正直考えなくてもいい事だ。なのに自分は、悉くそれに感情移入して心を痛めつけて、泣きそうになった。

 明らかにおかしい。玖泉の事件を担当する様になってから、犯人が特殊で〝どうしようもない〟人生や現実に直面していた事が多くなり、それに感化でもされてしまったのだろうか。


「…ふぅ」


 頭を振ってその思考をリセットする。いちいち全てのものに感情移入していたら、自分の身体がもたない。繋は写真立てを元に戻して、二人と共に部屋を出た。


 結局閖比良邸での収穫は、祥鳳に何の悪意も無かったと言う事実だけだった。

 言い様のない歯がゆさが残るが、これで由仁にきちんとした報告が出来るのは間違いない、そう繋は自分に言い聞かせた。


「じゃあ、有難うございました。急に押しかけてしまいすいません」

「いえいえ、……」


 帰り際、玄関前まで見送りに来てくれた祥鳳が何気なく口を開く。


「……息子は、とても優しくて。私の持病が悪化して社長の座に早く就いたんです。その所為で事業が傾きかけたり、社員の不満も募ったんでしょう。勉強をしながら社長としての仕事をこなしておりました。…毎日遅くまで仕事をしておりましたが、休みの日は何時も私の世話をしてくれて…」

「……」

「由仁さんも、しょっちゅうこちらへ赴いてくれて、私の世話をしてくれた。もう介護施設にやればいいのに、と笑って言えば〝そんな事言わないで下さい〟と真面目に怒ってくれた。…そうかぁ」


 夕暮れ時の風が吹く。

 少し冷えたその風が肌を撫でれば、自然と身体が震えた。




「もう、二人の笑顔は見られないんだなぁ」




 寂しそうに、祥鳳が呟いた言葉はまた風に攫われて消えて行った。






 後日。由仁に結果報告をする為、繋は莎朗と待ち合わせて病院の裏口で待っていた。由仁は今日も出勤だったらしくすっかり日の暮れた時刻、白衣を脱いだ彼女は代わりに簡素なジャケットを羽織って出てくると、待っていた二人に向かって手を上げる。その後ろから、紘十が顔を出した。


「……え、淺海先輩? 何で?」

「あたしが呼んだの。……紘十君もあたしの旦那の事気遣ってくれてたし」

「……すいません。聞かせて下さい」


 莎朗と繋は顔を見合わせる。言い様の無い気持ち悪い引っ掛かりが心に残るが紘十を邪険に扱う必要は、今はないだろう。

 そのまま夕食の買い出しを終えて帰り道、不意に由仁が口を開いた。


「さて。それで? 鳳理は何処に居たのかな」

「……」


 にこやかに話しかけてくる由仁に対して、二人の顔つきは神妙だ。

 軈てその空気に気付いたのか、由仁も紘十も表情を消して彼等を見遣る。




「結論から言います。閖比良鳳理さんは、亡くなられていました」




 莎朗の言葉に、由仁の表情が固まった。

 口を開きかけて何かを言おうとして、掠れた声しか出ず。


 徐々に瞳に涙を溜めて、それが零れ落ちると。

 彼女は地面に蹲って、わんわん泣いた。


 そりゃそうだろう。

 彼女の言葉からは、心配が溢れていた。


 十年も連れ添った旦那が離婚届を置いて出たあの朝は、彼女にとってどれほどショックだったのだろう。


 出来るなら、もう一度再会して欲しかった。

 繋は喉の奥が痛む感覚を抑えながら言葉を落とす。


「…仕事も勉強もしっかりとこなし、父親の事を考えられる優しい人だと聞きました。貴女も、よく祥鳳さんの介護を手伝ったりしていたと聞きました。…一か月前に失踪した鳳理さんは、つい三日前に団地沿いの川で発見されたそうです。…遺体の状態から、失踪して直ぐに殺されたかと。本当に…何と言ったらいいか」

