四十三話 香る残滓に“災厄”と
灰色の大地の上まで来た。ここだけが異彩を放っていて、まるで死んだ世界のようだ。辺りには瓦礫が散在し、黒い染みが至る所に付着している。
「ねえ、アリシー」
「何?」
それらを眺めて思案げに首を傾げていたアリシーは、黒く変色したそれを触って眉間に皺を寄せていた。
「大災害ってのは自然災害じゃなく、戦いによるものだったんだね」
「そうみたいだね。この黒いの、全部血だよ」
「そうらしいね」
その黒いのが荒野全体まで及んでいるのだが、何をしたらこうなるのか。嫌な予感が脳裏を駆ける。
「逃げ遅れた人、いるのかな」
「いるだろうね。絶対に」
アリシーの場合は身体能力が高かったから逃げ切ることができたんだろう。だがもしこの場に僕がいれば、恐らく逃げ遅れて黒い血溜まりの一部になっていたかもしれない。
アリシーの友達も、もしかすると戦いに巻き込まれた可能性がある。何せアリシーが前に住んでいた地域をまるごと消滅させるほどの戦いだ。竜と人間の戦いだかなんだか知らないが、死傷者が一人も出ないはずもない。
「心配しないで。皆は生きていると思うよ」
僕の考えを見透かしていたのか、アリシーは遠くを見据えながらも力強く放った。
今の言葉は自分に言い聞かせるために発したものなのか、本当にそう思っているのか。分からないが、僕は頷いた。きっと生きている。死んだと分からない限り、希望は捨ててはいけないのだ。
僕だってこうして大地に立って生きているのだから。
「お二人とも。深刻な顔をしていますが、ここであった出来事を知っているんですか……?」
リセルは耳を動かし、不安げな表情を作っていた。現場を見たリセルでさえこの現状に驚いているくらいだ。何がこの地に降り掛かったのか、とても恐ろしいのだろう。
「いいや。でも、捜している人が以前ここに住んでいたんですよ」
「そうなのですか……でも、もうこの辺りには生物の気配がしません」
首を左右に振ったリセルは沈んだ顔で「それに」と続ける。
「この地全体から禁忌の臭いがするんです。きっと私と同種……いいえ、もっと酷い何かを先程から感じています」
ぶるりと身を震わせ、彼女は僕の腕を掴んだ。
「と、とりあえず今すぐにここから逃げたいです。戻りませんか?」
「うん、そうしましょうか」
逼迫したリセルの様子が、どこかおかしい。
周囲の警戒を続けているリセルには、かなりの焦燥が見られる。それは、ここに足を踏み入れた瞬間からだったのかもしれない。
どことなく嫌な空気が流れているのは僕も感じている。“禁忌”がどれほどの危険を孕んでいるのかまでは感じ取れないが――。
「ありがとうございます」
無理に留まる必要はない。
一刻も早くと歩き出したリセルの後に続き、樹海まで戻ることにした。
◇
「さて、どうしようか」
荒野を見渡せる位置まで移動した僕らは、今後の予定を組み立てていた。
その片手間に地図を描き足していた僕は、ペンを動かしてページを黒い線で埋めてゆく。
これじゃページから地図がはみ出てしまいそうだな……どうしよう。
「時間がかなり経過してるから、まず皆は遠くに行ってるよね」
アリシーはそう言って、暇そうに僕の本を眺めていた。
「まあ、そうなんだけど」
元々宛のない旅ではあるが、かといっていつまでもがむしゃらに歩き回っていても成果は少ない。
こうして災害の地点に辿り着いた以上、これからはもっと効率のいい動きを考えるのが妥当なところだ。
「あの、リッキーさん。これは何をされているのでしょう?」
アリシーと一緒に本を凝視していたリセルは、頭上にハテナを浮かべて人差し指を顎に当てていた。
そうだった。今更アリシーは何も言ったりはしてこないが、リセルは初めてだ。疑問も持つだろう。
