第四話:心地よい「正解」の探し方
公爵家を離れ、ヘンリー様の領地にある屋敷での生活が始まりました。
実家のような圧倒的な豪華さはありません。
けれど、質実剛健という言葉がよく似合う、堅牢で落ち着いた屋敷でした。
窓から見える緑豊かな景色と、どこか懐かしい木の香りが漂うこの場所は、僕にとってとても心地よい空間でした。
何より心強かったのは、実家からマーサとアリスが同行してくれたことです。
マーサは、もともと母付きのメイドでした。
僕が幼い頃から何かと世話を焼き、ずっと支えてくれた、もっとも信頼できる人の一人です。
その娘である十八歳のアリスは、今では僕付きの侍女を務めています。
立場こそ違いますが、僕にとっては幼い頃からそばにいてくれた、憧れのお姉様のような存在でした。
二人が一緒に来てくれたおかげで、見知らぬ土地へ嫁いだというのに、不思議と心細さはありませんでした。
けれど、新しい生活が始まってすぐに、僕はある事実に気づきました。
僕がすることは、実家にいた頃とほとんど変わらない。
朝起きて、身支度を整え、お茶を飲み、本を読み、たまに領地を散歩する。
貴族の妻としての日常は、意外にも、公爵家の四女として過ごしていた日々と似通っていました。
けれど、僕の心の中には、前世から持ち越した、ある「危険な考え」が根を張っていました。
(……僕は、もう『娘』ではなく『妻』なんだ)
役割に押し込められるのは嫌です。それは本心です。
けれど、同時に僕は、「妻であるなら、夫を支え、家を整えるのが正解なのではないか」という、前世の固定観念を自分勝手に適用し始めてしまいました。
誰に強要されたわけでもないのに、僕は自分の中で「理想の妻像」という新しい檻を作り上げ、それに自分を当てはめようと暴走し始めたのです。
まず僕が目をつけたのは、洗濯でした。
前世、僕が家事の中で特に心地よいと感じていたのが、洗い物をしたり、洗濯物を干したりする単純な作業でした。
僕は意気揚々と洗濯場へ向かい、慣れない手つきでリネン類を分けて、丁寧に揉み洗いを始めました。
(よし、これでヘンリー様も、きっと喜んで……)
そう思った瞬間、横からアリスが「お嬢様、何をなさっているんですか」と驚いた声を上げました。
彼女が軽く手をかざして、短く呪文を唱えます。
すると、僕が格闘していた洗濯物たちが、一瞬にして真っ白に輝き、ふんわりと乾いた状態で次々と畳まれていきました。
……生活魔法。
そうでした。この世界には、そんな便利な魔法があったことを、僕はすっかり忘れていました。
僕が十分な時間をかけて行おうとした「妻としての献身」は、魔法の一撃によって、わずか一秒で完結してしまったのです。
(……あぁ、僕の努力は、この世界では必要ないのかもしれません)
けれど、一度火がついた僕の暴走は止まりませんでした。次は、料理です。
ヘンリー様に、僕の手作り料理を食べてもらいたい。
その一心で、僕は厨房へ忍び込みました。
けれど、ここでの炊事は、前世の日本のキッチンとは全く別物でした。
巨大な石造りの竈、見たこともない形の鍋、そして、食材の扱い方までが全く違う。
慣れない道具に振り回され、火加減を間違え、焦げた得体のしれない匂いが厨房いっぱいに広がったとき、僕は絶望しました。
淑女教育で窮屈だった分、自由になった僕の行動は、方向性を間違えたまま全力疾走していたようです。
夕食後。僕は、一人で静かに涙をこぼしていました。
何もできない。役割を押し付けられるのは嫌だと言ったけれど、いざ自分で役割を担おうとしても、僕は何もかもダメダメだ。
そんな僕の肩に、そっと温かい手が置かれました。
「どうしたんだい、エリー。そんなに悲しそうな顔をして」
ヘンリー様でした。
僕は、鼻をすすりながら、情けない声を漏らしました。
「……ごめんなさい。僕、妻として何かしてあげたかったのに。洗濯も料理も、全部、ダメでした」
するとヘンリー様は、ふっと柔らかく笑い、僕を優しく抱き寄せました。
「いいんだよ。本当に、いいんだ。君に僕の家の仕事をしてほしいなんて、一度も思ったことはないよ」
僕が驚か顔を上げると、彼は慈しむような瞳で僕を見つめていました。
「僕はね、君に『妻』という役割を演じてほしいわけじゃない。
ただ、僕の隣で、君が君らしく、のびのびと笑っていてほしいだけなんだ。
それが僕にとっての、一番の幸せなんだよ」
のびのびと、笑っていてほしい。
その言葉は、前世でずっと僕が欲していた、最高の肯定でした。
翌朝、僕は、少しだけ、気持ちが軽くなった状態で、アリスにお悩み相談をしました。
「アリス……。僕は、どうすればいいのでしょう。何かをしたいけれど、何をすればいいのか、分からなくて」
彼女は、僕の頭を優しく撫でながら、いたずらっぽく微笑みました。
彼女もまた公爵家に仕えるメイドとしての誇りを持っている人です。
「お嬢様、焦らなくていいんですよ。
正解なんて、後からついてくるものです。
まずは、あなたが『心地よい』と思えることを、一つずつ探していけばいいじゃないですか。
料理がダメなら、一緒に本を読めばいい。
洗濯が魔法で終わるなら、その分、ヘンリー様に甘えればいいんですよ」
彼女の言葉に、僕はふっと肩の力が抜けるのを感じました。
正解を探すのではなく、心地よさを探す。
それが、この家での僕の、新しい生き方になるのかもしれません。
僕は、まだ、不器用なままでした。
けれど、隣にいてくれるこの優しい人と、信頼できるお姉様に囲まれて、少しずつ、自分だけの「妻」という形を探していこうと思いました。