「…」


 彼女はそれを聞いて益々声を上げて泣く。

 すると莎朗が一歩、前に出て由仁の肩を抱き「ここじゃ迷惑になる」と繋に目配せした。それを受け取れば、繋も紘十も由仁の荷物を持って近くの公園のベンチに座らせる。


 暫くそこで泣き続けていたものの、漸く彼女も落ち着いた様でぐすぐすと鼻を啜りながらも受け答えが出来るまでには回復していた。


「……鳳理はね」


 そうして掠れた声で、彼女が口を開く。


「すっごく優しかった。…あたしなんかにも目茶苦茶。お見合いの写真の中からあたしを選んでくれて、〝本当にお会い出来て良かった〟、〝写真通りの人だった〟って褒めてくれて、浮かれちゃって……結婚してからその態度が変わる事もなく、あたしも恋に落ちた…感じでね」

「……」

「……本当は心の何処かで、死んでるって分かっちゃってたのかも。ずっと使用人さんが出張中って言ってたのも、もしかして誰かに攫われたからかなって思っちゃって。嫌な予感ってすぐ当たるの、だから本当はそんな好きじゃなかったって思い込んで、ダメージを柔らかくしたかった、ん、だけ、ど」


 また由仁の瞳から涙が零れ落ちる。


「駄目だね、やっぱ、むりだ」

「……」


 それからたっぷり日が落ちるまで、三人は彼女の傍でずっと背中を撫でていた。

 莎朗や繋にはその気持ちは理解出来ない。共感も出来ないだろう。


 けれど、もし自分の大切な人が同じ状況になっていたら。


(きっと、俺も泣き喚くだろうな)


 繋は脳裏に緋狼の姿を思い浮かべながら、流れるままに莎朗へと視線を移す。

 彼も遠くの誰かに想いを馳せているのか、居た堪れない表情を浮かべていた。


 莎朗と行動し始めてもうすぐ数か月になる。

 相変わらず、業務連絡と少しの雑談しかしない仲ではあるが、少しだけ分かった事が繋にあった。


 彼は絶対に食べ物を口にしない。

 そして夏でも薄手のコートを羽織っている。


 これが何を意図するのか、今の繋には到底分からなかった。きっと問い詰めても何時もの様にへらへらと躱されるだけなのだろう。繋の視線に気付けば、莎朗は何時もの表情に戻りにこりと微笑んだ。


「…俺、水買ってきますね」

「嗚呼、ありがと」


 自販機の水を躊躇いなく飲み干し、彼女も今度こそ落ち着きを見せ始めた。


「…有難う、急なお願いだったのに、ちゃんとやってくれて」

「否、まぁ…別に」


 改めてお礼を言われると何だか照れ臭い。視線を外してしまえば、由仁が笑う声だけが聞こえた。




「……だから、あたし達も、ちゃんと話そうって思った」




 繋と莎朗の表情が切り替わる。

 あたし達? その疑問が言葉になる前に、由仁の瞳が微かに揺れた。そうしてゆっくりと口を開く。


「薬剤の、過剰投与はあたし。…嘉谷由葵に、麻酔を過剰投与したのもあたし」

「……僕が、嘉谷由葵さんを、突き落としました。病院内で悪戯を行ったのも僕です」


 真実は、全くもって予想出来ない。

 二人共ぽかんと口を開けていたものの、莎朗が何とか声を絞り出して追及する。


「…京目さん、と淺海先輩が? …そんな、どうして?」


 二人ともその問いに暫く返答はしなかった。

 けれど、顔を見合わせて頷けば由仁が先に答える。


「逆らえば佐助を…殺すって、脅されていて」

「……だ、誰に!?」


 繋が身を乗り出す。一瞬でパズルのピースがはまった様な感覚だ。

 由仁は周りを見ながら聞かれている可能性は低いと判断したのか、小さな声で答えを吐いた。


「琉奏協会。九重総合病院の心象を下げたい、後は特別棟へ行く為のパスワードを盗めって」

「………、…やっぱり」

 

