第三話:選んだ運命、誓いの涙
十歳から十二歳までの二年間、僕の生活に、ある一定の心地よいリズムができました。
ヘンリー・デイヴィッド子爵が、月に一度、僕を訪ねてきてくれるようになったのです。
彼の領地は王都近くの公爵家領地から、辺境の地までは馬車で片道二日はかかります。
往復で四日もの時間を費やして、わざわざ十歳の子供に会いに来る。
それは貴族としての義務などではなく、彼自身の意志によるものでした。
彼はとても話し相手として面白い人でした。
彼が愛読している歴史書の話、辺境の地の不思議な風習、そして彼の住む土地のおいしい食べ物や特産品、僕が興味を持ちそうな話題をいつも絶妙に選んでくれました。
けれど、彼と一緒に過ごす時間が幸せであればあるほど、僕は心のどこかで、言いようのない憂鬱に沈んでいました。
(……僕は、本当に、この人の妻になれるのだろうか)
前世で僕が恐れたのは、役割という名の檻でした。
「男らしくあれ」と言われ、それに適応できない自分を否定されること。
今世で、もしヘンリー様が「理想の妻であれ」と僕に求めたら。
もし彼が、僕の淑やかな仮面の下にある、もどかしさと違和感に気づいて絶望したら。
そう思うと、彼への好意さえも、僕には怖かったのです。
そんなある日、僕たちは二人で王都へ向かうことにしました。
もちろん、お付きのメイドさんや護衛の方々が同行していましたが、馬車の中という密室に近い空間で、僕とヘンリー様は、初めて心を通わせる時間を持ちました。
窓の外を流れる景色を眺めていたヘンリー様が、ふと、寂しげに笑って口を開きました。
「エリーちゃん。……本当は、君にこんな運命を押し付けるのは、心苦しいんだ」
僕は、驚いて彼を見つめました。
「僕の父と君の父は、我が家系のために、そして僕の将来のために、君という素晴らしい方を僕に勧めてくれた。
けれど、僕は君を、単なる『後継ぎを生むための道具』にしたくない。
家の事情や、僕の不甲斐なさで、君を巻き込んでしまって、本当にすまない」
彼は、僕の目をまっすぐに見つめて、静かに、けれど切実に言葉を続けました。
「もし、君が僕のことを嫌いだとか、この結婚が耐えられないと思うなら、正直に言ってほしい。
僕が父に掛け合って、この婚約を白紙にさせてもいい。
君の人生を、僕の都合だけで塗りつぶしたくはないんだ」
この世界で、僕に「嫌だと言っていい」と、僕自身の意志を最優先に考えてくれた人は、彼が初めてでした。
前世の父が提示したのは常に「正解」であり、母が示したのは「忍耐」でした。
今世の父上は「貴族」を、そして母様も「淑女」という役割を期待しています。
けれどヘンリー様が差し出してくれたのは、「選択」という、僕が人生で最も欲していた自由でした。
僕は、たまらずに、胸に溜まっていた思いを口にしていました。
前世のことを話すわけにはいきません。けれど、役割に縛られることへの恐怖を、自分の言葉で。
「……私は、ずっと怖かったんです。
誰かが決めた『正しい姿』にならなければ、居場所がなくなるのだと。
淑やかであることや、礼儀正しいことが、私にとっての唯一の正解だと思って、必死に演じてきました。
けれど、もし……。
もし、私がそのままの私。
……僕でいてもいいのだとしたら。
それは、とても、救われることだと思います」
僕の告白を聞いたヘンリー様は、一瞬だけ目を見開き、それから、ふっと、いたわりを込めるように笑いました。
「……ふふ。やっぱり僕たちは、似たもの同士のようだったね、エリーちゃん」
その笑い声は、僕の心の奥底にある氷を溶かすように、温かかった。
僕は、そのとき決心しました。
この人なら、僕に新しい檻を押し付けない。
この人となら、僕が僕であるままで、隣に立てるかもしれない。
(……結婚したい。この人と、一緒にいたい)
そう思った僕は、彼にそう伝えました。
そこから半年後。僕が一二歳になった日。
僕たちは結婚しました。
貴族の結婚式というものは、驚くほど複雑で、煩わしい儀礼の連続でした。
慣れない豪華なドレスに身を包み、大勢の視線に晒されながら、僕たちはぎこちなく、けれどしっかりと手を取り合いました。
祭壇の前で、僕の父上はじっと、こちらを見つめていました。
その瞳には、厳格な家長としての顔ではなく、娘を遠くに送り出す、一人の父親としての切なさが滲んでいました。
隣にいた母様が、僕の耳元で、優しく、けれど力強く囁きました。
「エリー、頑張ってね。あなたは、きっと大丈夫よ」
そして、僕の新しい家族となるヘンリー様の父様。
重い病を抱え、痩せ細った体で、けれど誇り高く式に参列してくださった彼は、僕の手を握ると、涙ながらに、切実なお願いを口にされました。
「……エリー。どうか、息子を……ヘンリーをよろしく頼む。
あの子は、不器用で、情に脆い男だ。
だが、誰よりも誠実な男だ。
どうか、あの子の光になってやってくれ」
その手の震えと、切なる願いが、僕の胸に深く突き刺さりました。
僕が、誰かの光になれるのだろうか。
前世では、誰かに守られることしかできなかった、気弱な僕が。
けれど、隣で僕の手を優しく、けれど離さないように握りしめてくれるヘンリー様の温もりを感じて、僕は小さく頷きました。
僕はもう、誰かが決めた正解を探す旅は終わりにします。
これからは、この人と一緒に、僕たちだけの「正解」を作っていこう。
そう誓いながら、僕は新しい人生への第一歩を踏み出しました。