「地図を描いてるんですよ」
「地図、ですか?」
それなりに興味を抱いてはくれたのか、リセルは僕の書いた地図を感心した顔で見ていた。
正確ではない地図だ。一応最終的な書き直しのために大体の歩行距離や分数を記してはいるが、まだ下書き段階である。
そんなに見られると恥ずかしいんだけど。
「……わあ、お上手なんですね、とっても分かりやすいですよ」
リセルは笑顔で褒めてくれた。この人がお世辞を言える人間には見えないし、嘘ではないのだろうが……やっぱり恥ずかしい。
「ええ、ありがとうございます」
しかし、地図作成をするモチベは上がった。自己満足で始めたに過ぎないが、しばらくは頑張ろうじゃないか。
「さ、地図のことはとりあえずもういいよ、先に行動方針を決めちゃおうか。僕からの案は一つだけあるよ」
逸れた話題を早々に切り上げ、僕は一つだけ提案を出す。
それは、この荒野を中心としてどこかの方向へ直進し続けることだ。
単純だが、それならどこかの地点で逃げ延びた人に会えるだろう。その誰かに人里の情報を訪ねればいい。直進なら途中で道に迷う危険もないし、このままの調子で探すよりも効率的だ。
というか、未開の地ならそれ以外には思い付かない。
便利な乗り物はないし、道と言える道があるわけでもないのだから。
となれば食料の枯渇が問題なのだが……。
「うん。私はそれで賛成なんだけど、やっぱり食べ物を調達しないとね」
頷いたアリシーは、軽くなった麻袋を持ち上げて言う。
そうだよな。今更町に戻るわけにもいかないし、どうにかここで調達しておきたい。
「樹海の動物でも狩ってみようか」
「うーん……それしかないよね」
動物を狩猟して生活する。この案は大分前から出ていたのだが、得体の知れない肉を食って無事で済むのかということで延期にしていたのだ。野菜に関しても同じだ。下手に口にすればそれが最期、だなんてことになりかねない。
「背に腹は変えられない、か」
食糧は後三日ほどしか残りがない。それを過ぎれば、いよいよ以て後がなくなってしまう。
腹を空かせてしまえば何をするか分からなくなるのが人間だ、それだけは避けたい。
「あの」
そこでリセルが口を挟んできた。
「私、お腹が空いたときによく食べる香草があるんですけど……それとかはどうですか?」
「え、それ本当ですか?」
そうか。食べなくても生きていられるだけであって、彼女はお腹が空くんだ。一年も居れば、何かしらは口にするはず。その知識量は樹海入り数日の僕らの比ではない――。
「はい、案内致しますよ!」
ぱあっと明るい笑顔をしたリセルは、ピンクに染まる髪の毛を揺らめかせた。
◇
樹海の中に戻ってから半日が経過した。
麻袋を食糧で満たした僕達は、今は満足げに“葉肉”を啜っている。
食べられる香草、命名“葉肉”。緑色の葉に、肉厚の繊維が数センチもあることから僕がそう名を付けた。味はないが噛みごたえはあって、ゆっくり食べ進めれば二枚で腹が膨れる。厚みに隠されたみずみずしさと内包された食物繊維のお陰だ。
栄養がどれほどあるかは定かではないが、健康にまで気を使っている余裕は最初からない。
「これだけあれば、しばらくは持たせられそうだよ」
リセル以外の誰もこの葉肉を取りに来ないだけあって、取り尽くせないほどの量が生い茂っていた。
だから詰められるだけ詰めたこともあって、麻袋に空きはない。残された干し肉は節約しつつ、基本はこの葉肉を食べていけばいいだろう。
「それじゃあ、私達はちょっと水浴びしてくるね」
アリシーは生活用品を入れている袋からタオルを漁った。
近くには川があるから今日はゆっくり身体を清められる。僕も後で入るとして――。
「あまり遅くならないようにね。いくらなんでも、この大自然の中じゃ夜は冷えるから」