 やはり琉奏協会が今回の犯人だった。

 真の黒幕は曜名續ではあるが、彼に唆され玖泉をばら撒き九重総合病院の秘密を暴こうと企んだ。ICUの中は幾ら何でも忍び込める可能性が低い。だから内部の協力者を作る必要があり、それに選ばれたのが子供のいる由仁だった。

 と言う事は。繋が紘十の方を見れば彼もこくりと頷く。


「…僕は、妹を殺すと脅されました。…そして、玖泉を渡されました」

「じゃあ、まさか……飲んだんですか?」


 莎朗の問いかけに、紘十はまた頷いて。

 二人の前に手を翳せば、その手は指先から綺麗に透き通りーー軈て完全に見えなくなる。


「…電子ロックの指紋を採取しようとしたのは、君だったんだね」

「はい。僕は透明になれます。僕が身につけているものも、…だいぶ練習して漸く透明にする事が出来た。だから粉を持って、休憩時間中に抜け出してやったんです」

「……成程、ね」


 繋がそう言葉を溢した瞬間。


「おかーさーーん!!」


 元気な声が通りの向こうから響いてくる。由仁の視線が三人の向こうに注がれた。繋と莎朗、紘十もそちらを振り向けば、小学生くらいの男の子がこちらに向かって走って来るのが見える。


「佐助! おかえり~」


 鳳理に良く似た黒髪の少年・佐助は手を振りながら公園前の青になった交差点を渡ってきた。

 それを見た由仁も、二人の脇をすり抜けてそれを迎える。


「この子が佐助。佐助、こっちが初音繋お兄ちゃん。こっちは萬代莎朗お兄ちゃん」

「つなぐお兄ちゃん、さろーお兄ちゃんこんばんは!」

「こんばんは〜。佐助君」


 にこやかに挨拶をする莎朗の隣で繋は言葉を詰まらせていた。

 子供はあまり得意な方ではない。こういった笑顔の眩しい純粋無垢な子供はどうにも苦手なのだが、佐助はそんな事お構いなくニコニコと繋の挨拶を待っている。


「…はい、どうも」

「うわ子供相手にそれは駄目ですよ〜。あ、もしかして子供苦手…」

「あら、そうなの? 探偵たるもの、子供に苦手意識を持っていたら駄目だぞ~」

「…言われなくても、分かってますから…」


 莎朗と由仁の二人にイジられながら、繋は〝ある事〟について考えを巡らせていた。

 そしてそれは紘十も同じだった様で。視線が合えば、困った様に眉を下げる。


「……萬代、淺海さんの事だけど」


 雰囲気が和やかになった今、それを態々壊すのもどうかとは思うが繋には確認しておきたかった事がある。


 ーー玖泉を飲み、共生者になった彼は今後どうなるのか。


 それは莎朗も考えていた事だった様で、佐助から目を離すと「まぁ、処分は下されるでしょうね」と言い放った。その言葉に由仁も表情を固くする。


「ただ、天空先生がどう言うか。もし全てを話して許されるんだったら、このまま天空先生の下で働く事は出来るんじゃないですか? 明日にでも話したら良いですよ。俺達も最後まで見届けないとですし、ね」

「うん。それに琉奏協会は捕まった。曜名續も足切りをしたんだ、これ以上は手を出さないでしょ」


 繋の言葉に、二人が安堵したのが分かった。

 もうこれで二人の大切な人が危険に晒される事もなくなる。


「あ」


 と、徐に由仁が声を上げた。

 全員がそちらに注目すれば、由仁は胸の前で手を合わせてにこやかに言う。


「じゃあ皆、今日はうちでご飯食べてってよ」

「え」

「鳳理の事、ちゃんと見つけてくれたお礼。紘十君も良いでしょう? まだ時間はあるはずだし」


 そう言えば、紘十はスマートフォンのディスプレイを確認する。

 時刻は十七時半。


「……はい、今日は父が、…遅くなると言ってたので、大丈夫です」

「じゃあ決まり! ほら行くわよ」


 由仁は繋と莎朗の手を取ってぐんぐん進んで行く。

 まだ違和感は残っていたものの、少なくとも今すぐ危険になる訳じゃないだろう。


 そうして二人は由仁の家に向かう事になった。




 

