最終話番外編:親友の怒りと、最高の肯定
赤ちゃんが生まれてから三か月ほど経った頃のことでした。
穏やかな午後の陽光が降り注ぐ庭の向こうに、一台の馬車が見えた時、僕は窓辺で思わず首を傾げました。
「あれは……?」
見覚えのある紋章。
僕の愛し、けれど時に窮屈だった実家の紋章です。
そして、嫌というほど見覚えのある、嵐のような勢いで開く馬車の扉。
次の瞬間。
「エリー!!」
静かな屋敷の空気を切り裂くような声と共に、一人の令嬢が玄関から飛び込んできました。
僕の最愛の親友であり、姉のような存在。姪のエレノア様です。
僕が返事をするよりも早く、彼女はずんずんとこちらへ歩いてきて、そのまま僕の両肩をガシッと掴みました。
「無事なの!? 本当に、本当に無事なのね!?」
「は、はい」
「嘘じゃないわね!? どこか痛いところは? 不自由なところはない!? 体調はどうなの!?」
「ありますけど……」
「あるのね!? どこ!? 今すぐ医師を呼ぶわ!!」
「あ、あの、出産してまだ三か月なので、少し腰が……」
僕がそう告げた瞬間、エレノア様は時が止まったかのように固まりました。
そして、ゆっくりと、絶望したように両手で顔を覆いました。
「……当たり前でしょう! もう!!」
突然の怒号に、僕は飛び上がりました。
久しぶりに会った親友からの第一声が、これだなんて。
「エレノア様……?」
「手紙を読んだ時、本当に心臓が止まるかと思ったのよ!
どうして、どうしてあんな報告をさらっと書くのよ!!」
普段は誰よりも堂々としていて、貴族としての正解を体現していた彼女の声が、わずかに震えていました。
「十四歳で出産なんて……そんなの、ありえないわ」
そこで彼女は何かに気付いたように、鋭く眉をひそめました。
「……違うわね」
「?」
「出産が十四歳ということは」
僕は、背筋に冷たいものが走るのを感じました。
エレノア様はゆっくりと振り返ります。
そこには、少し離れた場所で、おどおどしながらも微笑ましく僕たちを見守っていたヘンリー様がいました。
「妊娠したのは、十三歳。……そうね?」
その瞬間、屋敷の空気が一気に凍りつきました。
ヘンリー様の、ふんわりとした笑顔までもが、氷結したように固まりました。
「ええと……」
「ヘンリー様」
にっこり。
それは、僕がこれまで見た中で最も美しく、そして最も恐ろしい、完璧な令嬢の笑顔でした。
「お話があります。今すぐに」
「あ、あの、その前に赤ちゃんを見ないかい?」
「逃げないでください」
逃げ道は、完全に塞がれていました。
その後。
半ば連行されるように応接室へと移動した僕たちは、冷めたお茶を前に向き合っていました。
赤ちゃんは、隣の寝室で幸せそうな寝息を立ててぐっすり眠っています。
「では、改めて伺います」
エレノア様は、淑女教育の模範のような完璧な姿勢で背筋を伸ばしました。
「エリーが何歳で妊娠したのか、正確にお聞かせ願えますか?」
「……十三歳です」
「そうですね」
「はい」
「そして、本来は何歳まで待つ予定だったのですか?」
「十五歳です」
「そうですね」
完全に、尋問でした。
僕はあまりの緊張感に耐えかねて、おずおずと口を挟みました。
「あの、エレノア様……」
「エリーは黙っていて。今は大人の時間よ」
「はい」
反射的に返事をしてしまいました。
すると、隣でヘンリー様が、まるで罪人なように小さく肩を落としました。
「僕も、本当に反省しているんだ。取り返しのつかないことをしたと、毎日……」
「反省で済んだのは、母子ともに無事だったからです」
即答でした。
レノア様は、深く、深くため息をつきました。
「私、本当に怖かったのよ」
その声に、僕はハッとしました。
彼女が怒っているのは、礼儀や作法、あるいは貴族としての体裁のためではなかった。
僕と赤ちゃんが、死んでしまうかもしれなかった。
