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第五話:止まった時間と、重なる唇

ヘンリー様と一緒に過ごす日々は、僕にとって、生まれて初めて「自分であること」に安心できる時間でした。

 

もちろん、僕は相変わらず不器用でした。

料理に挑戦してはおかしな味になり、掃除を手伝おうとして、かえって部屋を散らかし、庭仕事を手伝おうとして大切な花まで摘みそうになり、自分勝手な「理想の妻」という幻想に振り回されて空回りすることもありました。


けれど、そのたびにヘンリー様は、困ったように、けれどとても幸せそうに笑って、僕の手を握ってくれました。


「いいんだよ、エリー。君がそこにいてくれるだけで、この屋敷に光が差した気分なんだ」


そんな言葉をかけられるたびに、僕の心の中にある「役割」という檻の格子が、一つ、また一つと外れていくのが分かりました。

僕たちは、自然と惹かれ合っていました。

一緒に読書をし、庭を散歩し、とりとめのない話を夜遅くまで語り合う。

前世での孤独だった僕にとって、それは夢のような時間でした。


そうして、僕たちがこの屋敷で暮らし始めて十か月ほどが経った頃のことでした。

数日前から降り続いた雨のせいで、旧館の屋根から雨漏りしていることが分かりました。

長く使われていない建物とはいえ、中には先代から受け継いだ書類や調度品が保管されています。

このまま放置するわけにはいきません。


保管品の状態を確認するため、使用人たちを連れて旧館へ向かおうとするヘンリー様に、僕も同行を申し出ました。

何か役に立ちたかったという気持ちもありましたが、それ以上に、普段は固く閉ざされている旧館がどのような場所なのか、気になってしまったのです。


ヘンリー様は一瞬だけ迷うような顔をしました。


「あまり、気持ちのよい場所ではないよ」

「それでも、ヘンリー様と一緒なら大丈夫です」

そう答えると、彼はしばらく黙ったあと、小さく頷きました。


こうして僕たちは、濡れる前に保管品を運び出すため、普段は足を踏み入れることのない旧館へ向かいました。


今の屋敷が陽光に満ちた明るい場所だとしたら、旧館は深い森の底に沈んだ湖のような場所でした。

雨漏りは、旧館の奥にある小さな部屋で起きていました。


使用人たちが濡れた家具を運び出す間、僕は棚に残された品を確認していました。

すると、一番下の段に、雨水が届きかけている小さな箱を見つけました。


「ヘンリー様、こちらも運んだ方がよいでしょうか」

箱を持ち上げた拍子に、湿気で緩んでいた蓋がわずかに開きました。


その隙間から見えたのは、淡い青色の、とても小さな手編みの靴下でした。

丁寧に編まれたそれには、一度も使われた形跡がありません。


そして、添えられた一枚のメモ。

そこには、震える文字で、けれど深い愛情を込めて、ある名前が記されていました。

『ジュリアン』

子どもの名前。

この靴下を履くはずだった、誰かのお子様の名前なのでしょう。

そう思った瞬間、隣にいたヘンリー様が小さく息を呑みました。


振り返ると、彼は何も言わず、手の中の靴下を見つめていました。

その瞳に浮かんでいたのは、僕がこれまで一度も見たことのない、深い悲しみでした。


そこで僕は、ようやく気づきました。


この小さな靴下は、ただ使われなかったのではありません。

使う日を迎えることができなかったのです。

そして、ヘンリー様は、そのことを今も忘れていない。


旧館は、単なる古い建物ではなかったのでしょう。

ここには、僕の知らない彼の時間が、あの日のまま閉じ込められている。


僕には、そう思えてなりませんでした。


その夜。


彼との間にはいつもどおりの穏やかな時間が流れていました。

しかし、どうしても僕は、どうしても彼に尋ねずにはいられませんでした。


「……ヘンリー様。今日、旧館で、ジュリアン様のお名前を見ました」


ヘンリー様は、一瞬だけ肩を強張らせました。

けれど、すぐに深く、静かなため息をつき、僕の目を見つめました。


「……あそこでは、以前、君と結婚する前。妻と暮らしていたんだ」


ヘンリー様は、ひどく遠い記憶をたどるように、ゆっくりと言葉を選びました。


「僕が二十二歳のときに結婚した人だった。

穏やかで、よく笑う人でね。

僕にはもったいないほど、優しい人だったよ」


その声には懐かしさがありました。

けれど、その懐かしさに触れるたび、彼の表情には小さな痛みが走りました。


「僕たちは、あの旧館で暮らしていた。

今の屋敷より小さかったけれど、僕たちには十分だった。

庭に好きな花を植えて、同じ食卓を囲んで、そんな日々がずっと続くのだと思っていた」


ヘンリー様は、そこで一度言葉を止めました。


「やがて、子どもを授かった」

「その子が、ジュリアン様なのですか?」