「はい、初音君貴方の分、これ紘十君の分ね。萬代君は本当に要らないの?」


 そして今、繋は莎朗、紘十と共に由仁の家にお邪魔させて貰い、夕食のコロッケを振る舞われていた。食卓テーブルの上で輝くオレンジ色の灯りが、どこか胸の奥を暖かくさせてくれる。


「どうも…、…ここに鳳理さんも住んでたんですよね」

「…まぁね。でも仕事の資料とかはこっちの家には持ち込んでなかったみたい。部屋の整理をしたけどそれらしいものはさ〜っぱり」

「きっちりしてたんですね…」


 繋はそう言いながらリビングを見回す。何処にでもある様なダイニングテーブルに、広間にはソファとテレビ、ローテーブル。三人家族が住んで丁度いいサイズの部屋に見えた。

 と、調理器具を洗い終わった由仁が佐助の隣に座って、口元についた汚れを慣れた手つきで拭う。


「佐助、美味しい?」

「んまい!! つなぐおにーちゃんも美味しいよね!!」

「え? あ~、うん。美味しいよ…」


 満面の笑みを見せられれば、繋は少し動揺しながらもそれに答える。

 その横で、相変わらず水だけを飲む莎朗はニヤニヤと笑っていた。


「も〜、本当に苦手なんですねぇ。緋狼君の時はどうやって仲良くなったんだか」

「物心ついてたから緋狼君は。人間として意思疎通が出来たの」

「こら! 人の子供を意思疎通が出来ないって言わないでくれる?」


 そう言ってまた笑いが起こる。

 そう言えば、こう言った母の手料理なんて何年振りだろうか。勿論血は繋がっていないものの、この食卓を見ていると何だか懐かしい気分になる。と、


「…本当にありがとうね、萬代君。初音君」


 そう、由仁が呟いた。


「……守りたいものが出来たら、人は弱くなる。…なんて良く聞くけど、やっぱりちゃんと相談して良かったと思うわ」

「……あ」


 そこで初めて気づいた。由仁が最初に繋に依頼を持って来た時。

 あの時彼女は依頼をしながら繋に〝助け〟を求めていたのだろう。


 だとすればあの覚悟した様な瞳は。


「……もしかしたら、本当にあたしの手で人を殺さなきゃいけないのかって思って。覚悟を、したつもりだったんだけど。……止められて良かった」

「……あの状況下で、人に相談は中々出来ないと思いますよ。初音さんが居て良かったですね」


 そう莎朗がフォローする。

 繋はふん、と鼻を鳴らし視線を逸らした。


「……ま、こうやって事件は解決したし。二人ともこれからの事を考えなきゃじゃない? 特に、淺海さんは」

「……」


 まさか自分の話題になるとは思っていなかったのだろう、紘十は身体を硬直させた。然し、「そうですよね」と視線を落として呟く。


「……妹にこれ以上、苦しんで欲しくありません。以前院長に打診された田舎の分院に異動しようと思います。妹の高校生活を邪魔したくない、…二人だけで生きて行けないから、断ったんですけど、そう言ってられませんから」

「……そっか。でももしその分院が見つかったら」

「守ります」


 繋の言葉を掻き消す様に紘十が言った。

 その瞬間、繋の目の前が砂嵐に包まれる。

 

