七十話 旅の記録 アリシーの一日
最近、アリシーは暇な時間になると僕の日記を見ていることがある。僕が食事を作ったりしている時や、就寝時間などだ。
頭を捻らせているので当然文字は読めないだろうに、一体何が楽しいんだろうか。
「うーん……」
現在は渓谷の底で構えている。窪みの中で身体を休めているため、陽射しの来ない日陰は非常に過ごしやすい。
今日も僕の日記を睨んでいたアリシーに、僕は一つ提案をしてみることにした。
いつもいつも僕の日記ばかりを眺めていても全く楽しくないだろう。地図も見ているが、あんなものを見ても別に面白くはないし。
まあ、内容を知りたいなら口に出して読むのもいいけど……それは恥ずかしいから止め。文字を教えるのもいいけど。
なら。
「アリシー。今日一日、アリシーが日記書いてみる? 興味があるのか知らないけど、いい暇潰しにはなると思うよ」
どうせ言語自体が違うから僕には読めないだろうし、僕に中身を見られて困ることも恥ずかしがることもないし、丁度良さそうだ。
「そうだね……うん、リッキーが言うなら書いてみようかな」
そういうことになった。
いつも使っているペンと本を手渡し、疲れていたので僕は睡眠を取ることにした。
七十話 閑話 アリシーの一日
ええと、私はアリシード・ソニア。
今は夜で、リセルとリッキーは寝ているかな。とりあえず何を書いてよかったのか分からないから、今日のことでも書こうと思う――。
「……何書けばいいんだろ」
慣れない手付きでペンを走らせていた私は、不意にその動きを止めた。
丸い銀製のペンだ。中身に塗料が入っているらしく、ペンの先から少量ずつその塗料が流れ出ることで紙に文字を記すことができるという代物。
しかしながら、私はペンなど持つ人間ではない。リッキーが日常的にこれを使っていたから違和感は持っていないが、私が使うことは絶対にないのだ。
それはここに転移してきた世界でも同じ事で、私は学び舎に通っていた時もこういった物を使った覚えはほとんどない。
あるのは暗器などの武器ばかり。文字は知っていても書くことはないし、もう二度とないのだろうと勝手に思っていた。
いや、思ってすらいなかったのかもしれない。
それがこうだ。昼間にリッキーから突然変な提案をされ、断る理由もないので受け取ったがいざ書いてみるとこの様だ。
字も汚いし。書く手もぎこちないし。書こうにも何から書いていいのかも分からないし。
「にしても、今日は色々あった、かな」
とりあえず今日の記憶を漁ってみようと思う。
それは、リッキーが昼寝をしている時だった。昼の食事も済ませ、居場所も確保しているのだが、呑気なことである。リセルもすぐ目の前で小動物と触れ合い無邪気で楽しそうにしているし、そこからは危機感や警戒心の欠片も感じられなかった。
しかし、その分はきっちり私が警戒するので特にこれといった問題はないのだけれど。
いや、その方が私は嬉しいかな。
物事を危険か危険じゃないか、というだけの判断で生きていた私と同じ価値観を、二人には持って欲しくはない。
とはいえ旅に出てからかなり経過している。常に気を張っていると、心労が溜まるのは確かだった。
リッキーとリセルは気付いていないけど、これまで私達が襲われた数は一度や二度ではない。
自然界とは怖いもので、気を抜けば直ぐ捕食されてしまうのが当たり前の世界だ。
外敵が来る度、事前に私が駆除しているからいいものの……リッキーにはもう少しだけ警戒心を持って欲しいかな。
「ん、じゃあ……」
――そういえば、今日は妙な襲来があった。そのことでも、とペンを持ち直した。
確か、リッキーが大分前「カオナシには気を付けろ」だのなんだのと言っていた覚えがある。
白装束、それと同じくらいの無機質で真っ白な肌。
顔は存在せず、目、鼻、口の位置に窪みがあるのみ。そいつは人の“隙”に付け入り、精神を乗っ取る生態を持つらしい。
「みつけた、みつけた。やっと。みつけた。おひさしぶり、おひさしぶり」
――そいつは昼に、常時警戒網を張り続けていた私の前に顕れた。
何の前触れもなく、気配すらも悟らせないでいつの間にか眼前に立っていたそいつはどこを見ているのか分からない頭部から言葉を発する。
私は瞬時に“敵”だと気付き、カオナシの首を刎ね飛ばした。
奇抜な登場をした割にはその首と胴は呆気なく離れ、地面に落ちる。だが、
「君は」
刎ねたはずの首は、アリシーの顔の位置で止まり、そう口にした。
リッキーがカオナシの話は絶対に聞くなと言っていたことを思い出し、刃を振るう。
「ご、ごごごごごごご」
気味の悪い叫び声と共に、そいつは後方へ飛んで行った。胴体だけが残され、一息吐いて短剣をしまおうとして――。
「まだ、いるね」
柄を握り締める。背後からの生暖かい視線を感じて振り返って見れば、そこには無傷のカオナシが。
「君は、僕」
――言葉を聞いてやるつもりはない。袈裟切りに両断し、言葉が止まったカオナシの喉元に剣先を突き刺して横に薙ぐ。
体勢を崩すカオナシの両足を落とし、蹴り飛ばして距離を置いた。
「僕は、君」
頭に響くような怖ましい声が脳に直接入ってくる。それがカオナシの仕業だと理解するのに、時間は必要なかった。
対処方法は、とにかく拒絶すること。一瞬でも気を抜けばカオナシに意識を乗っ取られることになる。リッキーが言っていたことだ。
「リッキーは、いつもいつもこんな敵と戦って……」
今更ながら、再び実感する。