「分かってるよ」
リセルを連れ、女二人は川の方へと姿を消して行った。
「……僕も、少しは信用されてるみたいだね」
当初より立派に成長した自身の身体を眺め、一息吐く。
これでも超人のアリシーと一緒に鍛練している身だ。彼女に遠く及ばないのは変わらないが、それでも自衛はこなせる。
だから基本的にはアリシーに頼る必要はない、といっても睡眠中に襲われれば命の保証はないので寝ることは叶わないが――。
「さて、少し出掛けるかな」
どのみち、寝るつもりは毛頭ない。
荒野の方角へ視線を投げ、僕は立ち上がる。
麻袋は置いてしまっても構わないだろう。樹海の生物が保存食を狙わないのはこの数日でよく理解したし、葉肉も採取時に荒らされた様子がまるでなかったので、動物は食べないと見た。
万が一にも僕が荷を持って逃げたと勘違いされても困るし……。
「よし」
寒いとはいえ、軽装で大丈夫だ。身を引き締めた僕は、再び荒野へ足を運ぶ――。
どうしても気になることが、その地に在ったから。
◇
夜の世界に包まれた荒野は、寂しさと恐ろしさを組み合わせた奇妙な空間だった。
「うっわ……幽霊でも出そうなんだけど……」
その真っ只中を突き進むのは、軽装の僕だ。暗闇には良く見える白のインナーに、ちょっとばかし頑丈に作られたズボン、動きやすい靴。まあいつもの格好だ。
動いているから、これでも寒くはない。
「へぇ、やっぱりだ」
ようやく目的地に辿り着いた。瞼を瞬かせ、深呼吸をしてそちらを見据える。
一面血だらけの世界。ある地点を境に、大地は黒く変色した血に蝕まれている。
この尋常でない量の血液は、どうやって吐き出されたのか。数ヶ月間も放置されて尚、残る物か。
「軽い頭痛がするな」
脳に走る電撃が、自然と右手をこめかみにやる。頭を押さえたところで痛みが収まるわけではないが、気休めだ。
さて。
僕は、この頭痛の正体に気が付いている。発生する原因は、“記憶の解放”だ。僕が何らかの記憶を取り戻そうとした時、それは始まる。
――まるで記憶を取り戻すのを肉体が拒むように。
「さてね」
僕はこの血に見覚えがある。今日初めて訪れたのだから知っているということは有り得ないのだが、僕はこの地を知っていた。
これが酷く最近の記憶のように感じられる。だが、それ以上を思い出すまでには至らない。
思えば肉体に異常を来したのは、カオナシとの戦闘が最初か。あの時僕は、確かにカオナシの精神攻撃に遭った。が、何らかの理由でそれが防がれて無事に終わった。
あの時からだ。記憶が頻繁に引き出されるようになったのは――。
思い出すのはどれも断片ばかりで意味を成さないものであったが、どれも確かに大切な記憶であった。
原因は、カオナシ。その精神寄生が僕の何らかのトリガーを解放してしまった――その可能性が非常に高い。
本来失われてしまった記憶は戻る予定はなかったのかもしれないが、それがカオナシによって打ち破られたのだ。と考えている。
「こう意図して足を運んでやると、何も起こらないのにな」
精々が小規模の頭痛、か。
舌打ち一つ、大地を睨んでから上を見上げる。どこまでも暗い空には、遥か遠くに在る星々が点々と煌めいていた。
「自分は一体、何をしてたんだろうなぁ……」
この黒い世界を、僕は知っている。それは、リセルさんが拒む“禁忌”に触れているということだ。
ただ大規模転移に巻き込まれてひっそり暮らす学生さんではなく――ましてや浮浪者ではなかった、ということでもある。
考えたくもないな。
「……どうせなら、一気に思い出して欲しいね」
今更記憶を取り戻したところで、この気持ちや考えを拭うことなど出来やしない。
どんな過去があろうと、僕は僕でありそれ以外の何かであってはならない。