 ここは何処だろうか。和室にベッド、本棚にパソコンデスク…鳳理の部屋だ。

 真っ暗なまま、椅子に座り項垂れる彼は灰皿に何本も煙草の吸殻を溜めて何かを見つめていた。


 由仁の写真だ。

 でもそれ以上に、その瞳が紘十と重なる。


 これは彼が失踪する、前日の姿だ。

 でも、何故――


「……初音さん?」


 はっとして視線を上げれば、紘十も莎朗も由仁も心配そうに繋を見つめていた。

 慌てて何でもないよ、と言えば安心した様に由仁が笑う。


「分院が見つかる前に、天空さんが父親の方を何とかしてくれると思うわ。あの人、きっちり最後まで面倒見てくれる筈だから」

「あ〜、確かにそんな感じはします。やっぱ優しいんですよねぇ」

「いっその事昏睡させちゃう??」

「あ、あはは…」


 由仁の冗談に、紘十が苦笑いする。

 麻酔科医としてやってはいけない事をしたのに、と繋が呆れた様に口を開く。


「反省してる? 明日、もし天空さんが許さなかったら二人共ちゃんと罪を償うんだよ?」

「分かってるわよ。その覚悟も出来てる」

「……大丈夫です、そうしないといけない事は」


 二人はそれぞれの想いを抱えながら答える。

 そう言いつつ、繋も天空が二人を許す未来を見据えていた。一生懸命生きようとしてる人間を見るのが好きなだけ、と話していた天空だ。

 間違いを犯しても、前を向き罪と向き合う二人を許さない筈がない。


 そう思いながら繋は、人知れず微笑んでいる事に気づいた。

 こんなに明るい空気を感じたのは何時ぶりだろうか。


 決して多くない人数で、テレビを見て笑ったり。

 意外と芸能人の名前を知ってる紘十に莎朗と共に感心したり。

 お風呂から飛び出してきた全裸の佐助に抱きつかれて悲鳴をあげそうになったり。


 …願わくば二人が正しい道にもう一度戻れます様に。

 そんな事を願っていた。





「……、良かったですね。淺海先輩」


 午後二十時。莎朗と紘十は家路についていた。由仁と佐助の方は繋が見ると言う事で、紘十の送迎を莎朗が買って出たのだった。


「うん、あ、送ってもらって有難う…こんな遅い時間になっちゃってごめんね」

「良いんですよ〜。仮に父親が帰って来てたら現行犯で捕まえられるの、俺しか居ないんで」

「わぁ、心強い…」


 そんな他愛のない話をしながら、二人は歩く。暫くは会話を交わしていたものの、軈て沈黙の時間が多くなり、遂に二人の間に静寂が流れた。

 心地良い様な、気まずい様な。


「……、ま…萬代君って、」

「はい〜?」


 その沈黙を破ったのは紘十だった。


「……、…萬代、君って……〝同じ〟?」

「……」


 その沈黙が何を意味するのか、紘十には分かってしまった。

 けれど、莎朗は何時も通りにこやかな笑みを浮かべて躱してしまう。


「……何の事ですか? 俺は別に虐待とか受けてませんよ」

