第一話:「お嬢様」と「僕」の距離
赤ちゃんとしての生活は、想像していたよりもずっと、穏やかで心地よいものでした。
もともと気弱だった僕にとって、誰かに抱かれ、あやされ、ただ愛されるだけの時間は、至福以外の何物でもありません。
もちろん、たまに鏡に映る自分の姿――ふっくらとした頬に、柔らかい金色の髪(明らかに日本人ではありません)、そして間違いなく「女の子」であるという現実に、激しく動揺して泣き出してしまうこともありました。
けれど、そのたびに母様やメイドさんが優しく抱きしめてくれるので、いつしか僕は、「僕であること」と「エリーであること」を、不思議と両立させていけるようになっていきました。
そして、記憶がはっきりしてきて、好奇心が芽生え始めた三歳ごろ。
僕は、ある切実な願いを抱くようになりました。
(……料理が、したい)
前世で僕が一番好きだった時間。
食材と向き合い、丁寧に切り、じっくりと火を通し、美味しい香りとともに誰かに喜んでもらう。
あの静かな充足感が、どうしても恋しくなったのです。
けれど、ここはこの国でも屈指の名門、ランカスター公爵家です。
僕はそこで、九人きょうだいの末っ子、四女として生を受けました。
貴族の子供にとって、キッチンは「料理を作る場所」ではなく、「料理が作られる場所」でした。
ある日、僕がお付きのメイドさんの裾を引いて、こっそり厨房へ忍び込もうとした時のことです。
「お嬢様、いけません。あちらは火や刃物がある危ない場所ですし、何より、高貴なお身体をあのような場所に立たせるわけにはまいりません」
メイドさんは困ったように、僕を優しく抱き上げました。
前世では、料理をすることが「男らしくない」からダメだと言われました。
今世では、料理をすることが「貴族らしくない」からダメだと言われる。
理由こそ違いますが、結局のところ、「あなたはこういう人間であるべきだ」という「正解」を押し付けられていることに変わりはありません。
僕は、小さなため息をつきました。
(残念です。でも、まあ、いいか)
どうせ今の僕は、包丁を持つことさえ危なっかしい三歳児です。
今はまだ、この贅沢な環境を最大限に享受して、心ゆくまで甘えさせてもらうことにしましょう。
そんな僕にとって、意外な発見があったのは、四歳になって「淑女教育」というものが始まった頃でした。
背筋を伸ばして座る。
正しい言葉遣いで話し、相手を敬う。
扇の扱い方や、優雅な歩き方を学ぶ。
刺繍やピアノといった芸術の修行。
僕は、この時間が大好きでした。
なぜなら、それは僕にとって、一種の「パズル」のようなものだったからです。
前世の僕は、常に「正解」のない問いに悩み、もがいていました。
けれど、淑女の作法には、明確な「正解」があります。
こうすれば正しい。
こうすれば美しい。
そのルールに従って自分を整えていくことは、僕にとって心地よい秩序でした。
それに、何より良かったのは、この「正解」に従っている限り、僕は誰からも「弱すぎる」とか「変だ」と言われることがなかったことです。
むしろ、丁寧で控えめな僕の振る舞いは、「淑やかな理想の令嬢」として高く評価されました。
(あぁ……。僕は、やっぱりこっちの方が向いているのかもしれませんね)
そう思いながら、僕は少しだけ、自信を持って「エリー」として生きられるようになっていきました。
けれど、四歳になっても、僕は新しい身体にも、「お嬢様」として扱われる生活にも、まだ慣れていませんでした。
たとえば、化粧室へ行くこと。
設備は前世のものよりずっと清潔で、洗浄の魔法陣さえ刻まれています。
けれど、最大の問題は、扉の外に常にメイドさんが待機していることでした。
「お嬢様、お手伝いは必要ですか?」
「だ、大丈夫です。一人でできます!」
