第二話:淑女の仮面
五歳から十歳までの時間は、僕にとって「理想の令嬢」という仮面を完璧に作り上げる期間でした。
僕が淑女教育に励んだのは、それが心地よい秩序だったからだけではありません。
そうして自分を塗りつぶしていれば、誰にも中身を覗かれず、誰からも否定されずに済むからです。
その教育を共に受けたのが、一歳年上の姪のエレノアお嬢様でした。
僕たちは、まるで双子のようにいつも一緒にいました。
けれど、彼女と僕の間には、決定的な価値観の違いがありました。
「ねえ、エリー。どうしてそんなに不思議そうな顔をしているの? 扇の使い方はこれで正解よ」
彼女は、完璧な所作で扇を広げ、誇らしげに微笑みました。
僕が、この窮屈なルールに心の中で小さな疑問を抱いていることに気づいたのでしょう。
「……だって、疲れないのでしょうか。ずっと、こうしていなくてはいけないなんて」
僕の問いに、彼女は少しだけ不思議そうに首をかしげ、それから当然のことのように答えました。
「疲れるわ。でも、淑女になるためには必要なのよ。それが私たちの『役割』なんだもの」
――役割。
その言葉に、僕は激しく動揺しました。
前世でも、僕は役割に縛られていました。
「男だから」という理由で強さを求められ、それに適応できない自分を恥じていました。
けれど、彼女はそれを「必要なこと」として受け入れ、達観していました。
あるいは諦観なのかもしれません。
(……そんなものなのでしょうか。役割に従うことだけが、正解なのでしょうか)
彼女の強さは、僕にはまだ、遠い立ち位置のように感じられました。
そんな僕が、家の中で最も緊張するのが、父上との「目通り」の時間です。
エドワード・アーサー・ランカスター公爵。
公爵家としても、この国の頂点に近い家の当主である父上は、常に厳格で、圧倒的な威厳を纏っていました。
僕のような遠慮がちな子供にとって、父上の前に出ることは、嵐の海に小舟で漕ぎ出すよう恐ろしさがありました。
けれど、ある日のこと。
僕が廊下を歩いていると、書斎から漏れ聞こえる、見たこともない父上の声が聞こえてきました。
「……シャーロット。君が隣にいてくれなければ、私はとうにこの家の重圧に潰れていただろう」
「子ども達はよく育ってくれているが私にできることはなんなのだろうか……」
それは、僕が知っている冷徹な支配者の声ではありませんでした。
情けないほどに甘く、深い信頼と愛情に満ちた、一人の男としての声。
扉の隙間から見えたのは、母様の肩にそっと手を置き、穏やかに微笑む父上の姿でした。
そのとき、僕は気づきました。
父上は、この巨大な公爵家という機構を維持し、守るために、あえて厳格な「家長」という仮面を被っているのだと。
その仮面の下には、母様を、そして僕たち家族を、誰よりも大切に想う不器用な心が隠れていました。
実は、父上にとっても、僕という存在はかなり扱いづらかったようです。
兄様や姉様方は皆、活発で、父上の期待に真っ向から応えることのできる、優秀な子供たちでした。
けれど、僕だけは違いました。
いつも遠慮がちに、静かに、淑やかに。
父上は、僕にどう接すればいいのか分からず、結局いつも「……よく行儀よくしているな」という短い言葉で済ませていました。
けれど、その言葉に込められた、かすかな安堵感のようなものを、僕は感じ取っていました。
そして、僕が十歳の誕生日を迎えて間もない頃。
人生を変える、ある出会いがありました。
「エリー、今日は大切なお客さまがお見えだ。礼儀正しく挨拶しなさい」
父上に連れられて向かった応接間。そこにいたのは、一人の男性でした。
ヘンリー・デイヴィッド子爵。
父上の親友であるジョンソン・デイヴィッド様の息子さんで、辺境の領地を治める方だそうです。
二十八歳という大人の男性であるはずの彼は、どこか儚げで、けれど誠実そうな、柔らかな瞳をしていました。
僕が緊張して俯いていると、彼はゆっくりと腰を落とし、僕の目線に合わせて微笑みかけてくれました。
「はじめまして、エリザベス様。とても可愛らしいお嬢様だね。君のような優しい子と会えて、僕は嬉しいよ」
その声に、僕は不思議と安心しました。
前世の父のような「強さ」の強要はなく、かといって、母様のような「忍耐」の強要もない。
ただ、僕という存在を、ありのままに受け入れてくれるような、穏やかな風のような心地よさ。
後で知ったことですが、彼は二十二歳の時に、最愛の妻と、まだ見ぬお子様を同時に亡くされていたそうです。
その深い喪失感は、彼の瞳の奥に、静かな影となって刻まれていました。
だからこそ、彼は僕の「弱さ」や「遠慮」を、否定すべきものではなく、守るべき大切なものとして見てくれたのかもしれません。
彼との時間はお互いに、心地よい時間でした。
僕もまた、彼に対して「この人なら、僕のままでいいのかもしれない」という、淡い期待を抱いたのを覚えています。
けれど、その時の僕はまだ、この「顔合わせ」に隠された、急ぎ足な未来に気づいていませんでした。
数日後、父上から告げられた言葉。
「エリー。デイヴィッド子爵との縁談が決まった。二年後、十二歳になったら、彼のもとへ嫁ぎなさい」
十二歳。
僕はまだ、子供であるはずの年齢です。
淑女の正解を学び、仮面を被り、ようやく居場所を見つけたと思っていた僕の人生に、またしても「役割」という名の、抗えないうねりが押し寄せてきました。