「…あ、……そ、そうなんだ。ごめん、てっきり……」


 傷が開く。感覚がした。

 話題を切り替える様に今度は莎朗が声を上げる。


「あ、そう言えば分院ってどこにあるんですか? 知ってる場所なら行っちゃおっかな〜」

「え、え〜と確か南部の方だったかな…ほら鏡都きょうとより奥の方…」

「うわ、遠! やっぱ無理です行けません」


 再び何気ない会話に戻る。

 そうして暫く歩いていると、紘十が「あ、ここだ」と言った家の前で止まった。

 表札には〝淺海〟と書かれている、現代的な二階建ての家。


「本当に今日は有難う。…明日はよろしくね」

「いえいえ。無事に解決出来て良かったですよ。じゃあお休みなさい」

「うん! お休みなさい」


 そう言って紘十がお辞儀をして笑う。

 それに釣られて莎朗も微笑み返し。踵を返して、後ろで鍵が開けられた音が響いた瞬間。









「え?」










 鮮烈な鉄錆の匂いが、莎朗の身体を強く掴んだ。

 振り返れば、玄関前で紘十が立ち尽くしている。そこではない。


 紘十の奥、玄関先。

 小綺麗なシューズボックスの上に活けられた花瓶。白いレースのクロス。

 小さな花の絵が飾られている白い壁、そして散らばった靴やサンダル。

 全てを、赤く穢し。




 玄関マットの上に倒れる少女の姿があった。




「……どうして」


 莎朗が言えるのは、これだけだった。

 元はと言えば、曜名續に唆されて琉奏協会は玖泉をばら撒き、九重総合病院の心象を下げろ、特別棟に入る為のパスワードを盗めと二人を脅した。


 然し琉奏協会は逮捕された。

 その筈だ。残党を残す様な仕事は、〝あの人〟はしない。




 じゃあ、もしかして。




「僕が全てを消さないと行けない羽目になったから、ですよ」





 玄関から伸びる廊下の曲がり角から姿を現したのは、曜名續。

 顔や首には血痕が飛び散っている事から、恐らく彼が。そう理解した瞬間、前に立っていた紘十の身体が動く。


「………お前がッッ!! 彩絵さえをッッ!!」


 そう叫び、地面を蹴って續に飛び掛かる。が、人間の力で敵う筈もなく紘十の身体は續に届く前に伸びた羽根によって防がれた。

 そのまま薙ぎ払われ、紘十は外に居た莎朗と共に吹き飛ばされる。


「うッ……」

「頭が弱い宗教団体ですよ。言わなければ、まだ救いがあったのに」

「……、と、特別棟のパスワード…、それが……アンタらの狙いって事、ですか…」


 痛む背中を無視して莎朗が立ち上がる。

 續は妖艶に微笑むと「御名答」と軽く拍手をしてみせた。


「本当は閖比良鳳理と穏便に話し合って手に入れるつもりでしたが、その前に彼が舌を噛んで死んでしまいましてね。だから京目さんと彼、両方に狙いを定めてゆっくり九重総合病院を潰そうと思ったんですけど」