それなのにちまちまと部屋の隅の汚れのように脳裏に張り付かれるのは、ただただ迷惑だ。
「ん、そろそろアリシーとリセルさん、戻ってきそうだよな」
結局のところ収穫はなかった。リセルさんはこの地にかなりの拒絶反応を示していたので、僕が望まない限り二度と立ち寄ることもないだろう。
踵を返す。
彼女達が心配する前に戻るとしよう。そして明日の朝には、出発だ――。
「……ん?」
――それは、最早用はないと樹海へ戻ろうとした矢先った。
無数の銀色がどこからともなく発生し、僕の周りを漂う。
さながら雪のように。触れると消えてしまうそれは、とても懐かしさを覚えるものだった。
「……なんだ、これ、は……」
何もなかった空間に突如として現れた、それ。僕が居なくなるのが名残惜しいとでも言わんばかりに、“銀”はその絶対量を増やしていく。
粉塵は僕を中心に弾け、語り掛けるように自らを主張してはふわりと消える。
「――!」
ばちん。
危険を察知して真横に飛び込んだのと、大地から赤色の爆発が大地を巻き込んだのは、同時だった。
咄嗟に避けた肉体は爆発の余波を受け、中空の時点で数回転もしていた僕は、その遠心力を活用して受け身を取る。
両の手を地に叩き付け、更に二回転を挟んで無事着地。
「……全く、冗談じゃない」
冷や汗が垂れる。
先程まで僕が懐かしさを感じていた場所は、紅蓮に覆われていた。その周りで尚も弾ける銀色の粒が、嘲笑うように踊る。
もしも避けなければ、僕はあの紅蓮に巻き込まれて死んでいたに違いない。
ぞわりと全身を緊張が走り、背筋を悪寒が伝う。
「――ああ、あああ、あ――あああ、ああ、あっ、ああああ――あああ――」
爆発に周囲を焦がす紅蓮の内部から、人の声が聞こえた。怨嗟の全てを具現化したような、恐ろしい叫びが聞こえた。
身構えると、お次は紫の煙と青の奔流が溢れ――。
「――うふっ」
――狂った微笑と共にその紅蓮から出てきたのは、身体の造形が明らかにおかしい、“何か”であった。
「……幽霊じゃない、よなぁ」
そんな単純なのであれば、どれだけマシだったか。
苦笑した僕は、意を決して相手と対峙する。――コイツはもっと、そう。危ない何者かだ。
例えばリセルさんが事前に危険を察知していた、“禁忌”とか。
どうしてこのタイミングで、出ちゃうかな……。
「ゆーれい? わたし、ゆーれいなの? うふ」
僕の言葉を復唱したその相手は、ぐにゃりとねじ曲がった首と腕をこちらに差し出す。
色素の抜けた灰の髪。抉れた腹部。細った両足。灰色の肉体に、辛うじてそれが女だと判断できる材料が一つ。胸だ。とはいえ左方の胸だけが膨らんでいて、右方は抉れて形を成していないが。
「僕を殺すのか?」
「ころす? ……殺す? 殺すって何?」
最初から期待してはいなかったが、一応言葉を放ってみると、相手はまたもや復唱した。
何だ。これでは幼児と変わらないじゃないか。カオナシとは……雰囲気や佇まいが根本的に違う。
「わたし、わたしは何?」
骨ばった指先をぱたぱたと動かしたそれは、溢れる四つの色を集約させてゆく。その顔は、実に不思議な表情をしていた。
「お前に分からないのであれば、僕が知るわけがないよ」
一歩、二歩。動かぬそれに警戒を突き刺しつつ後退する。こんなのを倒そうだとか、凌ごうだとかは絶対に思ってはいけない。
しかし。逃走を開始するのが少し遅かった。
――淀んだ灰の黒。四つの色が混ざり合って禍々しく変貌したそれらが、それの周囲で鬼気を放って――。
「うん、知らないの。知らないんだ。知らないなら――」
なるべく安全に隙を見せないで逃げようと画策していた、僕の全てを丸ごと破壊し尽くすように。
「しんじゃえ」
黒灰の光線が、僕に向けて無数に射ち放たれた。