「ああ」


彼は静かに頷きました。


「男の子でも女の子でも使える名前を、二人でいくつも考えたんだ。

妻が選んだのが、ジュリアンという名前だった」


僕の脳裏に、淡い青色の小さな靴下が浮かびました。


「あの靴下も、奥様が?」


「そうだよ。まだ見ぬあの子のために、少しずつ編んでいた。

あまり得意ではないと言いながら、夜になると嬉しそうに針を動かしていた」


ヘンリー様の口元に、ほんの一瞬だけ微笑みが浮かびました。


しかし、それはすぐに消えてしまいました。


「けれど、妻は妊娠して間もなく病に倒れた。医師も治癒術師も手を尽くしてくれたけれど、病は少しずつ彼女の身体を弱らせていった」


彼の手が、かすかに震えていました。


「そして妻は、亡くなった。子どもも生まれることができなかった」


淡々とした言葉でした。

けれど、それが長い年月をかけて、ようやく口にできる形へ整えられた悲しみなのだと分かりました。


「僕は、一度に二人を失った」

 ヘンリー様は、膝の上で両手を固く組み合わせました。


「誰かが悪かったわけではない。医師も、使用人たちも、父も、できることはすべてしてくれた。

それでも僕は、何か別の選択をしていれば二人を救えたのではないかと、何度も考えた」


「ヘンリー様……」

「妻のいない部屋へ戻ることも、あの子のために用意したものを見ることもできなかった。


だから旧館を閉じたんだ。

あの場所ごと、すべての時間を止めてしまえば、これ以上何も失わずに済むような気がしていた」


そこで初めて、僕は旧館を覆っていた静けさの意味を知りました。

あの場所は捨てられたのではありません。

忘れられたわけでもありません。

ヘンリー様が忘れることのできなかった時間を、誰にも触れられないように閉じ込めていたのです。


「君と暮らすようになってからも、話すことができなかった」

ヘンリー様は、苦しそうに目を伏せました。


「君と過ごす時間が幸せになればなるほど、あの人たちを置き去りにして、自分だけ前へ進んでいるような気がしてしまってね」


「置き去りになんて、していません」


考えるよりも先に、言葉が口から出ていました。

ヘンリー様がゆっくりと顔を上げます。


「ヘンリー様が今でも覚えているから、あの靴下も、ジュリアン様のお名前も、今日まで残っていたのでしょう?」

「……そう、なのかな」

「はい。新しい幸せを見つけることは、以前の幸せを、悲しみを全てなかったことにすることではありません」

それは、僕自身にも向けた言葉でした。


前世を覚えたまま、エリーとして生きること。

昔の自分を消すのではなく、その記憶を抱えたまま、新しい人生を選んでいくこと。


きっとヘンリー様も、同じなのです。

「忘れなくても、いいのだと思います」

僕は、できる限り穏やかな声で続けました。


「悲しかったことも、大切だった人のことも、全部抱えたままでいいんです。

そのうえで、これからのことを、僕にも一緒に考えさせてください」

ヘンリー様は何も答えませんでした。


ただ、張りつめていたものが崩れるように顔を伏せました。

その肩が、小さく震えていました。

「君を、僕の過去の悲しみまで引きずり込みたくなかった」

やがて聞こえてきたのは、絞り出すような声でした。

「君には、ただ前だけを見て、僕と一緒に笑っていてほしかったんだ」


その言葉を聞いた瞬間、僕の目から、堰を切ったように涙が溢れ出しました。

彼が一人で抱えていた孤独。僕を想うがゆえに、あえて隠し通そうとした優しさ。

それが、あまりにも切なくて、愛おしくて。

「ごめんなさい……。僕が、勝手に……」


僕が泣きじゃくりながら謝ると、ヘンリー様は僕を強く、壊れそうなほど大切に抱きしめてくれました。


「いや、いいんだ。……いいんだよ、エリー」


彼の胸の鼓動が、僕の耳に直接響きます。

僕たちは、どちらも何かを失った人間でした。

僕は前世という人生を、彼は最愛の家族を。

けれど、その喪失があるからこそ、今、こうして触れ合っている温もりが、どれほど尊いものか分かる。


ゆっくりと、顔を上げました。

目の前には、僕を慈しむ、世界で一番優しい人がいました。

どちらからともなく、顔が近づきました。

触れるか触れないか、そんな距離で、僕は彼にすべてを委ねました。

ふわりと、温かい唇が重なりました。

それは、とても柔らかくて、少しだけ震えていて、けれど確かな愛に満ちた、僕たちの初めてのキスでした。


役割としてではなく。

義務としてでもなく。

ただ、一人の人間として、僕はこの人を愛している。

そして、この人も僕を愛してくれている。

暗い夜の中、僕たちの心には、今まで見たこともないほど明るい光が灯っていました。

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