「……でも、琉奏協会はその二人に対しても直接的な方法を指示してしまった。…だから、証拠を残しそうな人間…全員消すって…?」


 續は何も答えなかった。それが肯定であると言う風に微笑むだけ。

 心臓が冷える。痛みだけじゃない、記憶が身体を蝕んでいる。


「…ッ、どうして…鳳理さんを…?」

「それはUTSのパソコン解析が終われば分かるんじゃないですか? それより良いんですか? 彼を放って置いて」

「…は、」


 意識が紘十に向けられた直後、腕を強く掴まれる。

 その瞬間、前を向いていられない程の頭痛と吐き気に襲われーー莎朗はすぐさまその腕を振り払った。

 と同時に振り払ってしまった、と言う罪悪感にも苛まれる感覚に、心臓が跳ねる。

 紘十は、〝何も無くなって〟いた。


 文字通り髪も顔も、ただ人の形をした透明な何か。

 その顔に当たる部分が、酷く歪む。


「…淺海先輩、……」


 助けたかった。

 これは嘘じゃない。

 気づけば莎朗はぼたぼたと大粒の涙を溢していた。これが紘十の能力なのか、そんな事を考える間もなく、彼の感情が身体を支配して上手く動けなくなる。


 守りたかった。

 ただそれだけ。

 守って欲しかった。


 誰かに。

 腕は、振り払われた。


「ぁ…」


 気づけば莎朗は、握り締めた拳銃を自分のこめかみに突きつけていた。助けてあげたかった人を見捨てた、守れなかった、自分は無価値だ。この先生きていても仕方ない。


 そんな気持ちがぐるぐると渦巻いて、もう〝そんな自分なら消えてしまいたい〟に収束した瞬間。

 莎朗の指が引き金を引いた。




「萬代!!」




 その腕が誰かに掴まれる。

 弾丸は遥か宙に飛び、薬莢がその場に落ちた。カン、と言う音が聞こえれば莎朗は瞬きを繰り返し、全身の力が抜けて行くのを感じる。


「……初音、さん」


 そこに居たのは繋だった。

 荒い息もそのままに、繋は遺体とーーそして續を見つめ口を開く。


「……全部、お前の所為?」

「ほぼ、僕の所為です。…そう言えば、双ツ神景虎は君の事務所の所員になったんですよね」

「だから何? 今そんな事話してる場合じゃ、」


 繋の言葉が響く中續は玄関先で眠る少女を避け、するりと繋の脇を通り紘十の前まで歩み寄る。まるで何も聞こえていないかのような振る舞いだ。

 然しその近くに居た繋と莎朗は、何の反応も出来ない。


「それなら及第点として、この化け物は僕が引き受けましょう。先程まで未来を見据えていた同胞の脳幹を傷つけるのは胸が痛むでしょうし」


 そう言って羽根を変形させる。

 景虎の腹部を突き刺したあの槍だ。無意識に身体が震え出す。


「待って、…」

「何を待つんですか? 変貌した個体はもう二度と元に戻りません。国や九重総合病院はそれでも人間に戻そうと躍起になっている様ですが…無駄、という事になりますね」

「それでもお前に殺させる訳には行かない!!」


 繋の咆哮に、今度こそ續が吹き出した。


「あは…何故? 人間である貴方達が彼を楽にさせようと言うんですか? 何でそんな所にこだわるんですか? 変な人だなぁ」

「未来を!!」


 續の馬鹿にした様な言葉を、繋が抑える。

 気づけば、ポケットナイフを彼に向けていた。


「未来を潰した奴なんかに!! 淺海さんを殺させる訳に行かないっつってんの!! 常識的に考えてッ、妹を殺した手で!! 淺海さんに触んないでくれる!?」

「……はぁ」


 繋の言葉を聞いても續は揺らぐ素振りを見せなかったが、やがて小さな息を吐いて紘十の身体から離れ羽根をしまう。

 自分でもどうしてそんな事を言ったのかは分からなかった。

 ただ、殺されて終わりにはしたくなかった。


 やっと未来を見た彼を、妹を殺した奴の手で踏み躙られるのは耐えられなかった。


「………、…」

「初音さ」

「黙って」


 自然と呼吸が速くなる。莎朗も何も言えずに黙ってそれを見ていた。

 変貌個体と向き合うのは、何度目か。

 露木碧生は攻撃的で、こちらも傷つけなければやられてしまうと言う恐怖に無意識に身体が動いていたのだろう。


 だが今は違う。


 何もかも失った。自分が何者かすらも失った。

 ただ助られなかった〝人〟がそこに居る。


 それに刃を立てる事。


「…ッ、……」


 どうしようもなかった、と自分に言い聞かせる。

 仕方なかった、と自分に言い聞かせる。

 ただ、ーー運が悪かっただけなのだ。


 それでも、どうにか出来た筈だと心が叫ぶ。




 ーー妹にこれ以上、苦しんで欲しくありません。




「……最期まで、本当に強かったよ。淺海さん」








 初夏。梅雨が終ると暑さは更に増し、容赦なく陽射しが繋の身体を焼く。

 九重総合病院には、あれから一度も顔を出せていない。あの後、退院した莎朗と共に院長室に呼ばれ「働いてくれてありがとう」と分厚い茶封筒を渡されてから、その周辺に近づく事すらしていない。



 紘十の家へと足を運べば、未だにイエローテープが貼られていて。

 繋はそこに小さな花束を置いた。



 UTSが解析したパソコンの内部には特別病棟の間取りや目的、黒血に関する資料がまとめられていた。そして九重総合病院に多額の出資をした記録も。

 つまり鳳理は、九重総合病院の協力者。だから拉致されたのだろう。


「……」


 手を合わせて少しして。繋は莎朗から言い渡された言葉を反芻する。


 妹が父親に性的虐待されていた頃から、自分を責め続け何度も何度も命を絶とうとした痕跡が部屋中にあったらしい。十数錠の玖泉と何百枚分の遺書、更に彼の部屋のペン立てに刺された一本の百円のカッターナイフには大量の血がこびりついていて。