その可能性を考え、彼女は一人で絶望していたのだと気づきました。
「エレノア様」
僕は、そっと彼女の手に触れました。
「ごめんなさい。心配させて、ごめんなさい」
彼女はしばらく何も言わず、僕の手をじっと見つめていました。
やがて、小さく息を吐き出し、その瞳に薄く涙を浮かべて僕を見ました。
「……謝らないで。ただ、生きていてよかった。本当に、よかった」
幼い頃から、僕が僕でいることを許してくれた、唯一の理解者。
姪であり、姉であり、誰よりも信頼できる親友。
その言葉に、僕の胸も熱いもので満たされました。
「ありがとうございます」
「まったく、もう……」
エレノア様は泣きそうな顔のまま、ふっと笑いました。
「この前まで一緒に淑女教育を受けて、『正解』なんてどうでもいいなって一緒に悩んでいたと思ったら……」
彼女は隣室へ視線を向けます。
「もう母親だなんて。本当に、信じられないわ」
その言葉には、呆れと、寂しさと、そして何よりも深い喜びが混ざり合っていました。
僕もつられて微笑みます。
「僕も、まだ少し信じられません」
「でしょうね」
そう言った後、エレノア様は再び、鋭い視線をヘンリー様へ向けました。
「とはいえ」
嫌な予感しかいたしません。
「ヘンリー様」
「はい」
「少しは反省してください」
「はい」
「かなり反省してください」
「はい!」
「ものすごく、骨の髄まで反省してください」
「はい!!」
今度は僕が吹き出してしまいました。
エレノア様も、そしてヘンリー様も。
つられるように笑い出した僕たちの声に反応したのか、隣室から赤ちゃんの小さな泣き声が聞こえてきました。
「あら」
「起きたみたいですね」
僕が立ち上がろうとすると、エレノア様がすっと先に立ちました。
「私が抱いてくるわ」
彼女の横顔は、昔と同じように優しくて。
そして、どこか少しだけ誇らしげに、僕という「家族」を認め、受け入れた大人の女性の顔に見えました。
エレノア様は、壊れ物を扱うように慎重に赤ちゃんを抱き上げました。
「……小さい」
いつも堂々としている彼女が、今だけは少し緊張しているように見えます。
「可愛いでしょう?」
僕がそう言うと、エレノア様は慈しむように赤ちゃんを見つめ、小さく微笑みました。
「ええ。本当に、可愛いわ」
それから彼女は、赤ちゃんを抱いたまま、ぽつりと言いました。
「ヘンリー様」
「うん?」
「私、今日ここへ来るまで、本当に怒っていました」
「それは、痛いほど分かっているよ」
「ええ。とても、怒っていたわ」
ヘンリー様が苦笑します。
「それも、分かっている」
エレノア様は少し黙ったあと、静かに、けれど確信を持って言いました。
「でも。あなたがちゃんと怖がっていて、よかった」
部屋に、心地よい静寂が訪れました。
「怖いと思っていないなら、私は一生、あなたを許さなかったと思います」
その言葉に、ヘンリー様は一度だけ、深く目を伏せました。
「……怖かったよ」
静かな、けれど震える声でした。
「今でも、あの日のことを思い出す。君を失うかもしれないと思った、あの恐怖を」
僕は、その声をよく知っています。
出産の日。僕の手を、壊れそうに強く、切実に握りしめていた人の声です。
「もう二度と、あんな思いはしたくない」
エレノア様は、満足そうに小さく頷きました。
「なら良かったです」
「良かった?」
「ええ」
彼女は初めて、真正面からヘンリー様の瞳を見つめました。
「エリーを任せても、大丈夫そうだから」
その言葉は、僕にとって、どんな淑女の正解よりも、どんな貴族の称号よりも、価値のある「肯定」でした。
僕たちは、もう一度、みんなで笑い合いました。
窓の外には、どこまでも澄み渡る青空が広がっていました。
役割に縛られず、運命に抗い、自分たちだけの幸せを選び取った僕たちの旅路は、これからも、この賑やかで温かな家族と共に続いていくのです。