彼は無謀だ。こんな戦っても死なないような連中を相手にずっと奮闘している。詳しい事情は勿論知らないのだけど、どうしてそこまでやるのか。
「それが今の私と一緒の感情なら……分からなくもないけどさ」
カオナシはしつこい。何度倒しても何度破壊しても、自身の存在が脅かされる段階まではけして襲うことを止めない。結局、数にして二十六ほど一撃必殺の技を放つことで、カオナシは目の前から消滅した。
恐らく、体力を回復したらまた襲ってくるのだろう。どうしようもなく厄介な相手だった。
「うーん。これ、書いてもって話だなぁ」
必死に文字を書こうとしていたペンを止め、結局数文字しか書いていないのにそこで書くのを中断した。消そうとしたが、一度書いたものは消せないみたいで。もっと考えてから書き出せばよかったとも思ったが、日記だしそこまで気を張ることもないか。
「……ん、アリシーさん、まだ起きていたのですか」
そうして思案に暮れている内、リセルは起きてしまっていたらしい。まだ夜だが、寝惚け眼で半覚醒状態といった彼女は私の元へ寄る。
「あ、リセル起きたんだ」
リッキーは寝ている。
起きそうな様子はないし、ここでリセルと話してもいいだろう。
「日記、まだ書いてなくてさ。ねぇ、リッキーはどう?」
今の彼は、未だ侵されているまま。
それはあの時の出来事が原因だった。ラプスと名乗る者に都市が滅茶苦茶にされ、彼はラプスに“寄生”されたあの時だ。
彼の話によると、ラプスは倒したみたいで、その上自分は何ともなっていないと痩せ我慢を言っているが……リセルは「きっと今も辛いはずです」と口にしている。彼の身体の奥にはラプスの禁忌が存在しているのだ。無事なはずがない。
それでも今の彼は、全くそういったことを気取らせず傍にいる。
「ええ。禁忌が強まっています」
「そっ、か」
「私達にできることは……やはり、ありません。強いて言えば、最期まで一緒に居てあげることが、やれることなのだと思います」
リセルは目を落としてそう言った。
「やれること、かぁ」
私はそれきり、口を閉ざし、眠るリッキーの顔を覗いてみた。すやすやとだらしない顔で眠る彼は、外見だけ見ればどこにでもいる普通の人なのに。
「あ、よだれ垂れてる」
「どこ見てるんですか、アリシーさん?」
「あ、いや……ちょっと目に入っただけだよ。私も寝てる時ああなってるのかな」
「凝視したことはないので分かりませんが、多分大丈夫だと思いますよ」
「なら良かった」
リッキーにそんな姿は見られたくない。……寝起き云々良く言われるけど。
「アリシーさん。それと、少しお話があります」
「ん?」
何の話だろうか、とリセルと目を合わせれば。
「“禁忌”が近づいています」
「――それは」
「ラプスでもエクサルの物でもありません。もっと別の、禍々しい物が。すぐそこまで。きっと律樹さんを捜しているのだと思われます」
禁忌が来ている。なら、もう戦いはすぐそこにあるというのか。
なら、もう寝られない。日記を横に置いたアリシーは立ち上がり、すぐにでもその禁忌に対処できるように肉体の準備を整えようと柔軟体操を始める。
「今すぐに来るわけではないと思いますが……」
「知ってる。でも、そんな話聞いたら眠れないからさ」
カオナシのように特異な隠密性を持っているわけでもないし、本当にすぐそこまで近付けばリセルが警告を出すことは分かっている。
でも、そうなればまたリッキーは無茶な戦いに身を投じることになる。
――そうなる前に、私が殺る。ラプスとの戦いで相手がどのような存在かは理解した。あれから鍛錬を何倍にも増やしてきて、ここまで強くなったのだ。
私が倒さないで、誰が禁忌を倒す? 相手にする?
まず今のリッキーでは戦えない。
そう。だから、私がやるのだ。
「アリシーさん、日記の方は書かなくても大丈夫なんでしょうか?」
「あー……そうだったね。その禁忌は、いつくらいに接触してきそうなの?」
まだ数文字しか書いていない日記に視線をやり、柔軟体操を続けていた私はリセルに問うた。
「明日か明後日には、来ます」
「……本当にすぐそこまできてるんだね」
いつもより警戒の網を強めておこう。と意識を確かにして、地へ座る。もう身体は温まった。もしも今すぐ来ようものならすぐに対処する自信はある。
完璧な警戒態勢に入る前に、日記だけは書いておこう。
何もせずにリッキーに返しても「え?」って言われそうだし。
「……日記じゃないけど、いっか」
一度は置いた日記を開いた。そこにペン先を置き、走らせる。先程迷っていたが嘘のようにすらすらと進み、いつの間にか私は書きたいことを書き終えていた。
そこに書いてあったのはメッセージだ。決して届くことのない、彼への言葉。
「……ここに書いてあること教えてくれって言っても、教えてあげないから」
日記を閉じ、リッキーの鞄に入れる。寝ている彼の頭を優しく撫でてあげ、私は立ち上がった。
「リセル、やっぱり私は警戒を続けるよ。寝てていいからね」
愛用の短剣を右手に構え、壁に背を預けて周囲に意識を張り巡らせる。もう直ぐ戦いが迫ってるってのに、おちおち寝てなんかいられない。
だのにその顔は、緩んでいた。
リッキーは私から届くことのない言葉を、常に日記として持っている。これ、なんて言えばいいんだろうか。
どうしても言葉が思いつかない。でもそれで良かった。伝わらないけど彼が持っている、それだけで、十分。
「ふふ」
――その言葉は、私の心の中だけのものだから。