扉の向こうにずっと人がいるという事実に、僕はたまらなく恥ずかしさを覚えました。公爵令嬢には、どうやら一人になる時間というものがほとんどないらしいのです。
入浴も同様でした。浴室は豪華で、白い石造りの浴槽には、お湯の温度を保つ魔法陣まで刻まれていました。
けれど、着替えを運ぶ人、タオルを並べる人、湯加減を確かめる人。僕一人が入浴するだけなのに、何人ものメイドさんが慌ただしく動き回ります。
「一人で入れます」と訴えても、「万が一のことがあってはなりません」と返されます。
結局、扉の外で待機して、定期的に「お加減はいかがですか?」と声をかけてくるメイドさんたち。
前世では、自分の身支度は自分でするのが当たり前でした。
けれど今世では、僕のために誰かがすべてを整え、扉の向こうで待っている。それは僕が信用されていないからではなく、大切にされているからなのだそうです。
そして何より、毎朝の身支度にも、なかなか慣れることができませんでした。
鏡に映る、金色の髪を持つ美少女の姿には、いまだに慣れません。
何枚もの布とリボンに包まれ、複雑なドレスを着せられ、髪を丁寧に梳かされる。
前世では「強くなれ」と言われていた僕が、今度は壊れ物のように扱われている。
嬉しくないわけではありません。
けれど、この「大切にされること」への居心地の悪さは、女の子になった身体そのものに慣れることよりもずっと難しい課題に感じられました。
それでも、僕は少しずつ「淑女」としての振る舞いを覚えていきました。
僕は、鏡の中の少女に向かって、そっと微笑んでみました。
「よくお似合いですよ、お嬢様」
「……ありがとうございます」
褒めてくれたメイドさんに、自分なりの笑顔を返します。
女性として求められる作法には、少しずつ慣れてきました。決められた手順を覚え、そのとおりに振る舞えばよかったからです。
けれど、大切にされること。誰かに守られること。そして、鏡に映る少女を自分自身だと思うこと。
それらは、作法を覚えるよりも、ずっと難しいことでした。
僕が慣れなければならないのは、この身体だけではないのでしょう。
「お嬢様」と呼ばれ、誰かがいつもそばにいて、当たり前のように大切にしてくれる。
この新しい状況そのものに、僕は慣れなければならないのです。
鏡の中の「お嬢様」と、その奥にいる「僕」。
二人の距離がなくなるまでには、まだ少し時間がかかりそうでした。
五歳になったある日のことです。
僕の人生において、非常に重要な出会いがありました。
公爵家の長女であるメアリー・アッシュフォードお姉様、そして彼女の娘であり、僕より一歳年上の姪であるエレノア・アッシュフォードお嬢様との顔合わせが行われたのです。
緊張して、母様のドレスの裾をぎゅっと握っていた僕の前に現れたのは、太陽のように明るい笑顔を浮かべた美しいお姉様と、好奇心に満ちた瞳をした愛らしい女の子でした。
「あら! あなたがエリーなのね。私はメアリーよ。なんて可愛らしい子かしら!」
お姉様が僕を抱き上げ、頬に柔らかいキスを落としました。
そして、僕の隣にいた姪のお嬢様が、じっと僕の顔を覗き込んできます。
「ねえ、エリー。あなた、いい匂いがするわね。エレノアと一緒に遊びましょう」
その手は、迷いなく僕の小さな手を握りしめてくれました。
前世の僕が、あれほど切望していた「拒絶のない、純粋な家族の好意」。
僕は、なんだか胸がいっぱいになり、自然と笑顔がこぼれました。
「はい……! よろしくお願いします、メアリーお姉様、エレノア様」
僕の声に、二人は顔を見合わせて、さらに深く僕を抱きしめました。
このとき、僕は直感していました。
この人たちと一緒にいれば、僕はきっと、自分らしく、幸せに笑っていられる。
僕の新しい人生に、かけがえのない「家族」と「親友」ができた瞬間でした。