 …そんな有様だったらしいのだが、紘十の部屋にだけは入る気になれなかった。



 入ってしまえば最期、罪の意識に自分を責めそうになってしまいそうだったから。



 あの後、曜名續はいつの間にか消えていた。父親はあれから一度も姿を見ていない。

 由仁はと言うと、連絡を受けたUTSの職員が保護した事であれから特に何事も起きていない。彼女は次の日天空に全てを話し、ーー天空はそれを許し今後も病院で働いて貰う決断をした様だった。


 それだけが、救いだ。と繋は自嘲する。

 でも何時か。


 何時か、由仁も莎朗も、紘十の事を忘れてしまうのだろう。


 自分はどうすれば良かったのだろうか。

 〝ただ運が悪かった〟――全くその通りだ。だからと言って非情に動ける程、自分は人間が出来ていない。


 悪い事をした人間にも、それぞれの人生がありその中に〝どうしようもなかった〟現実がある事を知った。そして、玖泉を服用する人間にも〝どうしようもなかった〟現実がある事を知った。


 その選択しかなかったのだ。人生を重ねてきたが故の、取れる選択肢だったのだ。

 ではその〝どうしようもなかった〟現実をどうするべきなのか。その選択を掴ませない様にするには、どうするべきなのか。

 何度も折られる心を、どうすれば救えるのか。


「…あ」


 立ち上がり踵を返せば、塀に凭れる様にして莎朗が立っていた。

 何時ものスーツではない、普段着の姿。


「……何? 非番だからお前も来たの?」

「や、…初音さんが落ち込んでないかなぁ~~と」

「余計なお世話……」

「まぁまぁ良いじゃないですか。あ、ご飯でも行きます~?」

「御前食べないだろ…」


 そう吐き捨てて歩き出そうとした繋が、不意に立ち止まる。


「……萬代はさ、取れる選択肢が最悪なものしか無かったら、やっぱり死ぬ覚悟を持ってでもそれを取る?」

「…」


 返答はない。気になって後ろを振り返れば、彼は驚いた表情で固まっていた。

 何時もの大人びた表情ではない、歳よりも少し幼い――


 今にも崩れそうな表情だった。

 彼がそんな表情をするのは初めてで、繋も驚いて固まってしまう。


「…ま」

「……もう、」



「頼れる人も、手を差し伸べてくれる人も居ないんだから、仕方ないんですよ」

「…萬代」

「な~~んて、俺は最悪な選択肢を取っても生き残りますけどね」


 べ、と舌を出して何時もの調子で返答する莎朗。その舌には光り輝く桃色のピアスが開けられていた。

 それに対して、繋は少しの違和感を感じる。――何故だかは分からない、ただ言い様のない奇妙な違和感が胸に引っ掛かったのだ。

 然し幾ら考えても分かりやしない。繋は溜息を吐くと先を歩く莎朗の歩調に合わせた。


「御前は死んでも死なない気がするよ」

「あれ、先輩と同じ様な事言うんですね? 分かりませんよ、もしかしたら明日にでもさっくり逝くかも」

「それならそれで、ご愁傷様でした」

「え、酷い!!」







 そんな事を話しながら、繋は家へと視線を流す。

 もう鉄錆の匂いはしない。

 

 そしてもう、苦しむことはないだろう。

 ただそれだけを願って。


























 同日、北地区。丙町ひのえまち

 和寿也は、ある少年と相対していた。


 赤い髪に、〝彼〟に良く似た淡黄色たんこうしょくの瞳。

 萩原透は和寿也に向かって、静かに呟いた。






「俺の父親の、萩原恭也はぎはらきょうやの手帳を賭けて、勝負して下さい」




第漆話に続きます。

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